枯れ果てし涙

 26番通り魔女集会所の扉の前を、信仰の魔女がほうきで掃いていた。ようよう枯れ葉がひとまとまりとなった頃、彼女は満足そうに微笑んで闇の満ちる天上を見上げた。
 そこには煌々と輝く真円が六つ在った。しかし、信仰の魔女はふと思った。少し前まであの真円は七つではなかったか、と。
「気のせいでしょうか……?」
 信仰の魔女が独りごちていると、集会所の扉から一匹の黒猫がとことこと歩み出でた。
「あら。ジャンヌさん。お出かけですか?」
 にゃーん。
 ひと鳴きした獣は、信仰の魔女の白く細い右足に、黒き体をすりつけた。
「ふふ。わたくしのお手伝いにいらしてくださったのですか?」
 にゃーん。
「ありがとうございます。でも、お掃除はもう終わりましたので、中に入ってお茶にいたしましょう」
 にゃーん……
 魔女集会所へ入っていく信仰の魔女を追って、黒猫――ジャンヌはとことこと歩みを進めた。掃除の役に立てなかったからなのか、その背中は心持ち落ち込んでいるかのようであった。
「あ。シンコ、掃除おわったの?」
 集会所の中で休んでいた紅涙の魔女が、扉の開く音を耳にして振り返り、尋ねた。彼女の向かい側では言霊の魔女がニコニコと笑んでいた。
「はい。紅涙様。これでお仕事は一通り完了いたしました。こうして綺麗にすると、心が澄んでいくようですね」
「んー。前も言ったけど、あんまり綺麗だとちょっと落ち着かないかなぁ」
「そ、そんなぁ……」
 紅涙の魔女の言葉を受け、信仰の魔女が瞳を潤ませた。
 涙を司る魔女は、仲間の瞳に浮かぶそれを目にして、困り顔で嘆息した。
「あー。嘘よ。気持ちいいってば、もぉ」
 諦めたように両手を挙げて、紅涙の魔女は降参の意を示した。
「ふふふ。ルイちゃんは信仰に弱いわね。まるで妹が出来たみたい」
「紅涙様がお姉様ですか? ふふ。わたくし、肉親がおりませんので、嬉しいです!」
 言霊の魔女の言葉に、信仰の魔女は涙を拭って破顔した。
 一方で、紅涙の魔女は嫌そうに表情を歪めた。
「えー。ワタシ、言霊ねーさまの妹にはなりたいですけど、シンコみたいに泣き虫な妹はいらないですー」
 彼女の言葉が突き刺さることで、再び、信仰の魔女が涙ぐんだ。
「こ、紅涙様ぁ……」
「う……」
「あらあら。妹を苛めては駄目よ、ルイちゃん」
 大きな瞳に雫を浮かべる少女と、からかうように微笑みを浮かべる女性、双方に見つめられ、紅涙の魔女は肩を落とした。とある世界で魔女と恐れられているとは思えぬ、情けない姿であった。
「勘弁してください、ねーさま」
 にゃーん。
 魔女達を見上げつつ、ジャンヌが楽しそうに鳴いた。

 魔女集会所でのひと騒動ののち、紅涙の魔女は言霊の魔女に送られて紅蓮の魔女の世界へと向かった。このところ、彼との口喧嘩が不足していると感じたためだった。
「まあ、別にいいんだけど。たまには怒鳴らないとストレスが溜まる一方だし。ねーさまとシンコ相手じゃ怒鳴ったりできないし、勿論、イライザ様やジャンヌに怒鳴るわけにもいかないし。まあ、血肉とか星空もいるけど、あいつらとはそもそも会話したくないし……」
 色々と言い訳めいたことを呟きつつ、紅涙の魔女は視線を上げた。視界には紅色の空と大地が映った。星々や月すら紅々としていた。遠くの空には炎柱が見えていた。その焔によって世界が紅く染まっているようだった。
 紅蓮の魔女が、今まさに唾棄すべき人間を屠殺しようとしているのかもしれない。
「あいつのことだし、お姉ちゃんに非難の目で見られて半殺しくらいで止めるんだろうけどね。まあ、相手によるかもだけどさ。あの姉弟って二人で一人みたいなとこあるよねー」
 呟いた少女の瞳には紅き世界が映っていた――が、それらは直ぐに一面の闇へと還った。
 紅蓮の魔女の世界は、紅涙の魔女の眼前で一瞬のうちに消え去ってしまったのだった。
「え…… 何これ……」
「おや。紅涙ではありませんか。タイミングが良いというか、悪いというか」
 闇色の空間には、紅涙の魔女の他に女性が一人、佇んでいた。彼女は紅色の隻眼を細め、ふわりと微笑んだ。
「イライザ……様……?」
「紅蓮に会いに来たのですか? もしくは彼の姉に? いずれにしても無駄足でしたね。彼らはその存在すら消え去り、既に存在しません。当然ながら彼らの世界もまた同様に……」
「ッ!」
 紅涙の魔女が声にならない悲鳴を上げた。
 その様子を紅き隻眼に映し、イライザは苦笑した。
「何を驚いているのですか? わたくしと貴女がたがそういう成り立ちとして在ることは、貴女も承知していることでしょう? わたくしが望まぬ世界は存在し得ない。それが理でしょう?」
 イライザの言葉通りであった。故に、紅蓮の魔女は消え去り、今この場所はただ闇色で満ちた空間となっているのだった。血肉の魔女も同様であり、果ては、全ての魔女がそうなり得るのだ。
 紅涙の魔女が青い顔で後ずさった。
「? ああ。安心なさいな。今のところ、貴女を消し去るつもりは――」
 隻眼の女性はそこで言葉を切って、思案顔で闇一色の地面を見つめた。しばしの時が経ち、イライザは小さく頷いた。
「いえ。やはり貴女にも消えてもらいましょう」
「ッッ!!」
 無慈悲な宣告を受けて、紅涙の魔女は再び大きく息を呑んだ。顔色は青く、脚は細かく震えていた。ようよう、立っていることも出来ずに、へたり込んでしまった。
「貴女は人間に対して諦観の念しか持っていません。行き着く結末はたかが知れています。これまでは見逃してきましたが、こうして血肉と紅蓮が消え去った今となっては、不必要な世界は一新すべきと判断します。停滞は滅びへの前奏ですからね。ふふ」
 イライザが浮かべた微笑みには、一切の悪意が含まれていなかった。
 だからこそ恐ろしいと、紅涙の魔女は心底から身震いした。ようよう彼女のまなじりには雫が溜まった。
 寸時の後、闇色の空間に爆音が駆け抜けた。
 紅涙の魔女が、ようやく浮かんだ涙を掬い、イライザに対して攻撃を仕掛けたのだった。彼女は爆発の中心にいる筈のイライザに背を向け、直ぐに駆け出した。
(な、何なの? シスコン魔女が消えた? 血肉のウザ魔女も? 何でそんな……)
「躊躇なく逃げ出すだなんて、貴女は紅蓮や血肉とは違って賢いですね。紅涙。けれど、一体どこへ逃げようというのですか? 言霊がおらず、わたくしと敵対し、今の貴女はこの世界の澱から26番通りへと向かう術を持たないでしょう?」
 世界を渡る術を持つのは、イライザと言霊の魔女のみである。他の者が同様の事を為すには、イライザが製造した26番通りへ帰還するための玉が必要となるが、生憎と紅涙の魔女は持ち合わせていない。
 いや、仮に持ち合わせていたとしても、製造を担うイライザが敵として在る時に、充分な効果を示してくれるかは甚だ疑問である。
(この空間から出られなくて、隠れ場所もなくて――逃げられない!)
 妙手は絶えていた。残るは全て悪手であった。
「助けて、言霊ねーさま……!」
 少女は無意識に呟いていた。しかし、紅涙の魔女は当然、理解していた。世界も運命も、決して易しくはないし、優しくなどないのだ、と。
 故に――
 ぽとり。
 雫が頬を伝って落ちたその時、紅涙の魔女が勢いよく腕を振るった。闇色の空間をたゆたった涙は、魔女の右手にはじかれて魔弾と成った。魔弾は勢いよく目標へと向かっていった。
 納まりかけていた爆発の煙が引き裂かれ、魔弾がイライザに直撃した。再び、粉塵が一帯を満たした。
「これで――」
「不思議ですね」
 紅涙の魔女に浮かんだ笑顔は、直ぐに翳りを見せた。
 闇の空間はいまだに見通しが利かず、イライザの姿もまた見えなかった。しかし、彼女の言葉ははっきりと聞き取れた。紅涙の魔女の悪あがきは全く効いていなかった。
「なぜ、血肉も紅蓮も、そして、貴女も、無駄なことをするのでしょう。なぜ、魔女(あなたがた)がわたくしに逆らえるなどと、夢想するのでしょう。不思議です」
 ようよう姿を見せたイライザは、変わらずに佇んでいた。一切の傷を受けず、微笑んでいた。
「やだッ!」
 紅涙の魔女は踵を返し、止め処なく涙を流しながら駆け出した。破壊を生み出すためでなく、ただただ恐怖のためだけに涙し、ただただ逃げ出した。
 しかし、彼女が逃げ込む場所など、どこにも無かった。
「シンコ! ねーさま! 誰か!」
 助けを呼ぶ声が闇の中に木霊した。
「誰か……助けて……!」
 その言葉の残滓が、紅涙の魔女の最期だった。
 少女の姿は寸時の後に、跡形も無く消え去った。
「さて、そろそろ集会所へ戻りましょうか。さすがに疲れてしまいました」
 イライザは独りごち、闇の空間を引き裂いた。その裂け目を抜けて、イライザが空間から去った。
 誰もいなくなった闇の中には、ただただ静寂のみが在った。

PREV TOP NEXT