第二十三話:優し過ぎる神の加護

 常であれば明るく高く広い空が、暗く低く狭かった。大きく黒い雲がサマルトリア城の上空を覆い、今にも雨粒が大地を濡らそうとしていた。
 サマルトリア国王女サーニアル=サマルトリアは、自室の窓辺から曇天を見上げ、嘆息した。
「この天気じゃ、露店を食べ歩くのはちょっとだよね。最近は晴れ続きだったのに、食べ歩きを予定していた日にどうして降るかなぁ」
 日々を忙しく過ごしている王女様は、たまの休日を有意義に過ごせず、自身の悲しい運命を憂えた。しかし、直ぐに気持ちを切り替えて、厨房へと向かった。このような時のために、つまみ食いをするためのツテは作っていた。何名かの料理人は、料理長に隠れて食べ物を分けてくれる。惜しむらくは、隠匿された取引ゆえに、凝った料理を作って貰えぬのが玉に瑕であった。
 自室を出でて、廊下を歩みつつ、サーニアルは窓の外の曇天を見上げ続けた。
 サマルトリア城は海からそう遠くなく、降雨量も少ないわけではない。当然ながら、本日のように悪天候に見舞われることもある。
 しかし――
「リアス達に何かあったのかしら……」
 サーニアルは唐突に不安に襲われ、歩みを止めて祈りを捧げた。
「リアスやアイリ姉様、ついでにスケルタ兄様にも、精霊神ルビス様のご加護がありますように……」

 ベラヌールの街の一画に避難所が設営され、負傷者が皆、運ばれた。既に事切れている者や虫の息の者など、治療の必要性がない者達は隅に追いやられた。治療に依って命を取り留め得る者を優先し、魔法の道に明るい兵士が奔走していた。
 有事の際、至近距離から魔法を受けた青年は、隅に寝転んで浅い呼吸を繰り返していた。太ももの半ばまで負った傷にまかれている包帯は、白い部分を残さぬ程に血を吸い、赤黒くなっていた。
「ザオリク! ザオリク! 何で! どうして治らないの!」
 青年の傍らで、少女が魔力を操っていた。最高位の回復魔法であるザオリクを何度も唱えるが、その恩恵がもたらされることはなかった。彼女が握りしめた、魔法の威力を上げる願いの布は、隙間なく血で染まり、豪奢な意匠は見る影もなかった。
「スケルタッ! スケルタッッ!!」
 青年の名を呼びながらくずおれる少女――アイリ=ムーンブルクは、力ない瞳からとめどなく涙を流し、嗚咽した。
 少し離れた所で佇む少年は、涙を流すことはなくとも、歯噛みして唇から血を滴らせていた。
「リアスさん」
 直ぐ後ろから名を呼ばれ、リアス=ローレシアは振り返った。そして彼は、曇っていた表情を、漸う輝かせた。
「来てくれたのか! あんたらなら、スケさんを助けられるだろ?」
「……」
 青い髪を背に流した女性は、リアスの問いにしばし黙り込んだ。しかし、直ぐに小さく笑み、前進した。
 彼女の後ろに佇んでいた二名は、険しい表情のままでリアスの隣に佇んだ。
「アマンダ様。救える者と救えぬ者が出ます」
「分かっているわ。けれど、知った顔を何もせずに見捨てるのは寝覚めが悪い」
「僭越ながら、貴女は神を名乗るにはお優し過ぎる」
「……」
 金髪の女性と青髪の青年の会話を、リアスは訝しげに聞いていた。しかし、直ぐに意識はスケルタへと向いた。
 重傷者達の間に跪き、青髪の女性――アリシアが祈りの姿勢をとった。彼女がしばし瞑目し、幾ばくかの時が流れた。場には、これまでとは異なる厳かな、どこか神聖な空気が流れた。仮に精霊を目視できる者がいたならば、その時、避難所全体を覆うように、数多の精霊が集っていることが分かっただろう。
 アリシアの願いに応じて、精霊の力が満ち満ちたその時、彼女は瞳を開き、集った精霊の力を全て、癒しのために行使した。
「ザオリク!」
 アイリの魔法とは明らかに隔絶した、あたたかな光が避難所に満ちた。あらゆる生者の傷が、瞬時に塞がった。軽傷の者は起き上がるまでに回復し、重傷の者も血色がよくなった。
 しかし――
「傷が……! スケルタ! ねえ、スケルタ! スケルタ? スケルタ!」
 傷が完全に癒えても、目を覚まさず、脈拍は弱く、呼吸が浅い者も数名いた。スケルタもそのうちの一人だった。
 更には、彼らのうち、特に重体の者は治癒の直ぐ後にも関わらず、目覚めることなく息を引き取ってしまった。
 かりそめの希望に歓喜しかけた人は、愚かにもその怒りを治癒者へとぶつけるに至った。
「何故死ぬんだ! なんで! どうしてだ!」
 兵士の一人は、叫んでも詮方ないことを、ひたすらに叫び続けた。
 アリシアは一言も発することなく、只ひたすらに黙した。
「何とか言え――」
 金髪の女性が、叫び続ける兵士の首を掴み、持ち上げた。瞬時のうちに為された行いを瞳に映し、アリシアは慌てて止めた。
「あ、アマンダ様! おやめ下さい!」
 金の瞳を呆れたように細め、アマンダは嘆息した。
「こんなあほに気を遣ってどうすんのよ」
「あほではございません。この方は仲間の不幸を悼み、傷つくことが出来る、優しい方です」
 人の好い言葉を耳にすると、アマンダは左手で頭を抱えた。そして、右手に掴んでいたものを放した。
 地面に倒れこんでせき込む兵士を、彼女は睥睨した。
「先ほどの暴言は、彼女の心優しさに免じ、忘れよう。去れ、愚者め」
 低く抑えられた声音は、空間に残酷な響きを与えた。人々の不満は、金の髪と瞳を携えた女性ただ一人に集中した。しかし、不満を抱いたとしても、屈強な兵士を片手で持ち上げるような者に、面と向かって逆らおうとする者は一人としていなかった。
 その場は一旦静まり、人々は、快癒した者の介抱や、いまだ生死の境を彷徨っている者の治療に奔走した。
 緊張の糸が切れたのか、アリシアがふらりとよろめいた。倒れかけたのを、青髪の青年が支えた。
「す、すみません。お父様」
「全魔力を治癒にあてるだなんて、数十年ぶりの無茶をしたね。よく頑張った」
 アリシアの父――キースは微笑み、アリシアを腕に抱いた。彼は各所に視線を送り、申し訳なさそうに顔を歪めてから、アマンダに歩み寄った。
「アマンダ様。私達はもう戻ります」
「ええ。よくやったわね、アリシア」
「いえ。力が及ばず――」
 悲しみに瞳を伏せた女性の頭を、アマンダは優しい瞳で小突いた。
「あんたが出来ないなら、今の世の誰にも出来ない。あんたは出来得る限りのことをしたわ」
「……ありがとうございます」
 泣き出しそうな表情のままで微かに笑んだ女性は、彼女を支える青年とともに、突然消え去った。忙しい人の世において、彼女達の帰還を見送ったのは、アマンダとリアスだけだった。
 アマンダは金の髪をかきあげ、ゆっくりと息を吐いた。
「スケさんはどうなる?」
 リアスが端的に訊ねた。彼は本能で悟った。時間がない、と。
「このままだと死ぬ」
「どうすればいい?」
 最低限の言葉だけが、彼らの間にはあった。最短で、最速で、結果を得んがために。
 一方で、アイリはただ泣き崩れていた。完全に心が折れていた。先の兵士のように、呪いを吐くことすら能わぬ程、絶望し尽くしていた。
(諦めの悪かったケイティの子孫とは思えないわね。いえ。この状況では仕方がないか。酷評が過ぎると、アリシアに怒られるわね)
 アマンダは寸の間、思考し、しかし、直ぐに先を見据えた。
 リアスの手を取り、下位精霊への干渉を始めた。結果は直ぐに出て、彼らは瞬時にその場から姿を消した。

 竜やエルフ、精霊、ドワーフ、魔物――人ならざる者が集う城の最奥に、突如、精霊と人が姿を現した。
 玉座に腰を掛けていた主は、彼らの訪問を受け、喜びを抱いて、太陽の如き満面の笑顔を浮かべた。
「アマンダ姉とリアスじゃないか! どうしたんだ?」
「世界樹の葉はこの世界に現存する?」
 城の主たる竜王ドルーガの問いに応えず、アマンダはやはり端的に訊ねた。
「世界樹の葉? それはあれか? かの世で竜の女王の城南方に生えていた、数多の魔力を抱いた大樹から得られる青葉のことか? そんなもの、この世界に……」
「あるの? ないの?」
 訊ねるアマンダの様子から切迫した雰囲気を感じ取った竜の王は、面食らった様子ながらも、世界中の魔力を探査し始めた。彼ら竜族は魔力に敏く、目的の物を見つけ出す術に長けていた。そのような竜族の王が出した結論は――
「ない。この世界にはない」
 喜ばしくない結果であった。しかし、竜の言葉はそこで止まらなかった。
「だが、おかしい。ないことはないが、存在を感じる」
「? 何言ってんのよ。ボケたの?」
 苛ついた様子で、アマンダが暴言を吐いた。緊急性を感じ取って口を出さずにいた竜王の従者が、玉座の脇で眉をひそめた。
 一方で、ドルーガ自身は気にした風もなく、考え込んだ。
「俺様もよく分からん。今は間違いなく、ない。けれど、あれは南――ペルポイの先の岬、いや、その海域にある小島か…… そこに何かを感じる」
「何かって何よ。曖昧なことばっか言って、結局、あるの? ないの?」
「ない。だが、何かある」
 要領を得なかった。しかし、確信を得た竜王の真っすぐな瞳を、精霊神は信じた。彼の示した指針を辿ることに決めた。
 アマンダは訪問した時と同様に魔力を集め、空間を渡る準備を始めた。その最中、軽口で時間を埋めることとした。
「まだまだガキんちょね。ドルーアと比べると数段も劣るわ」
 にべもない言葉を受け、これまで堪えていた従者が一歩前に出た。
「あ、貴女! ドルーア様のご友人であらせられたとはいえ、当代の真祖はドルーガ様です! そのような暴言は――」
「まあ、待て。モル。アマンダ姉にも事情がありそうだ。何より、母様よりも俺様が劣るのは、紛れもない事実だろう。怒るようなことではない。ここは俺様に免じて、堪えてくれ」
 モルと呼ばれたエルフは、悪びれる様子もないアマンダを一瞬の間、睨んでいたが、直ぐに姿勢を正し、最敬礼で応じた。
「出過ぎた真似をいたしました」
「なぁに。お前の忠義は嬉しく思うぞ。いつも苦労をかけるな」
「もったいなきお言葉に御座います」
 主従の平素と変わらぬ会話を耳に入れつつ、アマンダは苦笑した。相も変わらず、どこかとぼけたところのある主従だと。
「結果の如何を問わず、今度、礼に来るわ。手土産は酒でいい?」
「ああ。構わんぞ。では、また会おう。アマンダ姉。リアス。よくは分からんが、健闘を祈る」
 眩い笑みを浮かべ、竜の王が白い歯を剥き出しにした。全てを照らすかのような笑顔に見送られ、アマンダは再び空間を渡った。
 リアスは、脳裏に残ったその光に、微かながらも強い希望を抱き、陰りそうになる気持ちを奮い立たせた。

 ペルポイの街の地下へ続く出入口に転移してきた精霊と人間は、直ぐに大空へ飛び立ち、岬の突端を目指した。
「おい。何でドルーガの言っていた小島に直接向かわねえんだ?」
 軽く苛立った様子で、リアスが訊ねた。目的地がはっきりしているのならば、空の散歩をするのは無駄に思えた。
 しかし、アマンダは五月蠅そうに軽く手を振り、人の子の苛立ちを撥ね退けた。
「その小島がどこなのか、よく分からないのよ。大した距離でもないし、目視しながら向かった方が間違わないわ」
 そう結論付けられると、色々と状況についていけていない身としては、納得するしかなかった。リアスは口を噤み、しかし、直ぐに言葉を発した。
「世界樹の葉ってのは何だ?」
 どうせ空を飛んで時間をかけなければならないなら、正確な状況把握に努めようと考えたようだ。
 アマンダは面倒そうに眉をひそめながらも、説明を放棄したりはしなかった。
「世界樹というのは、こことは別の世界に生えていた、魔力を生み出す巨大な樹木のことよ。魔力というのは、言い換えれば、生命力とも表現できる。生命力を生み出し続ける樹木――世界樹に生えている葉は、生物が摂取することで莫大な生命力を得ることが可能になる。貴方のお友達が経口摂取すれば、回復魔法で外部から力を与えられるのとは比較にならない程の、死の腕から逃れ得るだけの生命力を得られるはず」
「? うん?」
 13歳になったばかりの子供には難しかったらしい。
 数億歳を超える者は、めんどうそうに深く嘆息した。
「すっごい怪我も一発で治る不思議な葉っぱってことよ」
「ああ。なるほど! 最初からそういう分かりやすい言い方をしろよ。気が利かねえな」
 神をも恐れぬ子供である。
「ケイティというよりジェイに似てるわね……」
「あ?」
「何でもないわ。それよりも、お喋りはここまで。恐らく、あの島がドルーガの言っていたやつよ。確かに妙な気配がするわ」
 頭上を空の青が、眼下を海の青が、勢いよく流れていく。そして、向かう先には、鬱蒼とした森を抱いた、岩場に囲まれた小島があった。
 世界樹と呼ばれるような樹木が生えているのか、リアスには判断がつかなかったが、視界に入る緑は他で見るそれと変わらず、先ほどの説明に即した特別なものには、到底見えなかった。そして実際、彼のその直感は当たっていた。
「当然、あそこに世界樹があるわけではないようね。けれど、確かに気配を感じる。これはどういうことなの?」
 精霊神の独白を、人の子はただただ疑問符を浮かべつつ、聞くだけだった。
 疑問ばかりが浮かぶ中、彼らは漸う、目的の小島に到着した。

 砂浜の先には草原があり、草原を行くと森があった。森を囲む岩壁は険しいが、それほど高くはなく、威圧感を与えることもない。総じて、たどり着いた小島は、ごく一般的な只の小島にしか見えなかった。
 それでも、アマンダは違和感を覚えた。目の前の光景が、全て偽りであるかのような、とてつもない違和感を。そして、彼女はその感覚に既視感があった。
「……まさか……」
 精霊神の名を冠した女性は瞠目し、しばしの後、静かに瞳を閉じた。彼女自身が体内に宿す魔力を、細く、長く、糸のように伸ばし、数百年の昔と同じように、適切な手順で適切な操作を試みた。隠蔽された空間が開かれ、島の入口とも言うべき砂浜は、碧くどこまでも深い、全ての命の源かと思えるような煌めく泉へと変じた。
 手持無沙汰で砂浜の蟹を捕まえていたリアスは、突然の光景に息を呑んだ。
「んだよ、これ?」
「ったく。いつからかしらね。あちら側への扉だなんて、まがりなりにも精霊神であるあたしに断りもなく……」
 ぼやきながらも、アマンダには心当たりがあった。彼女を超え得る者は、過去でも未来でも限られている。
「そうね。あんたはいつだって、ジェイのためなら何だってやったものね」
「あ? 何言ってんだ?」
 訝る少年を意図的に無視して、精霊神は再び魔力を集めた。目の前の『扉』がかの世につながっているのであれば、懐かしい記憶を頼りに目的を達することは容易だ。
 扉の出口は海上の空のようだ。遥か昔にアトランティス大陸が存在し、数百年前には巨大な海獣が揺蕩っていた海域の上空だ。そのちょうど西方に目的の大樹がある。強大な魔力は変わらず存しており、青葉が風に揺れて歌う様子もまた、変わらなかった。何もかも変わらず、ただ、生きる人だけがかつてのままではなかった。共に旅をした少年も、少女も、当然ながら土へ還っていた。時の隔たりを思えば、それは当然の結果ではあった。
 世界を『見』た神は、懐かしさと寂しさを胸に抱き、しかし、直ぐに現実に意識を戻した。
「行くわよ。ルーラ!」
 精霊神の生み出した光の軌跡は、リアスを連れて扉を潜り、数秒の後、突如、中空へと飛び出した。
 空の青を下に、海の青を上に映じ、光は落下した。陽の光を受けてきらめいていた波間を、輝く軌跡が切り裂いた。輝きは、そのまま海上を翔け行き、羽ばたく海鳥を追い越し、新緑が萌え出でる大地へとたどり着いた。それだけに止まらず、光は大地に立つ木々を縫って前へ前へと向かっていった。幾ばくかの時をそうして過ごし、漸う、軌跡は天上へと向かった。
「でけえ!」
 リアスが思わず叫んでしまうのも、仕方がなかった。天へと向かった彼らは、しかし、相変わらず、その視界を緑で埋めた。全てを覆い尽くさんがばかりの大樹が、空に広がっていた。
 それこそが、世界を越えてまで求めたもの――世界樹であった。

 アマンダは一度、世界樹の葉の合間を抜けて天上へ向かい、当の樹を見下ろす位置まで飛び上がった。巨木の偉容は、視界の大部分を覆い尽くさんばかりに拡がっていた。
「少し見ない間に、更に大きくなった気がするわね。ともかく、変わらず壮健なようで何よりだわ」
「あの樹の葉っぱを取ればいいのか?」
 背に負った剣に手を伸ばし、リアスが訊ねた。
 アマンダは首肯してから、軽く口の端を上げた。そして、彼女は右腕を眼下へ向けてすっと振り下ろした。伴って、リアスの体が眼下の大樹へと自由落下を始めた。
「う、わああああああああったあぁあ!」
 突如、空中に放り投げられた形ながらも、13歳の少年は冷静に対処し、身を翻して大樹の枝に降り立った。
 変わらず上空に漂ったままで、精霊神は楽しそうに声を上げ、大げさな動作で手を打った。
「あはは! やるじゃないの!」
「てめぇ! ざけんなよ! 死ぬとこだぞ!」
 瞳を釣り上げて抗議する人の子に、神はどこ吹く風でとぼけた顔のままだった。
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ。時間ないんだから」
「……っち」
 スケルタの容態を考えるとアマンダの言葉は間違いなく正しいためか、何か言いたげな様子ながらも、リアスはこめかみに青筋を立てたままで剣を構えた。彼が降り立った枝に、数枚の青葉が連なっていた。かの葉は一枚一枚がリアスの背丈並みに大きく、手折るのには苦労しそうであった。人によっては、刃物を使ったとしても、相当の労力を要する可能性がある。
 リアスは息を大きく吸い、巨大な葉を観察した。茎の繊維の向きを直感で把握し、手にした剣を下から上に振り上げた。すると、一葉が中空に舞い上がり、漸う、ゆらゆら舞い落ちた。茎の断面はつるりとしており、少年の剣筋が鋭いことを示していた。
 ゆらりと眼前に落ちて来た世界樹の葉を受け止め、リアスは天を見上げた。天上の神にお伺いを立てる。
「おい、一枚でいいか?」
「あの軟派坊や以外にも振舞うとしたって、十分よ。さあ――」
 少年の手を取ろうと精霊神が世界樹の枝に降り立った。神は人にゆっくりと手を差し伸べた。
 その時、少年の背後に数名の姿が生じた。何の前触れもなく、光も差さず、音も立てず、静かに現われた。
 神は金の瞳を細め、白い歯を見せた。
「アマンダ。久方ぶりだな。すまん。お前に縁のある者を集めていたら遅くなった」
 数名の中央に佇む青年が、口火を切った。彼の周りには老若男女が或いは喜色を浮かべ、或いは涙を堪え、立っていた。
 彼らとアマンダに挟まれる形になったリアスは、前後を忙しく確認し、首を何度も動かした。
「――っ」
「疑問は尽きないだろうが、沈黙をお願いする。リアス=ローレシア。時間がないのだ」
 リアスの発言を一語すら耳に入れることなく、青年が遮った。
 直後、数名の者達が、青年の周りから駆け出し、アマンダに抱き着いた。
「アマンダさん!」
「ロッテル? すっかり老けたわね。ババアじゃん」
「な! やっぱりアマンダさんの方が口が悪いと思いますよ!」
 中年女性の言葉に、アマンダは苦笑した。
「ラーミ」
「アは元気?」
「ええ。相変わらず、ご近所づきあいに向かない話し方ね。レシル。ルシル」
「余計なお」
「世話よ」
 双子と思しき少女が微笑んだ時、犬がアマンダにじゃれついた。足元や太もも、臀部にすり寄っていた。
「久しぶりだし、多少のセクハラは大目に見てあげるわ。ラッセル」
「さすがアマンダ様です! でも、アリシア様なら尚よかった!」
 舌の根も乾かぬうちに、アマンダは犬を踏みつけた。痛めつけるように、世界樹の枝に押し付けているが、犬はどこか気持ちよさそうだった。
 彼らから数歩離れて、初老の男性が佇んでいた。男性は小さく笑みを浮かべていた。
「ジュダン。どう?」
「変わりなく生きています」
「そう。そいつは重畳ね」
 皆と数語を交わしたのちに、アマンダは彼らを連れて来た青年に向き直った。
「どうもあの扉、期間限定のようね。ガイア」
「百数十年前、かの者が生涯をかけて作り出し、半刻だけ開いた扉だ。必要とする魔力量はとめどなく、私のような老いぼれでは寸時が限界さ」
「そう」
 かつて、この世界でアマンダに一時師事していた少女がいた。少女は類まれなる才能を最大限に高め、今や精霊神として在る彼女をも超える力を手にし得た。そして実際、彼女はアマンダを超え、アマンダには決して出来ない、世界を越える扉を作り出した。
 扉を越えて彼女が――彼女達が何を行ったのか、誰と言葉を交わしたのか、それはわからない。記憶も想いも、今は雲散霧消してしまったのだから。
 青年――ガイアが寂しそうに笑った。
「そろそろだ」
 彼が手をかざすと、リアスとアマンダの体が光に包まれた。彼らは大樹の枝から漸う足を浮かせ、中空に浮かんだ。
 別れの時だった。
 集った者達は、或いは涙し、或いは瞳を伏せた。
 ガイアはこの世界を創生した精霊であり、恐らくは、今生でかの扉を開くことが出来る唯一の者である。その者が寸時でしか扉を開けられぬのであれば、今後扉が開くことはそうそうないであろう。場合によっては、数千年や数万年先まで開かぬやもしれない。
 つまりは、永遠の別れと考えるべき時だった。
「あんさ」
 のんきな声が響いた。今や精霊神と呼び習わされる女性は、かつての面影のままで悪戯っぽく笑っていた。
「あんたら、あんがとね。んじゃ、また」
 一同は目を瞠った。
 またと聞こえた。再会を約束する言葉だ。あり得なかった。けれど、あり得て欲しかった。故に――
『また』
 光が東に飛び去った。

 二名が砂浜に降り立った。碧く煌めく泉はもはや、その姿を隠していた。再び封を解いたとしても、もはや存在すらしていないのかもしれない。
 アマンダは首筋を右手で数度揉み、金の瞳を上げた。
「ガキんちょ。世界樹の葉は――持ってるわね」
 訊ねようとした精霊神は、巨大な葉を両手で抱えている少年を瞳に映し、苦笑した。訊くまでもなく、一目瞭然だった。
 それ以上の問答を重ねず、アマンダは魔力を操り、光の軌跡となった。二人は即座に空へ飛びあがり、ベラヌールへ向かった。
「悪かったわね。急いでいる時に変な奴らが押しかけてきて時間取らせて」
「……構わねえよ。そもそも、お前がいなけりゃあそこに行けてねえんだ」
 優しい返答を受けて神がニカリと笑い、人の子の頭を撫ぜた。
 リアスが苛ついた様子でアマンダの手を撥ね退けた時、長いようで短い旅が終わりを告げ、彼らは半壊した街の避難所へと帰還した。

 避難所を覆っていた布を手で払い、金の髪と金の瞳を携えた女性が姿を見せた。
「おーっす。みんな、まだ生きてるー?」
 女性――アマンダが間の抜けた大声で訊ねた。当然ながら、方々から反感の込められた視線が突き刺さった。
 しかし、スケルタの脇で項垂れているアイリは、何も聞こえないかのように、光のない瞳でただただ真っ白なスケルタの指先を見つめていた。彼女は反感も何も覚えず、感情を失い、死したように生きていた。
 アイリの視線の先の青年に血の気はなく、微かながらも息をしているのが、不思議だった。彼の様子は希望であり、絶望だった。未来が知れなかった。どう感じてよいか、わからなかった。
「アイリ! これをスケさんに食わせろ!」
「……リアス?」
 年少の従兄弟の声に、ようやく少女は反応を示した。顔を上げて、紫の瞳で少年を見上げた。彼女の顔は、スケルタと同程度に血の気が失せ、青白かった。
「世界樹の葉だ! すっげえ怪我も一発で治る不思議な葉っぱだ!」
(あの説明、覚えてたのね……)
 神はテキトーな少し前の発言を後悔した。
「……ほん……と……?」
 しかし、追いつめられた人は、非常に胡散臭い説明でも、すんなりと信じた。
「本当だ! ほら、少しちぎったぞ! 食わせろ!」
 アイリに葉の一部を握らせ、リアスは立ち上がった。いまだに目を覚まさずにいる者達を見まわした。
「あんたらも、目を覚まさない奴らにこの葉っぱ食わせんの、手伝ってくれ! きっと助かる!」
「言い切るとまた変なクレーマーが湧くわよー」
 神が茶々を入れたが、人は一切気にしなかった。
 看病していた者達が、競って葉を千切っていく。アリシアの活躍で大多数は危険な状態を脱しており、いまだに目覚めないで生死の境をさまよっているのは数名だった。そのため、特に葉が足りなくなることもなく、各々が葉の効用を得るに至った。一人二人と血色がよくなっていき、間に合わずに息を引き取ってしまっていた者以外は全員、救われるかと皆が期待した。
 しかし、ほっと一息ついたリアスの背後で、悲痛な声が上がった。
「ス、スケルタあッ!! スケルタあぁあッッ!!」
「どうした、アイリ!」
「リアス! スケルタが息してない! さっきまで……本当にさっきまでは…… あああああああぁああぁあ!」
 泣き崩れた従姉妹を押しのけ、リアスはスケルタの様子を探った。脈がなかった。息もしていなかった。しかし、温かかった。
 血の巡りが止まったのは、本当につい先ごろのことなのだろう。
「アイリ!」
 泣き崩れる者の名を呼び、少年は、生と死の境を彷徨う者の胸を何度も押した。血の巡りを外部からの刺激で継続しようとした。
 アイリは紫の長髪を振り乱し、涙を頬に伝わせたまま、リアスを見た。
「アイリ!」
 もう一度、リアスが名を叫んだ。多くを語らずとも、彼の意図は伝わった。行動が示していた。
 アイリは立ち上がった。悲しむのはまだ早かった。まだ出来ることがあった。
「スケルタ! スケルタ!」
 名を数度叫びつつ、アイリはスケルタの顎を指で押し上げた。血の気の失せた唇は、それでもまだ、生の残滓を見せていた。
 アイリは息を大きく吸ってから、スケルタの唇に自身の唇を押し付けた。そして、息を吹き込んだ。
 唇と唇が離れたタイミングを見計らって、リアスが数度、スケルタの胸を打った。スケルタの体が跳ね、数秒を沈黙が支配した。
 かの者はいまだ、死に捕捉されていた。
 けれど、人はまだ諦めなかった。アイリが再び息を大きく吸い、同様の動作をした。その後、リアスもまた繰り返した。
 何度かそうして、周囲の者が視線を落とし、精霊神までも渋い顔を浮かべた――その時だった。
「かはっ」
 弱弱しく咳き込み、死者が再び生者となった。息遣いは変わらず弱弱しく、脈拍も直ぐに止まってしまいそうだった。けれど、生者でありさえすれば、もう大丈夫だった。
 リアスは喜びで漆黒の瞳を輝かせ、アイリを見た。
「アイ――」
 呼びかけるまでもなく、アイリは直ぐに行動を開始した。手にしていた世界樹の葉を、口に含んだ。
「へ? お、おい……」
 行動をよく理解できなかった子供は、疑問の声を投げかけたが、疑問は直ぐに解消した。
 アイリは口に含んだ葉を数度咀嚼し、スケルタの口内に直接、舌で押し込んだ。
(あ。そーゆー。確かに、スケさんに噛む力、まだ戻ってない気がすっし、手っ取り早いか。んと、見ない方がいっか? つか、恥ずいな)
 目のやり場に困っている年少の者を顧みることなく、アイリはスケルタの顔色を観察し続けた。葉は先ほど飲み込んでいた。なれば、効果が表れ始めるはずだ。
 しばし、短い時を長く長く感じ、息をするのも忘れて待った結果――
「もう、大丈夫そうね」
 精霊神が安堵した様子で、判断を下した。
 その言葉の通り、スケルタの頬には血の気が戻り、呼吸も深くなっていた。リアスが手を取ってみると、脈拍もはっきりとしたものに変わっていた。
 生きていた。
「……よか……た……」
「アイリ!」
 ばたりと倒れ伏した少女を、少年が抱き起した。しかし、直ぐに少年は安心して息を吐いた。少女は気を失っているだけで、泣きながら笑みを浮かべてすらいた。幸せそうだった。
「お疲れさん」
「あんたもね」
 年上の従姉妹を労った時、背後から同じく労われた。リアスは神の存在を思い出し、振り返った。
 避難所には治療で右往左往する者たちと、痛みで呻く声だけが存在していた。左右を見ても、上下を見ても、神の存在は確認できなかった。
 けれど、少年は知っていた。姿はなくとも、今この時の心の平穏は、神の加護だった。
(神っつーより、ただのうっぜー奴だったけど。まあ、いい奴ではあったな)
 アイリを簡易ベッドへ運んでから一度大きく伸びをし、リアスは避難所から出た。
 ベラヌールの街の様子は惨憺たるものだった。あらゆる建物は壊され、火の手もいまだ燻っていた。死した者も数多いた。全てが救われたわけではなかった。
 それでも、生き残った者がいた。死の腕を逃れ、生を取り戻した者もいた。希望が確かにそこにあった。
 大地は黒く焦げていたが、空は常と変わらず青く、真白な雲がゆっくりと流れていた。鳥が飛び立ち、遠くを目指した。その先へ、光の軌跡が伸びている気がした。
(さんきゅ)
 精霊神の加護を、確かに感じた。


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