国王ハイドロウ=ラトワイズの治めるラトワイズ王国には、ひときわ裕福な一族がいた。彼ら――ブックマン家が何によって財を為したのか、大抵のものは知らない。
それは、当のブックマン家の人間ですら同じであった。一部の者達以外は、自分達が裕福である理由を知ることなく、日々を平和に過ごしている。
先日13歳の誕生日を迎えたラディアム=ブックマンもまた、その1人である。学校の友達よりも自分が裕福であることは自覚していた。それでも、それが何故なのかまでは分からない。知りたいとも思っていない。ただただ、与えられた幸運を享受するだけの毎日。
しかし、その日々も今日で終わる。
彼は、彼の両親も、兄も、姉も、誰も知らない一族の秘密を知ることとなる。
それは、いとこのアルマリータ=ブックマン、ラドクリフ=ブックマンと共に、彼らが住まう館の敷地内にある地下室へと肝試しに向かったことに起因する。
「もぉ! ラディ! 早く来なさいよ!」
腰に手をあて、アルマリータが言った。背中を流れる明るい金の髪が、天から降りきたる陽光を反射して照っている。ラディアムを睨む大きな碧い眼は、吸い込まれそうな程に綺麗だった。
ラディアムは手に持った鞄をぶらぶらと揺らしながら、自分の赤茶けた髪をなぜる。自分の髪は綺麗とは言いがたく、瞳もまた黒に近い茶色だ。アルマリータと同じ血が本当に流れているのか疑いたくなる。
「でも……怖いよ」
「当たり前でしょ! でなきゃ肝試しにならないじゃない!」
「そうだぞ。まったく、13歳にもなって情けない」
アルマリータに続いて嘆息したのは、ラドクリフである。こちらは艶めく真っ黒な髪に、透き通るような翠色の瞳。アルマリータとは違うが、それでもやはり美しいと評されるには充分な外見をしていた。
はぁ。
ラディアムは思わずため息をつく。共に13歳であること以外、彼らと自分の共通点はなきに等しい。
「なぁに、ため息なんてついてるのよ。さっさと来る!」
「……分かったよ、アルマ」
アルマリータがラディアムの腕を掴み、引き寄せる。どう言い訳したところで逃げられないのは、普段の経験から分かっていた。ならば、大人しく従うのが吉というものだろう。
ラディアムは右手をアルマリータに引かれ、左手で鞄を持ち、しぶしぶと歩みを進める。
正門から玄関へと向かう道の脇にずれ、彼らは小走りで目的の場所へ向かった。そこは小さな森の奥地。ブックマン家の敷地を彩る緑の深奥である。
そこには怪物を閉じ込めた牢獄があるのだと、先日、ラドクリフが兄のラスター=ブックマンに聞いたのだ。
「ラスター兄さんも、俺らと同じくらいの頃に行ったんだってさ。ラディの兄さんとアルマの姉さんも一緒だったって」
「シエスタ姉様も? 姉様、意外とやんちゃだったのね」
アルマリータの姉シエスタ=ブックマンは、誰の目から見ても深窓の令嬢という言葉がしっくりくる女性である。肝試しと称して冒険をするタイプには見えない。
「シエスタさんはラスター兄さんとアルヴェルトさんが心配でついていっただけだったみたいだけどね。アルマと違っておしとやかな人だし」
「むぅ。どうせあたしははねっかえりですよ」
アルマリータはむくれ、ラディアムの腕を掴む手に力を込めた。
「い、痛いよ、アルマ」
「え? あ、ごめん。大丈夫? ラディ」
ぱっとラディアムの腕を放し、アルマリータは尋ねる。
痛いとは口にしたものの、多少強く握られただけゆえ問題など勿論ない。ラディアムは手を2、3度握ってみせてから、小さく笑った。
「うん。大丈夫だよ」
「そりゃあ、いくらアルマが怪力でも、ラディの腕を再起不能にするほどじゃないだろ。大げさだよ」
げしっ。
ラドクリフの言葉を受け、アルマリータは問答無用で彼の背中に蹴りを入れる。学校の制服ゆえにスカート姿ではあったが、そのようなことはお構いなしだ。
ラディアムの目の前で、ラドクリフはバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
「あら、ごめんなさい。粗大ごみかと思ったわ」
がばっ!
「んなわけないだろ! このお転婆娘っ!」
「最初に喧嘩売ってきたのはラドでしょっ!」
激しい言い合いが始まった。
ラディアムは彼らを交互に見つめ、オロオロとその場に佇んでいた。
かつんかつん。
地下へと続く階段に、3人分の足音が反響する。ラドクリフの持つ松明が生み出す光以外は、辺りを満たすのは闇ばかりである。
「そろそろ下までつくはず……だけど」
「結構深いのね。森を抜けるのも時間がかかったし、さっさと下までいってさっさと戻らないと、お父様やお母様にばれちゃうわ。今日は経済学のお勉強があるし」
「僕も今日は、家庭教師に歴史学を教えてもらう日だから、早めに戻らないと騒ぎになっちゃうかも」
ラドクリフの呟きに呼応して、アルマリータ、ラディアムがそれぞれ言った。
学校から帰って来た後、彼らに暇な時間というのはあまりないのである。
ブックマン家は皆、何かしら才能を伸ばし、手広く事業を展開するのが通例であった。一部には裕福な現状に依存して何もしない者もいるが、大抵の親族は誇りをもって自分なりに一族に貢献している。
ラディアムたちもまた、その慣習に従うために勉学などに励む毎日を送っている。
「ラディはともかく、アルマは勉強よりも剣術とかをやりたいんじゃないか? 学者とか経営者ってガラじゃないだろ」
「そりゃあそうだけど、世の中はお転婆娘に優しくないのよ。王宮でもどこでも、騎士は男。女が剣で食べてくには戦士ギルドに入るか、傭兵になるか。お父様がお許しになるわけないわ」
「アルマ、強いのにね」
嘆息したアルマリータに、ラディアムが声をかける。
アルマリータは苦笑して、ありがと、とひと言口にして黙った。
と、その時、階段が終りを告げた。
「お。ここまでみたいだ。じゃあ、ラディ、アルマ。鞄はここに置いてくぞ」
ラドクリフが言うと、ラディアムとアルマリータは揃って首を傾げた。
「なんでなの? ラド」
ラディアムの問いに、ラドクリフは自分の鞄を階段の1段目に置きながら、応えた。
「俺もよくは知らないんだ。ただ、ラスター兄さんが口をすっぱくして言ってたんだよ。地下室の奥に本を絶対に持ってくな、ってね」
「本? 教科書も?」
「みたいだぜ。とにかく、本と名のつくものは何も持っていっちゃ駄目らしい。持っていくと、恐ろしいことが起きるんだって」
松明を自分の顔の下へ持っていき、ラドクリフは低い声でそう言った。
火の生み出す陰影がラドクリフの顔を、恐ろしい様へ変貌させた。
ぶるっ。
ラディアムは小さく震え、急いで鞄を手放した。
かつん…… かつん……
冷えた地下室に、ゆっくりとした足取りの生み出す音が反響していた。地下室はそれほど広いものではないようで、松明の明かりで目的の場所が見えた。
牢獄と思しき正方形をした岩造りの小部屋。出入り口は鉄柵で閉じられている。その奥は暗闇で満たされており、怪物の姿までは見えない。
かつん…… かつん……
皆、一様に黙り込んで歩みを進める。松明を持ったラドクリフ、アルマリータ、ラディアムの順番で、一列に並んでいた。
そして、ようやく彼らは鉄柵に手の届く範囲までやって来た。
ラドクリフが牢獄の奥を松明で照らそうと試みる。しかし、その時――
「…………だ…………」
声が聞こえた。
「……ラディ。何か言ったか?」
「う、ううん。アルマじゃない?」
「あたしじゃないよ。ラド……でもないのよね?」
3人が戸惑いと恐怖を携えた顔を見合わせた。そしてそれと同時に――
「詠み人だ!」
よりはっきり、声が響いた。闇の中を音が駆け抜ける。
「うわああぁあ!」
「きゃあぁあああぁ!」
ラドクリフとアルマリータは駆け出す。自分たちがやって来た方向――階段へと向かう。直ぐに鞄を手にとって、上へと急いだ。
ラディアムもそれに続こうとした。しかし、恐怖が体を駆け抜け、まともに動くことができなかった。足がぶるぶると震え、立っていることすらままならない。ラディアムはぺたりとその場に座り込んだ。
「おい」
怯えきっているラディアムに、牢獄の中から何かが声をかけた。
ラディアムは返事もできずに、見開いた瞳だけをそちらへ注いだ。
牢獄の主は構わず、言葉を続ける。
「子供。お前、詠み人だな? ティアーガンの爺さんに称号は貰ったか?」
ティアーガン=ブックマンは、現在のブックマン家当主である。ラディアムは、1年の節目の日に厳格な顔で挨拶している姿を遠くから見るくらいで、話したことすらない。
ふるふるふる!
一所懸命に首を振り、ラディアムは牢獄の主の問いに否定を返す。暗闇の中、それが伝わるとは思えなかったが――
「そうか」
牢獄の中の者はそう口にし、にやりと笑った。目が闇に慣れているのかもしれない。
ラディアムはぶるぶると震えながらも、精一杯の勇気をふりしぼって、牢獄の主に声をかけた。
「……あ、あなたは……誰……?」
「俺か? 俺はマグダリア=ブックマン。歴史の平和を望むものさ」
ラディアムは驚いた。牢獄の主は、彼の一族の者であるという。けれど、完全に安心は出来ない、と彼は考えた。物語では、悪魔は様々な方法で人を惑わす。その類かもしれないのだ。
マグダリアは、ラディアムの警戒心を察し、小さく鼻を鳴らした。
「ふん。どうやら俺のことは知らないようだな。あれから早20年。外じゃ俺のことはもう、臭いもんには蓋状態らしい。姉貴も冷てぇぜ」
彼の独白を耳にしながら、ラディアムは座り込んだままあと退った。
ずるずる。
少しずつ少しずつ、牢獄から離れる。幸い、マグダリアと名乗る者は未だ暗闇の中におり、姿を見せない。見えない恐怖は嫌なものだが、見えたら見えたで恐ろしいのは間違いない。
このまま、何も見ずに帰りたい。
しかし――
がしっ。
「おい、待て」
「ひいいぃいぃいぃい!」
ラディアムの足を、太い腕が掴んだ。鉄柵の内側には、暗闇ゆえに定かではないが、大人の男が見えた。こころなし、恐ろしい風貌をしているようであった。恐怖でおかしくなりそうだった。
「そんなに怖がるな、といっても無理か。まあいい」
ぱっ。
鉄柵の中から伸びていた腕が、ラディアムの足から放れた。
その隙に、ラディアムは急いで立ち上がる。怖がってここに留まることが、今は一番怖かった。恐怖から逃げるために、恐怖に捕らわれている場合ではない。
だっ!
ラディアムは駆け出し、階段を駆け上がった。階段の下に彼の鞄はなかった。ラドクリフかアルマリータが持っていったのだろう。
「本に全意識を向けろ! それで何かが起きたら、また来い! 分かったな、若い詠み人!」
マグダリアの叫び声を耳にしながら、ラディアムは一目散に地上の光を目指して駆けた。
早く、アルマリータとラドクリフに会いたかった。