十四.巻き込まれたとしても、そこを居場所と思えるのならよしとしよう

 竜王が倒れ、ローラと光の玉がラダトームに戻り、数日が過ぎていた。
 幾日も続いた祝賀ムードもすっかり冷め、街には普段どおりの日常のざわめきが戻ってきていた。
 そんな街の一角では、今回の事件を一人で解決したと専らの噂であるアジャス当人が、自室のベッドで熟睡している。既に朝というには遅すぎる時間帯になっているのだが、ここ数日ラダトーム中の人間に引っ張り出されて話をせびられていたことを思うと、それも仕方がないのかもしれない。
 と――
「なにいぃいぃぃいいいいぃぃいっっっ!!!!!」
 がたん、ごとん、ばきっ!
 突然聞こえてきた叫びに、アジャスは飛び起きてベッドから転げ落ち、さらには顔面を床に打ち付けた。
 しばしのあいだ顔を抑えて痛がってから、何事かと窓から外に身を乗り出して辺りを見渡す。
 しかし、見える範囲では特別騒ぎが起きているということもなかった。勿論、先程の叫びを原因として、そこここで訝しげにしている者などが絶えないのではあるが、それでも、叫びの大本だけは見当たらなかった。
 ただ、そこここにいる者達に共通点があった。それは――皆、ラダトーム城の方向を見詰めて訝しげに首を傾けているということ……
 ぶるっ。
「何だか寒気が……」
 アジャスは両腕で体を抱えて、不安げにそう呟いた。

「アジャスー!」
 感じた不安を押し殺して二度寝しようと横になったアジャスが、漸く眠りの世界へ旅立とうとうとうとし始めた時、階下から彼を呼ぶ声が聞こえてきた。母親の声である。彼の名を呼ぶのに続いて、お客さんよー! という叫びも耳に入ってくる。
 呼ばれただけならば無視して寝ようと思ったアジャスだったが、誰か客が来ているというならそういうわけにもいかない。
 彼は、今行く、と叫び返してから素早く着替え、階段を駆け下りる。
 至った階下には、フードを深くかぶった怪しい人物がいた。その人物は、城からの使者だと名乗る。
「ラルス国王陛下が、貴方様にお話があるとのことです。一緒に来ていただけますね?」
 そのように言う間も、城からの使者だという人物はうつむき気味でアジャスの方を見ようとしない。怪しさ大爆発もいいところだが、彼の言うことが本当だった場合、断ればあまり面白くないことになるだろう。
 それに、実はアジャスには、怪しい人物の正体の目星がついていたりする。彼は――いや、彼女は、特に声色を変えているということもないため、彼女の声を聞きなれた彼には一目瞭然というか、一聞瞭然だった。仮に先程の発言が嘘だとしても、面倒なことに巻き込まれる可能性はあるが、危険を伴うということもないのではないかと思われた。
「分かりました。では、共に参りましょう」
 弱冠楽観的な結論を持ったアジャスは、そう簡単に応えてから怪しい人物に連れられて外へ向かう。
 しかし――
「使者様」
 玄関の扉を閉めて出発しようとしたその時、アジャスの母が怪しい人物に声をかける。
「はい?」
 怪しい人物は驚いたように返事をする。
 視線を家の中の女性へ向けると、
「あまりお父様にご心配をおかけ致しませんように」
 当の母親は微笑んでそうとだけ言った。
 怪しい人物は、それに対して軽く頭を下げてから、静かに玄関の扉を閉めた。

「アジャスにばれるのは仕方ないとは思ってたけど、アジャスのお母さんにまでばれるとは思わなかったなー」
 怪しい人物ことローラは、街の人間に気づかれることを避けるためか、未だフードを目深にかぶり顔も伏せたままで、そのように口にした。その話しぶりは、風貌とは違いごく普通のもので、特別気を使っているということもないようだ。
 元から彼女の正体に気づいていたアジャスは、突然素の話しぶりに戻ったローラに特にリアクションをとらずに言葉を返す。
「父さんや母さんは兄さん達以上に鋭いし、それに、ローラは母さんを知らなくても、母さんはローラは知っているだろうからな」
「? でも、ローラはあまり街の人達の前に顔出してないよ?」
 アジャスの言葉にローラは軽い疑問を覚えて、そのように訊いた。
 その際視線を上げたため、フードの隙間から彼女の大きな瞳と茶の髪が見えた。しかし、彼女が口にした内容の通り、街の人にそれほど知られていないためだろう。誰かが彼女の正体に気づくということもなかった。
「父さんも母さんも城の兵士だったことがあるから、少しはつてがあるんだろうさ。まあ、そうでなくてもあの人達なら色々知ってそうな気がするけど……」
「それは、まあ…… よく考えなくてもブロアスさんやミリアさんのご両親なんだもんね…… ローラの顔とか声とか知られてても今更驚かないわ」
「ま、あの人達は基本何でもありだと思ってた方が無難かもな。ところで――」
 ローラの言葉を受けて肩をすくめたアジャスは、常識はずれな家族たちへの考察をそこで打ち切って話題を変える。
 その内容は、ローラがなぜここにいるのか、というもの。
「何の用だ?」
「何の用って……さっき言ったでしょ?」
 ローラの、目を瞬いた後の言葉を受けて、アジャスは意外に感じた。
「ラルス陛下の使者として来たっていうのか? 娘のお前が?」
「そうよ。……まー、最初は違う人が来る予定だったんだけど、というか、お父様は今もローラが来てるとは思ってないだろうけど――」
「ちょい待て。どういうことだ?」
 アジャスの追求に視線を逸らして言いづらそうに言ったローラに、アジャスは待ったをかけて詰め寄る。
 ローラは、あはは、と笑って肩をすくめた。
「いや、その、使者として来ようとしてた兵士を気絶させて、そこらへんの茂みにその兵士を隠して、それでローラがお忍びでこっそりと――」
 そこまで聞いたアジャスは、がっくりと肩を落とす。
「お前なぁ…… この前みたいに誰かに誘拐された、なんて騒ぎになったら面倒だぞ……」
 そして、もしそんな騒ぎになったならば、今のところ誘拐犯になってしまいそうなのは彼である。
「ま、大丈夫でしょ。直ぐ――もう今帰るところだし、ローラ付きのメイドには上手く誤魔化すように言ってきたし」
「あー、あの、お前に家出を勧めた元凶メイドか」
 アジャスは弱冠顔を顰めてそのように言った。
 というのもそのメイド、ローラに対して、竜王に攫われたことにして家出してみたらどうですか、などということを進言して、アジャスが苦労を背負う原因を作り出した者なのである。
 ラルス16世国王陛下が初めにアジャスにした命令が、光の玉などのことは二の次でローラの奪還のみであったことを思うと、そのメイドが余計なことを言っていなければ、アジャスは竜王の城くんだりまで赴いたり、その他各地域でいらぬ苦労を背負わなくてもよかった公算が高い。もっとも、アジャスとしては旅自体はそれ程嫌なものではなかったため、そこは気にしていなかったりするのではあるが……
「そんな嫌な顔しないであげてよ。アジャスに会ったら謝っておいてとか、自分が嘘ついてたこと言わないでくれて有り難うって伝えてとか、凄い気にしてたからさ、彼女」
 アジャスがよっぽど不機嫌そうにしていたのか、ローラは慌てたようにそう言った。
「いや、別にそれ程気にしてはいないよ。まあ、面倒事に巻き込まれたのは確かだけど、旅自体は楽しかったからな」
 そう言ってから、アジャスは遠くを見詰めて、温泉とか温泉とか温泉とかな、となぜか三回繰り返した。
 ローラはそれを呆れた様子で見詰めていたが――
「それに、ローラやお爺さんとも会えたわけだし」
 というアジャスの言葉で耳まで紅く染める。まあ、フードに隠れて一切見えないわけだが……
 その後ローラは、アジャスのことだから深い意味はないんだとか、お爺さんの名前も出してるのだし仲間としてってことだとか、頭に押し寄せた血液を押し下げるために色々考えを巡らしていた。
 しかし、アジャスはそんな彼女には気づかずに、そういえば、と言って話題を変える。
「ドムドーラが崩壊した時に男女二人組が街の人達を救った話、知ってるか?」
「え!? あ、うん、知ってるよ」
 色々と考えを巡らして忙しかったローラは、急にそのように振られて戸惑う。しかし、直ぐに持ち直して知っている情報を脳から引き出した。
「ドムドーラにいた時に少し聞いただけだけど、街が破壊の光に包まれる前に男の子と女の人が街の人全員を殴り飛ばしたとかなんとか」
「それだけ聞くと、まるっきり悪者にしか聞こえないな」
 ローラの言葉を聞いたアジャスは、そのように言って笑った。
 そして、先を続ける。
「当時ドムドーラにいた人がこの街にも何人か来ててな。ここ数日で何人かと話したんだ」
 前にドムドーラで聞いた時は適当に流してたから気づかなかったんだが、と結んでから更に続ける。
「例の二人組はたぶん、竜お――ドルーガとアリシアっていう女性だよ」
 彼が竜王ではなくドルーガと言い直したのは、すれ違う通行人達に妙な勘繰りをされないようにだろう。
「え?」
 アジャスの言葉を聞いたローラは目を丸くする。
「それって、あそこで会ったあの人達だよね?」
「ああ。容姿的特徴とかを具に聞いてみたが、まず間違いない。だから――」
 ローラに向けて頷きつつ肯定の言葉を口にし、先を続けようとしたアジャスだったが、
「じゃあ、例のドムドーラを破壊した光は、あれもやっぱり破壊神の影響だったのかな?」
 彼の言葉を遮り、ローラがそのように述べた。
 アジャスはやはり頷いて肯定を返し、そこで苦笑する。
「最後のあのやり取りを思うと嘘みたいだけど、神と名がつくだけあって魔力量が本当に半端なかったんだろうな」
 そのように口にすると、ローラもまた苦笑し、
「街がまるまる壊れちゃうくらいのことが起きちゃうんだもんね」
 と言った。
 そして、二人同時に思う。ある者の頭のことを――
「……なあ。そんな強大な魔力の恩恵を受けた大臣とやらの髪はどうなってる?」
「うん…… 凄いよ。前髪の後退が止まっただけじゃなくて、十歳くらい若返ったみたいに髪がふさふさ生えてきたの。今じゃ、大臣の育毛講座なんていうのが開かれて、彼がハゲで悩んでた頃にやってた対処法を熱心にやる人だらけ」
 焦点の定まらない瞳で紡がれたローラの言葉に、アジャスは軽くため息を吐いてから次のように言及した。
「そりゃまた、城のハゲの方々も無駄な努力を――」
 呆れた様子で呟いてから、彼は城を細めた瞳で見詰めた。

「この度、我が娘ローラが外海へと旅立ち、新たな国を建国する決意を固めた。ついては、勇者アジャスよ」
 ラルス16世は非常に不本意そうに言葉を紡ぎ、跪いているアジャスに声をかける。
「はい」
 アジャスは視線を上げつつ、はっきりとした口調で返す。その際ラルスの表情を窺うが、その視線はひたすらに彼へと向いていた。一般に睨んでいると呼ばれる所作だった。
 その視線をいつまでも受けていたくなかったので、アジャスは再び視線を下ろして跪く。
「ついては、此度の竜王事件を見事解決した手腕を見込み、そなたにローラの護衛を命じる。共に船に乗り込み、新たなる地を目指してはくれぬか?」
 そう言ったラルスの口調は、断れ、断れ、という圧力をひしひしと感じるものであった。ここで断れば、ラルス本人は快く引き下がることは容易に予想できた。しかし――
 アジャスはラルスの隣の玉座に座っている女性にこっそりと目をやる。そこに座っているのは、純白のドレスに身を包み、長い栗色の髪をすらりと下ろしている、一見おしとやかそうな女性。ラルス陛下の一人娘ローラだ。
 その表情は終始にこやかで、一瞬視線のあったアジャスにも穏やかな笑みを投げかける。
 仮にアジャスがここで初めて彼女に会ったのならば、彼は見事彼女に心奪われていたことだろう。しかし、実際はそうではない。心奪われることなどあり得ないと言ってしまえば言いすぎにしても、あのような笑顔で騙されるようなことは本当にあり得ない。
 ラルスがアジャスを懸命に睨んでいる以上、彼女がラルスを説得する上で、アジャスを面倒な位置に置いたことは間違いがない。
「どうしたのだ、アジャスよ。引き受けぬと申すか?」
 ここで初めてラルスは、喜色満面に言葉を紡いだ。
 アジャスとて、彼の言うように断りたい。断りたいのだが、しかし――
「いえ…… 謹んでお受け致します」
 そう答えるしか、今はできないのだ。
 例えばアジャスがこの話を断った場合、ローラがとる行動はどのようなものだろう? アジャスの予想としては、嘘か本当か知らないが、泣く。そして、それに怒る賢王ラルス16世。それに基づいて、アジャスは面白くない目に会い、最悪人生の幕を下ろすことになることも考え得る。合掌……
 そうでないとしても、結局ローラがわがままこいてアジャスを連れて行こうとする可能性が高い。それならば断るだけ無駄。
 となれば、ここは受けるという一択しかあり得ないのだ。
「そうか…… 受けてくれるか……」
 アジャスの答を受けたラルスは明らかに落胆し、そして攻撃的な視線を再び携えた。そして言葉を続ける。
「ではひとつ注意事項を伝えるとしよう」
 立場上は冷静に、厳かに言葉を紡ぐべきであろうラルス陛下は、そうするように努めているようではあったが、それでも怒気やら敵意やらが存分に含まれているのが知れる態度で告げる。
「お主が力尽きれば、姫は志半ばにての帰国をせねばならなくなる。ローラを守り通すことはもとより、お主自身もその命大事にするがよい」
 その発言の裏に、死ね、というメッセージが隠されているのではないか、とアジャスが考えてしまうのを、いったい誰が責められただろうか……

「お父様。ローラはこの国を出て、外海で新たな国を建てたいの」
 朝とも昼とも言えない時間に、出し抜けに発せられた愛娘の言葉。それにラルス16世国王陛下は大いに戸惑った。
「な、何をいきなり……」
「アジャス様の活躍で再び外海との交易が可能にはなったわ」
 と、ローラ。
 事実はともかくとして、世間では一応そういうことになっているのである。
「でも、遠い昔より我がラダトームは外海の国々と良好な関係であるとは言えない。外海からの輸入を豊富なものにするには、親善外交と平行して、姉妹国家の建国を目指すのがいいと思う」
「それは――」
 それはラルスも考えてはいたことだった。
 文献を紐解いてもデルコンダル国などとの微妙な不和の因は見えてこない。具体的な原因がわからないのでは、根元の不仲を改善するというのも難しい。
 そうなれば、他の道を模索するのも一つの手ではあるのだが……
「それはそうかもしれん。だが、それをお前が行う必要は――」
「王族であるローラが推進し、先頭に立つことで士気も高まる。それに、新たな国の王も必要でしょう」
 渋ったラルスの言葉を遮り、ローラが言う。
 その言もまた、もっともなものではあった。しかしそれでも――
「……やはり認めん。危険だ。竜王事件以来魔物は沈静化しているが、それでも全く現れないわけではない。それに、船旅となれば魔物以外にも危険は多い」
「船には熟練の船乗り達が乗り込むのよ? それに、仮に船が沈没するような事態になったって、キメラの翼でここまで戻ってくればいい」
「むぅ」
 船の危険とやらを回避する方法を打ち出すと、ラルスは未だ難色を示しながらも、どちらかといえば肯定と取れる様子で唸った。
 ローラは更に続ける。
「それから――魔物の対策はアジャス様にお願いしたいの」
「アジャスに? ……今回の活躍を思えば、最も適した人選ではあろうが――いや、いかん」
 そちらにも一瞬納得しかけたラルスだったが、ある一つの事実に至り即否定。
 ――信用の置ける臣下ならばともかくとして、実際はそうでなく、その上若くて年頃である男を、愛娘と共に船に乗せる
 ラルスとしては是が非でも回避したい事態だった。
 ちなみに、この段階で彼は、ローラの外海への出立自体には肯定的になっている。娘を大事に想っているのは――親馬鹿なのは確かだが、それと、娘を自分の手元にいつまでも置いておくことは違うと彼は知っていた。可愛い子には旅をさせろ、という意見には大いに賛成する性質なのだ。
 しかし、それでも男関係には大いに恐怖を抱く。多大な功績を挙げた人物とはいえ、自分の娘の相手になど考えたくない。ましてや、彼の娘はその男に劇的に救われているのである。何かの拍子に心奪われてしまわないとも限らない。
「どうして駄目なのよ」
 ローラが不機嫌そうに言う。
 取り繕った理由では、案外頑固な娘は納得しないだろうと考え、ラルスは端的に正直に語る。
 即ち――年頃の娘が軽率に男性と接触するなかれ――と。
 それを聞いたローラは、理解する。ああお父様は、ローラがアジャスと恋に落ちたりしたらやだなぁ、とか思っているんだなぁ、と。
 そこまではよかった。しかし……
 その後のローラの思考展開はこうだ。
 『これから』アジャスと恋に落ちるのが嫌なんだったら――
 そして、その後は言葉として発せられてしまった。
「実は……ローラ、もうアジャス様のことを―― だから是非護衛はアジャス様に……」
 その際、彼女の頬が染まっていたのは演技か本気か。そんな疑問は兎も角――
「なにいぃいぃぃいいいいぃぃいっっっ!!!!!」
 畏れ多くも、国王陛下の叫びはラダトーム中に木霊したとか……

「それにしても、何で俺なんだ? 近衛兵何人か連れて行けばいい話じゃないのか? その方がお前の父上――ラルス陛下もご安心だろうし」
 アジャスは、取り敢えず今のところ、船上で見知らぬ暗殺者から殺気を向けられることもないようであるため、ほんの少しリラックスしていた。
 そして、出立の際に着ていたドレスから動きやすい格好に着替えたローラに対して、先のように声をかけたのだった。
「それは……その――」
 そこで考え込んでしまうローラ。
 まず彼を――城のものではなくアジャスを推した理由は何なのか。考え込むまでもなく、彼女の中でその結論は出ている。
 今考え込んだのは、その明らかな結論をを言わずにどう答えようか、ということであった。しかし、思いつかないため――
「ま、いいじゃない、別に! ともかく、船旅も外の大陸もローラは初めてだから、凄い楽しみ!」
 そう言って明るく笑う。
 その際、頬が軽く染まっているように見えたのは、光の加減か……
 一方アジャスは、彼女の本当に楽しそうな様子に、まあいいか、という気分になって賛同する。彼もまた、船旅も外の大陸も初体験であるから、楽しみなのは確かであった。
 その後は、
「そういえば、お爺さんは誘ってないのか?」
「ああ、誘ったんだけど、隠居した身に船旅はきついわい、とかって断られちゃって……」
「隠居した身、なぁ…… とてもそんなやわな爺様には見えないけどな」
「あはは、ほんとにねぇ」
 などなど、これからに思いを馳せ、船の縁に寄りかかって海を眺めつつ楽しくお喋りをしていた。と、その最中――
「よぉ、アジャス」
 突然聞こえた声。
「に、兄さんっ!」
 いつの間にやら背後に立っていた人物――ブロアスに気づいたアジャスは、心臓が飛び出る勢いで驚く。
 ブロアスはそんな弟の首根っこをがっちりと掴み、
「そんなに驚かなくてもいいだろう、失礼な。姫様もご機嫌麗しゅう」
「ど、どうも」
 アジャスを意地の悪い笑みを携えて見詰めてから、ブロアスはローラに微笑みかけて挨拶をした。
 ローラは苦笑交じりで返し、
「それにしても、どうしてここへ?」
 続けてそのように訊いた。
 ブロアスは、ちょっと弟に忠告をしに来ました、と言ってから、ローラに二、三言葉をかけてアジャスともども離れていく。
 そして、ローラには声が聞こえないだろう、という程離れた辺りで――
「この船には何人か報告役が乗ってるぞ」
「報告役?」
 突然のブロアスの言葉に、アジャスは直ぐに疑問の声を返す。報告役とだけ聞かされては、何を報告する役なのかも分かりはしない。
「ああ。まあ、噛み砕いて言うと、お前とローラ姫が仲良くし過ぎてないかどうか、一線を越えないかどうかを逐一陛下に報告する――」
「ちょっ! はい!?」
 ぼかっ!
 大きな声を出したアジャスを、ブロアスは一殴り。
「声がでけぇ。とにかく、それを頭に入れとけ。俺だって、たった一人の弟が海上で死刑になるのは忍びないんで知らせに来てやったんだ。ありがたく思えよ」
 少しぶっきらぼうに、ブロアスはそのように言った。
 そんな兄の様子にアジャスは、何か企んでやしないか、という危惧を持ちながらも、一応礼を言う。それに加え、少々感じた疑問もまた口にする。
「それは感謝するけど、後半はともかく前半はどのくらいでまずいんだろう」
「? どういうことだ?」
「仲良くしすぎるって、今みたいに普通に話している分にはいいのかな?」
 訝しげに訊いたブロアスも、その後のアジャスの疑問を聞いてなるほどという顔になる。しかし、その疑問に対する答えはなんとも言えなかったので適当に答える。
「知らん。とはいえ、話してるだけで死刑まではいかねぇだろ。抱き合ったりとかはしない方が無難だろうがな」
「せんって! そんなこと!」
 ブロアスの言葉に、アジャスは顔を紅くして反応する。
 それを見たブロアスはにやにや笑いを顔に貼り付け――
「何だよ。お前も満更じゃないんだろうし、報告役を気絶させるとかしてからしっぽり――」
「だからぁ!」
 再度顔を紅くして叫んだアジャス。
 ブロアスは大きく笑ってから、
「ま、ともかくそういうことだ。少し注意しろよ。じゃな」
 そう言って、光の軌跡と共にラダトームに引き返した。
 それを見送ってから、アジャスは少し待ってローラの元へ戻る。少しのタイムラグは、頬の紅潮を抑えてから――ということだろう。
「何だったの、ブロアスさん」
 ローラが訊くと、
「ま、激励とか注意事項とか、色々と」
 と、アジャスは曖昧に答える。
 ローラは彼の様子に少し疑問を覚えるが、
「そ」
 そこは適当に流すことにした。そして、
「そうだ! 言い忘れてたけど――」
「何だ?」
 声を大にして何か口にしたローラに、アジャスは訝しげに返す。先程のブロアスみたいに、あまり嬉しくない情報を開示するんじゃないだろうか、という警戒が少し見えた。
 しかし、ローラの言葉の続きは――
「これからよろしくね、アジャス」

 煌々と照りつける太陽と、その光を反射して光り輝く海原。
 その素晴らしい背景すら霞むような満面の笑みで、少女は少年を見詰める。
 少年は、これから死刑にならずに旅を続けるのは骨が折れそうだな、などと考えつつ、微笑んで口を開いた。
「ああ。よろしく、ローラ」