第二十一話:戦いの果てに芽生えたもの

 険しい山々と海原によって、外界から隔絶される形で存在している国、デルコンダル。外交を拒むことはなく、輸出入を制限することもない、その穏健な姿勢とは裏腹に、内外であまり良くない噂がささやかれている。一説には、戦力を増強しようとしていると言われ、一説には、他国に戦争をしかけようとしていると言われている。事実、同国東方に設営された軍事演習場では、時折凄まじい爆音が響き渡り、その閃光は、遠くベラヌールの街の西海岸からも確認できるとか。いずれも噂の域を出ないとはいえ、国民も、賓客も、旅行者も、どこか緊張した面持ちを携えているのは、そういった虚実に起因する。
 海から吹き抜ける生ぬるい風が、デルコンダルの城下町を駆け抜けていった。風は、魚売りの頬を撫ぜ、数着の洗濯物をさらい、カーテンをなびかせ、王城の一室に侵入した。
 すると、風と共に、青年と女児が室内に現れた。
「ついたです! おにいさま!」
「黙れ、コト。耳障りだ。言われずともわかる」
 女児の言葉をにべもなく一蹴し、青年――ラミスファルト=アルファ=モード=デルコンダル第一王子は、靴音を響かせて部屋を出た。
 彼のあとを、コトと呼ばれる女児が続く。
「どこいくです?」
「執務に戻る。貴様ら化け物と違って、俺は忙しいのだ」
 青年は腕に抱いていた禍々しい像を、コトに渡す。
「第五研究所――ギョロ眼の部屋に入れておけ」
 像を両手で抱え、不思議そうに小首を傾げたコトを瞳に映し、ラミスファルトは言葉を換えた。言葉の端端に苛立たしさが窺え、面倒がっているのが明らかだった。
 コトはそういった機微に頓着せず、にぱっと楽しそうに笑った。役目を与えられて喜ぶ幼子の笑顔を浮かべた。
「はいです!」
 しかし、一転、彼女は小首を傾げて疑問を口にする。
「おにいさま。コトはそのあと、なにをすればいいです?」
「しばらくは大人しくしていろ。『ギョロ眼』とでも遊んでいればいい」
「えー!」
 不満ありありの体であった。
「それじゃつまんないです! おにいさまと遊びたいです!」
「俺は忙しいと先ほども言った」
「じゃあじゃあ! おねえさまと遊びたいです!」
 女児は代替案として、海底洞窟で別れたばかりの、彼らの姉、ハープ=ゴーラ=リン=デルコンダルとの『遊び』を所望する。
 しかし、その案も却下される。
「喧しいぞ。言うことを聞け。数日すれば『祭り』がある。辛抱しろ」
 ラミスファルトの言葉――『祭り』を耳にし、コトは一転、破顔した。
「そうでした! おねえさまもご招待しておっけーですか?」
「……まあいい。前日にでも、誘いに行くがいい」
「わーいです!」
 承諾を耳にして、コトは全身で喜びを表現した。子供らしい無邪気さには、しかし、どこか禍々しさが孕んでいた。それは、女児が腕に抱いた邪神の像に因るものだったか、はたまた、彼女自身に因るものだったか、定かではない。
 いずれにせよ、不穏な空気が満ちるその場で、ラミスファルトは口の端を歪め、声を立てずに嗤った。

 穏やかな波間に揺れる白い軟体は、群生したしびれくらげだった。彼らは何を考えるでもなく、ゆらゆらと漂っていた。安穏とした昼間、海に浮かぶ月のような彼らは、一切の罪を犯すこともなく、そこに在った。罪がなければ罰もない。当然の論理であるが、現実に即してはいないと言わざるを得ない。敢えて反駁するならば、それは『罰』ではないのだろう。
 突如、水しぶきが上がり、陽の光に照らされてキラキラと輝いた。圧倒的重量の船体が、海の月に理不尽な罰を与えつつ、現れたのだ。
 人間の願いに風の精霊が応え、瞬時に空間を駆け抜ける魔法『ルーラ』であった。
「……見渡す限り海、だな」
 言葉の通り、海洋のど真ん中と呼ぶに遜色ない場所であった。
「ここにあんたの父ちゃんが居るのか?」
 尋ねた黒髪の少年は、リアス=ローレシア。先日十三歳になったばかりの、ローレシア国王子である。
 彼の視線の先には、水色の髪と瞳を携えた女性が居た。女性は少年の瞳を見返し、微笑んだ。
「少々お待ちください」
 そう言って、腕を舳先へと向け、何やら小さく呟き始めた。
 リアスは彼女の様子に首を傾げるばかりだったが、彼の隣に佇む青年と少女は、目を瞠った。
「なんて緻密な魔力操作だ」
「海底洞窟での魔法も巧みなものでしたし、只者ではありませんね」
 年長者たちの感嘆を耳にしても、年少者はよく分からなかった。
「スケさん、アイリ。あの姉ちゃん、そんなにすごいのか?」
 スケさんことスケルタ=サマルトリア王子と、アイリことアイリ=ムーンブルク王女は、肩を竦めて首肯した。
「別次元だな。あれだけ美しい上に技術もあるとは、まさしく、才色兼備」
「……そうですね」
 スケルタの言葉に、アイリは表情を暗くし、低い声で肯った。
 彼らの様子にリアスが訝る。
「アイリ。スケさんのこと殴んねぇのか?」
「……」
 沈黙で応えるアイリを横目に、スケルタは苦しそうに表情を歪めた。しかし一転、へらへらと軽薄な笑みを浮かべた。
「アイリも日々成長しているのさ、リアっつぁん。というか、そんなに俺に殴られて欲しいのか?」
「いや、そうとまでは言わんけど、様式美ってやつがあるだろ?」
「様式美のひと言で、人が殴られることを肯定しないで欲しいね」
 スケルタが苦笑と共に肩を落とした時、突如、北方に小さな島が出現した。そちらには、最前まで白い波と水平線しか窺えなかった。しかし、今や、確かに島が在った。島の中央には、陽光を反射する白亜の建物が聳えたち、天を突いていた。
「……島を作る魔法か?」
「いや、五感を誤魔化して、島を島として認識できなくしていたのを、解除したんだろう。俺の魔法の教師が、理論だけはあるが実践できない古代魔法のひとつとして、紹介していたことがある」
 作業を終えた女性が、踵を返して舳先から歩みを進める。甲板を踏みしめて、リアスたちの元へとたどり着き、微笑んだ。
「ええ、その通りです。この島の――精霊の祠の主は、数億年前から存在する精霊さまです。人間が忘れてしまった魔法もまた扱えるのです。そして、私と父もまた、彼女に及ばずとも、失われた魔法を修めており、とりわけ父は、細かい魔力の操作に長けております。故に、魔力が枯渇したハープさんをお救いすることが出来るのです」
「あんた、アリシアだったか? あんたとあんたの父ちゃんも精霊なのか?」
 リアスの問いに、アリシアは微笑みを浮かべたまま、頭を振る。
「いいえ。私共は竜族と呼ばれる種族です。ドルくん――竜王の仲間ですね」
 ロトの子孫一行が息を呑んだ。海底洞窟から流されるままに行動を共にしてきたが、目の前の女性が竜だなどとは想像もしなかった。
 アリシアは彼らに構わず、再び魔力を集め出した。伴い、水の精霊と風の精霊が彼女の願いを聞き入れ、船を動かした。
 リアスとスケルタとアイリ、そして、ハープ、バズズ、アリシア以外の者達は、一時的にローレシアの港へ下ろして来ていた。此の地――精霊の祠へと招くには、人数が多すぎるが故であった。そのために、船を操る者達が同乗しておらず、精霊に協力を請うしかなかったのだ。
「竜族ってのは、魔法が得意なのか?」
 竜族たるキースが、海底洞窟で魔力を浪費し過ぎたハープの状態を改善できるという話に加え、同じく竜族たるアリシアもまた、目の前で見事に魔力を操ってみせている。結論としては、リアスの疑問の通りなのだろう。
「個人差はありますが、大概は。とはいえ、竜族だから魔法に長けているというわけでもありません。大昔は、私共などよりも魔法に長けた人間が存在していたものです。しかし、このところはそのようなことも滅多にありません。まあ、強い力を持ち過ぎたところで、詮の無いこと。良い傾向でしょう」
「ふーん」
 船が精霊の祠がある小島に接岸した。アリシアが先と同様に、精霊へ請うことで、錨を下ろした。水音に伴って、水面が小さく波打った。
「さあ、参りましょう。バズズさんにご連絡して、ハープさんを中へ運ばなくては」

 温かい。ハープはまず、そう感じた。身体も心も、温かい。何の不安も、痛みも、無かった。まるで幼子のように、心配事など無く、優しい母に抱かれ、可愛い弟たちと戯れ、ただただ幸せに在ったあの頃のように、居るかの如くだった。
 しかし、そうではない。
 あの頃とは何もかもが違う。母は居ない。あの頃に笑い合った弟たち――ラミスファルトもリトリートも居ない。共に理不尽な呪いを受けてしまった、より年少の弟たちと、彼女を救いだした男性だけが、今の彼女の全てなのだ。
 故に、温かくとも、痛みがなくとも、やはり、不安は再び胸に生じた。世界は優しくなど無く、呪いに満ちているのだから。
「……ここは……?」
 閉じたまぶたを透かしていた優しい光が、直接、網膜をやいた。開いた瞳には、白い壁と、数多の下位精霊が映った。
 彼女が住まいとしているロンダルキアの地にも、下位精霊は多くいる。しかし、この場所にはそれ以上の数がいた。普段から精霊を見慣れている彼女でも、いや、彼女だからこそ、この場所の異常性を理解することが出来た。
「目が覚めたようですね、魔術師殿」
 直ぐ側で声が聞こえた。ハープは視線を巡らし、声の主を探した。
 そこには、悪魔が居た。
「あああっ、あ、アイリさまああぁあああああああぁあああ!」
 ハープはバッと起きて駆けだそうとする。しかし、長く臥せっていたのだろう、足が思うように動かない。地面に転がることになる。
 彼女の様子を瞳に映したムーンブルク国の王女は、目元を細め、口の端を持ち上げ、楽しそうに微笑んだ。
「まあ、無様」
「……! ……!」
 声にならない悲鳴を上げ、ハープは必死で立ち上がろうとする。しかし、身体的な疲弊と、精神的な動揺が、彼女の動きを鈍いものにしていた。
 アイリは、相変わらずニコニコと機嫌良さそうに笑みを浮かべ、ハープの顔を覗きこんだ。
「まだ本調子ではないようですね。あまり無茶はせぬように。醜い弟殿に怒られますよ」
 ハープの表情が凍りついた。恐怖の為では無かった。烈火の如き感情が、彼女の胸を満たした。
 急ぎ、魔力を操作し、法を作り上げる。かつてムーンブルク城で放った魔法を、再び、アイリへと向ける。
「バズズもアトラスも、醜くなんてないっ!」
 光が生じ、アイリを包む。
 その刹那――
「マホカンタ」
 アイリがあらかじめ用意していた魔力を割り当て、別の法を作り上げた。
 ハープの放った力は、一転、彼女自身に帰る。煙が立ち上り、それが消えた後には、一匹の犬がいた。
「わ、わん?」
 犬の目の前でアイリが、一層機嫌良さそうに微笑んだ。煌めく光が生じるかの如き、眩い笑みであった。
「うふふ。同じ手を食うと思いまして? 貴女が眠っていた六日間、アリシアさんに魔法を習う時間はたっぷりありましたからね。あらゆる魔法を跳ね返す『マホカンタ』であれば、貴女の奇態な魔法も意味を成しません。さて、次は首輪をつけて、腐った肉でも与えましょうか。お似合いですよ、魔術師殿?」
「わわわっ、わ、わん! わん! わううううぅうん!」
 ハープが四つの脚を懸命に動かし、アイリから遠ざかる。彼女は、姿形が変わってしまったことで、魔力を上手く使えなくなってしまった。落ち着いて、何度か模索すれば、それも叶うだろうが、現在の精神状態では難しい。彼女に出来るのは、逃げの一手だ。
「あらあら、喧しい。しつけが必要ですね」
「きゃいんきゃいんきゃいんきゃいんきゃいんきゃいんきゃいんきゃいんっ!」
 胸を締め付けられるような鳴き声が木霊した。そして、ここまで騒がしければ第三者も気付くというものだ。
「アイリ姫! 姉者が起きたのか?」
 藍色の毛に全身を覆われた、巨大な猿が現れた。背には大きな翼を負っており、ただの猿でないことは明らかだった。彼こそが、ハープの弟であり、先程、アイリが『醜い弟』と評したバズズだった。
「あら、バズズ。ご覧のとおりですよ。魔術師殿は置き抜けに私を犬に変えようと試み、無様に返り討ちにあったところです。滑稽でしょう?」
「……姉者が失礼をしたようだ。申し訳ない」
「わうんっ! わんっ! わんっ!」
 不満あり気な犬を背後に庇いつつ、バズズはため息交じりに陳謝した。双方に非が在ると予想されたが、あまり追究しない方がよかろうと、彼は判断した。姉がキレやすいことは言うに及ばず、アイリもまた、短い付き合いながらクセが強すぎることは分かっていた。責任の所在を詳らかにするよりも、適当に話を流してしまった方が得策だ。幸い、此の地――精霊の祠には、ハープを元の姿に戻すことなど容易い御仁が居る。
「あら。姉とは違い、貴方は人間ができているようですね。醜い見た目とは裏腹に」
「ふっ。面と向かって言われると、いっそ清々しいな」
 アイリの暴言に、犬ハープは再び眼つきを鋭くして唸ったが、当人たるバズズはいっそ楽しそうに笑った。アイリは暴言を吐きつつも、バズズを『人間』と評した。口先ばかり丁寧で本心を見せない相手よりも、バズズを認めていると感じられた。
 犬が煩く吠える中、大猿と姫は互いを見つめ、笑い合った。
「アイリ。バズズ。どした? 犬?」
「ああ、リアス。この無様な犬っころが『ハーゴン』ですよ」
 口元を意地悪く歪め、アイリが言った。
 彼女の言うところの『無様な犬っころ』が訝しげに首を捻った。
「わふん?」
 その疑問の鳴き声を解する者はおらず、続けて、スケルタがやってきた。
「お。叔母上との感動のご対面だな、リアっつぁん」
「わふん?」
 再び、犬ハープが首を傾げた。
 此度はバズズが、彼女の疑問が向く先を察した。
「姉者。リアス殿はローレシアの王子。即ち、リトリート兄者の御子息だ」
「わふん!?」
「本当だ。可能ならば、我らの存在を知られたくは無かったが、誤魔化すには分が悪かった。海底洞窟での一件を彼らに見られていたのだ。ラミスファルトと関係があると知れてしまった以上、我らが何者であるか、可能性は限られよう」
「わふん……」
「安心しろ。リトリート兄者には伝えぬよう、約して下さった。リアス殿は年少ながら、姉者にも兄者にも似ぬ、しっかりとした御仁であるぞ」
「わ、わふん!」
「何を言うか。姉者がしっかり者などと、誰も信じんさ」
「わふん!!」
 犬語を解して、というよりかは、姉の言いそうなことを予想して、会話を為しているようだ。姉弟はいっそ楽しそうに話していた。
 そこに、更なる闖入者が在った。
「おや。その様子ですと、もう大事は無さそうですね。しかし、何故犬の姿に? 犬が好きなのかな……」
「そうではないと思いますよ、お父様」
 おかしな発言をした青年に対し、アリシアが頭を抱えて言葉を返した。
 彼女の言葉が真実であるならば、青年は彼女の父であり、キースという名の竜族なのだろう。しかし、キースはせいぜい二十代にしか見えず、アリシアは若くはみえるが、三十代と思われた。父と娘というには無理があった。
 リアスがそのような疑問を呈した時、彼らの応えはこうだった。即ち、竜族は竜の血が濃い程に老化が遅くなる故、濃い血筋のキースの方が若く見えてしまうのだ、と。何やらややこしいな、と少年は感想を抱いたが、深くは気にしないことにした。
「ああ。キース殿。貴殿のおかげで姉者が目を覚ました。感謝いたす」
「いえいえ。お安い御用です」
 馬鹿丁寧に頭を下げた大猿に相対し、竜がやはり馬鹿丁寧に返礼した。
 そうしてから、大猿は姿勢を正し、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「それで、ついでと言っては何なのだが、この犬化も解いて頂けると助かるのだが……」
「おや、好きだからというわけではなかったのですね。流石アリシアだ」
 にこやかに娘を褒めた父だったが、流石と言われる程のことでもなく、寧ろ当然の考えを開陳しただけだった娘は、再度頭を抱えて嘆息した。
 キースは魔力を操作し、然程の苦労もなく、ハープを元の姿に戻す。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。お久しぶりです。君がアイリさんを犬にした時以来ですね。今回の件はベリアルさんにも一報を入れています。大事がない旨は伝えていますが、アトラスくんと共に心配していることでしょう。落ち着いたら、ロンダルキアへ一度帰るようにしてください」
 ベリアルは最初に報告を受けた際、ハープの様子を見に一度訪れていた。しかし、アトラスの巨体では精霊の祠を訪れ得ないという事情から、心配がるアトラスを独りにしないため、共にロンダルキアの地でハープとバズズの帰りを待つことにしたのだった。
 詳しい事情を聞いたハープは、まず心配をかけた申し訳なさでいっぱいになり、続けて、叱られるだろうことへの不安で心を満たした。
「……帰りたくない」
「子供のようなことを言うな」
 弟から適切な指摘を受け、しかし、ハープは恨みがましそうにバズズを睨んだ。何かにつけて子供っぽさの残る女性は、そこでふと、先ほど浮かべた疑問を思い出した。
 ハープ=ゴーラ=リン=デルコンダルは、怒りに満ち満ちた様子で魔法を放った時とは別人の如く、アイリ=ムーンブルクを、おどおどした瞳でちらちらと盗み見た。
「如何いたしましたか? 魔術師殿」
 一方で、ムーンブルクの姫は、見た目はにこやかに、しかし、内心では苛立った様子で、尋ねた。
 びくりと肩を震わせ、しかし、ハープは意を決したように口を開いた。
「あ、あの、アイリ様。先ほど仰られていた『ハーゴン』って、その、何ですか?」
「ああ」
 尋ねられると、アイリは輝かんばかりの笑みを浮かべ、嬉々として説明を始めた。
「貴女、『ハープ=ゴーラ=リン=デルコンダル』というらしいではありませんか。ハープなどと綺麗な響きのお名前は相応しくございませんし」
 ハープの肩が小さく震えた。
「ゴーラというやや厳つい名は相応しく感じますが、それでも、『ラ』の音が少しばかりの可愛らしさを孕み、やはり不適当でしょう?」
 キレやすい女性は、眉根を寄せ、怒りに耐えるように、服の裾を強く握る。
「リン? はっ」
 ムーンブルクの姫は多くを語らず、ただ鼻で嗤って見せた。
 相対する者の堪忍袋を絞る緒は、今にも千切れそうだった。
「こうなると、相応しい呼び名を考えてあげる必要に迫られまして、ハープの『ハー』とゴーラの『ゴ』、そして、リンの『ン』、可愛らしさが残らぬように選択した結果、貴女は『ハーゴン』となるのです。間抜けで、人格の破綻した、人間もどきにはぴったりの名でしょう? ねえ、ハーゴン」
「とわりゃあぁあぁああ!!」
 緒が容易く切れ、かつて、ムーンブルクの王城に響いた奇声が、再度発せられた。伴って、魔力が迸り――
「マホカンタ」
 やはり、あらかじめアイリが用意していた魔力が法を形成したため、ハープの力は彼女自身へと向かった。
 ハープ=ゴーラ=リン=デルコンダルは、再び犬畜生に変化した。
「きゃん! きゃんきゃん! くうううぅうぅぅうん!」
「何を仰られているのか、わかりません。それにしても、学ばない方ですね。無様で、陳腐で、滑稽で、貴女にとてもお似合いですよ、ハーゴン。うふふ」
 甲高い鳴き声を響かせるハープと、ここ数日で一番の輝きを誇る笑顔を浮かべたアイリは、はた目には十年来の親友のように映った。
 そう、はた目には。

 精霊の祠の最上階に、女性が優雅に座していた。彼女は金の髪をかきあげ、金の瞳を中空に向け、小さく笑んだ。そして、彼の地にやって来る魔力の波を捉え、引き寄せた。
 すると、彼女の目の前に幼子が生じた。
「ふえ? ここ、どこです?」
「精霊の祠と呼ばれる場所よ」
 回答を耳にして、幼子は首を傾げた。彼女は『姉』の魔力を追い、『姉』の元に出現するように、飛んだ筈だった。
 しかし、この場に『姉』たるハープ=ゴーラ=リン=デルコンダルは居なかった。
「おねえさまは?」
「貴女の『姉』はようやく目を覚ましたところ。あまり刺激を与えるべきではないわね」
「でも、コトはおねえさまをお祭りに招待するです」
 デルコンダル国による『祭り』は、明日未明に催されることになっていた。招待する時機は今しかない。
 祠の主は眉根を寄せ、嘆息する。
「あたしが伝えておくわ。換わりにと言っては何だけれど、貴女の兄への伝言も頼まれてくれるかしら?」
 コトはおとなしく首肯した。彼女は『姉』に会い、直接話をしたかった。しかし、目の前の女性に逆らうことができなかった。
 魔法に長けた女児は、人工的に魔力を注がれた結果できた、異質な存在である。それ故か、彼女は魔力に敏感だった。目の前の女性は魔力の塊といっていい存在であり、コト自身やハープには及びもつかない魔力を有していた。それこそ、化け物といってよかった。
「『貴方の妄執は過去のもの』と、そう伝えなさい」
「『あなたのもーしゅーはかこのもの』ですね。コト、覚えたです」
 得意げに頷いた女児の頭を、女性は優しく撫ぜた。
「いい子ね」
 コトは手の温かさに、つぶらな瞳を細め、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。化け物と呼ばれる女児は、ただただ無邪気な存在だった。
 女性の金の瞳には、過去に見たとある幼子の姿が浮かび、コトに重なって見えた。あの時の幼子は魔力を抑え、幸せを得た。目の前の幼子は、魔力を得たことで、ある種の幸せを得たのだろう。幸せの形は全く異なるけれど、世界の解は一つと断じ得ず、そうであるからこそ世界なのだ。
「さあ、帰りなさい」
「はいです!」
 元気に応え、コトは消えた。デルコンダルへと向かう魔力の道が、女性の金の瞳に移った。
 彼女はその軌跡を追いながら、苦笑した。
「まあ、そんなこと、既に知っているのでしょうけどね」
 妄執は無意味に廻り、人間たちを蝕んでいた。
 それもまた一つの世界だった。

「ハーゴン。ほら、取っていらっしゃい」
「わんっ! わんわんっ!」
 アイリが投げた棒切れを、犬ハープが追う。棒切れを咥えて、犬っころは主人の元へと戻った。尻尾を振ってすらもいる。
 調教は済み、序列が決定したようだ。
「ははは。まるで、かつてのアマンダ様とラッセルだね」
「懐かしいですね。ラッセルさん、お元気でしょうか?」
「そうだねぇ」
 竜族二名が遠い目をして語り合う一方で、王子二名と大猿は頭を抱えていた。
「アイリ、容赦ないな」
「リトリートも大概だが、あの叔母さんも何と言えばいいのやら……」
「姉者。それでいいのか」
 元気な鳴き声と、懐古の言葉と、盛大なため息とが、精霊の祠の一室を満たしていた。


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