魔女の世界

 闇の中には七つの真円が浮かんでいた。真円からは煌々とした明かりが漏れ出でていた。それらはいずれも、魔女の世界へと通じていた。

 或いは、紅涙の魔女の世界。

 涙を司る魔女は相変わらず怒りに震え、痛みに涙し、醜き人を狩っていた。しかし、それだけでは無かった。
 哀しみに涙し、喜びに涙し、その雫は、正しく世界を映していた。
 不当な死は世界に溢れ、輝かしき生もまた世界に溢れていた。哀しみだけでなく、喜びだけでもなく、心が動く時、涙は彼女の頬を伝った。
「何か涙もろくなった気がするなぁ」
 少女は独りごち、夜天を見上げた。
 空にはたった一つの輝く円が存在していた。それはあたかも、かの地への入り口のようだったが、降り注ぐ月明かりからは何の気配も感じ得なかった。
「ねーさまはお元気かなぁ。シンコと、ついでにオカマ魔女も」
 久しくまみえぬ者達を心に浮かべ、彼女はまた涙した。
 それでいながらも、微笑んだ。
「それに、怖いお母さんにも偶には逢いたい――ううん。やっぱり、まだちょっと怖いかな」
 微笑みは苦笑へと転じ、やはり、最後には優しい笑みへと変わった。

 或いは、紅蓮の魔女の世界。

 焔を司る魔女もまた、相変わらずだった。少年は唾棄すべき人に対し、幾たびも破壊の炎を向けていた。
 一方で、彼の姉もまた、弟の怒りを諫め、人への許しを促す姿勢は相変わらずだった。
 魔女は手の中で焔を弄びながら、苦笑を姉へと向けた。
「毎度のことながら、姉さんには負けるよ」
 ふるふる。
「? ああ。勝ち負けじゃないって言いたいの?」
 こくり。
「まあ、本当に殺すべき相手なら特に止めないでくれるし、いいけどね」
 少年はそう呟き、夜天を見上げた。
 大地を優しく照らす月光は、彼に26番通り魔女集会所のことを思い出させた。
「どうしてこの世界が元通りになったのかは知らないが、次は負けないぞ。イライザ」
 ふるふる。
 首を横に振った姉は、不敵に笑む少年を責めるように唇を尖らせていた。
 紅涙の魔女は小さく肩を竦め、戯れに焔を天に投げた。
 黒天を紅が染め、一瞬、月も空も何もかもが世界から消え去ったかのようだった。
「はいはい。なるべく喧嘩はしないよ」
 好戦的な弟を瞳に入れ、姉は肩を落としつつため息を吐いた。

 或いは、信仰の魔女の世界。

 少女は山奥の小屋で暮らしていた。その外観は26番通り魔女集会所を想起させた。
 かつてのように、魔女はほうきを手にして小屋の周りを掃除していた。色とりどりの落葉が地面を彩っていた。
「ふぅ。キリがありません。あの空間に季節はありませんでしたし、お掃除も楽でしたね」
 誰にでもなく呟いて、信仰に生きる者は苦笑した。
「我らが聖女」
 少女に呼びかける声が響いた。しかし、際だって大きな声というわけでなく、声音は心地良く耳朶に響いた。
 声の主である男性が、小屋へと続く山路を上がってきた。
「あら。ようこそいらっしゃいました。何かご用ですか?」
「やはり、教会に戻る気はないのかい?」
 彼はそのように、これまでもしばしば勧誘してきた。
 かつて聖女と敬われ、かつて魔女と恐れられた者は、今やただの少女でしかなかった。
「はい。聖女も魔女も、きっと不要なのです。わたくしはわたくしとして――ここで静かに暮らします」
「そうか」
 男性は渋ることもなく小さく笑んだ。
 しかし、完全に諦めはしない。
「また来よう」
「お気をつけて」
 人も魔女も笑みを浮かべ、優しく別れた。

 或いは、血肉の魔女の世界。

 戦場を血の獣が駆け抜けた。人は獣に喉元を食いちぎられ、絶命した。
「ローウェル。良い子だ」
 獣の口元を滴る血液をすくい取り、女性が冷たく笑んだ。
 彼女は続けて血肉を操り、戦場に真っ赤な雨を降らせた。雨は人も大地も溶かした。
「……ふん。このくらいにしておくか」
 女性は独りごち、血の獣を手招いた。獣は素直に女性の元へと向かい、かしずいた。
 獣はそのまま崩れ落ち、血と肉が大地を穢した。
「魔女様……」
「五月蠅い。妾は去る。あとは貴様らがやれ」
 魔女は話しかけてきた女性を冷たく一瞥してから、踵を返し、去った。
 残された女性は深く礼をし、同じく踵を返した。彼女は仲間と共に世界を変えんとしていた。
 一方で、魔女は彼女たちに世界の行く末を委ねた。
「奴らを滅ぼすなど容易に過ぎる。それでは詰まらぬからな」
 魔女は誰かへの言い訳のように呟き、天上の満ちる月を見上げた。

 或いは、雷光の魔女の世界。

 にゃーん。
 黒猫――ジャンヌはのんべんだらりと過ごしていた。
 人が死のうが生きようが、彼女にはどうでもよかった。どんな時も彼女はそうだった。
 偶には戯れに雷を大地へと落とし、天から降り注ぐ光に見惚れるのが楽しみだった。
 その光の先に人がいたこともあったかもしれない。人は死んだかもしれないし、生き残ったかもしれない。けれど、それだけのことだった。
 死か生という結果があっただけ。雷光の結果がどうあれ、彼女はどうでもよかった。
「何も難しいことはない。奴のおかげでお前も理解しただろう。かつて儂を貫いた一条の光もまた、ただそれだけのこと。お前は得心の仕方を誤ったのだ」
 どこかから、声が響いた。
 声は黒猫が発したかもしれず、そうでなかったかもしれぬのだが、やはりそれだけのことだった。

 或いは、星空の魔女の世界。

 星空の彼方にはごく小さな星がぽつねんと浮かんでいた。バミューダスペースと呼び習わされた宙域にあるその星には、寝所のみが充実している家屋が建っていた。
 寝所では白銀の長髪が無造作に広がっていた。白銀に埋もれ、女性がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
「……んん……」
 女性は漆黒色のワンピースを身につけていた。寝転ぶには不適切な装いと見え、寝返りを打つ度に裾から白い脚がのぞいていた。
 彼女は昔の記憶を夢で見ていた。記憶は彼女自身のものではなく、彼女の友が彼女を彼女たらしめるために植え付けたものだった。けれど、それはやはり彼女の記憶だった。
 記憶の中で彼女は、殺されていた。ある時、人の賢しらさが、かつて圧倒的な力を持っていた彼女を討ち取った。それは、悲劇であり、悲劇ではなかった。
「……貴女が……心配……」
 その寝言は、彼女が最期の時に思い浮かべた言葉だった。
 某かに殺された時、彼女は彼女のことを思いやって逝った。
 魔女として世界に残された彼女は、優し過ぎた。悩み過ぎた。世界を想い過ぎた。
 けれど、きっと――
「……もう……大丈夫……」

 或いは、彼女の世界。

 言葉が世界に降り立った。
「そう何度も来なくても、他の世界に迷惑をかけたりはしませんよ。言霊」
「あら。そういうつもりで来ているわけではないわ。イライザ」
 どこかの世界。彼女が生まれた世界であるかもしれず、彼女が生み出した世界であるかもしれない。そんな世界。
 彼女はただ世界を旅していた。
「寧ろ、皆の世界へ行ってあげればいいのに。皆、思うところはまちまちだけれど、貴女を想っていますよ」
「……」
 沈黙が返事だった。
「まあ、強くは言いませんよ。ところで、集会所に管理人でも置きませんか? 誰もいなくなってすっかり埃が積もってしまって……」
「考えておきましょう」
 イライザは言霊を連れ立って世界を歩き始めた。
 緑の大地を白き道が続く。道の先には森があり、街があり、山があり、海があった。海の先にも大地があり、そのまた先にも様々なものがあった。
 そのどこででも、誰かが死し、誰かが生まれ、誰かが生きた。何かが壊れ、何かが生じ、何かが在った。
 それは、世界だった。
「世界とは簡単で、難解です」
「そうね」
 紅色の瞳に映る光景は、輝くことも、淀むこともあった。
 希望は絶望であり、絶望は希望だった。
 人は魔女であり、魔女は人だった。
 皆が魔女たり得、皆が人たり得、全てはただただ混淆していた。
「世界は二元的では無く、多元的なモノなのですね」
「その言葉にも意味などありません。世界は――」
「そうね。言霊」
 振り返ると歩んできた道があり、先を見据えるとこれから歩む道があった。
 涙も、焔も、祈りも、血と肉も、光も、星も、万事がそこに在った。
 世界はただただそこに在って、それが全てだった。
「これが――魔女(わたくしたち)の世界ね」

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