第二十話:狂おしき海底の宴

 海の底へと続く闇を魔法の明かりが照らしていた。その暗闇の中を、女性が青色の髪をなびかせて進んでいた。暗褐色の衣服に身を包み、邪な神を象ったロザリオを胸にかけるその様は、疑うべくもなく邪神崇拝者であった。
 彼女はようよう、海底洞窟の奥深くにある、邪教の礼拝堂へとたどり着いた。
「もし。教祖様はどちらにいらっしゃいますか?」
「貴女はこのあいだ入信した――アリシアさんでしたね。教祖様は我らが神へと祈りを捧げておいでです。半刻はお戻りになりませんが、何か御用ですか?」
 神官の言葉に、アリシアは頭を振って小さく微笑んだ。
「いえ。用というほどのことではございません。出直してまいります」
 彼女は一礼して、その場を辞した。洞窟の通路を二度、三度と曲がり、礼拝堂から遠く離れた頃合い、辺りを見回した。誰も居ないことを確認し、ゆっくりと青色の瞳を瞑った。意識を集中し、教祖の纏っていた魔力を探ろうと試みた。
 直ぐに該当する魔力を探り当てることが出来た。その近くには、かつて世界を変えた、そして、かつて老人に希望を与えた、そのような存在の魔力をも感じ取れた。望みを叶える彼の存在こそが、アリシアが邪神を崇拝すると偽ってまでこの海底洞窟へと潜入した目的だった。
(更に下のようですね。どこかに隠し通路があるのでしょうか……)
 アリシアの知る限り、海底洞窟で更に地下へとくだる道は存在しない。一般信者には知らされていない道が存在するのだろう。
 青色のしなやかな髪をかきあげて、アリシアは嘆息した。

 白い毛皮の魔物が海上を翔けていた。彼の者の背には、黒髪紅眼の少女が乗っていた。彼らはそれぞれ、バズズ=ゴーラ=アス=デルコンダル、ハープ=ゴーラ=リン=デルコンダルと言い、特殊な事情を抱えた姉弟であった。
「バズズ。もっと早く飛べないの?」
「無茶を言うな、姉者。背に重い荷を負っておるのだ」
 弟の言葉に、ハープが紅い瞳を吊り上げ、小さな手で彼の頭部を叩いた。
 バズズは痛がるそぶりも見せずに、海上を翔け続けた。
「冗談はともかくだ。件の洞窟まで飛ぶのであれば無理は禁物というものだ。文句があるのならば、姉者の魔法で飛べばよいだろう?」
「それこそ無茶だよ。いくら私の魔力でも、海を越えて飛んだら直ぐに底を尽くよ」
「俺の体力にも底はあるのだが、ね」
 小さく息を吐きつつ、バズズは背の翼を動かし続けた。
 そうして一刻ほどが過ぎた頃、彼らの視線の先に、小さな島が現れた。
「あれか?」
「みたい。あの下から、強大な魔力を感じるわ。ドルーガ様の仰られていた邪神の魔力でしょうね」
 言葉を交わしながら、彼らは島の南端に着陸した。
「さて。どうするのだ、姉者。竜の王の言によれば、月が満ちた時にのみ、海底洞窟への道が開けるとのことだが……」
 バズズが尋ねた。
 ドルーガ――竜王の元で仕入れた情報では、邪神の力を手にしている異教徒たちの根城へは、満月の夜にのみ足を踏み入れることが可能だという。しかし、今は陽が世を支配する刻限であり、かつ、陽が落ちたとしても本日に月が満ちることはない。
 ハープは弟の視線を受け、問題ないというように頷いた。
「結局のところ、潮の満ち引きで入口が現れるというだけの話でしょ? なら――」
 そう口にしてから、彼女はゆっくりと瞑目した。意識を集中して、魔力を操作する。
 少しばかりの時が流れ、直ぐに変化が生じた。
 島の南端を打っていた波が引いた。海水が左右に分かれ、ごつごつとした海底が姿を見せた。
「これで問題ないわ」
「ふむ。見事なものだな。どれ」
 感心してみせてから、バズズはハープの手を取って飛び上がった。その後、一度旋回し、海底に着地した。
 視線を小さな島へと向けると、フジツボや海草が生えた岩肌に、横穴が顔を見せていた。横穴は、ある一定の位置から、海水に濡れる様子もなく乾いていた。
「魔法で浸水を防いでいるみたいね。古代に精霊が造った遺跡か何かを利用しているのかしら……」
「考察は後にしたらどうだ、姉者。そのような暇はあるまい」
「それもそうね」
 バズズの言葉に頷き、ハープは闇色の穴へと歩みを進めた。弟もまた、彼女に続いた。
 願いを叶える神の力は、もはや目前だった。

 勇者ロトの子孫である二人の王子、リアス=ローレシアとスケルタ=サマルトリアは、甲板の端で小さくなっていた。リリザ港を出て数日の間、彼らの従妹――アイリ=ムーンブルクの機嫌が常に悪いためであった。
「……あら。甲板が汚れていますね」
 そう呟いて、アイリが突然に風の魔法を放った。その結果、元ラダトーム兵士である乗組員の数名が吹き飛ばされた。
「す、すいやせん! 姐さん!」
「……喧しいですよ」
 再び、風が船上を舞った。
 乗組員たちが逃げ惑い、所々で悲鳴が上がった。
「アイリの奴、何であんなに機嫌わりぃんだ?」
 リアスが頻りに首を傾げつつ、隣のスケルタに尋ねた。
 スケルタは気まずそうに視線を外した。
 従妹の様子から何かを察したのだろう。リアスは嘆息し、眉を潜めた。
「ったく。喧嘩したんなら早めに仲直りしろよな。いつこっちに被害が来るか不安で仕方ねぇ」
「ああ。すまない」
 苦虫をかみつぶしたようなスケルタの表情に、リアスが再び首を傾げる。
 彼の従妹がこうも殊勝な態度を取るのは珍しい。
「……? まあ、いいけどよ。にしても、まだ着かねぇのか? おーい、おっさん」
 リアスはちょうどよく風の魔法で吹き飛ばされて転がっていた元兵士に尋ねた。
 すると兵士は、船縁によじ登り、途切れ途切れの言葉と共に南方を指差した。
「あ、あちらに、そろそろ、見えてくる、はず……」
 指の先に岩礁のような小さな島があった。
「ん。おぉ、ホントだ。すっげぇ小せぇな――って、あれ?」
「どーした。リアっつぁん」
「いや、あれ。例の女じゃねぇか? 遠くてよく見えねぇけどよ」
 リアスの言葉通り、見覚えのある黒髪の少女がいた。彼女は白い獣の背に乗り、島へと飛び込んでいった。
 彼の言葉が耳に届いたのだろう。アイリが足早に船縁へと向かった。アイリの紫の瞳にも、海底洞窟へと姿を消す直前の、黒髪紅眼の少女の姿が映った。不機嫌さが際立つ王女の顔に、意地の悪い笑みが広がった。
「……ふんっ。追いますよ。貴方たち、全速力で目標の島へ船を寄せなさい!」
『あいさー!』
 アイリの号令を受け、元ラダトーム兵士たちが敬礼をし、きびきびと動き出した。
 ラダトーム国の紋章を刻んだ船が、波をかき分けて先を急いだ。

 洞窟を底へ底へと向かうハープは、突然の悪寒に襲われた。身震いし、辺りを見回す。
「姉者、どうした?」
「いや、その、何か怖い……」
「三十路女が暗闇を怖がるな」
 姉は弟の言葉に憤慨し、しかし、相変わらず、理屈の知れぬ恐怖に慄いていた。
 彼らは足早に先を急いだ。

 小舟で岩礁の合間を抜けたリアスたちは、一部の海水が左右に割れているのを発見した。その先には闇が口を広げていた。
「あの女が魔法で海水を退けたみたいですね。しばらくは効果が続きそうですが、追いつくためにはゆっくりしてもいられません。急ぎますよ、二人とも」
 アイリの言葉を契機として、三名は小舟を適当な岩に舫い、闇へと慎重に足を踏み入れた。洞穴内は魔法の光が点されているようで、奥の方が明るくなっていた。
 奥へと続く通路は整備されている。それは、日常的に人が出入りしていることを示していた。
「しっかし、なんでこんな場所を根城にすっかね。こうもしっかり整備してる以上、一時的な隠れ家じゃなさそうだ。海のど真ん中にありゃ隠れ家としちゃいい物件かもしれねぇが、いくら何でも不便すぎないか?」
 先頭を進むリアスの言葉を耳にして、その後ろに続くアイリは苛立たしげに舌打ちした。
「どうでもいいですよ、そんなこと。それよりも、あの女を見逃さないように注意してください。ここで逃げられれば致命的です」
「致命的ってどういうことだ? 仕返しなら別の機会でもいいじゃないか」
 後続のスケルタが首を傾げつつ、尋ねた。
 アイリはやはり大きく舌打ちし、眉を潜めた。
「……邪神の力を奪われてしまいます。奴らに先を越されてしまえば、私の願いを叶えられなくなる」
「邪神? 竜王が言っていたアレか? お前、そういうの頼る性質だっけ? って、うわ!」
 背後から放たれた突きの一撃を寸でのところで避け、リアスが小さな悲鳴を上げた。
 杖の突きを放った当人であるアイリは、従妹を眼光鋭くねめつけていた。
「お、落ち着け、アイリ」
「私は落ち着いていますよ、スケルタ。さあ、無駄話をしている暇があるのなら進みましょう」
 ぽかんと呆けている年少の従妹を追い越して、少女は先を急いだ。
 嘆息と共に彼女を見送り、スケルタはリアスに苦笑を向けた。
「すまない。ちょいと事情があってな。あいつ、余裕がないみたいだ」
「別にいいけどよ。俺に手を上げるとなると、相当だな」
 大概の場合、アイリはリアスに手を上げない。従妹の間でも年少であるが故だろう。今回のように手が出るのは余程のことだった。
「早く来なさい、二人とも。奥が少々騒がしいようです。あの女が騒ぎを起こしているのでしょう」
 苛立ちの混じる声音を受け、リアスとスケルタは顔を見合わせて苦笑し、諾々と従った。

 アリシアは教祖がよく使う部屋の扉を探っていた。部屋の中に人の気配はなく、周囲に人影もない。扉に錠前がかけられているようであるが、鍵を外そうと思えば外せる。彼女はこの世に生を受けて既に二百四十年ほどが経っている。長い生の中で開錠の技術を学ぶ機会は何度かあった。
(教祖が度々姿を消す以上、シドーさんを封じた像はやはりあの部屋でしょう。とはいえ、なるべく泥棒さんの真似事などしたくはないのですが……)
 彼女が海底洞窟に潜入して数日、教祖は幾度もくだんの部屋へと籠った。その間、部屋の中に人の気配はない。恐らくは、部屋から更に地下へと向かう隠し階段があるのだろう。
(腹をくくりますか)
 嘆息と共に一歩を踏み出したその時、一般教徒が集う広間からざわめきが聞こえてきた。
 邪教徒たちは普段、朗らかに和やかに日々を過ごしている。世俗から離れ、ただただ、神を信じて生きる生活は、彼らに浮世離れした平らかな感情を与えるのだろう。
 しかし、そのような生活は今、崩れ去っているらしい。
(何かあったのでしょうか……)
 アリシアは少々の不安を覚え、しかし、気を取り直すように首を左右に振った。混乱は認められるが、切迫した雰囲気は感じられない。一般教徒たちに命の危機が迫っているわけではないようだった。
(好機と見ましょう。多少の無茶をしても、こちらへ注意が向くことはない筈です)
 一度大きくうなずいて、アリシアはくだんの扉へと向かった。

 海底洞窟を奥へ進むと、ようよう広間へとたどり着いた。そこには邪教徒と思われる人間たちが多数いた。広間に現れたのがハープのみであれば、入信者として暖かく迎えられた可能性が高かった。しかし、実際には魔物の姿をしたバズズが彼女の隣におり、広間はハチの巣をつついたかの如き騒ぎとなった。
 ハープは嘆息してから、ぐるりと広間を見渡す。目の届く範囲に、邪神が宿るという像の姿は無かった。
「姉者。早々に用を済まそう。化け物扱いされるのはやはり慣れん」
「ん。ちょっと待って」
 憮然とした表情の弟に小さく微笑みかけてから、ハープを瞑目した。大気中の魔力を集め、息を吸うように掌握する。そして、解き放つ。
「ラリホー」
 魔力の波が広間中に伝播し、騒いでいた人々は皆、倒れた。全員、眠りについていた。
 動く者がいなくなったことを確認し、ハープはバズズに向き合った。
「これでいいでしょ?」
「すまんな。余計な魔力を使わせた」
「気にしないで。可愛い弟のためだもの」
 姉の言葉に、弟は嫌そうに顔を歪めた。好意は有難いが、言葉にされると妙な反発心が生まれた。
「鬱陶しいぞ、姉者」
「……やっぱり可愛くない。アトラスならもっと素直に応えてくれるのに」
 頬を膨らませ、ハープはロンダルキアへ残してきたもう一人の弟を引き合いに出した。
 確かに、彼らの弟であるアトラスは、二十歳を超えている割に、そして巨体の割に、神経が細やかで優しい性質だ。バズズと比して可愛らしい。
 バズズは厳つい見た目の弟を想起し、苦笑した。
「アトラスが無邪気すぎるのだ。それよりも、例のモノは?」
「んー。もっと下かな。入口はたぶん――」
 ガタッ。
 物音がした。
 二人は振り返った。彼らの視線の先には、見覚えのある三名がいた。
「うきゃああああああああああぁあああぁあ!!」
 恐怖に顔を引き攣らせ、ハープが広間を駆けだした。
 バズズもまた彼女の後を追った。
「ちっ。ロトの子孫が何故ここに……! 姉者、少し落ち着け!」
「アイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわい!」
 紅き瞳に涙を浮かべ、ハープは全速力で駆けつづけた。向かう先には開け放たれた扉があった。
 バズズはハープが扉の内に入り込むと、急ぎ扉を閉めた。これでロトの子孫がバズズたちを見失ってくれれば幸いだが、いくらなんでも楽観に過ぎるというものだろう。
 部屋の中を見渡すと、地面に大きな穴が口を開けていた。穴の中には整備された階段があり、更に地階へと向かっていた。
 ハープはその階段を一目散に駆け下りて行った。
「あ、姉者! 罠があったらどうす――」
 バズズが焦った様子で姉を呼び止めようとした時、部屋へと慌ただしく迫ってくる複数の足音が聞こえてきた。
(流石に惑わされてはくれぬか)
 舌打ちをした白き獣は、背の翼をバサリと広げた。そして、姉の後を追って地階へと向け、翔けた。

「バギ!」
 手で開けることすらもどかしかったのか、アイリが風の魔法を唱え、木製の扉を破壊した。
「追いますよ! あの女の実力ならば、必ず邪神が宿る像を探り当てるでしょう。横から掠め取ります!」
「堂々と強盗宣言すんなよ」
「やめろ、リアス。今のアイリに口答えすると何をされるかわからん」
 諦めの表情を浮かべ、王子二名は王女の後を追って地階を目指した。

 海底洞窟の底の底では、アリシアが口元を抑え、眉を潜めて佇んでいた。彼女の視線の先には異形のモノがいた。いずれも眠りについているかのように身動きをしない。
 血塗れの掌だけが密集していた。『彼ら』は掌だけでありながら、一人一人に生命の息吹が宿っていた。歪みばかりが目立とうとも、『彼ら』は確かに生きていた。
 同様に、金の毛皮に覆われた獣や、血のように赤い葉を携えた樹木、全身真っ赤に染まった人形、朱色の沁みた人骨など、いずれの異形にも命が宿っていた。『彼ら』は魔物ではなかった。その気配は、確かに人だった。
「メイバンプロジェクト、ですか」
 怒りを抑えるかの如く、静かな声でアリシアが呟いた。
 かつてデルコンダル国では、魔力を人に注入する研究がおこなわれていた。そうすることで、人は強大な魔力や膂力を得られた。しかし、その成功率は著しく低く、二百年程前に成功したのはたった一人、メイバンという名の王子だけだった。以来、人に魔を注ぎこむ実験を『メイバンプロジェクト』と呼ぶようになった。
「その名称を知るとは……貴女は一体何者ですか? アリシアさん」
 異形のモノの間を、初老の男がゆっくりとした足取りで進み出た。
 彼は教祖を名乗っていたが、その正体は全く別だった。
「私が何者かなどどうでもいいでしょう。デルコンダル国宰相、ドミニク=サリバン様」
「おや、私のことをもご存知でしたか」
 男が意外そうに瞳を見開く。
「まさに今、思い出したのです。メイバンプロジェクトを主導する以上、デルコンダル国の関係者であることは自明でしょう。そして、今の時代でメイバンプロジェクトを支持するのは、第一王子のラミスファルト様とその腹心たち、例えば、ドミニク様、貴方です」
 真っ直ぐと指差され、ドミニクは嘆息した。
「そこまで事情をご存知とは、驚きを禁じ得ませんな。国外どころか国内でも秘されている事実ですぞ」
「長く生きると嫌でも事情通になるものです」
「おやおや。随分とお若く見えますがな。女性の歳は分かりませぬな」
 優しい眼差しを携え、ドミニクが朗らかに笑った。そうしながら、彼は両の手を持ち上げ、かしわ手を打った。
 すると、方々で異形が蠢き始めた。
「なれば、メイバンプロジェクトの素晴らしさもご承知の筈」
「……くっ」
 アリシアは後退した。彼女は竜族と呼ばれる種族であり、人間と比して強い魔力を有している。しかし、その力は専ら守りに特化しており、敵を屠るには向かない。戦闘になれば逃げの一手を取らざるを得なくなる。
(……深追いしては危ないですね。シドーさんの奪還はまたの機会を窺うしかありませんか)
 彼女が大気中の魔力を集結し、帰還の魔法を唱えようとした、その時――
「アイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわいアイリさまこわい!」
「あ、姉者。静かにしろ。大概の者は障害となり得ぬが、見つかれば面倒だろう」
「だって、アイリさまこわいもんッ!」
 ハープとバズズが倒れ込むように、地階に下りてきた。
 同時に、異形が本格的に活動を開始した。騒々しい闖入者の元へ、金の獣や紅の人骨が襲い掛かった。
 ハープは反射的に腕を掲げ、魔力を集結させた。
「スクルト!」
 防護の壁が瞬時に形成され、異形の突進が止まった。
 ハープとバズズの瞳が彼らへと向かい、やにわに見開かれた。
「あ、姉者……!」
 呼びかけに、ハープは小さく頷いた。そして、静かな怒りを、紅色の瞳に携えた。
 怒りは魔力と成り、魔力は破壊と成った。
「バギマ!」
 嵐が地階に吹き荒れた。真空の刃は異形を屠り、そして、アリシアやドミニクをも襲った。
 アリシアは腕を風の刃へとかざし、意識を集中した。すると、風刃はすぅと消え去った。
 一方、ドミニクはなすすべもなく立ちすくんだ。彼自身に風刃を防ぐすべはない。恐怖に目を瞑り、そのまま斬り裂かれた。四肢を切断され、呆気なく絶命した。
 しかし、少女の怒りはそれでも収まらない。荒い息づかいで魔力を放ち続ける。
「バギクロス!!」
 先ほどよりも激しい嵐が、地階を駆け抜けた。生じた風が、いまだに蠢く異形たちを斬り裂いていく。
 異形たちは苦しみに呻き、しかし、どこか喜ばしげに、死を迎えた。
 ハープの瞳も、異形へ破壊を与える時には、どこか優しさを携えていた。異形は決して、彼女の敵ではなかった。
 地階に蠢いていた異形が全て活動を停止した頃合い、ようやく、風が止んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 肩で息をする姉の横で、バズズは迸る怒りを抑え込むように、顔を顰めていた。鋭い光の宿る瞳は、昏い闇の奥へと向けられた。
 闇の奥の奥には、確かに気配が在った。
 バズズは白色の体毛を逆立たせ、歯を食いしばる。ギリッと歯軋りが響いた。
 彼は、そして、ハープは、気配に覚えがあった。
 抱いた怒りのままに、バズズは大きく息を吸い込んだ。
「ラミスファルト! いるのか!」
 大音声が地階に響き渡った。
 その反響がようよう消え去った頃合い、代わりに、高らかな足音が響いた。闇の中から青年が姿を見せた。
「失敗作に呼び捨てにされるとは腹立たしい限りだな、バズズ。そして、十年前のメイバンプロジェクト唯一の成功例、我が姉ハープよ」
 デルコンダル国第一王子ラミスファルト=アルファ=モード=デルコンダルが、その腕に禍々しい像を抱えて、現れた。

 階段を下りきる手前で立ち止まったリアス、スケルタ、アイリの瞳には、横たわる異形と男、そして、ハープ、バズズ、アリシア、ラミスファルトの姿が映った。
 彼らは、漂う血の臭いに顔を顰めながら、疑問に首を傾げた。
「……あれ、リトリートの兄ちゃんか?」
 突如現れた伯父の姿にリアスがただただ戸惑う中、スケルタとアイリは冷や汗を垂らし、声を潜める。
「そのようね。今踏み込むのは得策ではなさそうだわ」
「ああ。状況は分からんが、俺らがあの国の裏を『知る』のはまずい」
 デルコンダル国は何かと黒い噂が絶えない。正面切って噂の真相に辿り着けば、場合によれば国同士の戦に発展しかねない。
 ロトの子孫たちはその場で気配を消し、様子を見ることにした。

 ハープは大気中の魔力を取り込み続けていた。彼女が生み出し得る最大限の破壊を、この場に呼び込もうと意識を集中した。魔力は光を形成し、ようよう破壊を生み出さんとした。
 その様子を瞳に映し、ラミスファルトは口の端を持ち上げ、嘲りの笑みを浮かべた。
「怒りに任せて破壊を生むだけか。幼い時分から何も変わっていないな、ハープよ」
「黙れ!」
 名を呼ばれることすら腹立たしかった。
 ハープは腕を振りかざし、ドミニクへ向けたよりも激しい怒りを、解き放つ。
「イオナズン!!」
 破壊の光球が放たれ、ラミスファルトへと迫る。光は弾け、その先に佇む者を爆散させる筈だった。
 しかし――
「コト。遊んでやれ」
 しゅっ!
「はいです! おにいさま!」
 突如、ラミスファルトを庇う形で、コトと呼ばれた女児が姿を見せた。
 コトは瞬時に魔力を集め、光の壁を生み出す。
「マホカンタ!」
 生じた光壁に、光球が弾かれた。光は生み出した者の元へと戻り、消えた。
 爆発する直前に、アリシアが間に入り、無効化の魔法で阻んだのだった。
「ご無事ですか?」
「す、すまない。どなたか知らぬが、助かった」
 バズズが礼を述べる一方で、ハープは相変わらず怒りを内包し続けていた。
 破壊が弾かれようと、彼女は破壊を放ち続ける。
「ラミスファルトおおおおおおおぉおおおぉおぉおおぉおお!!」
 絶叫と共に轟炎が、嵐が、雪華が、光弾が、放たれた。
 迫りくる絶望に、しかし、コトは可愛らしく頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「むぅ。おねえさまってば、コトのことむししちゃヤです!」
 女児は腕をひと振りし、全ての破壊を退けた。
 その破壊は真っ直ぐに洞窟の壁へと突き刺さった。海底洞窟に激震が走り、海水が勢いよく注ぎこんできた。
「……ふむ。ここはもう終わりか。まあ、ドミニクも死んだ。失敗続きだった実験場であるし、然程の痛手でもないか」
 ラミスファルトは何の感慨も無さそうに独白した。
 彼は、考えなしに魔力を放ち過ぎた姉を見やった。嘲りの視線を投げつけ、小馬鹿にするかのように、鼻を鳴らした。
「成功例というのは訂正せねばな。この駄作めが」
 ラミスファルトは言い捨て、もはや興味が尽きたかの如く視線を逸らした。
「コト。帰るぞ」
「はいです!」
 元気よく応じたコトは、魔力を体内に取り込む。
 脱出の準備を整えると彼女は、ラミスファルトの足に抱き着いた。そして、肩で息をしている姉へと無邪気な瞳を向けた。
「またおあいしましょうです、おねえさま!」
 しゅっ!
 デルコンダルの第一王子とメイバンプロジェクトの成功作は、そうして、姿を消した。

 海底洞窟が倒壊の一途を辿る。岩が崩れ、海水が勢いよく流れ込んでくる。
「はあっ! はあっ! はあっ!」
 ハープは魔力を使い過ぎた上に、動揺から過呼吸に陥っており、動けなくなっていた。
 バズズもまた動揺を隠しきれず、立ちすくんでいた。
「お、おい! スケさん! 脱出の魔法は?」
「いま準備してるが、そんなに直ぐは無理だ!」
「弱気なことを言っていないで集中しなさい!」
 リアスやスケルタ、アイリもまた動揺のさなかにあった。デルコンダル王家のいざこざの一端を知ってしまったことに加え、海底洞窟の倒壊を目の当たりにしているのだ。当然ながら、冷静さなど保てるはずもなかった。
 しかし、そのような中、アリシアだけが冷静に対処を進めていた。適切に素早く、必要なだけの魔力を集めた。
「リレミト!」
 集った魔力は帰還のための光となり、リアスたちやハープたち、加えて、洞窟で眠りこけていた一般の教徒たちをも包み込んだ。そして、彼らを瞬時に地上へ転送した。
 しかし、まだ安心はできなかった。皆が佇む小さな島もまた崩れ落ち、海底に沈もうとしていた。
 アリシアは続けて魔力を集めた。
「ルーラ!」
 此度は、集った魔力が転送の光へと変じた。その光が皆を包み込み、リアスたちが乗って来たラダトーム国の船へ運んだ。
「お? 船の上…… スケさんか?」
「いや、俺じゃない。あの綺麗なお姉さまだな。相当な魔法の使い手だ――ぐふっ」
 スケルタの頬にアイリの拳がめり込んだ。小気味のいい音が海上に響いた。
 しかし、その日常の音もまた、ようよう、島の崩壊音という絶望によって掻き消えた。轟々と海流が海底へ吸い込まれていった。
 アイリが拳についたスケルタの血を拭いつつ、渦巻く海上へ瞳を向けた。
「ふう。目的は達成していませんが、いち段落ですかね」
「あ、姐さん? リアスさんにスケルタさんも…… あ、あのぉ、あの方々は?」
 船の乗組員たちが戸惑った様子で、眠ったままの教徒や、肩で息をしているハープ、彼女を心配するバズズの姿を忙しく眺めた。
「……気にしないようになさい。あの女と魔物は構わないで。他の眠っている者は――船室にでも放り込んでおいて」
「あ、あいさぁ!」
 忙しく動き始める乗組員たちを横目に、リアスたちがひと息ついた。
 アリシアもまた、緊張の面持ちを緩めた。
 ハープはいまだ動揺を抑えきれず、その上、アイリの姿にびくびくと怯えていた。バズズもまた警戒の色を隠さなかった。
 それぞれの気持ちに関わらず、海上の空は青々と澄みきっていた。その空を白雲が安穏と流れて行った。
 海底洞窟が沈みゆき、皆の心にさざ波が立つ中、世界はただただ平和を装っていた。


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