雷は疾く消ゆ

 天を彩る三つの真円を両の瞳に入れ、信仰の魔女はぼんやりと佇んでいた。愛用のほうきを手にしてはいたが、このところ、掃除に身が入らない日々を続けていた。先程のように放心することが幾度もあった。
 彼女の視線はようよう、26番通り魔女集会所の扉へと向かった。閉ざされたその扉からは、静寂だけが流れ出でていた。
「皆さん、本日も帰っていらっしゃらないのかしら。言霊様も、紅涙様も、紅蓮様も……」
 信仰の魔女が眼前の集会所に厄介になり始めてから、いずれの魔女も幾度となく魔女集会所への訪問を繰り返していたものだった。
 頻度としては紅涙の魔女が最も多く、一日と空けずにやって来ていた。恐らくそれは、新しい環境に慣れきっていない信仰の魔女を心配してのことだった。
「わたくしが何かしてしまったのでしょうか…… 紅涙様がお優しいのでつい甘えすぎてしまったのかも……」
 信仰の魔女はついつい鬱々と考え込んでしまった。かつては信仰の聖女と呼ばれ、今は信仰の魔女とも呼ばれている少女は、案外と普通なようだった。
 にゃーん。
 獣の鳴き声が聞こえてきた。黒猫――ジャンヌが器用に扉を開けて、姿を見せた。
「ジャンヌさん。イライザ様は……?」
 にゃん!
 信仰の魔女の問いかけを受けて、ジャンヌは不機嫌そうに短く鳴いた。
 このところ、彼女らは仲違いしているようだった。
「駄目ですよ、ジャンヌさん。喧嘩はいけません。ジャンヌさんとイライザ様は別々の個体なのですから、当然わかり合えないことはあるでしょう。けれど、わかり合えるように努力しなければなりません。そのために言葉が――」
 そこまで説いて、信仰の魔女は口を噤んでしまった。残念ながら猫たるジャンヌは言葉を持たない。
「と、とにかく、仲直りしましょう。ほら。わたくしも共に参りますから。ね?」
 にゃー。
 笑顔で腕を伸ばす少女を瞳に入れ、ジャンヌは俯いて小さく鳴いた。それはあたかも、嘆息したかの如きであった。

 魔女集会所の奥にイライザの居室はあった。別段変わったところのない、至って普通の部屋だった。いっそ簡素過ぎですらあった。
 ジャンヌを抱いた信仰の魔女がその部屋の扉をノックすると、直ぐに返事があった。
「失礼いたします。イライザ様」
「おや。信仰。珍しいですね。ジャンヌも一緒ですか」
 魔女達が集会所を訪れず、ジャンヌが憤怒に支配される中、イライザだけは平時と変わらず微笑みを絶やさなかった。
 彼女のそのような様に、信仰の魔女は安堵すると共に、何故か弱冠の恐怖をも感じていた。
「何か用ですか?」
「は、はい。実は……」
 信仰の魔女が、ジャンヌとの話し合いが必要なのではないかと説くと、イライザは小首を傾げて苦笑した。紅色の隻眼は困ったように細められた。
「わたくしは特に怒っているわけではありませんよ。ジャンヌが気にしないというのなら、わたくしも気にいたしませんが……」
 にゃん!
 信仰の魔女の腕の中で、ジャンヌは全身の毛を逆立てて鋭く鳴いた。とてもではないが、関係の修復を望んでいるようには見えなかった。
「ジャンヌさん!」
 にゃーん……
 軽く叱咤されたジャンヌは、哀しそうに細く鳴いた。
「まあまあ。わたくしとジャンヌの間のことですし、ここは二人きりで話させてくださいませんか? どうですか、信仰?」
 イライザにそのように頼まれると、信仰の魔女は言葉につまってしまった。実際、過干渉気味であったことは間違いないとも感じた。
 彼女はジャンヌを床に下ろして、とぼとぼと扉の前へと移動した。
「失礼いたします」
 やや落ち込んだ様子で、信仰の魔女はイライザの部屋を去った。
「ふふふ。言霊や紅涙がいなくて、人恋しかったのでしょうね。それでついつい貴女に構い過ぎてしまったのでしょう」
 少女を見送ってから、隻眼の女性はおかしそうに黒猫へと語りかけた。
 その言葉への返答は終ぞ無かった。
「それほどに紅涙や紅蓮がお気に入りでしたか? まさか血肉ではありませんでしょう?」
「そういう問題ではないじゃろう。イライザよ。なぜ、あの子らを消した?」
 此度は言葉が返った。鳴き声ではなく人語であった。
 黒猫の瞳には知性の光が見えた。
「有り体に言えば、期待ができないからです。彼らが――彼らの世界が、わたくしの望む結末へ向かうと信じられる程に、貴女は愚かなのですか?」
 イライザの問いを受け、ジャンヌは猫らしからぬ仕草で無念を表した。彼女は嘆き、哀しみ、呆れ果てた。
「……お主がそこまで餓鬼とは思わなんだ。本当に付き合ってられん」
「餓鬼とは随分ではありませんか。わたくしはおかしな事を言っていますか? わたくしの世界において、彼らが為すべき事を為し得ないのなら、それはもはや存在意義の欠如でしょう? 存在自体を奪われたとて、文句を紡げない。違いますか?」
 イライザの瞳に浮かんでいたのは多大なる戸惑いだった。それでも、未だに余裕があった。他の何者が彼女の元を去っても、たまさか眼前の黒猫だけは去るはずがない。そのような自惚れが彼女にはあった。
「違わぬよ。違わぬが、あまりにも不寛容であろう。それこそ、餓鬼が思い通りにならぬことに対してごねるかの如き醜さだ」
 黒猫が紡ぐ論理に、イライザは歯噛みした。その様子は、ジャンヌが語るとおり幼子の如きであった。
「あ、貴女はいつから、わたくしの思想とそこまで隔絶してしまったのですか?」
「勘違いも甚だしいわ。もうよい。儂も消せ」
「……!」
 イライザは驚愕に瞳を見開いた。傷つき開かぬ右眼の分も、左眼が大きく大きく開かれた。紅々と輝くそれは、大きなルビーのようだった。
「ジャ、ジャンヌ?」
「あとは奴に任す」
 そう結ぶと、ジャンヌは自身の世界への扉を望んだ。最期に見に行かせろ、と。
 しばし、静寂の時が訪れた。
 一刻、二刻と経ち、苦渋の表情で折れたのはイライザだった。表情を歪めた彼女が腕を一振りすると、空間が裂けた。
 裂け目の奥からは、轟音が響いてきた。ジャンヌ――雷光の魔女の世界だった。
「さらばだ。友よ」
 黒猫は裂け目へと消え、可愛らしい鳴き声の残滓だけを残して逝ってしまった。

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