先ず言葉ありき

 闇色の空には唯一つの輝く真円が浮かんでいた。それはあたかも満ちた月のようであった。しかし、それは月では決して無かった。女性はそのことを識っていた。なぜならば、彼女こそがその真円を創造したのだから。
 やがて、真円を抜けて人影が顕れた。
「言霊」
「イライザ」
 言霊の魔女と世界の魔女。二者は見つめ合い、小さく笑みを浮かべた。
「わたくしは――もう疲れました。思い通りにならぬ世界を捨てて、世界を創り、奇蹟だけを追わんとしましたけれど、結局はままならぬなんて…… わたくしはもう、どうしたらいいのか分からなくなりました」
「うふふ。貴女らしいですね。貴女は何時だってそうでした」
 微笑みを浮かべた魔女の言葉を受け、苦笑を浮かべた魔女が頭を抱えた。
「わたくしらしい…… そう、ですね。そうかもしれません。わたくしは何時だってままならず、何時だって絶望にすり寄られて生きてきました。わたくしは哀しみに涙し、焔に追われ、祈りに拒絶され、血肉に侵され、雷に裂かれ、星々に貫かれ、きっと、言葉にも打ちのめされて生きてきました。わたくしの世界は何時だって――絶望でした」
 何時如何なる時も、彼女は絶望と共に在った。少なくとも、彼女はそう感じた。それはつまり、世界が絶望と同義であるという証左だった。
 彼女だけではない。どこかの誰かにとっても、世界はきっと絶望そのものなのだ。
「信仰は言いました。彼女はわたくしの意に沿わぬ魔女だと。いえ、彼女は、自分も、と言いました。つまりは、いずれの世界もわたくしの意に沿わず、希望という奇蹟には至れぬと、そう言ったのです。彼女ほど希望に近い者はいないと、わたくしは考えていました。けれど、他でも無い彼女が、希望を否定しました。奇蹟を諦めました。ならばきっと、それは無いのでしょう。世界に希望などないのでしょう。奇蹟など起きはしないのでしょう」
 世界の魔女からは表情が消え失せていた。
「言霊。貴女もそうですか?」
「……」
「貴女もただ絶望に染まりますか? 希望を掴めませんか? わたくしのように、誰かを呪わずには生きられませんか?」
 幼子のように、ただただ、何故、どうして、どうにかしてと、口にしながらも、イライザの瞳は虚ろだった。何も期待してはいなかった。何も望まず、何も想わず、ただの音を発し続けた。壊れた人形のように愚にも付かぬ言葉を繰り返した。
『ええ。希望など掴めませんよ』
 それは言霊の魔女の魔法だった。
 魔女の言霊は世界を縛った。
「何で! なんでッ! なんでなのッッ!!」
 赤々とした長髪を振り乱し、紅玉に雫を溜め、イライザは声高に疑問を吐き続けた。
「どうして! 貴女の言霊で希望を謳えば、或いは! それなのに! なんで貴女は! 貴女も! 誰も彼も!!」
『世界は希望ではありません』
 畳みかけるように、言霊の魔女が世界を束縛した。
 世界の魔女はその言霊に、完全に絶望した。
「もういいです、言霊。もう終わりにしましょう。貴女を消して、わたくしも終わります。世界は初めから――そう在るべきだったのです」
 魔女は瞳を閉じ、ただ心のままに、世界の終わりを望んだ。

「話は最後まで聞くものですよ、イライザ」
「どうして……?」
 再び、世界の魔女が疑問を口にした。戸惑いでその表情は歪んでいた。
 黒天には未だに一つの真円が浮かんでいた。
「何で……なの? 何で貴女は――」
『世界は絶望でもありません』
 言霊の魔女は世界の魔女の戸惑いなどに構わず、世界を更に束縛した。
 呆けた魔女を、魔女がおかしそうに見つめた。
「お、おかしい! そんなわけはない! 貴女がまだ存在できるわけがない!」
 彼女の識る理において、それは間違いなく真理だった。
 世界は彼女の意思で生まれ、彼女の意思で消え去る。その筈だった。
「先ず言葉が生じ、それから、世界が生まれました」
「え?」
『世界よ、世界たれ』
「!?」
 世界の魔女はようやくその理に気づいた。言葉は彼女の世界の始まりにあった。
 言葉は世界を縛るが、世界は言葉を縛れない。その理を世界は今さらながらに理解した。
「その言葉は――言霊は、世界を祝い、呪いました。祝福も呪詛も等しく世界に作用しました。そのことを貴女は識っている筈です、世界の魔女」
「そんなの知らない! 識らない! 世界は寿がれない! 世界は祝福されたりしない!」
 世界の魔女は、単純な理をどうしようもなく理解しても、どうしようもなく理解できなかった。
 けれど――
『世界は希望ではありません。絶望でもありません』
 言霊が繰り返された。
『世界は世界でしかありません』
 ただ、それだけのことだった。
「哀しみ涙することがあれば、喜び涙することもありましょう。涙は絶望ではありません。希望でもありません。涙は涙です」
 それが、紅涙の魔女。
「炎は破壊に繋がります。一方で、炎が生み出す光明は勇気を心に点します。猛き焔もまた、単なる焔でしかないのです」
 それが、紅蓮の魔女。
「祈りは希望に至る指針でありながら、絶望に至る道標でもありましょう。いずれの道もまた、同じ想いに支えられるのです」
 それが、信仰の魔女。
「血も肉も人が傷つくことで生じましょう。けれど、血と肉から成る者の温もりは傷ついた心を癒やすのです。血は血。肉は肉。それだけのことです」
 それが、血肉の魔女。
「雷もまた破壊の一端でありながら、闇夜を引き裂く光の使徒でもあります。けれど、そんなことはどうでもいいのです。ジャンヌは貴女と共に在ったでしょう。ただ友として」
 それが、雷光の魔女。
「それは星空もまた然りです。降り注ぐ星は大地を抉り得るものですが、幾千光年の彼方より至る光は心をほぐします。友は貴女を案じていませんでしたか?」
 それが、星空の魔女。
『絶望に打たれようと、滅びに直面しようと、世界は世界として存在できます。希望など関係なく、ただ世界としてそこに存れます』
 それは、当たり前のことだった。
『在るべきです』
 それが、世界の魔女。
「さあ。もう一度、わたしは祟り、寿ぎましょう。貴女のみならず、皆を……」
「……ああ……!」
 魔女は涙し、祈るように黒天を見上げ、両の掌を突き出した。天より降り来る光に透かされ、血潮が肉の中を流れていた。
 全ては彼女を呪い、祝っていた。
『世界よ、世界たれ』
 言霊の魔女がそう言った。

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