星墜つる刻

 26番通り魔女集会所から一人の少女が歩み出でた。少女は信仰の魔女と呼ばれていた。彼女は先頃、周辺の掃除を終えたのだが、その際にほうきを外に置いたままにしてしまったことに気がつき、回収しにきたのだった。
 集会所の壁に立てかけてあるほうきを見つけ、彼女は小走りで近づいた。目的の物を手に取り、直ぐに集会所の中へ戻ろうとした。
「あら?」
 その時、ふと見上げた天上で、世界に開いた穴のような白き円が一つ、ボロボロと崩れていくことに気づいた。燦然と輝く真円は残り四つとなった。
「あれは、お月様――ではないのでしょうね。つい先程まで六つあった気がいたしますが…… それに、今の一つは、なぜ崩れて無くなってしまったのでしょう?」
 信仰の魔女は小首を傾げて、天上に複数在る円を見つめていた。
 しばしの後、信仰の魔女の目の前で、集会所の外に影が突如現れた。魔女はその影を見知っていた。故に、微笑みを浮かべて最敬礼をした。
「お帰りなさいませ。イライザ様」
「あら。ただいま。外にいるということは掃除ですか? 精が出ますね、信仰」
 声をかけられたイライザは隻眼を細めて、平素の如く機嫌良さそうに言葉を返した。彼女は腕のひとふりで、闇へと続く空間の裂け目を閉じた。
「いえ。お掃除は終わったのですが、ほうきをお外に置き忘れてしまいまして。ちょうど今、取りに出てきたところです」
「それは抜群のタイミングでしたね。では、共に中へ戻りましょうか」
「はい」
 信仰の魔女はほうきを手に取ってイライザのあとに続いた。
 にゃーん。
「ただいま。ジャンヌ」
 集会所の卓上で丸くなっていたジャンヌが、イライザの帰還を機嫌良く迎え入れた。
「あら。言霊はいないのですか?」
「はい。イライザ様がお戻りになる少し前にお出かけされました」
「そうでしたか。言霊がどういう反応をするか、少し心配でしたが、杞憂でしたね」
 苦笑を浮かべたイライザは、ジャンヌへと腕を伸ばした。
 ジャンヌは甘えた鳴き声を出してイライザの腕に飛び込んだが、抱かれると直ぐに毛を逆立てた。
 その反応を瞳に映し、イライザは不敵な笑みを浮かべて肩を竦めた。
「あら。どうかしましたか?」
 びりりッッ!!
 紫電が空間を駆け抜けた。しかし、直接の攻撃に転じることは無かった。雷は床や壁や天井を軽く焦がすだけに留まった。
 にゃん!
 電撃を発した黒猫は、イライザの腕から飛び出して鋭く鳴いた。
「ジャ、ジャンヌさん! 突然何を!?」
「あら。嫌われてしまったのかしら。残念」
 イライザはどことなく寂しげに呟き、微かな笑みを携えて集会所の奥へと消えた。
 残された一匹と一名は、或いは怒りに震え、或いは何も分からずに呆けた。彼らの時はいまだ、世界と共に在った。しかし、それも時間の問題なのかもしれなかった。

 数日後、イライザはとある世界の空間を漂っていた。
 その世界では、星の海が一面に広がっていた。星々で満ち溢れていた。星には人が多く住み、彼らは同種族のうちにおいてすら、差別し、蔑み、拒絶し合っていた。彼らの争いは、一つの星で完結することもあれば、星々の間で勃発することもあった。
 その世界には、イライザが求めるモノとの明確な乖離があった。
「まったく。星空は無関心が過ぎますね。人間は魔女たる彼女の存在すら知らず、なるほど、魔女と人間の対立構造は存在し得ませんが、本質は何も解決していません」
 人が魔女を憎むこと。魔女が人を憎むこと。人が人を憎むこと。そして、魔女が魔女を憎むこと。それらの間にどれだけの違いがあるというのか。
 そもそも魔女という概念は、人と人の交わりによって生じた憎悪が起源であった。人は人を憎み、魔女を生み出し、魔女を憎んだ。魔女もやはり人を憎んだ。しかし――
(……何の用……?)
 星間に漂うイライザの頭へと直接声が響いた。星空の彼方に住まう魔女が、億劫がって思念だけを飛ばしたのだった。
 イライザは短く嘆息し、鋭い目つきで星空の彼方を見据えた。
「率直な意見を言いましょう、星空。わたくしは今の貴女に必要性を感じていません」
(……だから……?)
「改善が見込めないのであれば、貴女をわたくしの世界から消し去ります」
(……なるほど……)
 簡単な問答を終えて、しばしの沈黙が続いた。
 生じた静寂は、その空間に本来あるべき正しい姿であった。空気の存在しない宇宙空間において、声音の響くことこそが異質であった。しかし、直ぐに異質な状況が再来した。
「……血肉も紅蓮も紅涙も……だから消したの……?」
 突如、空間に一人の女性が出現した。白銀の髪に琥珀色の瞳、漆黒の衣服を身にまとった彼女は、星空の魔女その人であった。
 ついに対面での問答が叶った。
「気づいていましたか。貴女は実力だけであれば他から抜きんでていますから、まあ当然ですか。これでやる気があれば期待できるのですけれど」
「……疲れることは嫌い……」
 星空の魔女が小さく頭を振った。銀髪がさらさらと揺れた。琥珀は陰りを見せており、心底嫌そうだった。
「……消えるのは構わない……」
「本気ですか?」
 訝しげにイライザが尋ねた。
 銀糸の先端をいじりながら、星空の魔女は頷いた。
「……貴女に逆らうのは面倒……」
 後ろ向きな理由に、紅眼の女性は瞑目して小さく息を吐いた。無意味な抵抗をされないのは有り難かったが、そもそも、この魔女の存在自体が無意味だったのではないかと脱力した。
「それでは――」
「……でも……」
 消えゆく者の瞳に浮かぶのは恐怖ではなかった。
「……貴女は……大丈夫……?」
 琥珀にたゆたうのは憂慮か、ひょっとすれば、憐憫だった。
 イライザはびくりと肩を跳ね上げ、しかし、直ぐに平素の如く微笑んだ。
「ええ。何も問題ありませんよ」
「……そう……」
 場当たり的な返答を受けて、星空の魔女は納得しかねる表情を浮かべながら納得した。今、彼女に出来ることはそれだけだった。
 魔女は銀の髪を一度かき上げて、払った。宇宙空間に銀光が乱反射し、星空が白く還った。
「……ばいばい……」
 その言葉だけを残して、星空の魔女はいなくなった。
 銀光がおさまった時、そこには闇のみが満ちていた。
「さようなら。星空」
 闇色の空間で独り呟いたイライザは、しばらくそのまま佇んでいたが、ようようその姿を消した。

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