第一話:ムーンブルク城書庫

 遠い昔、世界を救ったと伝えられる勇者ロト。その末であるラドルフ=ムーンブルク王の治める国、ムーンブルク。そこを一人の魔術師が訪れたのは五日前。魔術師は王への挨拶を済ませ、その後書庫にて調べ物を始めた。魔術師はそれから書庫を出ることもなく、そして今日、五日目の昼下がりのこと……

「あった…… これだ。これこそがわたしの望みを叶える――」
 がちゃ。
 魔術師の言葉を遮って書庫の扉が開く。
 そして、そこには一人の少女が湯気の上がるカップを載せたトレイを手に立っていた。大きな瞳と、左右に流した長い髪が共に鮮やかな紫色をしている。今年で十八を迎えたこの国の王女、アイリだ。
「魔術師殿。一度休憩なさって、私とお茶でもいかがです?」
「これはアイリ様。いただきます。王女様御自らお運びいただけるとは恐悦至極です」
 魔術師が応えると、アイリはにこやかに笑って書庫に足を踏み入れる。
 魔術師は、先程まで読んでいた書物を何気ない仕草でアイリの視界から除いた。その背表紙は擦り切れていて、何について書かれた書物なのか知ることはできない。
 かちゃかちゃ。
 アイリ、魔術師それぞれがカップを手にし、
「すみません、魔術師殿。父が、同じ年頃の女の子同士仲良くしなさいなどと言うものですから、このように毎日……」
「いえ、構いませんよ。それより、ラドルフ陛下はまだわたしのことを、アイリ様と同年代と誤解なされているのですか? これでも三十路を超えているのですが……」
 魔術師は、困ったように苦笑してからカップに口をつけた。その湯気からは甘い花の香り。この城より東方に位置する、ムーンペタの町で栽培されているハーブティーのようである。
 ごくん。
 お茶を飲み下した魔術師の様子を、アイリが満足そうに見つめる。そして応える。
「父には私が教えなかったのです。若く見られているのなら、わざわざ否定することもないでしょう?」
「そうは申されましても、さすがに十以上も若く見られてしまうと何やら照れくさいですよ」
 それを聞いたアイリは可笑しそうに声を立てて笑い、漸く一口目を口に含む。
 そして――
「それで? 探し物は見つかりましたか? 魔術師殿」
「え、ええ」
 魔術師は見つけた書物とは違うものを一度瞳に映し、
「それで、よろしければ貸し出しの許可を…… 写しを取らせていただけるだけでもいいですし……」
「残念ながら――」
 魔術師が控えめに頼むと、アイリはにこやかな笑顔のままで否定的な言葉を紡いだ。そしてさらに続ける。
「魔術師殿が所望する書物は、一切の貸し出し、写本を禁じられています。ご理解下さい」
 その言葉を聞いた魔術師は顔色を変えるが、それを悟られないように平静を装って返す。
「な、何を仰いますか? わたしが所望するものは――」
「古に生み出された破壊の神についての書物。書庫の奥深くに隠してあったというのに、よく見つけ出しましたね」
「なっ!」
 がたっ!
 アイリの言葉に、魔術師は今度こそ絶句して立ち上がる。
「先程入ってきた時に拝読なさっている本が見えましたから。あのように擦り切れた背表紙の本は限られていますし、何が書かれているかも覚えていました」
 そこでアイリはカップを傾けて二口目を口にする。
 こく。
 それを飲み下してから立ち上がり、カップを片手に魔術師に詰め寄る。
「それで、魔術師殿。そのような書物に、いったい如何なる用で?」
「あ…… あ……」
 笑顔で詰め寄るアイリに、魔術師はがたがたと震えて視線を泳がせる。緊張のためか、汗をだらだらと流し、喉も砂が水を吸うがごとくの勢いで乾いていく。
 アイリはそんな魔術師の様子を楽しそうに見つめて、
「あら、何も取って食おうというわけではないのですから、そのように怯えずとも」
 可笑しそうに笑って、アイリは再び椅子に腰を下ろした。そして、三口目を口にして、魔術師ににこやかに語りかける。
「さあ、お茶が冷めてしまいます。お座りになって下さい」
「……はい」
 魔術師は震える足で歩き、椅子に座り、震える手でカップを持った。
 そこでアイリが苦笑して言葉を口にする。
「それにしても、破壊神などという胡散くさいものに――確かその書物には、要約して言うところの願いの叶え方のようなことが書かれていましたね? そのようなものに頼るくらいでしたら、自分で努力した方が建設的だと思いますが……」
 ぴくっ。
 そこで、魔術師の震えが止まった。俯いた瞳に浮かぶのは――
「貴女に……」
 魔術師の呟きを聞いたアイリは一瞬笑みを顔から除く。しかし、魔術師の瞳に浮かぶ危険な光を目にすると、さらに深い笑みを刻んだ。
 ばたんっ!!
 その様子を見た魔術師は、激昂して立ち上がる。その勢いで椅子が床に転がった。
「貴女に何が分かる! わたしの悲しみの! わたしの苦しみの! 何が分かる!!」
 その叫びを聞いたアイリは一層笑顔になって、
「何故私が貴女の苦しみなどというドロドロしたものを理解しなければいけないのか…… 理解に苦しみますね。そもそも、貴女がその書物を求める理由というものを私に話さずに、どうしてその悲しみを知ることができましょう。まったく、もう少し順序だってお話いただきたいものです」
 それはもっともな指摘であった。前半の言葉はともかくとして、後半の言葉はもっともな…… しかし、明確な指摘は時に、癇の虫を沸きたてる材料となり得る。
「五月蝿い! 煩い! うるさい!」
 ぴかあぁあぁぁあ!
 叫び、魔術師がかざした手には不気味な光が宿る。
 そして――
 ぼわぁあっ!
「……あら、これは――」
 そう呟いたアイリの姿は……
「犬畜生ですね」
「あははは! どうです! 古代の魔法書から読み解いた秘術! わたしのアレンジで、その姿は半永久的に戻ることはありません! ざまあみろってんです! あははははははっ!!」
 狂ったように笑う魔術師。
 犬になったアイリは、そんな魔術師には目もくれず、自分の体をしげしげと見つめる。そして一言。
「というか、どうして犬畜生なのです? それこそもっと屈辱的な――なめくじやら蛾蝶やらの方が……」
「魔法書に書かれていたのがワンちゃんへの変身についてだったために、アレンジを加えた難しい術を使うときは無意識にそれになってしまうのです。しかし、それでも貴女には充分屈辱的でしょう? 二年間研鑽を積み、習得した甲斐があったというものです。はははははは――」
「こんな術に二年も…… 馬鹿じゃないの?」
 ぴしっ。
 気持ちよさそうに笑っていた魔術師の言葉を、満面の笑みを浮かべた――ように見える――犬アイリが遮った。
 すると、それにより魔術師の動作が一瞬止まる。そして――
「とわりゃあぁあぁああ!!」
 ぴかあぁあぁああぁぁあ!
 奇声と共に、再びかざされた魔術師の手には、やはり再び怪しい光が宿る。
 そして――
「……わふ? わん、わわん……(……何? あら、言葉が……)」
「わんわん。わわんわわわん、わんわんわうーん!(どうです。わたしが独自に編み出した、言葉をワンちゃん語にしてしまう魔法です!)」
 得意げに言った魔術師に、犬アイリは珍しく笑顔を崩して呆れ顔になり、
「わんわんわわわん、わっわんわんわんわん?(そのためだけに、犬語を勉強したんですか?)」
「わん、わんわんわっわわん。わふわふわんわんわーん!(ええ、その習得に一年。魔法の完成にはそれから二年かかりました!)」
「わん?(馬鹿じゃね?)」
 やはり呆れ顔で言い切った犬アイリ。
 魔術師は眼光鋭く反応し、
「わんわわ――わふっ(なんだ――ぐっ)」
 そこでなぜか苦しみだす魔術師。呼吸は荒くなり、手足の痺れ――さきほどのような恐怖からくるものではないようであった――が顕著だ。
「わん、わわんわんわんわうんわん(あら、少し遅かったけれど効いたようね)」
「な、何れすって……」
「わんわん、わふわんわわんわん。わ――以下略(先程のお茶には、貴女の分にのみ痺れ薬を入れていました。この五日間で何を探しているかの見当はついていましたし、黙って探させているわけにもいかないだろうと…… まあ、少しだけ手遅れでしたけど)」
 犬アイリはにこやかに言葉を――犬語を紡いだ。その顔に浮かぶのは、この部屋に入ってから見せる一番の笑み。
「……にゃ……んらと……」
「わふふ、わんわふわんわん、わんわわん――わふわわふわんわわわん(うふふ、痺れている状態なら、この姿でも――喉笛でも噛み切れば余裕ね)」
 目前に迫った犬アイリの笑顔と、その口から発せられた言葉に、魔術師は再び顔色を悪くして震えだす――この震えは恐怖からくるものと思っていいだろう。そして――
 しゅっ!
 かちっっ!!
「わふ? わんわん……(あら? 消えたわ……)」
 突如姿を消した魔術師。そして、がちっと閉じた口が空を切った犬アイリ。書庫での流血沙汰は免れたようだ。
 それはともかくとして――
「わんわわん、わんわん(面白い格好で楽しいけど、これからどうしようかしら)」
 これが、ムーンブルク王女失踪事件の全容であり、これからまきおこるもう一つの事件の契機であった。


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