1.旅立ち前夜

 雲ひとつない月の輝く夜、一人の少年が思い悩んでいた。普段バンダナを巻いてまとめている黒い髪は、クセがついて逆立っている。
 彼は明日、十六歳になる。
「母さん……」
 呼びかけられて彼の視線の先にいた女性が振り返る。
 長い黒髪を後ろで一つに縛っている。瞳が大きく、歳の割に可愛らしい顔立ちなのだが……随分と苦労しているのだろう、その顔には強い疲れの色とそれを隠そうとするような少し不自然な笑みが浮かんでいる。
「あら、ジェイ。どうかしたの?」
 ジェイと呼ばれた少年は真剣な表情で母親をみつめている。その顔に浮かんでいるのは決意、正確には迷いを含んだ決意だ。彼自身その決意が正しいのかわかっていない。
「俺、残ろうかと思うんだ……」
「……怖くなったの?」
 真剣なジェイに対して、母はどこかおどけた様子だ。なんだか楽しんでいるようにも見える。
「ち、違うよ。そうじゃない。ただ、父さんだけじゃなくて俺たちも旅立っちまったら、母さんは……」
「あら、お爺ちゃんがいるわ」
 なんでもないという風に言う母に、息子がすぐに言葉を返す。
「二人だけじゃ寂しいだろ」
 ここで母が突然笑い出した。
「アハハハハ!」
「か、母さん……?」
 呆気にとられるジェイ。
「フフッ、ごめん、ごめん。二人して全く同じことを言うものだからおかしくって」
 謝りながらもまだ含み笑いをしている。
「二人?」
「ケイティもさっき同じこと言いに来たわ。いつも喧嘩ばかりしていても、やっぱり双子なのねぇ」
 それを聞いたジェイの顔が歪む。
 件のケイティはジェイの双子の妹。双子のわりに全く似ていないと近所でも評判なのだが、それは外見や性格に関しての評価。行動は今回のように同じ道筋を辿ることが多い。
「わたしは幸せね。二人の優しい子供に恵まれたんだもの」
 母はジェイの表情の変化は気にせず思ったことを口にした。
 その言葉を聞いてジェイが再び顔を歪ませる。さっきとは少し違う表情。何かを悔やむような、そんな顔。
「でも! でも、王の命令がなければ、父さんも、俺たちも魔王を倒す旅になんて出なくてもすんだ。そうすればきっと……、もっと普通の暮らしをして普通の幸せな時を過ごせた……」
 そう言ってから、母を見ていた目を逸らす。

 ジェイが生まれた頃くらいに、この世界に魔王バラモスと呼ばれる魔族が現れた。人間の脅威となる魔物の上位に位置するとされる種族、それが魔族と呼ばれる存在だ。その魔族たるバラモスはこの世界に蔓延る魔物の全てを統べこの世界を破滅へと追いやろうとしている――というのが伝えられていること。
 それが事実かどうかジェイには、いや誰にも分かっていない。
 しかし少なくともジェイにとっては事実かどうかなんてどうでもいいことらしい。父も自分たちもそんなものに関わらずに生きられたらよかったのに、そんな気配が表情や言動から読み取れる。
 加えて彼にとっては、こんな世情に関わることを強要した王もまた憎い存在なのだろう。父の時も、そして自分たちの時も。
 大事なのは事実ではなく自分たちが立たされている立場。父親が立たされた立場。それによって齎された結果。

 ところで、ここで話を替えて魔王について話そう。
 その魔王の存在を知るものは多くはない。別に魔王がある日世界中に向けて高らかに世界征服を宣言したというわけではないからだ。
 しかし各国には、国同士のネットワークによって中枢にいるものにそのことが伝えられた。その出所がどこなのかという疑問が上がったこともあるが、噂が出た時期に魔物の凶暴化と増加が始まったことからその疑問は気にされなくなっていった。
 そんな中、ジェイの父オルテガはアリアハン王宮で一番の戦士であり魔法の力も持っていたためにその魔王を討伐する任を王から与えられたのだ。
 彼の旅の功績はやがて世界中から齎された評価が示している。
 曰く、魔物の被害にあっていた村を救った。
 曰く、近隣を荒らしまわっていた盗賊を懲らしめた。
 曰く、魔王の策略によって滅びようとしていた国を救った。
 中には魔王と関係ない事件もあるが、オルテガが世界に齎した影響はこんなにも大きい。
 しかし、そんな素晴らしい戦士であった彼も六年前、魔王に届くことなくその部下との戦いによって火山の火口へと落ち十年の旅を終えたという。
 そしてその先にあったのは、彼の子供、ジェイとケイティの旅立ち。

「ジェイ、誰かがやらなければいけないことなのよ。あなたたちや……父さんが、その大事な仕事を為すために選ばれたこと、わたしは誇りに思うわ。それに、あなたたちを旅に出すことを決めたのは王様ではなく……わたしよ。そのことが、あなたを苦しめているのなら……ごめんね」
 ジェイの顔が強張る。その顔に浮かぶのは怒り。その向う先は、
「違う! 母さんが謝ることじゃない! 父さんが死んだ時、王が、あいつが魔王の存在を人々に伝えたからこの国全体が父さんの血筋に期待するようになって、母さんは強制的に俺たちを差し出させられたようなものだったって、アロガンおじさんが!」
 その言葉を受けて、母が少し悲しそうに目を伏せた。
 しかし、すぐにいかにも困ったというような顔を作り、
「もう、アロガンさんったら意外とおしゃべりなんだから」
 そう言って笑った。そして続ける。
「でもね、それは王様が悪いことにはならないわ。最後に決めたのはわたしよ。わたしなの」
 顔にはまだ笑顔が浮かんでいる。しかし、その瞳は悲しそうだった。
「でも……」
 ジェイは更に何かを言おうとして、しかしその先が出てこない。
 彼にはもう判っていたのだ。
 もう後戻りなどできはしない。国中が彼らに期待している。それを裏切るなど許されることではない。この話題は、母に悲しみを再認識させるだけの意味の為さないものでしかない。
 もうやめよう、そう思ったのかジェイは一度強く首を振った。
「母さんは――」
 その言葉の先は発せられることはなかった。
 代わりに自嘲気味の笑みを浮かべるジェイ。
 その一連の挙動の意味は、語るべきではないのだろうことは想像に難くない。
「なんでもない」
「そう? 変な子ね」
 母は笑った。そして息子も……
 月が二人の顔をはっきりと照らしていた。
 明日は旅立ちの日。

「真似しないでよね」
「――ケイティ」
 ジェイが母のいる部屋を出て自分の部屋に戻る途中、ケイティがいた。
 一瞬何のことかと思ったジェイだったが、すぐに母が言っていた事を思い出したのだろう、不機嫌そうな顔をケイティに向けて一言。
「こっちのセリフだよ」
 それを聞いたケイティは、すでに強張っていた顔を更に険しくした。
 母譲りの可愛らしさを持った顔立ち。黒髪が肩上くらいまで伸びていて外側にはねたり、内側にはねて顔にかかったりと、第一印象は寝癖とかクセッ毛のそれとなんら変わらないが、自分でこのようにセットしている。
「何よ! 私の方が先だったのよ!」
 夜であることを考慮しているのか、声はそれほど大きくない。しかし、不機嫌さがよく伝わるような鋭さが込められている。
 そんなケイティの言葉に対し、同じく声をあまり大きくせずに応えるジェイ。
「先とか、後とか関係ないだろ!」
「あるわよ! 私の方が先だった以上、後のあんたが真似したことは明白よ!」
 ケイティが発したよくわからない結論に、ジェイが呆れたように、それでいて多分に不機嫌さを込めて言葉を返す。
「んな理屈があるか!」
 このやり取りから窺えるように二人の仲は決してよくはない、というより完全に悪いのだ。しかし双子らしく――ちなみにこういう評価も二人は好まない――行動を同じくすることが多々あり、それもまた彼らの仲が更に悪くなる原因の一つなのだった。
「なあ」
「ねえ」
 同時に声をかける二人。当然――
「真似すんな!」
「こっちのセリフ!」
 軽く言い合いが始まる。これまたいつも通りの光景だ。
 しばらく言い合いが続いた後、ジェイが先ほど言いかけたことを改めて切り出す。
「明日の出発の時は喧嘩しないようにしよう…… 母さんが心配する」
 顔中に、不本意だけどな、という気持ちが詰め込まれていた。
「フンッ! そんなの言われるまでもないわ」
 そしてどうやらケイティも考えていたことが同じだったようで、そのことが彼女のイラつきを更に強くしたようである。
「あんたが余計なことしなけりゃ、私は喧嘩をふっかける理由もないわ」
 そのイラつきを和らげるためか、言葉の端々には針のような鋭さが込められている。
「あー、そうかよ。これ以上話していてもイラつくだけだし、俺はさっさと寝かしてもらう」
 ケイティの棘のある言葉を受けたためなのか、それともケイティと同じような理由で不機嫌になったからなのか、ジェイの言葉にも怒気が込められていた。
「どうぞ、どうぞ。こっちとしても願ったり叶ったりだわ」
 そう言って二人はそれぞれの部屋に向う。その方向も同じなものだからしばらくは小声で言い合いをして、更には手が出ることさえもあった。
 しばらくしてそれぞれの部屋の前に到着し、別れ際には罵りあってドアを強く閉める。
 二人は最後まで喧嘩し続けて床に着いた。
 さて、これで明日喧嘩しないなんていう難しいことができるのか?
 アリアハンの夜は更けていく。