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何者かが言った。
『世界よ、世界たれ』
そう言った。
幼子が泣いていた。取るに足らぬ諍いに心を痛め、泣いていた。
雫は止め処なく流れ出で、大地を濡らした。
どうしてと、詮無きことを誰にでもなく尋ね、幼子は泣き続けた。唯々、哀しんでいた。
彼女の世界は決して優しくなかった。
涙に暮れた幼子を抱いて、男は笑った。哀しみだけが世界ではないと、諭した。
男は幼子を自宅へ招き、彼の姉と共に歓待した。
豪華ではないが温かい食事に、幼子の心がほぐれた。
すきま風が這入り込み寒気溢れる部屋でも、笑顔が溢れ、世界は温かだった。
その夜、男の家が燃えた。姉弟は呆気なく焼け死んだ。
しかし、誰もそのようなことに頓着はしなかった。隣国の軍隊が村に攻め入ったのだった。男の家もまた軍隊が放った火矢で燃えたのだ。誰もが死出の旅路に向かおうというその時に、誰それが死んだなどと、気にしている場合ではなかった。
幼子は逃げた。逃げて、逃げて、逃げて、逃げた。
もう涙も出なかった。唯、得心しただけだった。
逃げた先で幼子は白い人々に保護された。白い人々は皆、穏やかだった。
穏やかさの中で幼子は数年間を過ごした。
何もない時を刻むのは、ひょっとすれば幸福であり、ひょっとすれば不幸であるのかもしれなかった。
幼子は少女となり、白い人々が狂信者と呼ばれるのだと知るに至った。
狂信者達は危険な存在なのだと、世の人々は恐れていた。形無きモノを信じる愚者を人は蔑み、排除した。
形無きモノが何と呼ばれるのか、少女は遂に知ることが無かった。
少女は白き人々と共に、連れて行かれた。欲望のためにその肉体も心も、貶められた。悪戯に右の眼球は抉られた。
けれど、少女は何も感じなかった。世界とはそういうものだと、やはり心得ていた。
それからの少女の世界には血と肉が満ちていた。人は人を殺し、殺され、侵し、侵された。
侵されても、殺しても、屍体を目にしても、少女は無感動に佇むだけだった。
血の臭いにむせぶこともなく、肉の温かさに心をほぐすこともなく、唯、無機質に在った。
後に少女は、多くを殺し、多くを蔑み、多くを愛した、最も人らしき人と成った。
少女は肉を喰らい、血を呑み干し、大いなる力を得た。力は悪しき人を屠り、平静なる世が生じた。
良き人のみの在る安らかな世にて、少女は黒き獣と心を通わせた。獣は少女を慕い、支えた。
時が過ぎ、獣は友の力の一部を取り込み、やはり、強き力を得た。少女と黒き獣は一層、互いを求め合った。
強き者達は何者にも侵されること無く、極力、何者も侵すこと無く、共生した。
天空から雷光が墜ち、黒き獣が只の血と肉と成った。少女はやはり何も感ぜなかった。
呆と見上げた夜空には、遙か彼方より来した光が煌めいていた。
星々は決して意思を持たず、故に、雷光の所業は世界自身こそが残酷であることの証左となり得た。だからといって、少女は何も思わなかった。
少女はそのまま心穏やかに平坦に長じ、人らしさの欠如した女性と成った。
細々とした光が彩る天上を、女性は目指した。空の遥か上には何があるのか、唯の好奇心だった。
天上へ向かい、世界がもっと広いことを、女性は識った。けれど、世界は世界だった。世界は何も変わらなかった。
白銀の髪に琥珀色の瞳、漆黒の衣服を身にまとった、人のような人でないモノが彼女の前に顕れた。モノには名前が無かった。
女性はモノと共に在り、人に恐れられた。それでも女性は、モノと共に在り続けた。
白銀と琥珀と漆黒のモノはいつしか人に滅ぼされた。人の賢しらさは留まるところを知らず、恐れを打ち消し、傲慢さに酔いしれた。
女性はモノの代わりにモノと成り、唯ひとりの魔女と呼ばれた。
人は魔女の滅びを望み、独り残った彼女に向けて、力と智慧で攻め入った。その時、女性は初めて絶望した。希望の全てを否定した。
彼女の世界は絶望だった。希望に至る道は皆無だった。故に、彼女は希望を求めて無数の世界を産んだ。
イライザは、世界の魔女と成った。
何者かが嘆息した。
『それは、世界ではない』
そう言った。