Chapter02外伝.死してなお償えぬ

 ――そろそろ噂が広まった頃だろう。さて……
 一人の男が森に入る。
 ロマリア領土の北方にあるノアニールの村の東方。そこは、鬱蒼と茂る木々が人の介在を押し退ける、そのような自然の豊富な地である。
 男は、そこに入り込んでいく。確かめるために。
 黙々と奥へ進み、奥へ進み、進み、進み……
 しかし、彼が望むものは見つからない。どこにもそれらしき兆候は見られない。
 ――駄目、だったのか……
 男は立ち止まって瞳を伏せる。
 しかし……
 がさっ!
 物音を知覚し、男は振り返る。そこには――
「貴方は……?」
 少女がいた。ゆったりとした茶の髪と垂れ気味の瞳は、優しげな印象を彼女に付している。
 ――ノアニールの住人だろうか?
 男はそのように考え、不安を与えないようにはっきりとした態度で応える。
「私はミクセルといいます。魔法アイテムの研究に身を置く、職業魔法使い。ここには、その魔法アイテムの実地調査に来ました」
「……職業魔法使い、ですか? それはどのような?」
 流石は田舎の娘だな、と妙な感心をしつつ、ミクセルは口を開く。
「簡単に言うと、魔法を使えないながらも研究者として魔法に関わろうとする往生際の悪い連中のことです」
「そうなのですか。では貴方も往生際が悪いのですね」
 見事理解できたことが嬉しいのか、にこやかに頷いて言う少女。
 …………………………
 呆気に取られるミクセル。
「どうか……いたしましたか?」
 訝しげに少女が言う。
 どうにも、悪気はなさそうである。とはいえ、そういう問題でもないだろうが……
「いや、何でもありません。それより、このように森深くに入ってきては危ないでしょう。お送りしますよ」
 気を取り直してミクセルが言う。
 今彼がいる場所は、ノアニールの村から遠くはなれており、森の相当深いところなのだ。普通は、このような場所まで進行してこないだろう。
 しかし、少女はきょとんとした表情を浮かべ、可愛らしく小首を傾げた。
 そして、口を開く。
「ですが…… わたしの村は直ぐそこですよ」
「は?」
 ミクセルは少女が指差す先を見やる。
 そこには、家があった。それも複数あった。所謂、村があった。共同体があったのだ。
 しかし、それはおかしい。
 このような所に村などありはしない。少女の家族が住む家のみが単体であるのなら、それはあり得ることだろう。しかし、あのように複数の建物が乱立していることはあり得ない。
 ――もしや
 ミクセルは喜色を顔に携え、少女に向き直る。
 少女はやはり訝しげにしている。
 と――
「きゃっ」
 風が吹いた。
 少女の軽やかな茶の髪が揺れる。露出した彼女の耳は……尖っていた。

「おー。人間だー」
「ひょろーい。弱そー」
 少女と共にエルフの村に入ると、ミクセルの周りには子供がまとわりつく。それに戸惑うのは、囲まれたミクセルだ。しかし、戸惑いを覚えた理由は囲まれたゆえではない。エルフが思っていたよりも人間に対して友好的に『できた』からだった。
 過去に人間がエルフを根絶やしにしたという歴史的事実がある以上、エルフは人間を嫌っていそうなものだと、勝手に考えていた。しかし、そうならなかったのも当然なのかも知れない。
 ミクセルはエルフに憧れを抱き、幻想的な物語から過去にあった悲しき事実まで、つぶさに調べ上げた。だが、世間の人々は違う。エルフという存在を物語のものとしてしか知らないことだろう。ならば――その人々の噂によって、夢見るルビーによって生み出された『エルフ』が友好的であっても不思議ではない。
「こら! お客様に失礼でしょう!」
 無邪気にミクセルに構う子供達を、少女が注意する。
「何だよー、アン姉ちゃんは相変わらずお堅いなー」
「だから彼氏ができないんだぜー」
「なっ!」
 にやにや笑いながら、少年二名が言った。
 少女――アンは絶句し、それから……
「リックっ!! ラキアっ!!」
 顔を赤くして叫んだ。
 少年達はおかしそうに笑いつつ、駆け足で逃げ出す。それに伴い、あちこちで笑い声があがった。
 ミクセルが視線を巡らすと、思いの外たくさんのエルフ達が行き交っていた。
 瞳を輝かせて彼がエルフ達を見ていると、アンはあっと声を上げて振り返った。彼女の瞳がミクセルに向き、慌てたように手を振る。
「あ、あの、申し訳ありません。大声を出したりして。驚かれましたよね……?」
「いえ。大丈夫です。それよりも、ここではどれくらいの人数が生活しているのですか?」
「そうですね…… 見ての通り小さな村ですので、それほど多くはありません。20と少し、といったところでしょうか」
 アンの言葉を受けて、ミクセルは身を震わせる。
 20以上も……と呟いて、頬を緩ませる。更には、含み笑いまで始める始末だ。
「あ、あの……」
「はっ! も、申し訳ありません。幼い頃から憧れていた存在がそこら中を往来している状況に、つい……」
「憧れていた……って、何にですか?」
 訊かれると、ミクセルは満面の笑みでアンの手を握り締める。
「何にって、貴女がたエルフにです! 私はずっとずっと昔から、貴女がたを一目みたいと、言葉を交わしたいと、そう願って研究者へ道を進みました。あるいは、貴女がたが未だ存在している可能性のある地を検討、探索し、あるいは、過去に遡るための方法を探りました。そして、最終的に夢見るルビーに辿りついたのです。そして、私はここにいる! 貴女と共にいる! ああ、神よ! 素晴らしき出会いに感謝いたします!」
 瞳をぱちくりさせるアンの手を離し、ミクセルは天を仰ぐ。そして、長い、長い祈りを捧げた。
 そんな彼の直ぐ側では――
「今のって告白かしら……」
 軽く頬を染めて呟く少女がいた。

 ミクセルはアンの母であるエルフの女王に謁見し、村への入居を認められた。急ぎ、小屋が一軒建てられ、そこにあてがわれた。そして、彼は至福の時を過ごしている。
 右を見ても左を見ても、エルフ。幼き頃よりエルフに憧れを抱いていた身には、これ以上ない最高の日々であった。加えて――
「ミクセル。お野菜の炒め物なのですけれど、作りすぎてしまって。もしよろしかったら……」
「ミクセル。これ、お母様が所蔵しておられる魔法書です。興味がおありでしたら……」
「ミクセル。人間の国のお話を伺ってもよろしいですか?」
 毎日のように訪問してくれるアンの存在が、彼にとっていつしか好ましいものとなっていた。憧れとはまた違う感情が生まれていた。
 それでどうということもないのだが……
 それでも、素晴らしいと思える日々があった。

 ミクセルが、アンが持ってきてくれた、彼女の母の所蔵図書であるという魔法書を読んでいると、小屋の戸を叩く音が響いた。扉を開くと、そこには女王が佇んでいた。
「女王様。いかがされました?」
「人間。アンが来ていないか? まだ帰らぬのだが」
 女王の問いに、ミクセルは眉を顰める。
「アンでしたら、随分と前に戻られましたが…… まだ?」
 既に西陽が辺りを赤く染める刻限である。この村で、そのような刻限まで外出している者はまずいない。
「どこに行ってしまったのか…… 済まないが、人間。探すのを手伝ってくれぬか」
「勿論です。他の皆さんにも協力を仰ぎましょう」
「頼む」
 遠くで、獣が鳴いた。

 その場に至ったのは偶然か、必然か――
 ミクセルはしばし呆けた。何が行われているのか、判らなかった。
 唯一つ、はっきりとしていたこと――それは、彼女はもう生ある存在ではないだろうということ。
 勿論、エルフ達は仮初めの生を――いやそもそも、生とすら呼べないよく判らないものを享受し、生まれた存在だ。しかし、それでもミクセルにとって、彼女達は、彼女は生きていた。
 その彼女は――
「何を……している」
 呟いた。
 誰も気付かない。
「何をしているうぅうぅうううぅうっっ!!」
 叫んだ。
 すると、作業に没頭していた者達は驚いたように振り返った。しばしミクセルを観察し、それからなぜか笑った。
「何だ、脅かすなよ。他のエルフが来たのかと思ったじゃねぇか」
 一人が言った。
「あ、勘違いしてるか? コレ、人間じゃないんだ。あんた、あの噂知ってる? エルフがこの森にいるってやつ。マジだったんだよ、これが。ほら、エルフだろ? この耳」
 一人が茶の髪を持ち上げた。
「でな。エルフの肝が薬になるらしいんだ。本当なのかは知らねぇけど、ほら、そういうのに金出す馬鹿って多いだろ?」
 一人がナイフを持ち上げて見せ、やはり笑った。
「俺らノアニールの出身なんだけどさ。あんなちんけな村で一生過ごすなんて、まっぴらなわけ。けど金はないからロマリアみたいな都会にも出らんねぇし。で、あんま期待はしてなかったんだけど、噂のエルフがいるなら肝狙ってみるのもいいかと」
 一人が赤く塗れた手を、彼女から引き出した。
「半分冗談で、散歩のつもりで来たんだけどさぁ。運がいいっつうか。ばったり会っちゃって。あっはっはっはっはっはっはっはっ」
 笑った。何かが笑った。
 アレは何なのだろう。ミクセルは考える。アレらは何なのだろう。
 人の形を取ってはいる。しかし、人ではない。いや、人であって欲しくはない。人は――自分はあのように醜くない。そう思いたい。エルフを――アンを殺したりしない。腹を割いて、肝を取り出したりしない。
 アレは人じゃない。アレハ人ジャナイ。アレハヒトジャナイ。アレハヒトジャナイ、アレハヒトジャナイ、アレハヒトジャナイ、アレハヒトジャナイアレハヒトジャナイアレハヒトジャナイアレハヒトジャナイアレハヒトジャナイ。
 違う。違うのだ。ミクセルは知っている。
 アレは人なのだ。人間なのだ。
 人は醜く、利己的で、傲慢で、自分の利がために他者を踏みつけることなど厭いはしない。最悪の生き物なのだ。
 そして、ミクセルも――
「……してやる」
 ミクセルが何やら呟く。
 しかし、哄笑を続けるアレらは気付かない。
 かちゃ。
 ミクセルは地面に落ちていたナイフを拾った。それは、アレらの者でない。柄に竜の紋章が入ったナイフは、アンの物だ。護身用だと言って、かつてミクセルに見せてくれたことがあった。ナイフは、その役目を果たせなかったのだ。
 しかし、護ることはできずとも……
「殺してやるっっっっ!!!!」
 ミクセルもまた、最悪の生き物となることを望んだ。最悪の生き物を屠る最悪な生き物になることを……
 木々が朱に染まった。

 ミクセルが手にした得物は、誰も傷つけること能わなかった。その間もなく、アレらの生は消え去った。
「……下衆が」
 生を奪った者は、呟いた。
 そして、腹を割かれた少女に歩み寄る。
 しかし――
「近づくな!」
 ミクセルがナイフを構え、その者を恫喝する。そして、突進した。
 それ以上、醜き生き物を近づけないように。彼女を汚さぬように。
 キィン!
 しかし、ナイフは弾かれた。弧を描き、地に落ちる。
「……くそっ!」
「落ち着け。わたしはこの娘に危害を加えはしない。君の敵ではない」
 しっかりとした体躯の男が深みのある声で言う。
 ミクセルはそんな彼を睨めつけ――その時……
 すぅ。
 アンの体が――
「消えた……?」
 男が呟く。
 一方、ミクセルは膝を折り、地面に倒れるように座り込んだ。
「……アン……ッッ!!」
「……君はわたしが斬った下衆どもとは関係がないようだが、この状況を説明してもらえるか?」
 問われると、ミクセルは呆けたような表情で男を見やる。既に敵愾心は失せ、虚脱感だけが残っていた。
 そして、半ば放心し、語った。

「成る程…… では、彼女は生ある存在というわけでもなかったわけか」
 話を聞き終えた男は、呟いた。
 ミクセルは両目を右手で押さえ、
「私にとっては、生きていた……!」
 そう搾り出した。
 …………………………
 長い沈黙が落ちる。
 その間、男は目を閉じ、軽く握った右手を胸に当てていた。祈っているのやも知れない。
 そして、ゆっくりと瞳を開き、歩き出した。
「わたしは行く。ロマリア国王へ報告する調査結果は、エルフなど存在しない、としておく」
 それで平穏が訪れるとは限らずとも、永続的に全ての者を護ることなどできない以上、それだけが男にできることだった。
 男を見送り、ミクセルもまた立ち上がる。

 ミクセルは噂を流した。
 ノアニールの男がエルフの女王の娘――アンと駆け落ちしたと。夢見るルビーにより生まれたエルフの女王が、その『事実』を確かに信じるように。
 そして――
「……それは確かか。人間」
「はい。私は捜索の途中でアンと出会いました。彼女は人間――ノアニール出身の男と共におり、これから二人で逃げると、駆け落ちすると言っておりました」
 女王は驚愕に沈黙した。
 しかし、直ぐに口を開く。
「だが、なぜ駆け落ちせねばならないのだ。わたくしはそのようなことをせずとも、アンが選んだ者であれば――」
「問題は男の方にあったのです。男の家族は、エルフの娘との付き合いを認めなかったそうです。それゆえ――」
 …………………………
 沈黙。
 そして、女王は笑った。
「人間よ。とっとと失せろ」
「……………」
「お前は逃がしてやる。眼前にいるだけで八つ裂きにしたくなる衝動を抑え、逃がしてやる。しかし、他の人間はただでは済まさん。ノアニールといったか? かの地に永遠の眠りを与えてやろう。死という安楽は与えぬ。死し、生まれ変わることすらさせぬ。緩き時の中を、ただ無為に過ごさせてくれる……!」
 女王は笑っていた。
 そして、無言でその場を辞したミクセルも、笑っていた。
 彼の唇が動いた。
 ――罪には罰を

 ひとりの男が、エルフの村の南方に在る洞窟で地下水脈に身を投げた。
 彼が残した遺書は、多くの事実を伏せ、ただ簡潔に終わっていた。夢見るルビーの機能と、その起動法、停止法。そして、彼が実現させた噂だけが綴られていた。
 悲しき事実は、彼だけが持ち去った。