それは儚き夢のよう

 その日、彼女が普段よりも早く起きてしまったのは喜びのためか、不安のためか、自責のためか。様々な感情が入り乱れ、彼女自身でも判別できない感情の波が襲い来る。そしてそれが、彼女に朝日よりも早い覚醒を齎した。
 彼女は、ベッドから抜け出てゆっくりと窓辺に寄る。
 見上げた空は未だ暗く、覆うものの無いそれには小さな輝きが散りばめられていた。
「よかった。今日は晴れそう」
 女性は軽く微笑みながらそのように漏らす。しかし、直ぐにその瞳に陰を落とし、
「……よかった……のかな」
 口の中で小さく呟いた。
 その呟きに応えるものは、誰もいない。

 太陽の光がステンドガラスを通してふりそそぐ中、ラダトーム国の大聖堂には荘厳なパイプオルガンの音色と賛美歌が響いていた。
 本日ここでは婚礼の儀が執り行われている。そして結ばれるのは、数年前にこの地に光を取り戻したというロトとその仲間――ケイティとアランだ。そのような有名人が主役というだけあって、大聖堂に入りきらない者達も彼らをひと目見ようと外に連なっている。
 着々と式が進む中、最前列に座っているケイティのかつての仲間たちは様々な反応。
 どこからかぎつけたのか、アマンダはしばらく行方知れずだったというのに、この式に出席するために昨日急に姿を現した。そして現在爆睡中。彼女にとっての本日のメインは、一連の儀礼を終えた後の食事と酒らしい。
 そして、現在ではラダトーム王室に入り一応未来の国王であらせられるバーニィは、城の者達に着せられたかさばる儀礼服に顔を顰めている。しかし、アマンダほどにはふざけた態度ではない。
 その隣に座しているのはこの国の姫君リシティアート。瞳を輝かせてケイティに見入り、バーニィに、もう一度式を挙げたくなりますわ、などと耳打ちしている。
 さらにその隣に座るのは、ラルス国王陛下とその妻ルクセファール。こちらはさすがに、儀礼服をきっちりと着こなし毅然とした態度。
 さて、ここでアマンダの隣に目を向けると、そこに座しているのは竜族のキース。心持ち嬉しそうに、柔らかな笑みを浮かべてアランを見ている。その表情からは、何とはなしにこれで安心だ、といったような感情が見受けられる。何が安心なのかはわからないが……
 そして最後に、キースの隣に腰を下ろしているのはアリシア。彼女もまた竜族で、キースの娘である。その顔には柔らかな笑みが浮かび、心から祝福を送っているように見える、が…… その心中は複雑であった。
 彼女は共に旅をしていた折より、アランに対して憎からぬ感情を持っていた。しかし、彼がケイティのことを好きであったこと、加えて、ケイティも自覚は無かったにしろ、アランに対して好意を抱いていたことなどがあり、アリシアは自分の気持ちを伝えるということをしなかった。もっとも、そういった理由以外にも、アリシア自身に積極性がなかったという理由もあるのではあるが……
 そして、そのように吐き出さなかった気持ちは、伝えなかった想いは、高い確率で持て余してしまうものだ。諦めるきっかけを持たず、『もしかしたら』が続いて、続いて、そしてここまで来た。もう伝える機会すらも許されないところまで。
 アリシアも馬鹿なことを夢想するほど若くはない。この時点で、実はアランが自分のことを、などとは考えたりしない。そしてそのように考えられないのなら、ここで気持ちを伝えることなどできはしない。そのようなことをしても、ただ相手を戸惑わせるだけであり、今後の付き合いさえも気まずくなる。もはや、沈黙しか許されないのだ。
 これでいい。私は……これでいいんだ。
 顔に笑みを貼り付けたままで、アリシアはその言葉を胸中で繰り返す。少なくとも、この式の間は悲しみを表出させないために。
 そこで、司会を務めている神父がアランに瞳を向け、よく通る声を発した。
「新郎アランはケイティを妻とし、精霊神ルビス様の御許において終生変わらぬ愛を誓いますか?」
 直ぐに二つ返事がある――と思われたのだが……
 ざわざわざわざわ。
 沈黙を続けるアランの様子を受け、大聖堂にざわめきが満ちた。
 こほんっ!
 神父が大きく咳払いをするとざわめきも幾分静まり、そこで神父は再度訊く。
「新郎アランは終生変わらぬ愛を誓いますか?」
 しかし、やはり沈黙を守るアラン。
「アランさん?」
 隣に立つケイティが訝しげに声をかけた。
 すると――
「すまない。ケイティ」
 アランはそう簡単に言ってから、回れ右をしてすたすたと歩き出す。
 先程とは比べ物にならない程のざわめきが生まれる中、彼はその足を――
「ア、アランさん?」
 アリシアへと向ける。
 そして、彼女の目の前に立つと――
「俺は……馬鹿だな。こんな土壇場にならないと、自分の本当の気持ちに気づかないんだから。やっと分かったよ」
「え? え? アランさん、何を……」
「俺の本当の気持ちがどこにあるのか。俺の心に満ちている想いが誰に対するものなのか。漸くそれに気づいたんだ」
 そう言ってアランは、アリシアの手を取り立ち上がらせる。
「アリシア、俺はお前が好きだ。それが、俺の本当の気持ちなんだ」
 それを聞いたアリシアは数秒間黙ってアランを見詰め――
 ぼわっ。
 それから顔を真っ赤に染める。
 そして、激しく動揺する。
「なななななななな、何を言ってるんですか! こんな神聖な式の真っ最中にそんな冗談、不謹慎にも程があります! アランさんが私を、その、す、好きだなんてそんなことあるわけが……!」
「なぜだ? お前みたいな素敵な女性が近くにいて、それで好意を持たないはずがないじゃないか?」
 上手く言葉を発せずに、動揺を存分に感じさせる様子で言ったアリシアと、軽く微笑んで余裕たっぷりに言葉を発したアラン。
 アリシアはアランの様子に違和感を覚えたが、それ以上に受けた衝撃の度合いが大きかったため動揺し続ける。
「そんなこと……!」
 なんとかその一言だけを搾り出し、アリシアは赤い顔で俯き沈黙する。
 その沈黙を破って、本日の主役の一人である花嫁が口を開いた。
「そういうことなら仕方ありませんね」
「えぇっ!」
 ケイティの言葉に驚きの声を上げたのはアリシア一人。
 更には――
「では、ここからはアラン殿とアリシア殿の婚礼の儀を執り行うことと致しましょう」
 神父までもがそのように言った。
 すると、アランはアリシアの手を引いて神父の前に歩を進め、ケイティは自分が被っていたヴェールをアリシアの頭に乗せる。
「あ、あの…… アランさんもケイティさんもちょっと……」
「幸せになって下さいね、アリシアさん」
 戸惑ったように声をかけたアリシアに、ケイティが笑顔で話しかけた。
「あ、ありがとう……じゃなくて! だから、ケイティさん!」
 アリシアもつられて笑顔になり礼を返すが、直ぐに声を荒げる。
 しかし――
「神聖な式の途中です。新婦は私語を慎むように」
 神父に諌められ、アリシアは口をつぐむ。
 普段の彼女なら、少し考えれば、神聖な式なのにこんな滅茶苦茶をしていいのかとか、いつから自分が新婦になったのかとか、色々と疑問を浮かべたことだろう。しかし、如何せんこの時は、妙な展開に頭が混乱して諾と流されてしまった。
 そして、神聖な儀式が再開される。
 ちなみに親馬鹿キースは、アランがアリシアの手を取った瞬間に邪魔をしようと殺気だったのだが、そのことに感づいたアマンダにより早々に排除されている。寝ていたアマンダも、面白そうな展開であるためか完全に目を覚ましているようだ。
「では、新郎アラン。汝はアリシアを妻とし、終生変わらぬ愛を誓いますか?」
「はい。誓います」
 今度は素早く肯定を返すアラン。
 それに満足そうに頷いた神父は、続けてアリシアに瞳を向ける。
「新婦アリシア。汝はアランを夫とし、終生変わらぬ愛を誓いますか?」
「そ、それは……その……なんと言いますか……」
 神父の真っ直ぐな瞳から目を逸らし、俯いて言いよどむアリシア。
 すると、彼女の手を温かく大きな手が包み込む。
 アリシアがその手の主に瞳を向けると、彼は柔らかな笑みを浮かべて彼女を見詰めていた。そして、彼女はそれにより落ち着きを取り戻す。
「誓います……」
 神父に向けてそう宣言して、それから、ちょっと待てよ、と考え込む。彼女が考えたのは次のようなこと。
 落ち着きを取り戻してまずすべきことは誓いを立てることではなくて、現状の異常さの糾弾じゃないだろうか。
 そんな風に考えて式の進行を止めようとするのだが、なぜか言の葉を紡ぐことができない。それは、彼女が心の底では今の状況を望んでいるからだろうか。
「では、指輪の交換を」
 式がそのまま継続してそのように言われる。アリシアは、この状況で指輪を用意しているわけがない、と思ったが、その左手にはなぜか簡単な装丁の小さな指輪が。
「私、どうしてこんなものを……」
 アリシアはそう呟きつつも、きっと一瞬の隙をついてケイティが握らせてくれたんだろう、と楽観視する。そして、まずはアランから指輪を嵌めてもらう。
 続けてアリシアがアランに指輪を嵌め――
「宜しい。では、誓いのキスを――」
「えっっ!!」
 満足そうに頷いたあと神父が口にした言葉に、既に紅潮していた頬を更に紅くしてアリシアが声を上げる。しかし、そんな彼女には構わずに、周りの状況は動き続ける。
 そっ……
 アリシアの肩に手を置いたアランは、真っ直ぐに彼女を見詰める。
 それに対するアリシアは、口をぱくぱくさせつつ固まる。
「アリシア」
「ア、アランさん……」
 かろうじて出た言葉も、この状況に疑問を投げかけるためのものではなく、ただ目の前にいる愛しの人の名前のみ。
 その愛しの人物は、アリシアの肩にかけていた手を放し、両手でヴェールを持ち上げる。
 そして、その先は勿論……
「!」
 段々と近づいてくるアランの顔。アリシアはその事実を確認し、これ以上紅くならないと思われた顔を更に紅くした。
 しかし、拒絶することはなく、アリシアは瞳をゆっくりと閉じて迎える準備をする。この状況のおかしさに対する疑問は、綺麗さっぱり消え去ったようだ。
 そして、二人の影がゆっくりと近づき――

 その日彼女が目覚めると、両手で抱いた枕に口付けをしていた。
 彼女は寝ぼけた頭でその事実を認識し、そこで頬を真っ赤に染め両手をぶんぶんと振り、違うんです違うんです、と誰にでもなく言い訳を繰り返す。そして、仕舞いには枕を部屋の壁に向けて投げて、
「何て夢見てるのよ!」
 恥ずかしそうにそう叫んだ。
 その後、その声を聞きつけた家族が、心配して彼女の部屋へと駆けつけたが、それに対しては変な夢を見ただけだと簡単な説明をして済ませた。
 まあ、詳しい話などできるわけがないというものだ……

 本日、ある二人の結婚式が挙げられる。
 ひとりの女性はその式に、不安九割、期待一割という割合で胸を満たし、出席した。