ん……妙に静かだな。平等院鳳凰堂に着いたのか? いや、それにしても静かすぎるだろ。置いて行かれるのは予想通りだが、まさか、そのまま観光を終えて車庫まで連れてこられたわけじゃないよな。ふう。窓の外が明るいことを鑑みるに、流石にそれはないか。
「お目覚めになられたようですね。おはようございます」
通路を挟んだ向こう側の席から、目覚めの挨拶が放たれた。ソプラノ歌手を思わせる甲高い声音は、今日一日ですっかり聞きなれてしまった、少し変な人物のものだった。
「ああっと、おはようございます。バスガイドさん?」
確証は持てなかったので、疑問符と共に呼びかけた。それというのも、何故か視線を彼女の方へ向けられなかったからだった。
「申し訳ございません。少し乱暴かとも思いましたけれど、貴方の自由は奪わさせて頂きました。伏見稲荷大社でこちらの様子を窺っておりましたね」
「……」
どういう状況だ。天津内女の声質は、先ほどから硬すぎる程に硬い。ガイドをしている時と比べると、別人なのではないかと疑いたくなる。
「照様のお名前に反応しておいででしたね。それ以前に、バスでわたくしが天津を名乗った時から、貴方のご様子がおかしかったように存じます」
否定はできない。実際、どちらも聞き覚えがある上、いい思い出もない。ひょっとすれば、眉間に皴を刻んでしまっていたかもしれない。
「天津と国津のいさかいは解消されつつありますが、妖や鬼、諸外国の神など、トラブルの種には事欠かぬのが我が主の宿命にございます。こたびの命がどういった思惑の元にあるのか、皆目見当もついておりませんでしたが……貴方のような異分子を燻り出すことを目的となされていたということでしょうか。ねえ、学生さん?」
あいかわらず首を動かすことすらできないでいるが、天津内女の方からこちらの顔を覗き込んでくれた。彼女の顔はガイドをしている時と同じように、柔らかな笑みを浮かべていた。しかし、その瞳はどこまでも冷たく、全く笑っていなかった。
いや、待て。これはやばいんじゃないか。専ら戦いで頼りになる鵬塚もクロードも、今頃は、平等院鳳凰堂を満喫していることだろう。すっかり修学旅行の空気と卿都の街並みに心奪われ、こちらの異変に気付く程の心の余裕があるとは思えない。
「この天鈿女命(あめのうずめのみこと)、こと戦いに関しては多くの神に劣りますが、貴方のような学生に扮した間者を篭絡する術には長けております。多少、精神に異常をきたすやもしれませぬが、どうかお恨みいたしませぬように、ゆめゆめお願い申し上げます」
「ちょ! 待て待て! 何するんすか!?」
精神に異常をきたすようなことされて、恨まない道理があるか!
「痛くはございません。少し霊的に刺激を与え、口を軽くするだけでございます。霊的な抵抗力がない方には、少しばかりの危険を伴うでしょうが、致し方ございませ――」
何やらキラキラした曲が、物騒な言葉をさえぎって流れ出した。恐らく、何かのアニメの曲ではないか。誰かが忘れていったスマホの着信音だろうか。誰だか知らんが、よくやった。最高のタイミングだ。これで空気が軽くなって助かるなら、そいつに午後ティー奢ってやる。
天津内女は俺の期待通り、動きを止めた。そして、徐に、袂へ白魚のような手を差し入れた。そこから手の平大の板を取り出して、液晶画面に表示されている文字に視線を落とした。
「照様? どうなさったのかしら。このお時間でしたら、まだ授業中のはずですが……」
って、お前のスマホかよ。元凶には午後ティー奢らんぞ。
というか、何やら変な人だと思っていたが、やはり、所謂オタクという人種らしい。読書オタクの尚子といい、こいつといい、俺の周りにはろくなオタクがいやがらんな。
「はい。内女です。どうなさいました、照様。まさか、あのあと二度寝なさったのではありませんよね。ダメですよ。高校は義務教育とは違うのですから、あまり自由が過ぎると留年して……」
スマホの向こう側からかなぎり声が響いてきた。あの天津照がぶちぎれているらしい。
この間の時も口汚く毒づいていたし、あまり気の長い奴ではないようだ。
「え? この少年を解放ですか? ええ、はい。はい。畏まりました。ご随意に」
電話口で頭を下げるのは何故なのか。親もよくやっているが、社会人になれば分かるのだろうか。そもそも、この巫女は社会人なのだろうか。
いまだ動かない体の代わりに、無為に思考を巡らせていると、ふいに、耳元に天津内女のスマホを当てられた。
『お久しぶりですね。富安センパイ』
数週間ぶりに聞く、天津照の声だった。目の前の巫女とは違い、女にしてはやや低い、アルトの声音である。
「よお、後輩。お前が絡むといつもいつも物騒が過ぎるな。アマテラスってのは破壊神かっつーの」
『そのような軽口を叩けるのであれば、謝罪は不要ですね。実際のところ、内女は自らの立場で思考し、最善と思える手を打っただけのこと。元より、謝罪の必要性を感じてはおりませんでしたが』
相変わらず可愛くねーのな。今回は電話だけだし、無駄にいい見た目で惑わされることもない。遠慮なく生意気な後輩の称号を与えてやろう。
『そちらの事情を鑑み、私どもの方では警護対象も捕縛対象も定めず、漠とした任を与えています。内女のように独自の判断で、最前手を模索するのも道理。妙な好奇心を見せて、要らぬ誤解を受けぬよう』
「おい。俺が全面的に悪いのかよ」
思わず文句を口にしてしまうのも、仕方がないだろう。一般人が危うい目にあったというのに、何だ、この神様ども。八百万もいると神様の品質も悪いのかよ。
とても口には出せないような毒づきを脳内でたしなんでいると、スマホの向こうでこの国の主神がくすりと笑った。
『よく言うでしょう、センパイ? 好奇心は猫をも殺す、と。人もまた然り、ですよ』
……さいですか。
『何にせよ、無用ないさかいを避けるために、センパイから他の方にも注意喚起をよろしくお願いします。この間の関係者である禍人さんとククリさんは、ある程度、察していらっしゃるでしょうけれど、他にも何名か、あなた方が見知っていない者を配しております。天津や国津の名を耳にしても、変に反応を示さないように』
「へいへい。気を付けさせて頂きますよ、アマテラス様」
『ふふ。いい子ですね、センパイ。では、内女に代わってください』
「代わってくれってさ」
俺の態度が気に入らないのか、内女さんは少々不機嫌そうにしていたが、声をかけるとスマホを俺の耳から離して、天津照と話し始めた。そして、数度、相槌を打ち、何度か最敬礼をして、漸う、通話を切った。
「まさか、お箸の場所がお分かりになっていなかったとは……」
まさか、そんな理由で電話を代わったとは、終ぞ、予想もしなかったわ。
「たまには家事を手伝って頂くようにした方がよろしいのでしょうか? 和己くんをダシにすれば、まあ、簡単に釣れそうですけれど、今や照様も、畏れ多くも天照大神様なことですし、流石に……」
「なあ。独り言はその辺にして、上司の指示通り解放してくんね?」
物理的な拘束はされていないのだが、何故かいまだに動けなかった。伸びも出来ないのは、地味に辛い。
声をかけたら、内女に厳しい目つきで睨まれた。
「学生さん、先ほどの照様への態度は感心いたしませんよ? ご承知のようですが、あれでもあのお方は、日本神話の主神である天照大神様。いくら、朝が弱くて、わがままで、家事が出来なくて、基本的に自堕落で、友達作りが苦手で、性格に難があるとはいえ……」
そうなのか。要らん情報を得てしまった。
直ぐに内女は、色々と不要な情報を開示してしまったことに気付いたようにはっとして、咳払いした。
「ま、まあ、よろしいでしょう。確かにこれ以上、学生さんを拘束するのは道理に合わぬ行為にございます」
バスガイドさんがやっと、平素通りの柔らかな笑みに戻った。
ふう。無事に事が治まりそうで何よりだ。
「不自由を強いてしまい、申し訳ございませんでした。お詫びと申しましては何でございますが……」
金でもくれるのだろうか。天津照とは違って話が分かるじゃないか。
そんなことを考えていると、内女が動いた。そして、彼女の柔らかな唇が俺の額に軽く触れた。
「っ!?」
「ふふ。イベントスチル、ゲットですね。それでは引き続き、ご旅行をお楽しみくださいませ。学生さん」
巫女服の女性は、最敬礼をした。しなやかな黒髪が流れるように肩を滑り落ちた。彼女はその後、ふわりと微笑んでから身をひるがえし、座席の間を縫って去っていった。
伴って、身体が突如動かせるようになったが、急激な眠気にも襲われた。覚束ない感覚の中で漸う、周囲のざわめきもまた耳に入ってきた。
何かこう、結界が解かれたとか、そういうことなのかもしれん。というか、イベントスチルって何だ。やっぱ変な人だな。けど、近づいた時、いい匂いしたな。
どうでもいい感想を色々と抱きながら、ついに睡魔に負けた。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。肩を揺すられて目が覚めた。
「おう。起きたか。まさか、ずっと起きないとは思わなかったぜ」
「……ん。太郎か。ここは?」
「まだ平等院。けど、もう出発すんぜ」
やはり、俺を置いて見学に行っていたのか。他の先生なら起こして連れて行きそうなもんだが、流石は我らが担任であるキムティーだ。一味も二味も違う。勿論、どちらかといえば悪い意味で。
まあ、それは構わない。寺に興味はなかったし、これで眠気もだいぶ晴れた。
「ところで、バスガイドさんも一緒に行ってたのか?」
「バスガイドさん? いや、来てなかったな。なんで?」
「何となく」
「何だそれ」
天津内女が平等院へ向かわずに残ったのだとしたら、これまでのことは夢じゃなかった可能性が高いか。起き抜けなせいか、拘束や詰問が夢なのか現なのか、判然としなかったのだが……
とはいえ、一連の出来事が夢でなかったとしても、照から受けた注意喚起についての周知は後回しだ。クラスの奴らがひしめいているバスの中で話せることではない。そもそも、鵬塚はともかく、尚子とクロードが所属する3組は別のバスだしな。どこかのタイミングで文芸部で集まって、そこで相談しよう。
「……み……す……ん……」
「ん。何だ、鵬塚。どうした?」
「……み……げ……」
ふむ。尚子ではこうはいかないだろうな。俺に対して気を遣うということを知らんからな。
受け取った袋を開けると、5枚組のしおりが入っていた。仏像や鳳凰、釣り鐘などが印刷されている。文芸部らしくはあるが、俺、そんなに本読まんぞ。勿論、文句を言う気はないがね。こういうのは気持ちの問題だろう。
「サンキュー。いくらだ?」
フルフル。
「いいから払わせろ。流石に奢って貰うのは悪い」
「……じゃ……に……く……ご……う……ん……」
案外、良心的な値段だ。旅行中は何かと入用だろうし、助かるね。
ポケットから財布を取り出し、100円玉2枚と50円玉1枚を鵬塚へ渡した。
「ほれ」
「……り……と……」
「皆様、お揃いになられたようですので、出発いたします。お席についてくださいますよう、お願い申し上げます」
内女の声が聞こえて、思わずびくついてしまった。恐ろしさやら照れくささやらで、どうにも落ち着かない。
バスの前方へ視線を向けると、巫女服の女性が柔和な笑顔を振りまいて、丁寧な物腰で案内をしている。特に代わり映えのしない、卿都に着いてバスに乗ってから、すっかり見慣れてしまった光景である。しかし、俺だけは知っている。あの巫女は変なだけでなく、怖い人だ。
「ん? お? おいおい、泰司。まさか」
太郎がにやにやしつつ、俺と巫女を見比べた。
まさか、何か感づかれたか。よっぽど顔に出ていたのだろうか。
「バスガイドさんに惚れちまったのか?」
「……は?」
何言ってんだ、こいつ。
そうは思ったが、客観的に見れば、バスガイドさんの様子を呆然と見つめる学生というのは、そういう誤解を受けても文句は言えないやもしれない。それに、実際のところ、例のおでこへのアレのせいで、そういった感情がないと言い切れないかもしれん。勿論、惚れるとかでなく、ドキドキしてしまうという意味でだ。
「あらあら。どうしましょう」
太郎の声がそれなりに大きかったため、聞こえてしまったのだろう。天津内女が軽く握った手を口元に当てて、笑いを堪えるようにし、呟いた。
彼女だけでなく、クラスの視線がこちらへ集まった。冷やかす声がそこここから上がった。
「ち、ちげえよ!」
否定してみたところで、こういったテンションに至った学生は、そうそう止まらない。しばらくは、不当な扱いが続くことだろう。
「……ん……って……!」
両の拳を胸の前で握って、我が親友殿も恋の応援をしてくださった。
へいへい。ガンバリマス。