WORLD

 さんさんと照りつける太陽の下、集合住宅の一室で、一人の青年が寝具から身を起こした。その者は黒髪をかきあげながら、戸惑った様子で部屋を見回す。その瞳に映るのは見慣れた部屋。確かに彼が住んでいる部屋である。
 しかし、少しばかりの違和感はあった。見慣れない小物類。見慣れない服。そして、見慣れない人物。
 彼が眠っていた壁際とは反対側に、未だ夢の住人のままである赤毛の少女がいた。少女は御約束のように、あと五分、と口にしながら寝返りを打つ。
 青年は混乱した頭を駆使して懸命に思考をめぐらし、しかし、しばらくすると白旗を上げる。そして、少女に向けて、自分の枕を投げつけた。
「ふわ?」
 突然の飛来物により痛みを覚えた少女は、飛び起きて視線をめぐらす。そして、青年の姿を見止め、更に自分の顔にぶつかった枕を見止め、瞳を吊り上げる。
「何すんのよ!」
「まあお前の怒りももっともだ。そこは謝る」
 青年は素直に頭を下げた。そして、更に言葉を続ける。
「ところで、俺は生きてんだよな。リーン」
 そう声をかけられ、少女――リーンははっと表情を硬くする。そして、自分の身体をぺたぺたと触り、確認する。彼女自身の存在を。
「あたしも……生きてる」
 リーンの呟きを耳にし、青年――ヴェイルは瞳を翳らせて自嘲する。
「てーことはだ。皆――」
 どんどんどんっ!
 そこで、何某かが外側から玄関を叩く音が響いた。
 ヴェイルとリーンは首を傾げ、そして、共に立ち上がり、音のする方向に足を向ける。彼らが慎重な足取りでそちらへ向かう中――
「リーンちゃん! リーンちゃ〜ん! 学校遅れるよ〜!」
 声が聞こえた。
 部屋の主達は顔を見合わせる。そうしてから、どたどたと足音を響かせて玄関へ向かう。
 がちゃ!
 勢いよく開かれた扉。
 そして、ヴェイル、リーンの瞳には、目を瞠って立っている少女の姿が映った。
「あれ? ヴェイルさんまでどうしたんですか? とゆ〜か、二人ともパジャマのまんまって、寝坊?」
「コリン!」
 リーンが顔に喜色を携え叫ぶと、コリンは間の抜けた表情で、ふえ、と声を上げた。
 がちゃ。
 その時、再び扉の開く音が響いた。
「あれ? コリン、まだいたのかい? 早く行かないと遅れるよ」
「あ、お兄ちゃん。いや〜、何かこちらの方々が兄妹ともども寝坊したみたいで〜」
「ヴェイルもまだいるの? 見習いとはいえ、王城勤務の騎士様がそれじゃあ、この国の未来が不安だなぁ」
 姿をみせた青年が、カシスがそう口にして笑った。コリンもまたおかしそうに笑い声を響かせる。
 そんな中、呆然としていたヴェイルは正気を取り戻す。
「ごほっ。ごほっ。いやその、実はな。ちょいと風邪を引いたみたいで……」
 リーンがそれに続く。
「そうなのよ。こほん、こほん。だからコリン。悪いんだけど――」
 下手な芝居が玄関先で為された。
 しかし、比較的人の好いカシスは心配そうな瞳を携え信じ、コリンもまた能天気な笑顔で、そ〜なんだ〜、と口にした。
「じゃ〜学校にはわたしが連絡しといてあげるね〜。学校からならお城も近いし、ついでにヴェイルさんのことも知らせとこっか〜?」
「いや、ヴェイルのことは僕が知らせとくよ。今日は午後からの予定だったけど、今から行って残ってる図書の整理してもいいし」
「え〜、でもお兄ちゃん。せっかくゆっくりできるチャンスなんだから、午前中はだらだらしてればいいのに〜。ただでさえ、お城勤めの学者って大変なのに〜」
「大丈夫だよ。それよりも、風邪を引いている二人を玄関口に拘束してるのも悪いしそろそろ行こう、コリン。それじゃお大事に、二人とも」
 カシスはそう言って、妹と共に暮らしている部屋に一度戻った。しかし、直ぐに小さな荷物を手にして出てきた。玄関の錠に鍵をかけ、それから、ヴェイルとリーンに手を振って歩き出す。
「む〜。何かうまく誤魔化された感じ」
 コリンは少し不満そうに呟いたが、風邪を引いていることになっている二名に顔を向けると破顔一笑し、お大事に〜、と口にして走り出した。直ぐさまカシスに追いつき、仲良く歩いていく。
 そのような彼らを見送りつつ、ヴェイル、リーンは再び首を傾げる。
「なあ、これは世界の解放に成功したってことなのか?」
 ヴェイルが訊いた。
 それを受け、リーンは頭を抱えて考え込む。
「でも、そうならあたし達はこうして存在してるはずはないじゃない? だってソレイユは――」
「や!」
『どわ!!』
 二名が仲良く驚きの声を上げた。突然彼らの間に姿を見せた者を因として。
 その者は可笑しそうにケラケラ笑い、それから手を上げて、やっほー、と再び挨拶らしき言葉をかけた。
「そ、ソレイユ」
「うん。皆のアイドル、ソレイユちゃん参上ってね」
 神と称されたとて遜色ない存在である少女――ソレイユは、おどけた様子で言った。
 ヴェイル、リーンは苦笑し、しかし、直ぐに表情を引き締める。
「なあ、これはどういうことなんだ?」
 尋ねたのはヴェイルだ。
「どういうことって……君達の望みどおりだよ? めでたくわたしの管理から逃れて、ひとつの立派なワールドが出来上がったの。いや〜。こんな風にちゃんと解放できたのっていつぶりだったかな〜。あはは〜」
「け、けど…… 世界の解放っていうのに成功したらあたし達は消えちゃうんじゃなかったの?」
 今度はリーンが尋ねた。
 ソレイユは苦々しく笑って、視線を逸らしながら呟く。
「ん〜、わたしは『管理者が消滅する』とは言ったけど、『君達が消滅する』と言った覚えはないな〜」
「だから! その管理者があたし達だったんでしょ? 学園長とミーティアさんの代わりに新しい管理者になったみたいな流れだったじゃん! あの時!」
「ま〜。そ〜だったんだけどね〜」
 くすくすと笑いながら、ソレイユは曖昧な言葉を返した。その様子に納得できない様子で憤慨しているリーンと、さっぱり理解できない風に首をかしげているヴェイル。
 そんな彼らに、ヴェイル達の部屋の隣に住まう者――カシス、コリンとは逆側の隣室に住まう者達ががちゃりと扉を開けて顔を出し、声をかける。赤い長髪をさらりと流した女性が、微笑んで言葉を紡ぐ。
「あら。二人とも出かけなくていいの? 騎士団も学校も遅刻じゃないの? 特にリーンちゃん。旦那が――貴女の担任のシン先生が、今日は全校朝会があるからって早めに出かけていったんだけど……」
 顔を出した者を凝視して、ヴェイルとリーンは固まった。それでいながら、辛うじて笑顔を浮かべ、直ぐに出ます、などと言い訳を口にし、その場を治めようと試みる。すると、女性は疑うことなく納得し、にこりと笑顔を浮かべてから室内へ戻った。
 残された者達は混乱した頭で神に瞳を向ける。
「ん? 何?」
 ニヤニヤと笑いながら、ソレイユが訊いた。
「何、じゃねぇし! ちょいと歳とって見えたが、あの人ミーティアさんだろ? 何でミーティアさん生きてんだ?」
「それに学園長先生も生きてるくさいし!」
 早口でまくし立てる二名を瞳に入れ、ソレイユはくすくすと声を出して笑いつつ、口を開く。
「たぶんだけど、あの子達が管理者じゃなくなった瞬間に、神聖なる世界にシンが、魔なる世界にミーティアが出現したんじゃないかな。管理者でなくなれば、一つの世界に固有の存在である必要はなくなる。他の世界で存在し得る。なら、どっちかの世界でどっちかが生きてるんなら、『この世界』でならどっちも生きてるようにできるかもしんない。てかま〜、そこら辺の細かい設定はわたしも把握してないんだけどさ〜。なにせ、ここはわたしの管理下にあるワールズから外れているし、世界の基礎を築いたのも『彼女』だし」
『彼女?』
 声を揃え、ヴェイル、リーンは訝しげに呟く。
「そ。『彼女』。……そ〜だな〜。君達にも『記憶』があるはずだよ。その記憶を辿ってみて。そうすれば、消去法で『彼女』が誰か判るはず」
 ソレイユの言を受け、ヴェイルが考え込む。
 ヴェイルは王都ガイアシスから遠く離れた田舎に生まれた。家族構成は父と母、妹、そして、父方の祖父母。彼は十八歳までその環境で過ごし、しかし、王宮に仕える騎士団に憧れて都へ来た。三年越しの願いを叶え、騎士団の一員となったのが今年の春である。住まうアパートメントの隣人には、右隣が同い年のカシスとその妹コリン、左隣が教師であるシンと専業主婦のミーティア、そして、彼らの子供であるアース。また、騎士団の同輩にはシャロンという青髪の少女がいた。
 リーンの近況も似たようなところである。まず特筆すべきは、彼女がヴェイルの妹である点だろう。彼女は去年――十五になると兄であるヴェイルを追って都にやって来た。そして、都立学園に入学したのだ。同級生には隣人のコリンがおり、シンは彼女達の担任教師である。そして、所属している料理研究会の先輩にはランドという名の男子生徒がいたりもする。ちなみに、リーンの料理の腕は地べたを這いつくばっているかのような状況である。
 各名はそのような『記憶』を掘り起こし、そこで気づく。
「……レイラさんは?」
「……そういえば」
 呟いた二名を瞳に入れ、ソレイユは苦笑した。そして、言の葉を繰る。
「彼女はこの世界として生きてるよ」
 玄関先にいる三名を風が嘗めた。
 ソレイユが続ける。
「彼女はかつて世界の解放に失敗した管理者。科学という技術が発達した世界で、他の世界との近接という危機を――君達が直面したのと同じ危機を迎えた。そして、世界の解放を試み、自身の消滅を恐れてしまい、世界を消滅させた。家族を、友人を、恋人を、全てを失い、その苦しみと悲しみを抱え、生き続けていた子なの」
 さわさわと、街路樹が音を立てる。
「永遠を生きることを強制された元管理者は、完全に特異な存在と成る。全ての世界に存在すること能わず、また、全ての世界の石の力に適応できるようになる。そしてそれゆえに、あの子はあらゆる世界の管理者足り得た。だからこそこの状況がある。彼女が魔なる世界、神聖なる世界、双方の管理を引き受け、ひとつの世界として独立させたこの現状が」
「じゃあレイラさんがあたし達の『記憶』にいないのは……」
「あの子の消滅により生み出されたエネルギーがこの世界を支えたからだよ」
 ソレイユの言葉を受け、ヴェイルとリーンが沈痛な面持ちで俯く。
「……あ、そんな顔しないであげて」
それを目にしたソレイユは微笑んで、瞳を閉じた。
「これはあの子自身が望んだこと。あの子が安らぎを享受するためには、世界の解放を成功させる必要があった。けど、あの子はずっと、ず〜っと、それを拒否し続けてきた。まだまだ苦しまなくちゃいけない。償わなくちゃいけない。そう言って、散々苦しんできたくせにそう言って、あの子自身に降りかかった悲劇が二度と起きないように、他の誰かを襲うことのないように、世界の近接が決して起こらないように、世 界の監視を手伝ってくれていた。あの子は優秀で、世界が接近してしまう事態に陥ることは、ここ数千年はなかった」
 そこまで口にして、ソレイユは空を見上げた。彼女達の頭上にあった雲が南へ流れていく。
「でも、今回こういうことになった。あの子はこうなったことを心の表面では悲しんだと思うけど、奥底では待ちわびていたと思う。だから、消滅してこの世界の風に、雲に、空に、大地になったあの子は、きっと笑ってる。ずっとずっと、心の深い部分で望んでいた結果を迎えられて、笑ってると思うんだ。だから、君達も笑って欲しい。君達が生きることになるこの『世界』のために」
 厚い雲に遮られていた光が姿を見せる。さんさんと降り注ぐそれを受け、道の真ん中を子供達が駆けていく。楽しそうに笑い、幸せと共に駆けていく。
 ヴェイルはそれを瞳に入れ、それからソレイユを見た。
「神隠しの件。わざとか?」
「……さあね」
 ソレイユは微笑み、首をかしげた。そして――
「ま。何にしてもこの世界はわたしの管理から脱却した。封魔石も神聖石もなく、それゆえ、魔法も治癒の力もない。わたしという『神』の加護なく、レイラというひとりの人の微弱な加護のみを受けて、未来を築いていかなくちゃいけない。もしかしたら、直ぐさま消え去る運命を迎えるかも――」
「嘗めないでよ」
 神の御言葉を遮り、リーンが歯をむき出しにして笑い、言った。
「人は強いのよ。この世界が――レイラさんがその証明でしょ?」
「だな」
 頷き合う強き者達を瞳に入れ、神が笑う。その笑顔が一瞬、ほんの一瞬でも悲しく染まっているように見えたのは、人の錯覚だっただろうか。
 彼らがそれを質す間もなく、神は、その姿を消した。
 空を雲が流れ、大地を風が駆け抜ける。世界が、歩み始めた。

 数年の時が過ぎ、王都の一角で新たな生命が誕生した。
「赤ん坊って元気ねー」
「本当だよね〜」
 少女が二名、ベッドの脇で呟いた。その視線の先には、ベッドの上で赤子を抱いている女性がいる。
「それにしても兄貴まだかな。ランド先輩が呼びに行ってから結構経つよね。まったく、鈍くさい」
「この病院、王城から離れてるし、仕方ないとは思うけど……」
 赤子を抱きしめながら、青髪の女性が呟いた。
 赤毛の少女が呆れた視線を送る。
「義姉さんはもう少し腹立てる時は立てていいと思うわよ? あのミーティアさんでさえ、シン先生の帰りが遅い時は怒鳴り声上げたりしてるんだから。きっと夫婦っていうのはたまーに喧嘩くらいしとくのがちょうどいいんだよ、うん」
「それを未成年で未婚のリーンちゃんに言われても、って感じだと思うよ。シャロンちゃんとしては」
 あはは、と笑いながら、桃色の髪を携えた少女が言った。
 そしてその時、病院の廊下をどたどたと走ってくる者がいた。看護師さんに注意されながら、病室を目指す。
 ばあんっ!
 扉が勢いよく開け放たれた。
「生まれたか! 頑張ったな、シャロン!」
 叫びながら部屋に飛び込み、黒髪の男性が転がるようにベッドに寄る。そして、女性を一度抱きしめてから、赤子を抱いた。
「おー、可愛いなー。目元がシャロンそっくりだ」
「口はあなたに似てるわ」
 にこにこと笑いながら夫婦が声をかけ合う。
 そんな中、ベッド脇の少女達がため息をつく。
「あたしら眼中になしってか」
「代わりに付き添ってたのにちょっとむかっとくるよね〜」
 言葉の乱暴さどおり目つきの鋭い少女と、言葉とは裏腹に、あはは〜、と笑う少女。二人の少女を瞳に映し、青年が笑う。
「ああ。サンキューな、コリンちゃん。一応、リーンも」
「いえいえ〜」
「一応とは何よ! まったく! むかつく兄貴ね!」
 病院内ということで声を抑えつつ叫んだ少女。
 ベッドの上の女性はそんな少女をなだめつつ、赤子を瞳に映す。それから、夫とその妹に瞳を向ける。
「そういえば、生まれたのが女の子だったらつけたい名前があるって言ってなかった?」
 つい先ごろ女性がお腹を痛めて産んだ生命は、まさに女の子であった。
「ふえ? ヴェイルさんはわかるけど、リーンちゃんが名前つけるの? そこはヴェイルさんとシャロンちゃんで、ってのがいんじゃないの〜?」
「ヴェイルとリーンちゃんがもの凄く御世話になった方の名前をつけたいんだって。二人が御世話になった方なら、私にとっても恩人みたいなものだし、いいかなって」
 桃色の髪の少女の疑問に、母となった者が応える。
 その一方で、父となった者、叔母となった者は顔を見合わせて笑う。そうしてから、窓の外に瞳を向ける。
 空。そして、そこに浮かぶ雲。雲を抜けて降り注ぐ陽射し。陽射しが照らす大地。大地を駆け抜ける風。その全てが、彼らにある者を思い出させる。
 二人は視線を赤子に戻した。そして、その名を紡ぐ。

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