第二十二話:呪いに包まれし街

 険しい山脈に囲まれた国の空は狭かった。四方を遮られているわけではない故、西と南に瞳を向ければ、水平線の先まで無限に伸びる青空を目に出来た。それでも、心持ちのせいか、デルコンダルの空はやはり狭かった。
「妄執は過去のもの、か……」
 王城の執務室で四角い空を見上げ、ラミスファルト=アルファ=モード=デルコンダルは小さく呟いた。その顔にはゆっくりと笑みが広がった。
「ふん。好きに言え。精霊神」
 ラミスファルトの顔に浮かぶのは、神を嘲る笑みだった。

「ベラヌールで大虐殺祭りがあるみたいよ。あ、キース。酒とつまみ。ついでに一発芸ね」
『……は?』
 金の髪と瞳を携えた女性がのんびりとした口調で告げると、その場に集った者は一様に間の抜けた様子で呆けた。しかしながら、彼女――アマンダ=ミーティライトの言動に慣れ親しんでいる者は、その呪縛からいち早く逃れるに至った。
 青髪の男性はいそいそと部屋を出て行った。向かう先は貯蔵庫である。そこでアマンダ所望の酒とつまみを見繕い、一発芸のための小道具を求めて物置部屋へ走った。彼の名はキース=レインソートと言った。
 同じく青髪の女性もまた、思考する力を取り戻した。彼女はこほんと咳払いをして、鋭い視線をアマンダへ向けた。
「なあに? 何だか剣呑ね、アリシア」
「ベラヌールで大虐殺というのはどういうことですか、アマンダ様」
 アリシアの問いかけを受け、アマンダは意地悪く笑んで肩を竦めた。
「どういうこともなにも、字義通りよ。その年でぼけたわけじゃないでしょ?」
「そういうことを伺っているのではありません!」
 その大音声に、部屋へ集った者達は皆、慌てて耳を塞いだ。
 或いは、ローレシア国王子リアス。或いは、サマルトリア国王子スケルタ。或いは、ムーンブルク国王女アイリ。共に、かつて大魔王ゾーマを打ち倒した勇者ロトの末裔達である。
 残るは、ハープという名の女性と、バズズという名の大猿であった。彼らはデルコンダル王家に関わりある者たちで、姉弟であるのだが、特殊な事情により人魔混淆の体を有してしまっている。
 アリシアを含めた六名を一瞥し、アマンダは面倒そうに右の手を振った。
「じゃあ、どういうことなのよ。鬱陶しいわねぇ」
「仰っていることが事実なのでしたら、何故そうして安穏とされているのかということです!」
「何故も何も――あたしには関係ないし」
『なっ!?』
 驚愕に声を上げたのは、リアスとハープのみだった。
 アリシアは頭を抱えて息を吐き、スケルタとアイリ、バズズは瞑目と共に沈黙した。
「人の負った業は人によって購われなければならない、ということですか?」
「小難しい言葉は好きじゃないわ。てめぇのケツはてめぇで拭けってことよ」
 再度、アリシアは大きくため息を吐いた。
「お客様がいらしている時くらいは、言葉遣いにせめて最小限のお心遣いを願います」
「信心深い客の前でなら『精霊神』をやってやるわよ」
 ホストは部屋に集うゲストを見回し、鼻で笑った。
 精霊神の様子に怯みながらも、ハープは憤然と立ち上がった。
「そ、そんなことはどうでもいいです!」
 後を追ってリアスもまた跳ぶように立ち上がった。
「そうだ! ハープの言う通りだ!」
 リアスから援護射撃を受けたハープは、しかし、びくりと肩を跳ね上げ、すすすっとバズズの背後に隠れるように後退した。
 怪訝そうにリアスがハープの動きを目で追う。
「あ? んだよ、ハープ。勢いそぐなよ」
「リアっつぁん。叔母上を呼び捨てにするのはどうだよ。あの通り、気の弱い方のようだしな」
「あ? 知らんわ。俺は実父も呼び捨てだ。つーか、んなことより――」
「うっさい餓鬼んちょねぇ。祭りのことを伝えに来たコトとかいうチビちゃんの方が、百倍くらい可愛げがあったわよ?」
「餓鬼じゃねえ!」
「――っ!」
 リアスがアマンダに対して騒ぎ立てる一方で、ハープとバズズが絶句して表情を険しくした。
「バズズ……」
「ああ。ベラヌールはデルコンダル領だ。実験場の一つがあってもおかしくはない。ベラヌールの祭りとはつまり――そういうことか」
「ご明察。聡い弟君のようで重畳。んじゃ、あとは任せたわ」
 そのようにアマンダがバズズに全てを押しつけた時、キースが所望の品々を抱えて戻って来た。精霊の神は手を叩いて喜び、以降、何も語ることはなかった。
 人々は皆、その部屋から去るしかなかった。
 アリシアとキースは申し訳なさそうに頭を下げ、彼らを見送った。
 精霊神と竜族のみとなった部屋にて、深い深い吐息が漏れ出た。
「今日の貴女は随分と鬱陶しいこと、アリシア」
 軽口には応えず、アリシアは諦めたように、寂しげな笑みを浮かべた。
「仰ることは判ります。判りますが、あのような言い様は……」
「どう言っても同じこと。虚飾は無意味よ」
 言の葉の間に沈黙が落ちた。
 アマンダが手にした器に、古酒の注がれる音だけが響いていた。時の連なりを含んだ、心をほぐす香りが漂った。
「願うならば相応に。さて、彼女は、彼らは、如何にする?」
「……お客様がいらっしゃる時にこそ、その威厳をお出しになって下さい」
「嫌。面倒」
 端的な応えを受け、アリシアは再三、頭を抱えた。
 一方でキースは明々と声を立てて笑った。
「諦めなさい、アリシア。それでこそアマンダ様だ」
「そういうこと。ほれ、キース。一発芸」
「はい」
 竜族真祖の兄君による芸事が酒に華を添えたか否かは、神のみぞ知ることだ。

 精霊神の座す間を辞し、人々は精霊の祠の大広間へと引き返した。
 リアスのみが憤慨しており、他の者は一様に押し黙っていた。
「んだよ、あれ! よく分かんねえけどムカつく!」
「いやいや、リアっつぁん。よく分からんなら無為に腹を立てるなよ」
「るせぇ! ムカつくもんはムカつくんだ!」
「そう声を荒げないの、リアス。責任の範囲という話なら、あの御方の言葉は正しいわ」
 淡々と紡がれたアイリの言葉に、リアスは眼光を鋭くするのみで反駁はしなかった。
 彼もその理屈には、納得しがたくも納得していたからだった。
 しかし――
「そしてそれは、『私達』も同じこと。『私達』もまた、デルコンダル国内の揉め事に関わるべきではない」
「……あ? おい、ふざけんなよ。アイリ」
 次いで紡がれた理を、年若い王子は受け入れられなかった。低く、感情を抑えた声で、年上の従姉妹を脅した。
 慌ててスケルタが間に入る。
「お、落ち着け! リアス!」
「うるせえ! どけ!」
「……っち」
 アイリが誰にも聞かれぬよう、舌打ちした。年少の従姉妹に大層苛立っているようだった。
 そのように、ロトの末裔達が喧々囂々と言い合いをしている中、ハープとバズズは視線だけで合図し合った。そして彼らは、ハープの魔法で静かにその場から姿を消した。

「姉者。彼らの助力は――」
「助けはいらない。ううん。助けて貰えるわけがない。だってわたしは、人を助けない」
 人は彼らを呪った。何故その人を助けねばならぬ。
 単純な論理だった。
「いつか神の――精霊神ではない、別の神の力に願う時は来る。でも今回は……」
「精霊神の言葉は絶対的に正しい、か」
 バズズの独白に、ハープは大きく頷いた。
「全ては人の業。ラミスファルトもわたし達も、そして、あのコトも。いくらわたしでも、その程度の矜持はあるわ」
「ふん。偶には年長者らしきことも言うのだな」
 弟の憎まれ口に、ハープは軽く腹を立てて見せ、そして、力なく笑った。

「……ハーゴンとバズズは行きました、か。アレが先行しさえすれば、まあ、構わないでしょう」
「あ? 何をぶつぶつ言っていやがる! アイリ! てめえ、性格わりぃと思ってはいたが、そこまでクソだとは思わなかったぞ! 聞いて――」
 スケルタに口を両手で塞がれ、リアスの暴言はなりを潜めた。しかし、それはスケルタにとって大海を手で塞くようなものだった。
「邪魔だ!」
 木の葉のように飛ばされ、スケルタは床に伏した。
 その頭をアイリが踏みつけた。そのまま、ぐりぐりとおみ足に力を込める。
「ふふ。スケルタは常に違わず役に立ちませんね」
「痛っ! やめてやめてマジ痛い! こんな時でも通常運転すんのやめて!」
「喧しいですよ、全く…… リアス。貴方もです」
「あぁ!?」
 平素の如き従姉妹達に、リアスはより一層腹を立てた。身軽さを得るため、背に負った剣を投げ捨て、殴り合いに備えた。
 アイリはスケルタを踏みつけながら嘆息した。
「年下の従姉妹とはいえ、ここまで考え足らずとは失望を禁じ得ませんね。サーニャならばもう少しまともな反応を示しましょうに」
「馬鹿にしてんのかっ!」
 アイリの顔に嘲りが広がった。
「おやおや。わざわざ尋ねずとも、そんなことは分かり切っているでしょう? いえ。ここは喉を撫でて褒めてやるところかしら? 適切な状況判断ね、パピー・リアス。うふふ」
「ふ、ふざけんなああぁあッッ!!」
 怒号は大広間を満たし、リアスの跳躍は彼らの間を瞬時に埋めた。
 拳はアイリの頬へ向かい――
 バギィ!
「っつぅ! ――っ! ――っ!」
 咄嗟に庇ったスケルタは、大きく腫れた頬を押さえて床を転げ回った。声にならない声を上げている。実際のところ、痛みで言葉らしきものを何も紡げないのかもしれなかった。
「流石、スケルタ。女性を守る。その一点においてのみ、私は貴方に全幅の信頼を置き、それ故に、信じられません――が、今はどうでもいいことです。私にも人並みの心はあると、せめて信じたいですからね」
 アイリは再びスケルタを踏みつけ、寂しそうに微笑んだ。
「リアス。『私達』が祭りに参加しては何かと不都合が生じます。ならば、『私達』は『私達』でなければいい。それだけのことが分からぬなら、先の言葉を私は謝りませんよ」
「……つまり?」
 言葉を解さぬ十と三の齢を重ねた従姉妹を紫色の瞳に映し、アイリ姫は肩を竦めて苦笑した。
「やれやれ、パピー・リアス。本当に子犬のようね。キャンキャン吠えるしか能がないなんて。まあ、いいわ。つまりは――こうよ」
「ぐえっ」
 アイリの手にした杖がスケルタの背を押さえつけた。
 そしてそのまま、一帯を風が満たした。
「バギ!」
「お、おい!」
 王女の生み出した風が、哀れな王子の身を切り裂くかと危ぶまれたが……
「これでよろしいでしょう。ふふ」
 風に乗って布の切れ端が大広間の隅へ追いやられた。緑色に染められた布地は、先頃までサマルトリア王子の身を包んでいたものだった。スケルタはアイリのおみ足に踏みつけられたまま、色白の肌を晒していた。
 そう。有り体に言えば、王子は王女に衣服を切り裂かれたのだ。ロトの紋章が縫い付けられた衣服を。

 ベラヌールの街の北方に小さな祠があった。祠には老人が独りで住んでいた。老人は来る日も来る日も独りで祠を守り、無為に過ごしていた。
 そう、ベラヌールの街の民には思わせていた。
「あれは退役した老将軍ではないか。名はエルヴィン。俺も剣を習っていた。後年はラミスファルトに従っていたと記憶しているが……」
「だとすると、あそこの地下に実験場が?」
「可能性は高いだろう。あの祠には旅の扉がある。恐らく、機が熟せばサマルトリアやムーンブルクに『彼ら』を送り込むための拠点でもある筈だ」
 バズズの分析を耳にし、ハープは逸って物陰から飛び出しそうになった。『彼ら』を救わねばと、気持ちが急いた。
「待て、姉者。向こうの総数が知れず、例のコトの姿も見えぬ。闇雲に襲撃しても仕方がない。エルヴィン翁だけを殺しても意味はない」
「……分かってる」
 ハープが素直に頷いた。
「そも。姉者も万全ではなかろう。無理はするな」
「……」
 此度は、応じず、首肯もしない。
 バズズは猿顔を歪め、嘆息した。
「とにかく、時が来るのを待つ。祭りとやらが始まれば、奴らの意識はベラヌールへ向く。ベラヌールに駐屯している兵を相手取り、『彼ら』の力の試金石とするつもりに相違ない。その隙をつく」
「けど、コトは――いえ、ラミスファルトはわたし達を『祭り』に招いた。襲撃は想定済みではないの?」
「それはそうさな。とはいえ、構図が単純なのだ。こちらの戦力も二人きり。やれたとて……」
 言葉の途中で、姉弟は視線を合わせて頷き合った。長年共に過ごしているだけあり、思考もまた共にあるらしい。
 彼らは言葉を交わすことなく、それぞれに散っていった。

 ベラヌールの街へと正面から這入り込み、ハープはその街の日常を見渡した。笑顔が溢れていた。デルコンダル本国の闇がどれだけ深かろうと、遠く海で隔たった彼らの生活にまで影を落とすことはないらしい。ただの平和な街に見えた。
 あたかもそれは、かつて立ち寄ったサマルトリア城下町のようであり、光満ちる街の様子は、かつて怪しさに満ちたハープにも優しさを向けてくれた年若い王女、サーニアルを想起させた。
(ううん。だからって関係ない。わたしは人を救わない。ただ『彼ら』を救うんだ。幾多の笑顔が曇り、幾多の命が散ろうとも、わたしには関係ない。バズズも言ってた。わたしは万全じゃない。余計な力は――使わない)
 自分自身に言い聞かせるように、ハープはある種の呪いを頭の中で繰り返した。彼女の表情は酷く曇り、顔色は死人のようだった。
 それ故に、際だって目立つ結果となってしまった。
「おねえちゃん。大丈夫?」
「え? え? え?」
 唐突にかけられた声に、ハープはみっともなくうろたえた。元々、人見知りが激しい性格であることに加え、知らぬ土地で独りでいることが緊張に拍車をかけた。バズズが見ていたら嫌味の一つも飛んだことだろう。
 しかし、彼女の動揺や不安とは異なり、今彼女を包むのは優しさのみで、一切の曇りもなかった。
「おなか痛いの?」
 小さな子供がハープを見上げていた。小さな紅葉のような両手は、ハープの頼りない左手を包んでいた。
 温かかった。生きていた。
 その命は、ハープの心を傷つけた。しかし、幼子が悪いわけでは当然なかった。
 ただ、彼女が――彼女たちが哀しいだけ。辛いだけ。呪わずにおれぬ心が痛むだけ。それだけのことだった。
「おねえちゃん?」
(……あ)
 かつて、ハープを同じように呼ぶ者が二名いた。言葉通り姉という意味で『おねえちゃん』と呼ぶ者が。
 一人はリトリート。かつてのデルコンダル第二王子。今のローレシア王。つまりは、リアスの父であり、ハープの弟だ。
 そしてもう一人は――
「だ、大丈夫。あり、ありがと」
 焦りと緊張で、ハープの額には玉のような汗が浮かんだ。頬も紅潮していた。
 先程までの病的な様子よりかはまともに映ったが、それでも、普通とは言い難かった。
「んー。何だか心配なおねえちゃんだなぁ。そうだ。宿屋さんまで案内するよ。旅の人でしょ?」
(しっかりした子。ますますあの頃の――)
「おねえちゃん?」
「あ、う、その…… う、うん。旅、人、なの、かな?」
「ぷっ、あははっ! ボクに聞かれてもだよぉ。おもしろいおねえちゃん」
 はじけた笑顔は水面に輝く光のようで、心を鼓舞する小さな野の花のようでもあった。
 それはやはり、かつてのデルコンダル第一王子、幼き日のラミスファルトの面影を、姉に、ハープに、幻視させた。
 心が、ずきりと音を立てて、痛んだ。

 ベラヌール北の祠に動きがあった。いずこかから、数多の異形が姿を見せ始めた。エルヴィン元将軍もまた、不気味な仮面をつけて大剣を携えていた。彼の隣にはコトもいた。
 コトは機嫌が悪そうだった。ハープの姿が見えないからだろう。彼女はなぜかハープに――姉に執着していた。その様子は純粋に姉を慕う妹のようであったが、充分に邪悪な意思と力が内在していた。
 バズズは慎重に『彼ら』の中へ紛れ込んでいった。バズズの異形は『彼ら』に馴染んだ。よほど注意しなければ、バズズと『彼ら』を見分けることは出来なかった。
(今集っているモノだけならば、『救え』よう。姉者がやや不調であるのは不安材料だが……)
「よし! コト様を先頭にして南へ向かえ! 祭りの開始だ!」
「ぶぅ。姉さま、遅刻だなんて! 着いたらいっぱい遊んで貰うですよ!」
 不満を吐露しながらコトが全速力で南下を始めた。その後に続く『彼ら』は、別段、意思があるようには見えなかった。ただ、将軍の命に従う人形か何かに見えた。
(やはり、大半は『模範兵』か。『彼ら』は本当に『救う』以外に道はあるまいな)
 バズズは『彼ら』と共にコトの後に続きつつ、心内でのみ深く嘆息した。
 コトの進行速度は他から抜きん出ていた。次いで、豚や猿のような二足歩行のモノが駆け、身体中から枝葉の伸びた樹木のようなモノが続き、しんがりを手のみのモノがゆるゆると進んでいた。エルヴィン老将軍は、樹木と手の合間で軍靴を響かせていた。
 草原や森を幼子と異形と老人が進む様は、異様のひと言に尽きた。
 数刻の後、バズズは遠く前方を見据え、ゆるりと後方を振り返った。
(ベラヌールが見えてきたか。コトは直ぐに街に辿り着く。他も半数はそのままなだれ込むな。今ならば木々に紛れて、コトからはこちらの様子は見えまい。頃合いか)
 大猿は腕に力を入れた。すると、鋭く長大な爪が伸びた。爪刃は直ぐ側を進んでいた樹木を斬り伏せた。同じく、這う手を細切れに裂き、豚型のモノの腹を開いた。辺りを濃い血の匂いが満たした。
 無残に尊厳を奪われたゆえの本能からか、『彼ら』は即座にバズズを敵視した。侵攻を止めて咆吼を上げた。
 当然ながら、エルヴィン老人はその騒ぎに気づき、剣を抜いた。
「何やつだ!」
「エルヴィン翁。この姿では分かりませぬか」
「……大猿? いや、そのような呼び方をなさるのは――バズズ様ですかな?」
「然り」
 端的に応じ、バズズは爪を剣のように構えた。さながら、騎士のようであった。
 エルヴィンもまた剣を面前に構え、低い笑い声を上げた。
「兄君と共に騎士の真似事をして無邪気に笑っていた御子が、よくぞご立派になられた」
「貴方のことだ。嫌味ではなく本心か。貴殿のような実直な翁がこの所業。騎士とは難儀なものだ」
 そこかしこには化け物がいた。化け物は生み出されたモノだった。為したのは、彼だった。
 老人は礼節のために構えていた剣を、殺戮のために構え直した。彼の瞳は化け物を映じ、寸の間、瞑目した。
「……」
「言葉など無意味、か」
「然り」
 豚や樹木や手が大猿に襲いかかった。手槍も枝も伸びる指も、大猿には至らなかった。全ては強靱な爪で断たれた。
 次いで、バズズの大口から凍える吹雪が吐き出された。吹雪は多くのモノに宿る命のような何かを奪った。
「彼らには死こそ祝福と、そうは思いませぬか。エルヴィン翁」
「……参りますぞ。バズズ様」
 爪と剣が戦いの音を響かせた。

 突然、幼子が街へと飛び込んできて、その後を追うように化け物が現れた。勇敢なデルコンダル本国の兵士が、幼子が化け物に追われて逃げてきたのだと判断し、救助に向かった。
 その兵士が真っ先に焼かれた。幼子の手に生じた焔が肉を溶かしたのだ。
 幼子――コトは無邪気に焔や吹雪、風刃、閃光を生み出し、人々を亡き者とした。悪意はなかった。ただ、目的に忠実に、兄の言葉に素直に従っただけだった。疑問は一切抱かず、楽しみながら事を為した。
 ベラヌールの街は戦火に包まれた。
 街のそこかしこを流れる水路には、無念のままに命を失った屍体が浮かんでいた。しかし、全ての人がただ無抵抗に殺されるだけではなかった。
 或いは、ハープは人々に紛れ、着実に彼らを救っていた。二足歩行の豚を屠り、樹木を切り刻み、地を這う手を爆散させた。
(コトに見つかると他の子たちの相手がしづらくなる。大方を『救う』までは、人には囮になって貰う)
 心の中で言い訳を重ね、『人』にされた仕打ちを免罪符に、ハープは自身の心を騙した。呪いを肯定した。
 人を呪いながら、彼らを救った。
(……あの子は逃げられているかな?)
 ふと、ハープは街を案内してくれた幼子のことを思い出した。呪われるべき人の子は、太陽のような眩い笑みを放っていた。その笑顔に陰りが生まれる未来を潔しとは、ハープには何故か思えなかった。
 しかし、そのようなことに頓着している場合ではなかった。
「姉さま! 見つけましたです!」
 純真な狂気がついに遊び相手を見つけてしまった。

 禍が降り注いだベラヌールの街を、旅装に身を包んだ男女が駆けていた。災禍に遭遇した運の悪さを嘆くでもなく彼らは、厄災の申し子達を葬っていった。或いは剣で。或いは魔法で。
 街に駐屯していた兵士達の隊長が慇懃に頭を下げた。
「ご協力、痛み入る。君たちは傭兵か?」
「そんなとこだ。ま、困った時はお互い様ってやつさ」
 最も年少の者が応えた。ひょっとすれば十代前半を思わせる風体だった。
「ありがとう。君の剣技はローレシア国のものだね。あちらの出身かな?」
 数体の豚型を切り捨て、隊長が尋ねた。
「あー、まあな。そういうの、分かるもん?」
「宮仕えなどしていると、御前試合などで他国の剣技に触れることもままある。そちらの者はサマルトリア出身では?」
 長髪を首の後ろで束ねた青年が、首肯した。時を置かず、彼の手から炎が飛び出た。炎は動く樹木を灰燼と帰した。
 兵士達もまた地を這う手を相手取り、時には豚型の巨体に剣を打ち立てていた。
「そちらの女人については何とも判断がつかぬがね。魔法には明るくない」
「レディの過去を暴こうなどと、紳士のなさることではございませんわよ」
 紫の瞳が細められた。笑みの形に歪められてはいるが、内心、面白く思っていないようだった。
 隊長は慌てた様子で口を開いた。
「これは失礼。君たちのおかげで襲撃者達の掃討も直ぐに済む。気が抜けてしまった故か、余計なことを尋ねてしまった。許されよ」
「構いません。しかし、この場にいる奴らは大方倒したようですが、他の場所は……」
「各方面へ向かった者達とは信号弾で情報を共有していた。この場が最も乱戦だったのだ。街の北地区以外からは掃討完了の報告を受けてもいる」
「では、北地区へ向かうべきでは?」
「ああ。そのつもり、だ!」
 握っていた大剣を、駆け出した兵士が真一文字に振るった。鋭い一撃は大柄の豚型と動く樹木を一度に切り捨てた。
 ローレシア式の剣技を扱うという傭兵が、感心したかのように口笛を吹いた。
「よし! 行くぞ、皆のもの! 北だ!」
『応!』

 森の中でバズズとエルヴィンは対峙していた。そこかしこには数多のモノが救いを与えられ、横たわっていた。
「彼らも貴方様と同様の存在。心は痛みませぬか?」
「痛まぬと言えば嘘となりましょう、エルヴィン翁。しかし、人としての尊厳を奪われ、異形のモノとして生きることが、彼らの幸福たり得ようか。歪な生命を救うためにはこうするより他にございませぬ」
 バズズの瞳に、一切の迷いはなかった。そこここに転がるモノ達のように望まぬ姿を与えられた過去の時から、彼らはそう信じて生きてきたのだ。
 エルヴィンの構えた大剣が振り下ろされた。
 大風が巻き起こり、剣筋を読みすんでのところで避けたバズズの藍色の毛皮を揺らした。
 一転、バズズの鋭い爪が唸った。爪はエルヴィンの右腕を浅く傷つけ、ひと筋の切り傷を生み出した。
「お強くなられましたな、バズズ様。もう、この老いぼれには太刀打ちできませぬ」
「ご謙遜を。貴方自身に衰えは感じませぬぞ。ただ……」
 ベラヌールの街へ向かおうとしていた最後のモノを手にかけつつ、バズズは言い淀んだ。その瞳には陰りが見えた。
「ただ、何ですかな?」
「エルヴィン翁。貴方の剣が、貴方が、迷っておられる。剣を捧げ、忠義を誓う相手を、ラミスファルトを、信じられずにいるのではありませぬか。故に貴方は、俺如きに後れをとりなさる。違いますか?」
「……殿下のことは、あの方の目的は、信じております」
「……では、手段は?」
「……」
 沈黙は雄弁に語っていた。
 バズズは混乱していた。エルヴィンがこの地でメイバンプロジェクトに関わっていると知ったその時から、彼は疑問を覚えていた。彼の知る限り、エルヴィン翁は、人道にもとる主命に盲目的に従うような者ではなかった。
「俺は、姉者は、ラミスファルトが全てを始めたと考えておりました。しかし、翁のご様子では……」
「誤解です。それだけは、只、それだけは、この老いぼれが請け合いましょう」
 真実とは底知れぬものだった。言葉がそのまま真実とは限らず、真実が言葉で語り尽くされるとも限らない。
 それでも、仮面で表情を隠した老人の言葉は、震える声は、一つの真実たり得ただろう。
「全てを元に戻すことなど叶いませぬ。私のような年寄りでなくとも、ハープ様やバズズ様やアトラス様のような若き生でも、そのような夢想に身をやつすことはございませぬかと存じます。だからこそ、ラミスファルト様は先へ進むことを決断なされました。只ひとつの希望を定め、過去を捨てて未来を見据え、神の祝福のために呪いを人々に振りまくと、そう決断された。その道は正しいばかりでなく、過ちに満ちております。いえ、もしかすれば、全てが過ちであるやもしれませぬ。それでも殿下は、私は、信じたのです。信じずにはいられなかったのです。この道を」
 言葉の終焉は、突然にやって来た。
 エルヴィンがおもむろに取り出したのは、火打ち石だった。彼はごく小さな火種を生み、油を染ませた布を被り、一瞬の後に、老体を劫火に晒した。
「エルヴィン翁!」
「バズズ様。罪は私にもございます。畢竟、全ての人にそれはあるのです。積み上げられた歴史が、想いが、罪を孕んでいるのです。残り少なき私の命が、どれだけの罪を贖えるものか、分かりませぬ。それでも私は、殿下の負う罪の幾ばくかを担って逝きましょう。かつて笑い合えた魂が、いつか手を取り合い共に歩めるように……」
 焔は肌を焼き、頭髪を焼き、臭気を森に放った。ついには仮面を焼き、その下からは焼け爛れた顔が、涙に濡れた翁の顔が現れた。
 熱気は肌だけでなく肺を焼くに至り、エルヴィンは最早、言葉を紡ぐことなど叶わなかった。しかし、その瞳は多くの想いをバズズへと向けていた。
「安心されよ、エルヴィン翁。そなたの忠義を無駄にはせぬと誓おう」
 最期に、大猿の優しさと偽りの言葉に送られ、翁の魂は旅立った。
 バズズは瞑目し、それから、天を仰いだ。
「そなたの望む未来は請け合えぬ。しかし俺達も、呪わずに生きられたらと、そう想わぬわけではないさ」

 ベラヌールの街の北地区には教会があった。しかし、今やそれは跡形もなかった。焔により、大風により、倒壊への一途を辿っていた。
 当然ながら、神父は天へと召され、周辺に住まう者達も、彼らを護ろうと集った兵士達も、皆が平等に神の御許へ旅立っていた。
「楽しいです、姉さま! すっごく楽しいです! もっと! コトと遊んでくださいです!」
 心の底から楽しそうに、幼子が叫んでいた。彼女の身に宿った魔力は、彼女にとって幸福の象徴であり、破壊はただの遊びだった。誤った救いが彼女を歪ませ、誤った指針が彼女を狂わせた。けれど、その狂気は不幸ではなく、過たず幸福だった。
 巨大な炎弾がベラヌールの空を紅く染めた。コトの腕に生まれたそれは、遠い昔に失われた魔法の一つだった。強大な魔力は過去をも取り戻し得たが、それは、過去の想いや幸せを呼び戻せることと同義ではなかった。寧ろ、いくつもの幸福を遠ざけた。
 生命という名のささやかな幸福を切り裂く焔が、ついに放たれた。
 ハープは腕をひと振りし、最低限の魔力を操った。強大な力を撥ねのけるためには、同じく強大な力を要する。しかし、真正面から退けるのでなく、その矛先を逸らすだけであれば、弱ったハープにも不可能ではなかった。
「マホカンタ!」
 魔法を撥ねのける光の壁は、炎を受け流す角度で展開された。
 破壊はハープの後方に逸れ、人を襲っていた樹木を焼き尽くした。それだけに留まらず、焔は人をも灰に変えた。
(この調子であの子が全力を出し続けてくれたら、わたしにも勝機がある。あの子もラミスファルトの、デルコンダルの生んだ哀しみの一つ。きっと、救わなきゃいけない!)
 彼女が信じたその道は、ある意味でただの狂気でしかなかった。それでも、偽りの光でも、信ぜずにはいられなかった。
 空にはいくつもの光弾が集っていた。それらもまた、コトの生み出した古代の魔法であった。光弾の一つ一つが、建物を跡形もなく吹き飛ばすだけの破壊力を秘めていた。
 破壊を生み出す幼子の瞳は、やはり喜びに満ちており、破壊こそが幸福への道標であるかのように錯覚させた。
 けれど――
「イオナズン!」
 ついに破壊の光が放たれ、教会は完全に倒壊し、水路の水は蒸発し、人もモノも命を失っていった。
 ハープは体内の魔力を総動員し、自身の周りに光の壁を展開した。光壁は光弾を退け、破壊はハープを襲うことはなかった。
 しかし、そのためにハープの力は大幅にそがれてしまった。
「――くッ!」
(ま、まずい。これ以上、まともに受けたら……)
 焦燥を抱いてコトへと視線を向けたハープは、幾ばくかの安堵を得た。
 コトもまた荒い息遣いで、教会の残骸に降り立っていた。
「はぁ。はぁ。す、すごいです。コト、こんなにつかれたの初めてです。やっぱり、兄さまの言うとーり、姉さまはすごいです!」
 疲労の色が濃いコトであったが、まさに幼子が、限界を知らずに遊びにふけるように、その腕に光を生み出した。此度の破壊は、先頃までの狂輝を孕んではいなかった。それでも、人の想いを、希望を、断ち切るだけの力はあった。
 一つの例として、荒廃した街で行方の知れぬ母親を求め彷徨う、幼い男児の命を奪うだけの狂気は孕んでいた。
「……おねえ……ちゃん……?」
「ッッ!!」
 コトが光を放った。光は真っ直ぐにハープを目指した。
 力の弱ったハープでも、先程のように受け流すことを目的として光壁を展開すれば、何も不安はなかった。しかし、弱った力で展開した光の壁が、破壊の光をどこへ跳ね飛ばすかは、容易に予測が能わなかった。ひょっとすれば光は、ハープの心の影を一時でも照らした、心優しき陽光のような幼子へと向かうかもしれなかった。
(ううん! あんな子、関係ない……! 優先すべきことを間違えちゃ駄目だ! ベリアルさんと、バズズと、アトラスと、わたしは先へ進むと決めたんだ! わたし達を呪った『人』を呪い返すって決めたんだ!)
 ハープはなけなしの魔力を操り、光の壁を生み出した。

「魔物の姿は見えないな。しかし……」
 北地区を満たすのは血の臭気のみだった。水路では人と異形の屍体が平等に折り重なっていた。
 ただ、死が満ちていた。絶望が満ちていた。
「ハープはいねえみてえだな」
「ハープ? 仲間かね?」
 隊長に尋ねられ、黒髪の傭兵は言葉に詰まった。下手なことを口にして要らぬ疑念を抱かれたくなかった。
 彼らの後ろを歩んでいた女傭兵が嘆息し、言葉を継いだ。
「仲間というと語弊がありますが、同業者です。類い希な魔法の力を持っておりますので、戦いの役にだけは立ちます」
 後半の言葉に蔑みの念を感じたためか、隊長は、同業者ゆえの嫌悪感でも抱いているのだろうと、勝手に類推した。
「そ、そうか。この近辺に生存者はいなさそうだ。教会まで向かおう」
「教会というと、有事の際の避難所ですか?」
 サマルトリアの剣技を扱うという男性が尋ねた。
 サマルトリアでもローレシアでも、そして、ムーンブルクでも、避難は教会にと決まっていた。
 そしてそれは、デルコンダル国領のベラヌールでも、やはり同じだった。
「ああ。手練れの兵も常駐させていたが……」
 隊長は暗い顔で小さく舌打ちした。
 仮にその手練れが存命ならば、これまで一度も信号弾を上げず、状況を報告しようとしないのは不自然だ。その者達は疑うべくもなく、死んでいた。
「悔いている時ではありませんよ。今は為すべきことを為しなさい」
「あ、ああ。急ごう」
 傭兵の叱咤を受け、隊長は兵達を引き連れて先を急いだ。そのしんがりを傭兵達が続いた。
 向かった先では黒髪の女性が倒れていた。うめき声を上げている様子から、死んではいないようだった。
 彼女から少し離れて、幼い女児と男児がいた。
 女児は息も絶え絶えに膝をつき、男児は恐怖に屈したように座り込んでいた。
「生存者だ! カルナス、保護しろ! 他の者も敵への警戒と、残る生存者の確認を!」
 素早い命が下り、各々の兵士達が行動に移った。
 黒髪の傭兵は男児の元へ走り、他の傭兵は倒れ込む女性の元へと向かった。
「ハープ。やはり来ていたのね」
「無茶をなさるねぇ。リアスの叔母上殿は。まあ、コトちゃんを止められたようだし――へぶしっ!」
 女傭兵が仲間の傭兵の鼻っ面を蹴り上げた。
「コト『ちゃん』ね。スケルタはどうしようもないロリコンですねえ」
「ま、待って、アイリ! その評価は流石に否定させてくれ!」
 耳元で騒がしくされ、黒髪の女性は覚醒するに至った。朦朧とした意識をかき集め、散り散りになろうとする言葉を紡ぎ合わせた。
「だ、駄目! コトはまだ!」
「ッ!」
 声にならない悲鳴が上がった。女児を救助に向かった兵士が、血を流して地に伏していた。
 風の刃が女児を中心として逆巻いていた。
「……いやぁ……コトに……さわらないでください……です…… コトをいじめないで……くださいです……! やめてぇ!!」
 かつての嘆きは全てを拒絶し、差し伸べられた手を払いのけた。
 その結果――
「やああああああああああああああああぁああぁあッッッッッ!!!!!」
 風刃は全てを薙ぎ払った。或いは人を傷つけ、或いは人を殺した。
 凶刃はその触手を伸ばし、倒れ伏す者達にも迫った。
 傭兵は――リアスは、男児を抱えて跳んだ。目視できぬ刃を勘だけで避けきった。
 一方で、他の傭兵達――スケルタにも、アイリにも、そのような動物的勘は備わっていなかった。痛みの果ての風刃は、彼らと彼らの足元で伏すハープとを、切り裂こうと手を伸ばした。

 アイリは、痛みに備えて瞑った瞳をゆるりと開いた。身体のどこにも大きな傷はついていなかった。
 しかし、彼女の周りでは、血の臭いが濃く漂っていた。
「……無事……か……?」
 声が聞こえた。耳慣れた声だった。耳朶に響くのは幼き折より共にあった者の声音だった。
 その言の葉は掠れていた。
「……スケ……ルタ……?」
「……ああ……よかった……」
 伏す男の腕からは、脚からは、腹からは、鮮血が流れ出でいた。
 頬には血が通っていなかった。
 色濃い死の香りがした。
「――スケルタッッ!!」


PREV  NEXT

戻る