2.勇者たちの旅立ち

「ケイティ、もう朝よ。起きなさい」
 母さんの声。いつもの朝……とは少し違う。
 今日、私は十六歳になったのだ。旅立ちの朝。
「おはよう」
 なんだか泣きそうになったが、なんでもないというようになるべくいつも通りの挨拶をした。
 それが正しいことのような気がした。理由はない。なんとなく、そう思った。
「おはよう。ご飯はできているわよ。着替えて降りてきなさい」
「うん」
 私の返事を聞いてから、母さんは階段を下りていく。
 その後ろ姿を見送ってから着替えを始める。シャツを着る途中、それで顔を隠しつつ少し泣いた。
 着替え終わって、階段を駆け下りる。
「お腹空いた〜。今日のご飯何?」
 明るくそう聞くと、母さんは私に笑顔を向けて応えた。
「何って? 朝ごはんはいつもパンとジャムでしょ?」
 えぇ! と大声を出して、残念そうな顔を作る。
「旅立ちの朝なんだから、すっごい豪華な料理がてんこ盛りの夢のような朝食がよかったのに〜」
「そんなお金はありません。うちの食いしん坊なお姫様には困っちゃうわね」
 毎朝交わされる軽口。馬鹿なことを言った私に、母さんが優しく反応する。そして……
「あれ、じいちゃんとジェイは?」
 いつもなら、じいちゃんとジェイがややきつめのツッコミを入れるのだが……
 じいちゃんはジェイと似て、口が悪くてきつい。いや、この場合、ジェイがじいちゃんに似ているというべきか。
 しかし私はジェイのことは気に入らないがじいちゃんのことは大好きだった。なぜかはよくわからない。身内を好きなことに理屈がいるとも思わないので深く考えたことはない。しかしそれなら、ジェイのことが気に入らない理由はなんなのか。それも気にしたことは特別なかった。嫌いなものは嫌いなのだから仕様がないと思う。どちらにしても、あまり考えないのだから、私は深く考えない性質なのだと思う。
「ジェイとお爺ちゃんはご飯を食べ終わって、剣の稽古をしているわよ」
 パンの入った皿をこちらによこしながら、母さんが言った。
 その答えを聞きながら右手をパンに向けて、がっちりとつかみ口へ運ぶ。思わず呆れた声が漏れた。
「はぁ? 今日、出発するってのに稽古しているの?」
「ジェイは力強さでは何の心配もないけど、剣の技術がなっとらん! ってお爺ちゃんが。ジェイはいまだに十回に五回はお爺ちゃんに負けているんだって。だから最後の仕上げに……ってことみたい」
 それはいつもの稽古を見て私も感じていた。ジェイがじいちゃんに勝つときは、大体力で無理やり剣を弾き飛ばすといったような勝ち方しかしていない。きっと単細胞だからだ、といつも考えている。
「ケイティもご飯を食べたら来なさい、ってお爺ちゃん言っていたわよ」
 その言葉を聞いて口に含んだミルクを噴出しそうになった。かろうじてそれを飲み込み、不満に似た返事をする。
「え〜、何で!? 私は、じいちゃんに負けることなんてほとんどないのに」
 ジェイと違い素早い動きと剣の技術で攻める私は、寄る年波には勝てなくなってきたじいちゃんにはここ一年ほど連戦連勝だ。
 母さんは少し楽しそうに後を続ける。
「でも、ジェイにはよく負けているんでしょう」
「うっ」
 痛いところを突かれた。私はいままでずっと休まずに動かしていた食事の手を思わず止めて呻く。
 確かにその通りなのだ。ジェイが筋トレばかりしていたせいなのか、それとも男女の差という根本的な違いからなのか、明らかに力強さという点で私はジェイと大きく差ができていた。そのためか、力勝負に持ち込んでくるジェイとの勝負にはずっと黒星が続いている。
 ジェイだってじいちゃんや私に劣るが、ずっと稽古を続けてきたのだから剣の技術もそれなり見についている。
 それゆえに全ての攻撃をかわすことは難しい。しかし、剣を受けると力で押し切られる。それが、ジェイとの勝負の典型パターンなのだ。
 止めていた食事の手を再び動かしながら、強がりにも似た言葉を返す。
「そ、それは連続で勝負するからだもん。疲れだして、避けきれなくなってくるとジェイに負けるの! ちゃんとイーブンで勝負すれば、私が絶対勝つんだから」
 少し嘘を吐いた。確かに、息が整っている状態で勝負をすればすべての攻撃を避けつつジェイの剣を弾くことも可能なのだけど、それでもやはり実行できることは珍しい。たいていは避けきれずに剣で受け、そのまま押し切られる。
 だが、それを認めるのはとても嫌だった。技術では勝っているのに、どうしても勝てない。その理不尽さがとても悔しくて、とても恥ずかしいと感じていた。それを母さんに、いや他の誰にであっても知られたくはなかった。
 小さな子供みたいだな、そんなことを思う。
「でも、それは体力がないってことでしょう? 心配だわ…… 旅では何時間も歩いた後に戦闘になることもあるだろうし、それがジェイ以上に力の強い魔物だったら……」
 言って、母が暗い顔になる。
 しまった。
 母を心配させないと決めていて、昨日はジェイと喧嘩を絶対にしないという約束までしたのに、余計なところで変な意地を張ったせいで結局心配をかけてしまっている。
 すぐに何か言い訳をしなければいけない。
「大丈夫だってば。旅ではジェイも一緒なんだから、そういう体力勝負が必要な時はジェイを当てにすればいいでしょ?」
 私の言葉を聞いた母さんは少し黙ってから、それもそうね、と言って明るく笑った。
 それを見て安心するが、実はこの言葉にも大きな嘘が混じっている。
 本当は、ジェイとは一緒に行かないことにしているのだ。理由は簡単、嫌いだから。
 しかしそれでも、母さんが安心したように見えたので嘘をついてよかったと思う。誰かを幸せにする嘘は吐くべきなのだと、私はいつも思っている。

 しかし母が安心したのはケイティの嘘のためではなかった。ケイティと行くことになっているはずの仲間のことを思い出したからだ。その人物はジェイと同じぐらい頑強で力強い。彼なら今ケイティがジェイの位置づけとして指定したポジションにふさわしいはずだ。
 そう、実は母は、ジェイとケイティが別々に旅立つことを知っていたのだ。まあ、普段の二人を見ていれば、大人しく二人一緒に旅立つことはないだろうというのは、大抵の人間が思いつく。それゆえに、母はおそらくそのことを二人が話しているであろう人物たちに聞いてみたのだ。
 宿屋のアロガンの子供二人。息子のアランと、娘のエミリア。この二人はそれぞれ、ケイティ、ジェイと旅立つことになっている。まあ、元々はこの四人全員で行く予定だったのだが……
 それはともかく、このアランこそが頑強で頼もしいケイティの仲間なのである。現在は王室付きの戦士団の一員として働いていて、歳は二十、白い髪を短く切っていて背はかなり高い。目つきは生まれつき鋭いのだが、性格的に心配性で苦労人であるためなんとなく優しい顔つきになっている。
 一方エミリアは、多彩な魔法の使い手。十四歳という若さにして魔法使いとしての呪文の大半を使いこなし、僧侶が使う回復や補助の魔法も少ないが使う。魔法使い、僧侶両方の魔法を使うのだから一般にいう賢者のくくりに入るのかもしれないが、本人曰く、自分は魔法使いであると譲らない。それはどうも、昔ジェイが、魔法使いってカッコいいよな〜、とこぼしたためらしく、エミリアがジェイに明らかな好意を持っていることが窺える。髪の色はアランと同じで白く、その長さは肩の辺りまである。目つきもアランと同じで鋭いが、こちらはジェイに対しては歳相応の少女らしい顔を見せるのだが、他の人に対しては鋭い目つきを更にするどくしてややきついことも平気で言うからアランとは正反対と言ってもいい。

 エミリアちゃんはジェイが困りそうなことはしないから、質問に対してもとぼけていたけど、アランくんはわざわざ別々に発つことに反対の気持ちをもっていたようで、正直に話してくれた。
 出発の日までには二人を説得してみせますから安心してくださいと言っていたけど、駄目だっただろうと思う。ジェイもケイティも一度決めるとけっこう頑固なのだ。母親だからそれくらいは分かる。それにアランくんは押しが弱い。特にケイティには少し甘いところがある。
 ご近所さんだから結婚してもあまり寂しくないわね、そんなことを思った。
 その時ケイティがなんだか上機嫌で立ち上がった。
「ごちそうさま〜! じゃ、じいちゃんとジェイの所に行ってくるね」
「あら、もういいの?」
 いつもなら、もっと食べるのにと思って言葉を紡ぐ。ケイティはかなりの大食いで、朝はまだ少ない方だがそれでもかなりのパンを平らげるのだけれど……
 ケイティがその質問に笑いながら返す。
「もうって……いつも通り、パン十個食べたけど?」
 その通りだった。その分のパンが入っていた皿が空になっている。あら、本当、とつぶやいて目を丸くする。自分ではしっかりとしているつもりだったが、すこしボーっとしているのかもしれない。
 頭を軽く振って気合を入れ直し、浮かんだもう一つの疑問を口にする。
「ところで、結局稽古に行くの? 散々文句言っていたのに」
「せっかくだから、じいちゃんにバカ力のいなし方を聞いて、旅立つ前にジェイの奴をこてんぱんにしてから気持ちよく旅立ってやるわ」
 言っていたずらっぽい笑みを浮かべるケイティ。それを聞いて苦笑してしまう。
 今の言葉は別々に行くことが少し窺える感じだった気がする。前から言ってきたことなのだが、ケイティはもう少し考えて発言した方がいいと思う。
「それじゃ、いってきま〜す」
 元気よく飛び出していくその後ろ姿を見つめ、少し、寂しくて、悲しくなった。
 そんな自分の心の動きに可笑しさを覚える。
 今は本当の旅立ちじゃない。それなのに寂しかったり悲しかったりしていて、本格的に旅立つその時にどうして笑えるのだろう。
 笑って見送らなくちゃいけないのだ、この国の英雄たちを。おそらく彼らが私に心配をかけまいと苦心しているように、私も彼らに心配をかけてはいけないのだ。笑わなくては……
 だから食器を片付ける手を止めて、少し泣いてしまおうと思う。
 彼らの笑顔の旅立ちのために。

「これっ! もっと足を動かせ!」
「くそっ!」
 俺が上から思い切り大剣を振り下ろすと、爺ちゃんは一瞬だけそれを自分の剣で受け、体をひねってその勢いを受け流す。そして、俺の足もとに軽く足を掛けた。足がもつれて態勢が崩れた。
 軽くよろめくが何とか態勢を立て直し、再び爺ちゃんへ向って攻撃の手を向けようとする。しかし……
「うっ」
 爺ちゃんの剣が目の前にあった。
「いつも、力だけではダメじゃと言っておるじゃろ、ジェイ。剣の技術は急ごしらえでどうにかなるものではないがの。足もとにはもっと注意を向けるようにせねばならん。今のようにちょっとひっかけられるだけで態勢が崩れ、その隙は戦いでは致命的なものになる。逆に、自分が足を動かして相手の体勢を崩すことに成功すれば、剣の技術が追いついていなくても相手の隙をついて攻撃を加えることもできる」
 くどくどと続ける爺ちゃんの声を聞いて気が滅入る。
「そんな話はもう何十回も聞いているよ、爺ちゃんボケたんじゃねえか?」
 勿論、本気で言っているわけじゃない。
 何十回も言われて頭ではわかっているのだがどうも体が動かない。上半身と下半身を同時に動かすなんて頭がこんがらがる。そんな状態を情けないと俺自身思っているから、こんな軽口でも叩いていないとやっていられないんだ。
「これ! 誰がボケとるんじゃ! まったく……どうもお前は頭を使うこと全般が苦手なようじゃの。魔法もホイミとメラしか覚えられなんだし、持久力と筋力は人並み以上なのにそれをいかすような動きをとろうとすると頭がこんがらがって単純な動きしかできない。ケイティの技術力の十分の一でもあれば格段に強くなれるはずなんじゃがのぉ。まあ、そのケイティはケイティで問題があるが……」
 双子として生まれたから父さんの強さがそれぞれ別れてしまったのかもしれない、と俺は前々から思ってきた。ただ、これは自身を納得させるための言い訳みたいなもので、実際はそんなに血筋というものが絶対的なものではないと思う。
 だから、俺が魔法を苦手としていてその上頭を使った戦い方が上手くできないのも、ケイティに体力があまり身につかないのも、結局は俺たち自身のせいなのだと思う。ただそんな情けない状態を認めるのが嫌なので、双子であることをその原因として持ち出しごまかすのだ。まあ、そんな考え方は考え方で情けないなぁと思うこともあるけど……
「まあ、いいじゃん。どうせ、全部完璧なんて無理なんだから。俺がうまくできないことは他の誰かにやってもらって、俺は力自慢の魔物とガチンコ勝負をしてればいいっしょ」
 これは俺のよく使う持論。自分ができないことは他の人の協力に頼る。人との関わりを大事にする立派な論旨にも聞こえるかもしれないけど、実は面倒だから他人に任せて楽に生きよう、という風に考えているので実は立派とはほど遠い。爺ちゃんはその辺のことは十分わかっているから怒った顔で声を掛けてくる。
「そんなことを言って、これ以上稽古するのが面倒くさくなっただけじゃろ。確かにできぬことを他の者に頼ることは恥ずかしいことではないが、なるべく多くのことを自分でできればそれにこしたことはない。とりあえず、剣と足技の連繋のひとつくらいは憶えて出発せい!」
 この後の稽古は少しきつくなるかもしれないなぁと思いながら、口は災いのものとはよく言ったもんだな、と変な納得をする俺。
 その時。
「おはよう、じいちゃん。今日もジェイは負けまくってるんでしょ? 弱っ!」
 と、喧嘩を売るようなセリフを吐きながらケイティがやって来た。
「おぉ、ケイティ、来たか」
「その弱い俺に、ほとんど勝てないお前が何を言ってんだ」
 爺ちゃんは笑顔で、俺は憮然とした顔で言葉を返す。
 爺ちゃんは俺よりもケイティに甘い。昔は魔法とか剣の技術の習得がケイティの方が早いからそうなのかと思っていた。だから少しいじけたり、ケイティをいじめたりしていたこともあったけど、どうもそうではないらしい。
 男として当然のなりゆきというか、同じ孫でもケイティが女だから――まあ、あんなんでも一応女だから――甘くなるようなのだ。そのことに気づいてからは、特にケイティに嫌がらせをするとかそういうことはしなくなったのだが、その時のケイティいじめがその後の俺たちの間の不仲を決定的にし、それ以来ちょっとしたこと、行動の一致などが鼻につくようになって現在の状態になった。
 俺たちの不仲は俺がもたらしたとも言えるわけだ。ただ、だからと言ってこの関係を今さらどうしようとも思っていない。きっかけはどうでも、今現在あの女が気に入らない。それが問題なんだからな。
 そこでふと、父さんも生きていたらやっぱりケイティに甘い親になっていただろうか、と無意味な疑問が浮かんだ。顔も覚えていない父さん、どういう人だったかはよく知らない。
「ふん、そんなこと言ってられるのも今のうちよ。じいちゃんに馬鹿力必勝法を訊いてあんたなんかけちょんけちょんにしてやるから。というわけで、じいちゃん何かコツみたいなのな〜い?」
 ケイティが笑顔を爺ちゃんに向けている。爺ちゃんは苦笑を浮かべ、
「ジェイの目の前で訊いても仕方ないじゃろ。ほれ、耳を貸せ」
 そう言って何か二人でごにょごにょと内緒話を始めた。そしてしばらくして、
「よし、覚悟しなさい。馬鹿!」
 こっちを見てケイティが憎たらしい笑顔で挑発してきた。
「誰が馬鹿だよ、まったく」
 腹は立つが反応するのも疲れるので軽く言葉を返して俺は剣を構える。
 ケイティも腰の鞘に収めていた二本の短剣を抜いた。
 まず、ケイティの右手が動いた。短剣をこっちに向って投げ、左手に持っていたもう一方を右手に持ち替える。
 向ってきた短剣を剣で弾くと、短剣が地面に突き刺さるのが横目で見えた。その間に、ケイティが間合いを詰めて俺の首もとに向って短剣を繰り出した。
 それを剣で受けてそのまま手から短剣を弾いてしまおうとするが、ケイティはすぐに右に跳んで力勝負を避ける。地面に刺さっているもう一つの短剣を素早く拾いながら、膝のバネを使って上に跳び、二本の短剣を繰り出してきた。
 これを受けると、さっきと同じ様な動きを繰り返しケイティは素早い動きで様々な攻撃を仕掛けてくる。
 そのことごとくをなんとか処理していく。いつも通りの展開だ。
 いつもなら、この後も同じような応酬を繰り返し、ケイティが疲れて動きが鈍くなってきた頃に力で押し切って勝負を決めるが……さてと、爺ちゃんはどんな策をケイティに与えたんだろうな……
 と、ケイティの動きが少し鈍り始める。疲れてきたのかもしれない。
 しかし、どうもいつもより疲れだすのが早い気がする。寝起きだからか、それとも……
 ある考えに思い至って、思い切り力を込めて剣を振り下ろす。ケイティはいつもの疲れたときのように避けきれず、それを右手の剣で受けた。
 そこでケイティが急に顔に力強さを取り戻し、素早く体を左向きに回転させつつ右手の剣を引いて俺の剣を受け流す。疲れたふりだったわけだ。
 その勢いのまま左手の剣を俺の首もとに突きつけて、そのまま勝負がつく……はずだった。
 だけど、俺はそういうたぐいの動きをするだろうと踏んで、剣を完全に振り下ろさずに途中で止め、腰を下ろしてケイティの左の剣を避けた。
 そして勢いがついているケイティの足を払う。
 完全に勝ったと思っていたのだろう。ケイティは意表をつかれた形になり簡単に転んだ。そこに、俺が剣をつきつけて勝負がつく。
「俺の勝ち、だな」
 笑みを浮かべ、ケイティを見る。
 ケイティは悔しそうに顔を歪め、腹立ちまぎれに短剣二本を五メートルほど離れた所に立っている木に投げつける。刃の中ほどまでが木に食い込んで刺さった。
 おお、おっかねぇ。
 爺ちゃんが意外だという顔をして、こっちに向って口を開く。
「よく演技だとわかったな。わしがやるといつも馬鹿正直に引っかかるじゃろう?」
「だからだよ。爺ちゃんが俺に勝つパターンの中でこういうのがあったなぁ、と思ってさ。爺ちゃんが相手の時は俺が何かする前にやられるけどな。ケイティはなんかわかりやすいし、それに弱いからなぁ」
 と言って思い切り笑ってやる。勿論ケイティのやつに対する嫌がらせ。
 ケイティは聞き捨てならないという風に目を吊り上げ、突っかかってくる。
「誰が弱いのよ! 今のは運が悪かったのよ! そう! 運よ、運! あんたなんか運だけで生きている馬鹿野郎よ! バーカ、バーカ!」
 こいつって結構馬鹿だよな。子供のような悪口が続くのを聞きながら思った。

 悪口が途切れた隙にジェイに声を掛ける。
「別にお前が何も考えていないなんて思っていたわけじゃないが……正直驚いたぞ。いつも馬鹿正直にやられているから、筋トレ以外に興味がないのかと思っていたが……わしとの稽古の時にももっとそういうのを試したらいいじゃないか?」
 不思議に思ったので訊いてみる。稽古でこそ様々な攻撃を試して、手数を増やすべきだろう。
「さっきも言っただろ、爺ちゃん相手だと動きについていけないんだ」
 確かにわしの動きはジェイよりは速いだろうが、納得できないことが一つある。
「最近じゃ、ケイティの方がわしより動きが速くなっていると思うがの」
 そろそろわしも、六十代も半ばにさしかかろうとしているから動きが鈍くなってきてはいる。それでも他の年寄連中には、いやそんじょそこらの若者にだって負けるつもりはないが、わしがずっと稽古をつけてきた上に育ち盛りであるケイティの速さはわしの比ではないのだ。
「ケイティは速くても、目線とかでなんか動きがわかるんだよ。単純で馬鹿だからな」
『単純で馬鹿』のところに力を入れるジェイに向ってケイティが蹴りを入れて、今度は殴り合いの喧嘩が始まった。
 これくらいはいつものことなので、少し離れたところで眺める。ずっと似てない二人だという認識を持っていたが、意外と似ているところもあるのじゃなぁと感心する。
 色々思考を巡らして戦いを進めるケイティに対してジェイはほぼ直感で動く、と思っていた。しかし実行していないだけでジェイも色々と考えながら稽古を受けていたのだと、こんな出発ぎりぎりに理解するとは……もっと早く気づいていればもっと他の鍛え方もできたのではないかと悔やまれる。
 しかし、考えてみればその結論をもっと早く持って然るべきであったかもしれない。ジェイは普段戦いのとき以外は、色々と余計なことまで考えていることが多い。それに対して、ケイティは普段はほぼ本能に沿って行動しており戦いのときのジェイを思い起こさせる。だから、戦いにおいてそういうところが少なからず出ていてもおかしくはないのだ。
 ジェイには考えていることを実戦に投入することを、ケイティには時には直感に頼ることを薦めるのもいいかもしれない。
 そこまで考えたとき、ジェイとケイティの喧嘩が終わった。
 今考えていたことを二人に伝えてみると二人は互いの顔を見て、こいつと似ているなんて冗談じゃないというように顔を歪めたが、忠告をとりあえず聞き入れてくれたようだった。あとは実戦で試してみて実力をつけていくだろう。幸いこの辺りの魔物は弱い。
 そこで稽古を終わることにした。そろそろ城に行く時間だ。この稽古場もしばらくは静かになる。
 わしの後ろを二人が並んで続いて、家への帰路についた。
 孫たちの稽古をわしはきちんとできていただろうか。帰りながらそんなことを考える。
 彼らの父親であり、わしの息子オルテガ。あいつはジェイやケイティよりも遥かに強かった。そして、この老いぼれなどよりも。
 だが、あいつは死んだ。
 それなのに、ジェイもケイティも弱点ばかりで、まだわしにさえ負けることがある。六年しかなかったとはいえ、もっと鍛えてやることもできたのではないか、そんな思いがどんどんと沸いてくる。
 毎日彼らと稽古を続けてきて、いつかこの日が来ることもわかっていた。この日に向けて最善と思われる稽古をしてきたつもりだったが、いざ出発となるともっと何かができたかもしれない。そう思えてしかたがない。
 気がつくと頬が温かかった。
 歳を取ると涙腺が緩んで困る。幸い後ろを歩いている孫たちには見えないだろう。すれ違う街の人間には見られているが、彼らも今日がどういう日か理解しているから見ないふりをしてくれている。優しいご近所さんが多くて嬉しい限りじゃな。
 家が見えてきた。
 もうすぐ旅立ちの時か……

 帰ってきてジェイとケイティはそれぞれ自分たちの部屋で着替える。
 ジェイは鎖かたびらを着込みその上にシャツを着て、その更に上から厚手のマントを羽織る。
 ケイティは重いものを着られないので、魔法で強度を高くしているハイネックのシャツを着て、首の辺りにはスカーフを巻く。さらに鞄のように肩で背負うような形態の薄いマントを付けた。
 二人とも下に降りると、祖父がサークレットを二つ差し出した。片方には青い石が、もう片方には赤い石がはまっている。
「このサークレットには、防御の魔法が込められていてちょっとした攻撃なら弾いてくれる。つけていくといい」
 二人はなんだかお揃いみたいで嫌だったが、母が見ているからここで喧嘩をするわけにはいかない。それに祖父の好意を無下にするのも本意ではない。ジェイは青い石の方を、ケイティは赤い石の方をありがたく貰うことにする。
 そして、いよいよ家を出発する時だ。
 母は城の前まで見送ることになっているが、祖父は行かないからここで別れることになる。
 さっきまで一緒に稽古していたのに、すぐに会えなくなるなんてなんだか不思議な感じだと二人は思った。正直とても寂しかったが顔には笑みを張り付ける。次に会うときまで笑顔を覚えていて欲しい、そう思っているようだ。
 祖父は二人を順に見つめた後、小さな声で、
「魔王なんて倒せなくてもいいぞ。とりあえず、わしより長く生きとくれ」
 そう言って笑う。
 ジェイとケイティが魔王なんてどうでもいい、というような発言をすることはけっこうあったが、祖父はそれを聞いてよく怒っていた。だから、稽古は魔王を倒すためにあると二人とも思っていた。しかし、祖父の稽古は孫たちを守るためのものだったのだ。そんなことにも今まで気づけなかったと思うと、二人は危うく泣きそうになった。
「じゃあ……行って来い」
 祖父はそう言って、さっさと自分の部屋にいってしまう。
 二人はその行動の理由は深く考えない。考えちゃいけないのだ……

 家を出て私の後をついてくるジェイとケイティ。そんな彼らに近所の人たちが声をかけてくる。その全ては期待の言葉。
 彼らに悪気がないことはわかっているのだろう、二人とも笑顔で応えるよう努めている。それでもジェイの笑顔は引きつり、ケイティに至っては目が思い切り冷めている。しかし、人々はそれを緊張のためと判断し深く気にしてはいないようだから、特に問題もなかったと言えるだろう。
 そんな人の波が途切れてしばらく後に、城の前に着く。そして遂に……
「前から言っていた事だけど……」
 私は言葉を紡ぐ。
「王様に謁見した後は家に戻らずに旅立つのよ」
「うん」
「わかってる」
 それは前々から決めていたこと。戻るときっと決心が鈍る。そう思ったから、だからずっと前にそう決めた。
 真面目な顔を崩して、努めて明るく笑い続ける。
「あまり喧嘩ばかりするんじゃないわよ。アリアハンの勇者は喧嘩っ早いなんて噂が、あんた達の評判の第一報だったりしたら、母さん恥ずかしくって顔から火が出て燃えちゃうわ」
 実際はそうはならないと思うけれど。
 きっと懐かしく思い、そしてちょっと悲しくなる。
「大丈夫だよ。すぐに、立派な噂が届くように大活躍しちゃうからさ」
「そうそう。あの王が満足して母さん達にボーナスのひとつも払いたくなるようなすっごい活躍しちゃうから!」
 ジェイの言ったことはともかく、ケイティの言葉に思わず吹き出してしまう。
「あはは、そうね。期待しているわ。そうなったら貯めといて、あなた達が帰ってきたときにすごいご馳走を用意するわね」
 ケイティが瞳を輝かせて本気で喜ぶ。その様子に再び吹き出しそうになった。
「ホント! 私、断然がんばっちゃう!」
「ボーナスなんて出るわけないだろっていうかボーナスって言い方もおかしいし」
 ジェイが至極尤もなツッコミを入れる。まあ、彼らしい。私の息子は少し冷めている節がある。そこが頼もしくもあり、少し心配でもある。
 ケイティは少しムッとしたようだったけれど、言い返したりはしない。
「まぁ、まぁ、ジェイ。ちょっと夢を見るくらいいいじゃない。もし、王様がお金をくれたらジェイは何か欲しいものはある?」
「え? うーん、そうだな……みんなで船旅でもするってのはどうかな? 楽しそうだろ?」
「あら、いいわね」
 確かに楽しそうだと思う。
 よくよく考えてみるとみんなでアリアハンの外に出たことはない。
 昔はオルテガと旅をしていたこともあったけど、ジェイとケイティが生まれた後はそういうことはしていなかったはずだ。
 ジェイのその提案はかなり嬉しいものだ。実現すればきっとオルテガと旅した時みたいに、いやあの時以上に楽しいだろう。
 そこでジェイの方を見てみると、ジェイの後ろでケイティが何かつぶやいている。
「あんたと一緒に船旅なんてごめんよ」
 きっとこんなことを言っていると思う。彼らは仲が悪いからこのくらいのことは当たり前に言っているはずだ。今日は何だかそういう遣り取りが見られないが……これはもしかしたら。
 そこまで考えて可笑しさを覚えた。きっと彼らは喧嘩することを堪えているのだ。
 いつも喧嘩ばかりの彼らが、そうしているのが嬉しくもあり可笑しくもあった。しかし、とりあえず気づかないふりをする。
 子供たちの努力を無駄にするべきではないわね。
「さ、そろそろ行きなさい。王様が待っていらっしゃるわ」
 笑って言う。
 それを受けて二人が頷く。その顔はいつも通り。
 そして、城へと向けて足を向ける。しばらく手を振り合うが、城への橋を半分ほど過ぎるともう二人は振り返らない。
 それでも、私は笑みを顔に浮かべ見つめ続けていた。
 彼らが門をくぐり見えなくなる。
 もう涙を流してもいいと私自身思うが、不思議とそうはならなかった。
 振り返って家路につく。
 家が見えてきた。
 オルテガとお爺ちゃんと住み、後にオルテガの代わりに子供たちが過ごした家。
 戸をくぐり顔を上げる。
 視界に入るのはジェイの、ケイティの食器や本や、その他様々な私物たち。
 しかし、すぐにそれらは見えなくなった。
 心に身体が追いついてきた。
 でも、それでいい。
 もういいんだ……