軋轢はほんの些細なことから
 アリアハン城下の一角。小さな稽古場に三つの人影があった。
 一人はジェイ。アリアハンの勇者オルテガの息子である。そのジェイから少し離れたところにいる少女――こちらはジェイの双子の妹ケイティだ。そして、彼女のそばには老人――ジェイ達の祖父がいた。
 ただ今、ジェイは独りで筋肉トレーニングに勤しんでおり、ケイティはその祖父から魔法の指導を受けている最中。というわけで、ジェイは少し拗ねていた。
「なんだよ、じいちゃん。ケイティにばっか教えて」
 腕立て伏せをしながら不満げにそう呟く。
「そりゃ俺は、魔法てんで駄目だし。教えがいないだろうけどさ。それにしたって独りでずっと筋トレさせてるのってど〜なのよ」
 運動していながらも、息切れもしないで滑らかに言葉を紡ぐ。そこから、十一歳のわりにジェイの持久力がそれなりに高いことが窺える。
 ちなみに、祖父がジェイよりもケイティにかかりきりなのは、結構前から稽古をつけているジェイと違い、ケイティが稽古を受け始めたのが最近だからである。早めに基礎を教えておこうという腹だ。
「それになんか、教え方甘くねぇ? 俺の時もっと声張り上げたりしてたじゃん」
 と、ジェイが再び不満の声を上げる。
 彼が教えを請う時、祖父は教える、怒鳴る、教える、怒鳴るの繰り返しである。しかし、今ケイティに教えている様子を見る分には、にこやかに談笑しつつ教えるという平和ぶり。
 ジェイが不満に思うのも仕方がないかもしれない。
 そこで、ジェイは上下運動させていた腕を止めて、ある決意を口にする。
「よし。さぼろう」
 だっ!
 思い立ったが吉日と言わんばかりに、ジェイは即時に立ち上がり猛スピードで走り去る。
 祖父はジェイに背を向けていたため、直ぐに気付かなかったが――
「? お兄ちゃん?」
 ケイティは走り去っていく兄の後姿を見て、首をかしげた。

「さて…… さぼったはいいけど、どうすっかな。エミリアのとこでも――」
「お兄ちゃん。どこ行くの? 戻ろう?」
エミリアの家――海神亭に向おうとしたジェイは、聞き慣れた声に反応して歩みを止める。その声の主は彼の妹ケイティ。
「……嫌だね。いいじゃねぇか。俺がいなきゃ、じいちゃんに俺の分もたっぷり教えてもらえるぜ」
「そ、そんな…… でも……」
 ジェイの瞳が鋭く、声も硬いためか、ケイティは明らかな動揺の色を浮かべ、戸惑ったように声を漏らした。いつもであったら、その様子もいとおしいと感じるジェイであったが、この時はどうにもイラつきばかりが際立っていた。
「うっぜぇな! いいからさっさと戻れよ!」
 思わず叫んでからジェイは、はっとしてケイティに瞳を向ける。
 彼女はしばらくきょとんとしていたが、直ぐ瞳に涙を溜める。
 その様子を瞳に映したジェイは戸惑うが、謝辞を述べる気にもなれず、イラついた気持ちそのままで畳み掛ける。
「泣いてんじゃねぇ! そうしてりゃあ、俺が優しくするとでも思ってんのかよ!」
「ひっ」
 叫ばれたケイティは、身を縮めて俯く。溜まっていた涙が頬を伝った。
「はっ! 『泣き虫ケイティ』とはいいあだ名をつけた奴がいるもんだよな。ピッタリすぎて兄貴として情けねぇよ」
「っ!」
 言われたケイティは驚いたように目を見開き、両手で顔を覆うように頬を拭った。そしてそれから、ジェイの方に笑顔を向けた。
「な、泣かないから…… 戻ろ」
 ジェイはそんな彼女の様子に、胸に痛みを覚えながらも、それでも謝ることができずに――
「一人で……戻れ」
 だっ!
 心の中にしこりを残したままで走り去った。

「ねえ、お兄ちゃん? 一緒にティンシアのとこ遊びに行こう」
 ジェイが居間でぼーっとしていると、出がけにケイティがそう声をかけた。しかしジェイは――
「行かね。俺もこれから出かけるし」
 とだけ言って、ケイティの方を向くこともなかった。
「そっか…… いってきます」
 ケイティは寂しそうに瞳を伏せ、それでも一声かけて出かけていった。
 二人は先日の一件からずっとこんな調子である。ケイティは何とか仲良くしようと頑張るのだが、ジェイは意地を張っているのか、ひたすら距離を置いている。
 今回もジェイは出かける用事があるわけではなかった。ケイティについていく気になれないので適当に嘘を吐いたのである。
 しかし、このまま出かけないのでは決まりが悪いのか、腰を上げて扉に向かい、外に出る。足を向けたのは、海神亭であった。
 がちゃ!
「いらっしゃい……ってジェイか。どうした? エミリアはちょっと留守だぞ」
 言ったのは海神亭店主アロガンの息子、アランだった。どうやら店番中らしい。
「別にエミリアに用があったわけじゃないよ。アランさん、今日は戦士団休みなの?」
 アランは数ヶ月前に王国の戦士団に所属し、このところこうして店番をしていることは滅多になくなった。
「まあな。というか、『アランさん』って呼ばれるの、慣れないな」
 アランは苦笑して言った。
 ジェイは元々アランのことを呼び捨てにしていた。しかし、アランが戦士団に入った時くらいから『さん』付けでよぶようになったのだ。ちなみに、ケイティは『アランくん』からの変更。
「ところで、お前ら喧嘩でもしたのか?」
 と、突然アラン。『お前ら』というのは、ジェイとケイティのことだろう。
「……別に」
「別に、ねえ。ま、いいけどな」
 適当に返したジェイに、アランは苦笑してそう言った。彼はケイティから少しだけ事情を聞いているのだ。しかし、特に注意を促すことはしない。その内仲直りするだろう、と軽く考えているのだ。
「で、何しに来たんだ?」
「……散歩?」
 全く用がなかったジェイは、少し考え込んでから適当なことを言った。それにもアランは苦笑して、
「そうか。まあお茶でも淹れよう」
 と言って立ち上がった。
「サンキュ」
 ジェイは笑ってそうとだけ言った。

 それから一ヵ月後。ジェイの祖父による、子供向け剣術教室が開かれた。それを見物していたジェイは、あることに気づいた。
 彼の祖父は、男の子には遍く厳しいが、女の子には遍く優しい。つまり、ジェイとケイティへの対応の差異もそういうことなのだ、と。
 そしてジェイは、祖父がケイティにかかりきりになるのも、ケイティが稽古を始めたばかりであるからだともう気付いていた。
 そうなると、ジェイのケイティに対する遺恨はもうなにもないということになるのだが、ここ一ヶ月ほどで二人の仲はかなり悪くなっていた。
 ジェイが謝り倒せばまだ間に合うかもしれないが、散々無視したりしてきた手前、中々素直に謝ることができないようだった。
 そしてそのまま数年が過ぎ、その頃には二人の仲は最悪と言ってもいいものになっていた。そんな関係が改善されるのかどうか、それは今のところ誰にもわからない。