Chapter01.ある村落の災難

 ロマリア国の北方――山奥深くにカザーブという名の村がある。その近郊にある森の中、独りの少年が歩いている。
「かに太郎ー。かに太郎ー、どこー?」
 少年は辺りを見回しながら小さく叫ぶ。
 迷いのない足取りから、彼がいつもここを訪れていること、かに太郎という何某かに頻繁に会いに来ていることを窺える。
 かさかさ。
 そこで物陰から小さな影が現れた。
「あ、かに太郎」
 六本の足を動かし、かさかさと近寄ってくる小さな蟹を、少年は大きな瞳に映して嬉しそうに笑う。
 かに太郎も嬉しそうに少年の足元へ寄り、ハサミを激しく振る。ハサミで喜びを表現しているのだろう。
「やっほー。昨日ぶり」
 かさこそ。
 少年がしゃがんで声をかけると、かに太郎は嬉しそうに体を動かした。
「さ。あっちの川で遊ぼお」
 少年が水の流れる音が聞こえてくる方向を指差し言い、歩き出す。すると、かに太郎もまた横歩きで続いた。

 1時間ほど水辺で遊んだあと、
「あ、ゴメンね。かに太郎。今日はもう帰らないとだめなの」
 少年はかに太郎に向けて両手を合わせ、そのように言った。
 かさかさ。
 かに太郎は抗議をするかのように激しくハサミを振る。
「だからゴメンってば。ここしばらくお前と遊んでたから、お母さんがたまには家の手伝いしろってうるさいんだ。明日はまた夕方近くまで遊べるから」
 かさこそ。
 弱った顔で言葉を繰る少年に、かに太郎はやはりハサミを振り抗議の動き。
 それを目にした少年はキリがないと判断したのか、じゃあまた明日、と早口で行って、カザーブの方向を目指した。
 かさかさ。
 振り返らずに村を目指した少年は、その後のかに太郎の行動に気づかなかった。

「ほら、そっち持って。それでこっちに」
 タオルケットの端を持った女性は、少年に指示を出してもう片方の端を持たせる。そして、少年が女性の方へ歩み寄り、端と端を合わせてたたむ。
「これでよしっと」
 更に小さくたたんだあと、女性は続けて山になっている洗濯物を片付けにかかる。
「あんたはそっちを頼むわね」
「えー。多くない?」
「お母さんよりは少ないでしょ? 文句言わないでぱぱっとやる!」
 女性が前にしているのよりは小さな洗濯物の山を目にし、少年は文句を言った。しかし、女性の言葉に黙り込む。未だ頬を膨らませているが、大人しく作業に入る。
 おりおり。
 おりおり。
 おりおり。
 しばらく静かに洗濯物をたたんでいた二人。と――
「きゃあぁあああぁあ!!」
 突然、絹を裂くような女性の悲鳴が外から聞こえた。
 親子はぎょっと外に瞳を向ける。
 しかし、彼らの家の窓から叫びの元を見つけることはできない。
「な、何だったの…… お母さん」
「お母さんが外を見て来るわ。ここで、待ってなさい」
 不安な瞳で訊いた少年に、女性はやはり不安な瞳で、しかしその不安さを隠すようにしっかりした口調で返した。
 少年は急いで立ち上がり――
「ぼ、僕も……!」
「駄目よ! 待ってるのよ! いいわね?」
 女性は少年を無理やり座らせ、外へ向かう。
 少年はしばし呆然として、それからゆっくりと腰を上げた。

 大きな蟹が2匹、村中を闊歩していた。その進行方向にあった建物は、大きく堅いハサミで砕かれていく。村が瓦礫で埋められていく。誰かが調理のための火を消さずに逃げたのか、火の手も上がっているようだ。
「くそ! こんなクワやツルハシじゃ、あんな堅い奴どうにも……!」
 農夫だろうか。筋肉質で黒い肌をした男性が、クワを手にして蟹から少し離れたところに立っていた。その隣には、同じく農夫らしき男性がツルハシを手にして立っている。
 蟹は彼らの視線の先で、何かを探るように建物を破壊している。
「何だってん! モンスターが村に入ってきよるなんて!」
「文句言ってる暇があるか! どうにかしないと――」
「どうにか言うたかて、オイラたちにどうにかできるか! 堅い上にあのデカさだぞ!」
 叫んだ男性が指差す先にいる蟹は、彼が言うとおりにとても大きかった。成人男性の3倍はありそうな巨大な蟹。
「武器屋で剣でも借りるか!?」
「んなもん借りたかて扱えんじゃろ! 普段使ってるこいつらの方がよっぽど……」
 ばあぁんっ!
 男性達の話の途中で、蟹が違う建物に突進する。木造の建物は破損し、辺りに木片が散らばった。その木片が男性の1人にぶつかり、額を少しだけ切る。血が伝い、目に入った。
「だ、大丈夫か!」
「このくらい平気だ。それより――」
「動かないで下さい」
 腕で血を拭い、男性がクワを構えて蟹に向かおうとした時、横手から声がかかる。
 男性達が視線をそちらへ送ると、そこには伸ばした茶色い髪を後ろで結んだ少年と、紫の髪を同じく後ろで緩く結んでいる女性がいた。少年は見たところ剣士のようだった。そして女性は、足首まで隠れる程長い裾のローブと、背にかけた長い杖が特徴的。一見すると魔法使いのようであったが、その腰にはなぜか大振りの斧が下げられていた。
「あんたたちは――」
「たしか、この間ノアニールに向かった……」
「話は後です。それよりも」
 男性達の言葉を遮り、少年は手のひらを負傷した男性の額にあてた。そして、瞳を閉じて押し黙ると――
 ぽわぁ。
 暖かな光が彼の額を覆い、それが消える頃には傷口が消え去っていた。
「回復魔法……?」
「これで大丈夫。あの蟹さんも、僕達に任せて下さい。なんとかします」
 少年がそう告げると、男性達は何か言おうと口を開いた。しかし、その先は続かない。
 これは自分たちの村のこと。それゆえ、彼らは自分達がどうにかする――そうでなくても、彼らに協力すると申し出ようとしたのだろう。しかし、これまで何もできなかったことから考えて、彼らにできることなどない。そう気づいたからこそ、彼らは黙ったのだ。
「邪魔だ。家帰って寝てろ」
「なっ―― ひっ……」
 その時、紫の髪の女性が言った。あんまりな物言いに男性達は目つきを鋭くして彼女を見るが、直ぐに息を飲み口をつぐむ。
 彼らが瞳を向けた先には、狂気の笑みを蟹に向け、腰に下げた斧に手をかけている女性の姿があった。その瞳に映るのは、ただただ殺意。
「すみません。行こう、リジー」
 少年の方はすまなそうに笑い、両手で剣を構え走り出す。
 リジーと呼ばれた女性は、斧を一度大きく振り回してから、巨大な斧を持っている様からは想像できない身軽さで駆けた。
 男性達はその様子を、息をするのも忘れて見送った。

「でっかい蟹…… この辺ってこんなのが普通にいるの?」
 遠目に蟹を見詰めつつ、黒髪の少女が隣の男性に問う。
 薄い色素の髪を眉にかかる程度伸ばした男性は、手に持つ槍に寄りかかりつつ考え込むように目を瞑った。
「個体差はあるが、今の時代ならあれくらいは普通サイズかもな。幼体は手のひらサイズくらいで可愛いもんなんだが」
「ふぅん」
 男性の説明に少女は適当に相槌を打ち、口の中で何やら呟く。そして――
「ルカニ」
 少女が呪を紡ぐと、建物を壊していた蟹が小さく震える。そして、しばらくすると何事もなかったかのように、再び破壊活動を始めた。
「さて。それじゃ頑張ろっか。行くよ、ヘンリー」
「ああ。面倒だがな」
 声をかけられた男性――ヘンリーは、先に走り出した少女を追い越して、槍を構えながら蟹に突進して行った。

「凄い…… あの2人、あの堅い蟹を簡単に……」
「ああ。片手で武器を振るだけで、あの堅い甲羅を……」
 農夫達は遠巻きに蟹と少年達の戦いを見ていた。
 少年の剣の一振りで甲羅に亀裂が入る。リジーの斧の一振りで足の数本が飛ぶ。
 蟹は弱っていき、段々と沈静化していった。
 そして――
「うがああぁあぁああぁあっ!!」
 血走った目を携えたリジーが蟹目掛けて跳ぶ。斧を上段に構え、その口元は笑みで歪む。瞳に浮かぶのはギラギラとした危険な輝き。
 その姿に恐怖を覚えた農夫達であったが、これで蟹が活動を停止することを期待し、顔に喜色を携える。
「いけえぇええ!」
「やっちまえぇえ!」
 それぞれ歓声と共に腕を突き上げ――
 キイィインっ!

「おい! 何で殺さないんだ!? 君達なら、そいつを殺せるだろ!」
 魔法で眠らされた蟹を指差し、荒々しい言葉で1人の男性が叫ぶ。
「殺さない」
 蟹を眠らせた少女は、はっきりと言った。
「何でだっ! あれはモンスターだぞ! 殺さなくてはいけない存在だ!」
「……殺さなくちゃいけないモノなんて、きっとない」
 少女は寸の間躊躇してから、答えた。そして、男性がいるのとは違う方向を見つめ、続ける。
「あの人は、あたしだって、それを……望んでる。誰もが、何もが、生きるためにあるんだって……」
「そんなのは――」
 少女の言葉に反発を示そうとした男性。しかし、少女の瞳に浮かんでいる強い光に気づき、言葉を止める。
 しかし、後ろから女性が歩み出て、先を続けた。
「貴女はよその方だから…… 私どもにしてみればあれは建物を破壊し、大切な者を殺したかもしれない憎い存在。それなのに、貴女の言う世迷言を受け入れろというのですか?」
 物腰は柔らかくとも、女性の声には棘があった。その瞳には怒りがあった。そして、不安があった。誰か、大事な者の行方が知れないのかもしれない。
 少女は女性を見詰め、瞳を細めた。そして、何事か口にしようとし――
「ひとつ言っとく。建物は盛大に壊れてるが、誰も死んでない」
「え?」
 少女よりも先に言葉を紡いだヘンリーに、女性が訝しげに返した。
 女性を一瞥してから、ヘンリーは淡々と続ける。
「怪我した奴は、そこにいるカリーヌと、ここにはいないジアンって奴が魔法で治した。全員無事で、教会に避難させてる」
 まずは隣の少女――カリーヌを指差し、続けて、ここからは視界に入れることができない何某かの名を口にし、喜ばしい事実を告げた。それから更に続ける。
「これで、貴女があの蟹を殺す理由はないな?」
 ヘンリーが終始笑顔でそのように訊くと、女性は言葉に詰まる。しかし、直ぐに口を開いた。
「今殺さなければ、また襲ってくるかもしれないではありませんか? このまま逃がしたのでは安心して――」
「んにゃ。それも問題ない」
 女性の言葉をヘンリーは笑顔で遮る。
「なぜそんなことを……」
 女性が再び訝しげに問う。
「それは貴女も分かっているだろう? モンスターだって理由なく人を襲わない。あの蟹にも、ここを襲った『理由』がある」
 そのヘンリーの言葉に、女性が直ぐに反応を示す。
「人を襲うことが『理由』なのであれば――」
 そうであれば、今逃がせば再び襲い来ることは明白だろう。しかし、それは違うことを女性も知っていた。
 モンスターだからといって必ずしも人を襲うわけではない。人を食すわけではない。勿論、中には人を捕食するモンスターもいる。しかし、それは普通の熊も同じことだ。
 モンスターだから人を襲うという理屈はあり得ない。今回のように蟹のモンスターであれば、それはなおさらだ。
「あの蟹は人を襲ったりしたか? 何よりも先に、人に向かって堅いハサミを振り下ろしたか?」
 ヘンリーは強い口調で問う。
 女性は答えない。
「違うはずだ。なぜなら、あいつは人を襲いにここに来たわけじゃない。その理由が何なのか、残念ながら分からないが、さっきまでの様子だと――」
「何かを探していたんじゃないの? 物陰を造るものを片っ端から壊してた」
 ヘンリーの言葉にカリーヌが続いた。
 その結論に誰もが納得した――というよりは、言われる以前より気づいていたのかもしれない。しばしの沈黙が落ちた。
 しかし、そこで再び女性が声を上げる。
「けれど! それなら探しているものが見つからなければ、あのモンスター達はまた――」
 女性がもっともな理屈を口にした、その時――
「かに太郎!!」
 随分と場違いな呼称が遠くから聞こえた。
「あの子!」
 しかし、その場違いでユーモアさえ感じる呼称に反応し、女性が緊迫した声を上げて走り出す。
 カリーヌとヘンリーも、一度顔を見合わせてからそれに続いた。

「何なんだ、あの2人…… 急に仲間割れしだしたぞ……?」
 農夫の言葉通り、蟹に対していた2人はそれぞれの得物をかち合わせていた。何度も何度も響く金属音。剣と斧がぶつかり合う音。
「リジー! やめて!」
「ジアン、言っておいたはずよ! 私はあんたの理想論に付き合う気はないと! 私に誰も、何も殺させたくないのなら、あんたは力で私を止めろと!」
 どがあぁあっ!
 リジーが力いっぱい振り下ろした斧を、ジアンは寸でのところで避ける。避けずに剣で受けていれば、その剣が砕かれ、体さえも砕かれていたであろうからだ。現に、地面が剣と体の代わりに大きくえぐれた。
 土砂が飛び散り、ジアン、リジーの視界は共に遮られた。しかし、両名とも直ぐに動き出す。
 ジアンはリジーから離れる方向へ駆け、リジーはそんなジアンを追う。
 と、そこでジアンが急に方向転換した。向かう先は後方。追い来るリジーに向けて突き進む。
 突然間合いを詰められたリジーは、さすがに危険を感じ跳び退る。
 しかし、ジアンはその後を追う。剣を右手だけで持ち、左手には炎を生み出した。
「ギラ!」
 彼が力強い言葉を放つと、リジーの周りで炎が逆巻く。
 一瞬表情を歪めたリジーであったが、直ぐにその炎に向けて手をかざし、
「ヒャダルコ」
 呪を紡ぐと、冷気が炎を収める。
 そこで両名、一度動きを止めて息を吐く。
「殺していいのなら、一瞬で消せるのに…… あんたが人間なのが困りものね。モンスターと違って、人を殺せば罰を受けねばならない。それは面倒だし、少し嫌」
「モンスターであっても殺させないよ。僕は――誰も殺さないし、誰も殺させない!」
「あんたの一番ウザいところは――そういう甘ちゃんなところよ!」
 再び駆け出す両名。リジーの斧がジアンを襲い、ジアンの剣がリジーの動きをけん制する。
 その様子をぽかんと口を開けて見ていた農夫達。その内1人がかすれた声を出す。
「なあ……? あの2人、なんで一緒に行動してたんだ?」
 今現在の争いを見る限り、それは当然の疑問であった。そして、彼らが解くには難しい問題であった。
 声をかけられた側の農夫も、困った顔で首を傾げるだけだ。
「さあなぁ……」
 そのように農夫が呟いた、その時――
 かさかさかさ。
 物陰から小さな影が飛び出した。
 それを瞳に入れた一同は、一瞬体を強張らせ、それから危険な光を瞳に宿す。
「こいつは……あのモンスターの幼体か……? こいつも大きくなれば……」
 そう呟いた男性は、手にしていたクワを振り上げる。
 彼の瞳に映る小ささ程度の蟹であれば、先程まで手も足も出なかったものと違い、あっさりとその甲羅を砕くことができるだろう。そのクワは容赦なく振り下ろされ――
「かに太郎!!」
 ぐさっ!
 突然上がった叫びに驚いたのか、農夫の手元が狂い、クワは本来の役割を果たして地面を穿つ。
「ジャン! おめ、こんなとこで何しとる! さっさと逃げんか!」
 子供――ジャンを瞳に映した農夫は、大きな声を張り上げた。
「おじさんこそ何してるのさ! かに太郎はぼくの友達だよ!」
 ジャンが叫ぶと、農夫は地面に瞳を向ける。かに太郎というのが、先程まで自分の足元にいた蟹であると見当をつけたからだろう。しかしその時には、かに太郎はちょこまかと足を動かしてジャンの元へと駆けていた。
「ジャン! そいつはモンスターなんだ! 殺さにゃなんね!」
「何でさ! かに太郎がモンスターかどうかなんて知らない! かに太郎は、ぼくの友達だもん!」
「ジャン!」
 そこで、遠くから駆けてきた女性が叫んだ。ジャンがそちらを見ると、
「あ、お母さん」
「よかった…… 無事だったのね。さっき家を見に行ったら誰もいないからどこに行ったのかと……」
 女性はジャンの元へ駆け寄ると、彼を抱き寄せて安堵の溜め息を吐いた。
 そして、女性から少し送れて、カリーヌとヘンリーが駆けて来る。
 ヘンリーは目ざとくかに太郎を瞳に入れ、
「探してたのはこいつかな」
 そう言った。
 その言葉を聞いたカリーヌと女性は、ヘンリーの視線の先を見詰め、
「子供を……探してたってこと?」
「たぶんな。モンスターったっておつむはそれ程よろしくない。行動の原因なんて単純なもんさ。腹が減ってるか、怪我で苦しいか、大事なものがいなくなって辛いか」
「それじゃ…… 私と同じ――じゃない」
 女性はジャンを強く抱いて、俯く。
 カリーヌはそんな女性を見詰め、軽く笑んだ。
「ところでジャンくん。かに太郎は君が連れてきたのかな?」
 そこでヘンリーは、胡散臭い笑みを浮かべてジャンに訊く。
 訊かれたジャンは首をぷるぷると振って、小さな口を否定のために開いた。
「ううん。たぶん勝手についてきたんだと思う。今日はお母さんのお手伝いがあったから、かに太郎とたっぷり遊べなかったんだ。それで、かに太郎が寂しがって――」
「なるほど。とすると誰が悪いとも言えないわけだ。こいつは収拾をつけづらいな」
 ジャンの言葉の途中で、ヘンリーは呟く。
 それを耳にしたカリーヌは疑問で眉を顰める。
「誰も悪くないなら、笑い話で済ませればいいじゃない?」
「あのな…… ここまで村壊されて、普通はそれで済ませられんだろ?」
「あ」
 苦笑して言ったヘンリーと、言われて村を見回し、間の抜けた声を上げたカリーヌ。
 そこで、さらにヘンリーが続ける。
「それに、あっちで頑張ってる我らがジアン少年とリジー嬢も、どう止めたものやらだろう?」
「た、確かに……」
 彼らの視線の先では、ジアンが襲い来るリジーの斧を避けつつ剣で反撃を試みる、という攻防が目にも止まらない速度で続いていた。偶に各々魔法を使っているが、基本的に武器での攻防を続けていた。
「あたし、あれに巻き込まれたら数秒で死ねる自信ある」
 カリーヌが呟くと、周りの農夫やその他の人々が深く頷く。
 ヘンリーは溜め息を吐き――
「取り敢えず、リジーに勝ってもらっちゃ困るな…… 俺は蟹が殺られようが気にしないが、ジアンが号泣しそうだし、それはちょいと鬱陶しい」
 ぶつぶつ言いながら、彼は腰のポシェットから丸い包み紙を取り出した。
「それは?」
 カリーヌが訊くと、ヘンリーはにやりと笑ってからゆっくりと歩を進めた。

「あはははははは! ジアン! あんたはいいわね! やっぱりいいわ! 私が手加減しているとはいえ、ここまで殺りごたえのある奴はそういない! 蟹なんて諦めて、ここからはあんたを殺すことに集中しちゃいたいくらい!」
「蟹さんを諦めてくれるなら、僕はいくらでも君の相手になるよ! けど、殺される気はない! 僕はまだやることがあるからっ!」
 物騒なことを叫ぶリジーと、まともなことを叫ぶジアン。共に物凄い運動能力を見せながらの叫びだった。肺活量が素晴らしくよいことが知れる。
 キィン!
 たたたたっ! がぎぃい!
 どがっ!
 ぶわあぁあ!
 剣と斧がぶつかり合う音。
 駆けた後に斧を思い切り振り下ろし、瓦礫を打つ音。
 リジーがジアンに蹴りを入れる音。
 蹴りを食らったジアンが、その隙を埋めるためにギラを放った音。
 激しい攻防の生み出す音がカザーブを満たす。
 そんな中、てくてくてく、という日常的に聞くことができる歩行音が微かに聞こえた。
 ジアン、リジー共にそちらに瞳を向け――
「ヘンリー。ごめん、今ちょっと危ないんだけど」
 ジアンが苦笑して声をかけると、ヘンリーは片目を瞑って反応しただけで、構わず彼らに近寄る。
「おい、ヘンリー! とっととひっこまないと、あんたも殺るわよ!」
 リジーが物騒なことを再び叫ぶと、ヘンリーは肩をすくめる。
「おお、怖っ。ただまあ、お前如きに、俺が殺れるかな?」
「はあ!?」
 ヘンリーが笑顔で言うと、リジーは大きな声を上げて瞳を細める。そして、殺気の矛先を変え、斧による強烈な一撃を打ち出そうとした――その時、
「ぽいっと」
 楽しむような口調で言い、丸い物体を駆けて来たリジーの足元向けて放るヘンリー。
 突然のことに、リジーは回避行動を取れない。
 そして――
「なっ! こいつはまだら蜘蛛糸!」
 足に絡まり自由を奪う物体を目にし、リジーは叫ぶ。
 しかし、そのように足が不自由になりながらもヘンリーに突っ込んでいく。
「この程度で止まると思うなあぁあ!」
「思ってないさ」
 叫んだリジーに、ヘンリーはいっそ楽しそうに言葉をかける。手にしていた槍を構え――
 がっ!
 リジーが手にしていた斧を叩き落とした上で、ヘンリーは柄の部分で彼女の腹に一撃を入れる。
「ぐっ!」
「俺程度の腕でも、動きが鈍ってるリジエルちゃんに一撃くらいは入れられるんだな、これが」
 満面の笑みを浮かべて言うヘンリー。
 それを見たジアンは――
「ヘンリー…… 斧を落としたとこで終わりでよかったんじゃ……?」
 もっともな疑問を呟いた。
 ヘンリーはそれには応えず、村中を見回した。
 ジアンもそれに倣う。
 壊れた建物、建物、建物。先にヘンリーが語ったとおり、怪我人だけは回復魔法の恩恵により事なきを得ているが、壊れた建物を直す魔法などは、当然ない。
 これから始まる難しい説得に向け、ジアンは並々ならない決意を固め、ヘンリーは面倒そうに溜め息を吐いた。

 巨大な蟹2匹とリジーを縄で縛りつけ、ジアン達とカザーブの住人達は言い合いをしていた。
「村をこんなにされて、それであんの蟹どもを逃がせっちゅうんか!?」
「別に誰か死んだわけじゃないでしょ!」
「それでも家やら何やら、壊されまくっとるんだぞ! はいそうですかと納得できるか!」
「肝っ玉の小さい男ね!」
「なんだと!」
 カリーヌが眉を吊り上げて農夫に立ち向かうが、見た目が普通の少女で、なおかつ先程の戦闘で然程活躍しなかった彼女相手だからか、農夫は強気で対する。それに対し、カリーヌも物怖じせずに言い返すから、先程から不毛としか評せないやり取りが続いていた。
「まあまあ、カリーヌもおじさんも、少し落ち着きましょう」
 そこでジアンが穏やかな口調で声をかけた。
 カリーヌは不満げながらも口をつぐみ、農夫もつられて黙る。
「少々お聞きしたいのですが…… なぜそんなに、あの蟹さんを逃がしてあげたくないのでしょう?」
 と、ジアン。
 訊かれた農夫は、イライラした様子で答える。
「そんなの当たり前だろ! あれのせいでとんでもね被害なんだ。人間だって悪いことしたら罰受けら」
 農夫の理屈に、ジアンはゆっくりと頷く。
「確かにそうですね。人だって間違いを犯せば罰を受ける。しかし、それでも立ち直る機会も与えられるでしょう?」
「……」
 ジアンの言葉に農夫は沈黙した。
 ジアンは構わずに続ける。
「特に今回は、器物破損が主な罪状。更には、いなくなった子供を捜すためという人情に訴える理由もありました。これが人なら、情状酌量ということで随分と軽い罪になりそうです」
「けど……けど、あれは蟹だ。……人じゃね」
 ジアンのゆったりとした口調に、農夫は調子を崩したように視線を逸らして、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
 それを耳にしたカリーヌが、再び瞳を細めた。
「なによ! さっきは人だってなんとかって言ってたくせに! ちょっとは主張に一貫性を持たせたらどうなのよ!」
「う、うるせ!」
 先程とは違い、言い返す言葉に勢いがない農夫。自分でも気づいていた痛い箇所をつかれたのだろう。
 農夫が軽く黙り込むと、今度は穏やかそうな印象を受ける老人が口を開く。村人達の態度や、彼の格好から、それなりの身分を持つ者――恐らくは村長だろうと予想できた。
「まあ、儂も無益な殺生なぞしたありません。ただのお。こうも建物壊されたんでは、しばらく生活もままなりゃせん」
 老人の言葉に、ジアンは黙り込む。
 しかし、直ぐに声を上げた。
「ですが、だからと言って蟹さんの命を奪っても解決するものではないでしょう? ただ、悲しみを余計に生み出す――」
「落ち着きんさい。何も、儂はあんの蟹どもを殺らせろと言っちょるわけじゃありゃせん」
 村長の言葉に、ジアンは顔を輝かせて身を乗り出す。
「本当ですか!?」
「本当じゃ。儂らはいつもの生活が戻ってくりゃええ。若いもんにはそれだけじゃ収まらんもんはあるじゃろが、そんくらいは我慢して貰うわ」
 村長が微笑みながら言うと、ジアンとカリーヌは素直に喜ぶ。
 しかし、ヘンリーが同じく笑顔で言の葉を繰る。
「それで? いつもの生活を取り戻すために、いくら欲しいんだ?」
『え?』
 間の抜けた顔と、揃った声をヘンリーに向けるジアン、カリーヌ。
 そして、村長はやはり柔らかな笑顔のままで応える。
「なぁに、あんたがたに出せとは言わん。しかしな。そちらのジアンさんは魔王討伐のためにアリアハンより旅立ったとか。そのような方の仰ることでありゃ、ロマリアの国王陛下も……」
「オーケー。それでいい」
「そうですかい。んじゃ、あのモンスターらは好きに逃がすがよろしい。ここからは、ジアンさんらが為さることにゃ口出し無用。ええな?」
 ヘンリーが薄笑いを浮かべて肯定を返すと、村長はやはり笑みを絶やさずにジアン達を見回す。そしてそれから、村の者達を見回して、心持ち鋭い目つきで釘を刺した。
 誰も異存がないようで、そのまま集まりは離散していった。
 そして、ジアン達はモンスターやリジーの元へ向かう。その際、カリーヌが疑問の声を上げる。
「さっきのは――あたし達がロマリアの王様に、お金出せ、って言いにいけってことなの?」
 直球の言葉に、ヘンリーが苦笑する。
「ま、ぶっちゃけちまえばそういうことだな。国王に進言する時にゃ、もうちょいオブラートに包んだ言い方せにゃならんだろうが」
「なんだか……」
 はっはっはっ、と声を上げて笑ったヘンリー。それを耳にしながら、ジアンは弱冠不機嫌そうに声を上げる。
「どうした、ジアン」
「別に…… ただ、命をお金で買ったみたいで――少し嫌だなって思っただけだよ」
 そこで寂しそうに笑うジアン。
 その言葉を聞いたカリーヌとヘンリーは顔を見合わせ、それから行動に移る。
 カリーヌはジアンの背後に回り――
 ぺし。
「痛」
 軽く頭をはたいた。
「え、何?」
「買えるものなら買っとけばいいの」
 腰に手を当て、何気なく言うカリーヌ。
「そういうことだ。どんな手を使ったって、お前が望む結果が得られるのならそれでいい。お前がやってることは滅茶苦茶なんだ。全てが正攻法で得られると思うな」
 伸びをしながら、しかし真剣な声で言うヘンリー。
 と、そこで急に声質を柔らかくして――
「ここの国が金に困ってるわけじゃないんだ。誰も困りゃしないし、蟹が助かる。お前はただ喜んでればいいんだよ」
 その言葉を聞いたジアンは苦笑し、
「でも、できるなら、誰も誰かを傷付けることなく、理不尽な痛みが存在しないような平和を、心の底から皆が望む。そんな風な世界になって欲しいんだけどな」
 小さく呟いた。
 それを耳にした他2名は、困った顔を浮かべ、微笑み、
「わがまま」
「夢見がち」
 遠慮なく感想を言った。
 ジアンはやはり苦笑し、軽く伸びをした。

「んぐ! んぐぐぐ! むうぅううぅう!!」
 猿ぐつわを嵌められ、その上縛られているリジーは、蟹の縄をまずはずしはじめたジアンとヘンリーに鋭い視線を投げる。
「ごめんね、リジー。蟹さんを逃がしてからじゃないと、君の縄を解くのはちょっと不安で」
「ちょっとどころじゃないでしょ。あたしは蟹を逃がした後でも、1時間くらいはこのままの方がいいと思うけど」
 目の前に目的の蟹がいなくても、逃げ込んだ先の森に飛び込んでいって殺すくらいのことはしそうだ、と思ったカリーヌはそのように言う。
 ぎろおぉお!
 人によっては、目つきだけで精神崩壊を起こさせることができそうな、そんな顔でリジーがカリーヌを睨む。しかし、意外と図太い神経のカリーヌは、舌をぺろりと出しただけで済ます。
「よし。これでオッケーだろ。ほれ、逃げろや、蟹」
 縛っていた縄を解き終わり、ヘンリーが蟹をぽんぽんと叩きながら言う。
『ありがとうございます』
「あいよ。次からは、子供の姿見えんからって暴走するんじゃないぞ」
『気をつけます』
 何某かと会話をするヘンリー。
 他の者達は、その相手を探して辺りを見回すが、答えとしてはひとつしか思い当たらなかった。
「ちょ! その蟹、喋れるの?」
「みたいだな。まあモンスターなんだし、そんなビビることでもないだろ」
 確かに、モンスターの中には人と同じ言語を操るものもいる。とはいえ、蟹が喋るというのは弱冠奇妙であった。
『そちらの人間共も、助かったぞ』
 驚きの瞳を向ける人間達には取り合わず、蟹は先程よりもやや尊大な態度で言い、横歩きで森へ向かう。ちなみに、ジアンらとの戦闘で負った傷は、先程カリーヌとジアンで治療を終えていた。
 五体満足で元気に先頭を進む蟹のあとには、その蟹の伴侶と思しき同じくらいの大きさの蟹。更に続けて、小さな蟹――かに太郎がかさこそと向かう。
「かに太郎、またねー」
「今度はお母さん、お父さんに断ってから、それから遊びに来てね」
 ジャンとその母が声をかけると、かに太郎は一度立ち止まり、はさみを懸命に振る。言葉を操るまではいかないまでも、かに太郎も人間の言葉を理解しているらしい。
「どうかした? ジアン」
 そこで、カリーヌがジアンに問う。というのも、ジアンが妙ににこやかであったからだった。
 ジアンは嬉しそうに口を開く。
「あのね。少なくとも、あのジャンくんと、それにお母さんも、蟹さんが助かったことを心から喜んでいるように見えたから、それで嬉しくて」
 満面の笑みを浮かべ、頬を紅潮させて言うジアン。
 その様子を瞳に映したカリーヌ、ヘンリーは、弱冠呆れ気味に溜め息を吐いた。
 そして口を開く。
「まあちょいと行き過ぎな感じでアレだが、お前はいい子だなぁ」
「ホント。可愛いしね。というか、この可愛げが……」
 カリーヌはそこまで口にして、猿ぐつわと縄を装備した女性に瞳を向ける。
 そして、カリーヌが言いかけた言葉をヘンリーが継ぐ。
「あのイっちゃってる女にも、ちっとくらいありゃいいのにな」
「まったくよね」
 しみじみと言った2名に、ジアンは困ったような笑みを向け、リジーは視線だけで相手を殺せそうな眼光を向ける。
 これからあと――リジーの縄を解いたあとのやり取りが、非常に心配になるような光景だった。