虚しき祈りと共に

 26番通り魔女集会所の天上を、二つの白円が彩っていた。
 信仰の魔女は落ち着かない様子で、集会所の外を掃除していた。既にほうきで掃き終わっていたため、掃くべき物は何もなかった。ただただ、イライザとジャンヌの様子が気になるが故に、無意味な行動に走ってしまっているだけだった。
 やにわに、集会所の扉が開いた。
「あ。イライザ様。いかがでしたか?」
「……」
 隻眼の女性は黙して語らなかった。
 少女は不思議そうに小首を傾げ、黒猫の姿が見えないことで更に首を捻った。
「あの…… ジャンヌさんは……?」
「信仰」
 イライザは問いかけに答えず、表情無く手招いた。彼女は腕を一振りして、再び空間に裂け目を生み出した。
 此度の裂け目は、信仰の魔女の世界へと繋がっていた。
「信仰にはまだわたくしの世界の仕組みを話していませんでしたね。他の魔女がほぼ消え去ったのをいい機会と捉え、改めて教えておきます」
「? 申し訳ございません、イライザ様。仰っている事がよく理解できないのですけれども……」
 戸惑いを顔に浮かべて、信仰の魔女が尋ねた。詳らかには事情を判じ得なかったが、彼女の心には轟々と燃えさかる不安の火が既に点っていた。
 訝しげにしている魔女へ、やはり明確な答えを返さずに、イライザは曖昧な笑みを浮かべた。
 二名は空間の裂け目に飛び込み、信仰心の溢れる世界へと辿り着いた。
「久方ぶりの故郷はどうですか、信仰?」
 小高い丘に佇み、聖都を見おろしながら、イライザが尋ねた。
 先程の戸惑いを顔に残しながらも、信仰の魔女は小さく笑んだ。
「は、はい。やはり心が落ち着きます。神ヴァスカラのご加護を強く感じます」
「そう。この世界の源は神。勿論、神という名を与えられただけの只の力の集合でしかありません。本質は他の世界を象徴する炎や涙と同じ。それでも、この世界の人々が、そして、魔女たる貴女が神を信奉しているからこそ、只の力が神たり得るのです。神ヴァスカラはわたくしの世界で最も異質な存在。だからこそ――」
「……イライザ様?」
「かつてのわたくしの世界に、神を敬うという考え方は存在しませんでした。何も為さぬ神という名の概念など不要であり、人々は実際的な事柄だけを信奉していました。もしかしたら、それ故にわたくしの世界は憎しみに満ち溢れ、ただの絶望自身に成り下がってしまったのやもしれません」
 相変わらず、信仰の魔女にとって、イライザの言葉は意味の分からないものであった。
 それでも、魔女にはイライザの思いが理解出来た。イライザの抱く思いが、あらかじめ信仰の魔女の胸に潜んでいたかのようだった。
「信仰。今、貴女の心はわたくしの思いとわたくしの世界を理解したことでしょう。それは、貴女という個体がわたくしの世界の構成物だからなのです。そして、同じくわたくしの世界の構成物たるこの信仰の世界は、貴女のための世界でありながらわたくしのための世界でもあるのです。全てはわたくしのために存在していると言っても過言ではありません。故に、わたくしと貴女たち魔女と、貴女たちが共に在る世界たちは、同じ一つの目標を抱いて歩んでいます」
「同じ一つの目標……?」
 話の内容に圧倒されながら、信仰の魔女は掠れ声で言葉を反復した。
 イライザは小さく頷き、瞑目した。
「蔑む者も蔑まれる者も存在しない世界。わたくしはそれを見てみたい。わたくしが至れなかったその奇蹟を、貴女たち魔女に掴んで欲しい。世界とはそう在って欲しい。それが、貴女が、世界が、わたくしが、目指すべきもの」
 信仰の魔女は瞠目し、息を呑んだ。
 イライザの言葉は素晴らしいものに感ぜられた。彼女が語る奇蹟は、信仰の魔女にとっても希望たり得るものだった。
 神を信じる魔女もまた、この世界で絶望に囚われ、人を恨み、人に恨まれ、人を蔑み、人に蔑まれた。彼女は聖女から魔女へと転じ、信仰も想いも潰えかけたかに思えた。けれど、世界の主とも言える存在自身が、希望を目指せと言うのだ。その奇蹟を、掴めるものならば、掴みたかった。
 しかし――
「魔女は人を殺し、人は魔女を恐れ、やはり殺す。人が死んでいく光景は貴女のこれからの現実。目をそらしてはいけない」
 この世界で信仰の魔女が絶望に囚われたその時、言霊の魔女は言った。人は死ぬ、と。魔女は死ぬ、と。人も魔女も相手を殺すのだ、と。世界は絶望だ、と。
(いえ。それもまた違うのでしょう)
 信仰の魔女は頭を振った。
「イライザ様。その奇蹟だけが、世界でしょうか?」
「そうであるべきです」
 迷い無くイライザは断言した。
「はい。わたくしもそうであって欲しいのです。けれど――」
 言葉を放とうとして、しかし、魔女は再び頭を振って、口を噤んだ。
 なぜならば、言葉は意味を成さない。言葉はきっと届かない。彼女は信仰の魔女なのだから。
「申し訳ございません、イライザ様。わたくしは――いえ、わたくしもまた、貴女の意にはそぐわぬ魔女です」
 イライザはしばし、その言葉の意味を理解できずにいた。
 しかし、ようよう哀しみの陰を隻眼に携えた。
「血肉が、紅蓮が、紅涙が、星空が、そして、ジャンヌ――いえ、雷光の魔女が、わたくしの意にそぐわぬ者として消え去りました。貴女もまたそうだと言うなら、貴女もまた同じ運命を辿るでしょう。それでも貴女は――信仰の魔女は、先の言葉を変えませんか?」
 質問として投げかけられた言葉は、しかし、只の確認に過ぎぬと、二者は共に分かっていた。
 丘を風が抜けていった。
 世界はただそこに在った。丘から見える聖都も森も空も何もかも、ただそこに在るだけだった。
「ごめんなさい、イライザ様。これまで、ありがとうございました」
 微笑みを浮かべた少女は、かつて巷説に囁かれたように、まさに聖女のようであった。それでいてやはり、魔女のようでもあった。
 少女は優しさを帯びた表情でゆっくりと瞑目し、祈った。
「貴女の心が、神ヴァスカラと共にあらんことを……」
 刹那の後、聖女であり魔女でもある者は消え去り、ただ世界としてそこに在った全てもまた闇に還った。
 闇色の空間に佇むのは、やはり隻眼の女性のみとなった。
「奇蹟を生まぬ神など、やはり虚しいだけです……」
 怒りも哀しみも無く、世界はただ空虚だった。

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