第5話『学びを修める者』07

 風呂から上がって部屋に戻って来たが、鵬塚兄への連絡は取れずにいた。夜中に生徒間で連絡を取ってよからぬことを企まないように、スマホもガラケーも各クラスの担任が回収していったのだ。我らが7組の担任キムティーであれば見逃してくれるかと期待したのだが、キムティーのいい加減さを見越した学年主任がぴったりと後ろにくっついていたせいで、面倒そうに全員から通信機器を没収していった。
 鵬塚兄の番号を記憶していれば、最悪、ホテルの公衆電話から連絡することも出来ただろうが、長じてからずっとケータイの電話帳登録で済ませてきた故、記憶する習慣など当然無く、手帳などへのメモもやはりしていない。
 大人しく明日を待つしかなかった。
「よし。女子の部屋行こうぜー」
「無理だろ」
 女子風呂覗きに続いて無茶を言う太郎に、間髪入れず突っ込む。
 男子は3階と4階、女子は9階と10階というように、八沢高校の生徒たちは完全に分断されている。その上で、先生たちは階段やエレベーターなどの要所に監視の目を光らせている。とてもではないが、女子の部屋に行ける余地などない。壁をよじ登れるのであれば何とかなるだろうが、5階分もよじ登ったらまず間違いなく死ぬ。というか、1階分でも死ぬ。
 常識的な判断に、太郎以下数名が不満を吐露した。
「もっと夢持てよー、泰司」
「そうだぞ、富安。せめて1回試してみようぜー」
 気持ちは分からなくもない。せっかくの旅行中に女子とお近づきになりたいと、俺も思う。けれど、今夜先生の不興を買って、明日罰としてケータイ未返却となる可能性は無くしたい。
 不本意だが、いい子にならねばならぬのだ。
「その1回のせいで、廊下で一晩過ごす羽目になっても嫌だろ」
 ある意味、いい思い出にはなるかもしれんが、進んでそんな目に会いたくはあるまい。案の定、嫌な未来を提示されると、大概は尻込みして唸った。
 しかし、太郎だけが諦め悪く食い下がった。平凡な名前の割に面倒な男である。
「女子との一夜を勝ち取るためならば、廊下で一晩ごとき大したことはない!」
「いや、一夜っつったって、せいぜいテキトーにだべるだけだろ。そもそも女子が部屋に入れてくれるかも分からんぞ」
 正直、奇跡が起きて部屋にたどり着いても、俺らが期待するようなことにはならんと思う。アダルトビデオやエロ本じゃあるまいし。
 それなりに男女仲の良いクラスだから入室拒否とまでいかないと思いたいが、場合によってはそれもあり得るだろう。
「……泰司、冷めすぎじゃね?」
 俺だってもう少し夢を見たい。しかし、教師の不興を買うわけにいかない以上、冷静さを欠くことは避けねばならない。
「まさか、本当にBL――」
「殴るぞ」
 おっと、いかん。冷静に。冷静に。
「とにかく、現実的に楽しもうぜ。枕投げとか。消灯時間までだべるとか。カードゲームを持って来てた奴、いるだろ。それとか」
 新幹線でやっていたような朧げな記憶がある。すげえ眠かったからよく覚えてないが。
「だべるにしても消灯時間までなん? 流石に真面目すぎね?」
「たまにはキムティーが怒られないように、気を配るのもいいだろ」
 行事のたびに7組は騒ぎを起こしており、キムティーはよく学年主任に限らず他の先生に怒られている。彼自身も騒ぎに加わっていることが多いため、全く同情の余地はないのだが、今日くらいは怒られることなく静かな卿都の夜を過ごさせてあげてもいいのではないか。
 その方が俺に都合がいいから言っているわけでは、断じてない。キムティーのためを思って言っているのだ。信じろ。
「まさか、泰司の本命はキムティー」
「蹴るぞ」
「悪い悪い。本命はフランス人転校生だよな」
 べし。
 予告通り軽く蹴ってやった。
「というか、あれなん? 富安って鵬塚さんと付き合ってんの?」
「は? いや、んなわけないだろ」
 そもそも、鵬塚に男女のお付き合いなど10年は早いのではないか。人生経験値という意味でも、鵬塚兄の目が光っているという意味でも。
 今この時だけはケータイが回収されていてよかったかもしれない。手元にあればきっと、馬鹿兄貴のうざい着信がコンマゼロ秒単位でかかってきただろう。
「じゃあ、あの文芸部の物静かな子か?」
 思考が止まった。
 誰のことだ。物静かというなら、あえて挙げるなら鵬塚だが、先ほども鵬塚のことを話していた以上、違う人物を指しているに違いない。しかし、誰も思いつかん。俺の知らない幽霊部員でもいるのだろうか。
「泰司。泰司。速水のことだ」
「はぁ?」
 太郎があり得ないことを耳打ちしてきた。
 物静かなハヤミ? 誰だ、それ。終ぞお目にかかったことがございません。
「速水、人見知りすんだろ。そこに、文芸部という文科系の部活動がトッピングされて、よく知らない奴の印象はああなんだよ」
「ジェロに電話しねえと……」
「キレんぞ、速水」
「だからこそのジェロだろ」
「まあ、確かに……」
 とりあえず、丁重に、真剣に、誤った情報を訂正しておいた。物静かという評価も、お付き合いという鳥肌ものの誤解も。
「誰か好きな奴はいねえの?」
 すっかりそっち方面のだべりになってきた。女子高生かよ。まあいい。無謀な夜の冒険に出るよりかは、様々な点で好都合だ。
 しかし、好きな奴か。実際のところ、いないな。敢えて言うなら……
「浪岡かな」
「わかる」
「俺も俺も」
 数名のライバルが手を挙げた。ふむ。やはり人気が高いか。
「巨乳だもんな」
「巨乳だもんよ」
 ライバル達――いや、同志達と頷きあい、ガシッと手を握り合う。
「胸より尻じゃね? 俺は体育の時の米田の尻に惚れてる」
 それは惚れているというのだろうか。人のことは言えないが。
「尻好きは変態らしいぜ」
「それ言ったら胸好きはマザコンって言うだろ」
 正確にはどちらも変態だし、胸の小さい母親も当然いるのだから、胸即ちマザコンというのにも疑問がある。が、論点はそこではないので、どうでもいい。何より、部屋でだべる方向に意識が向き始めたのが喜ばしい。
「制服でも分かるくらいの、歩くだけでゆさゆさ揺れる、たわわな実りに手を合わせるべき!」
「学校指定ジャージを着ているだけで楽しませてくれる、ハリのある至高の桃に低頭すべき!」
 というか、お前ら。表現の仕方が本気で変態臭いぞ。まあ、いいけど。
「あ。ジジ抜きやんべ。負けた奴は勝った奴に朝飯のおかず渡すってことで」
「いいけど、トランプ以外もやろーぜ。腕相撲とか」
「ははっ。頭使う系だけじゃ勝てねえもんな」
「うっせ」
 こうして、いかにも修学旅行らしい平和な時間を過ごした。興が乗って枕投げを始めたら、流石に騒ぎを聞きつけられて、キムティーが緩く叱りに来たが、それ以上に取り立てて言及するようなことは、何もなかった。
 般若心経が聞こえるとか、妙な女の声が聞こえるとか、そういった、風呂の時のような不可思議な現象は一切発生せず、修学旅行の夜は更けていった。

 翌日、ホテルを出てバスで移動中にケータイが返却された。直ぐに電話するとケータイ依存症みたいに見られるかと思い、バスが目的地についてから鵬塚兄に連絡することにする。まあ、クラスの大半が無言で画面をタップし始めた現状からして、直ぐに電話したところで極端に目立つこともないだろうが、依存しているように思われるのは何となく嫌だ。
 鵬塚もスマホをしばらく眺めていたが、直ぐにしまった。あいつは普段もスマホをいじっていない印象が強い。というか、ゲーム機以外の機械に弱そうだ。兄貴からのうざい着信を処理して、早々に打ち切ったのだろう。
 しばらくすると、軽度な依存症患者がスマホやガラケーのチェックを打ち切ったようで、バスの中がにわかに騒がしくなった。おしゃべりに興じる者やお菓子を交換する者、音楽プレーヤーでお気に入りの曲を布教する者など、過ごし方は様々である。俺は、太郎や他数名と共に、カードゲームに興じた。
 数十分ののち、バスはようやく目的地にたどり着いた。卿都駅周辺へと戻ってきたバスは、卿都市清水坂観光駐車場にその巨体を滑り込ませた。
「皆様、お疲れさまでした。当バスは只今、音羽山清水寺に到着いたしました。このお寺の開創は宝亀9年、西暦では778年、約1200年も昔のこととなっております。清水の舞台から飛び降りるという諺で有名なお寺ではありますが、ここで恋する学生さんに朗報でございます。清水寺という名の由来になった音羽の滝は、真ん中の水を飲むと恋が成就すると言われておりまして、それだけでなく、清水寺の北側にある地主神社に祀られておりますのは、縁結びで有名な出雲大社の大国主命様です。かの神社には恋占いの石と呼ばれるものもございまして、10メートル程離れている2つの石の間を目を閉じたままで渡り切れば、恋が成就するともいわれております。このように、実は清水寺は恋愛成就に深く関わりのある、学生さんに人気のスポットとなっております。旅行中に気になるあの子と親しくなりたい男子女子は、是非こちらで恋愛パワーを貯めていらして下さいませ」
 数名の女子が黄色い声を上げた。何とも学生らしく、よろしいのではないか。特に好きな奴はいないが、告白を受けるのはやぶさかではない。胸がでかい女子なら、なおよい。
 実際に言葉にしたら絶対にひんしゅくを買うようなことを考えていたら、天津内女さんがすっと手を挙げた。
「お楽しみのところ申し訳ございません。ほんの少しだけ、お静かに願います」
 比較的、いい子が揃っている我らが7組は、直ぐに口をつぐんだ。
 内女さんはにこやかに、しかし、少し寂しそうに話し始めた。
「木村先生に代わり、ご連絡差し上げます。皆様は清水寺をご観覧頂いたあとより自由行動となり、最終日である2日後まで当バスでご案内することはございません。本日のお宿は天橋立駅近辺となっておりますので、17時30分までに天橋立駅へ現地集合してください。あちらまではお時間が少々かかりますので、余裕を持った行動を心掛けるよう、お願いいたします」
 キムティー仕事しろ。バスガイドさんに案内させることじゃねえだろ。
 あ。プリントも内女さんが配り始めた。ホントにキムティー仕事しろよ。
「バスガイドさんとも最終日まで会えないんですかー?」
 前の方の席の奴が聞いた。聞くまでもなくそうだと思うぞ。
「ええ。少々お寂しいですが、わたくしのことはお気になさらず、卿都を満喫して頂けましたら幸いでございます」
 バスのあちこちから残念そうな声が上がっているが、精神崩壊させられそうになった身としては、明後日まで顔を合わせずに済むのはありがたい。
 鵬塚がこちらを気の毒そうに見ている。お前、昨日の恋慕騒動を信じてるのではあるまいな。鬱陶しい。
「それでは、お名残り惜しいですが、ここでしばしのお別れでございます。皆様、どうぞいってらっしゃいませ」
『はーい! いってきまーす!』
 ノリのいい奴らだ。というか、ホントに高校生か、お前ら。

 清水寺をテキトーに冷やかしつつ、鵬塚兄に電話をかける。2度、3度とコール音が鳴り、10度、20度と続いていく。しかし、出ない。
 いつもどうでもいい時は、こっちの事情なぞ無視してかけてくるくせに、むかつく三十路である。
 しかしまあ、仕方がない。誰にだって事情はある。出られない時だってあるだろう。しばらくしたら、またかけてみることにしよう。
「……び……り……!
「やめろ」
 本当に飛び降りようとする奴があるか。お前ならば怪我しないだろうが、飛び降りたあとにお空を飛び回って注目を浴びるのは、ダメ絶対。俺は天津照に2日連続で注意されたくない。
「ちょっと! 言い方ってもんがあるでしょ! 言うに事欠いてやめろとは何よ!」
「うっせえな」
 他のクラスの馬鹿女がバリバリ絡んできてうざい。
「この細やかな造形…… Le Japon est fou」
 フランス人は寺に興味津々なようで、特に手間もかからず微笑ましいが。
 清水寺を出たら文芸部メンバーで行動することにしているが、先行きが不安だな。
「……ぼ……と……う……!
「ま、真依? たぶん邪魔になると思うよ?」
 土産物屋で不可思議な購買意欲にかられた鵬塚を、尚子が弱弱しく止めた。何故に学生は木刀を求めるのか。永遠の謎だな。
「これをくれ」
 む。クロードが変な漢字のTシャツを買っている。何故に外国人は変なTシャツを求めるのか。これもまた、永遠の謎だな。
 謎に包まれた金髪碧眼の美少年は、逸る気持ちを抑えられず、道端でいそいそと着替え始めた。胸には忍者の2文字が。お前、マジか。
 ご満悦なフランス人を、俺は生暖かい目で見守ることしかできなかった。ちょっと離れて歩こう。
「……と……いっ……だ……! ……し……ね……!
「だね!」
 個人的には人がたくさんいるのは鬱陶しいのだが、観光もあまりしたことがないだろう社会不適合者にとっては、楽しいものであるらしい。ニコニコと絶えず笑んでいるところに水を差すのも忍びないので、特にくちばしは差し挟まないことにしよう。
 周りがテンションたけえ奴ばっかで、何か疲れるわ。
「タイジ。オトワノタキを背景にして写真を撮ってくれ」
「……あいよ」
 仏頂面を装っているが、その実、異常に楽しそうな、胸に忍者の2文字を刻んだ仏人を目にし、思う。
 ブルータス、お前もか。めんどくせ。

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