第1章 Moon And Sun
不在の存在

 ラディアムがつまずきながらも大急ぎで階段を上りきると、アルマリータとラドクリフが土の上に座り込んで肩で息をしていた。
 彼らの鞄がその傍らに置かれており、やはり、ラディアムの鞄もまたそこにあった。位置関係からいって、ラドクリフが一緒に運んでくれたらしい。
「はぁはぁ…… ら、ラディ。遅かったな。大丈夫だったか?」
「……だ、はぁはぁ、だい…じょぶ……はぁはぁ」
 ラドクリフに問われ、ラディアムは何度もつっかえながら応えた。
 実際問題、あまり大丈夫ではないのだが、地下の男に散々恐怖させられたと正直に言ってしまえば、アルマリータとラドクリフは奮起して仕返しを企てる可能性がある。彼らはいい意味でも悪い意味でも勇敢だった。
「あ、あれ、何だったのかしら?」
「……分からないな。怪物という風でもなかったし、幽霊って奴か?」
「はぁはぁ…… すうぅう。ふぅ。 ……ひ、人だったよ。多分、生きてる人。ちゃんと話できたし」
 ラディアムが深呼吸をしてから言うと、アルマリータとラドクリフは目をみはった。
「ラディ。あれとお話ししたの?」
「う、うん」
 ひゅう。
「やるなぁ」
 ラドクリフが口笛を吹いて感心すると、ラディアムは視線を落として恥ずかしそうにした。
 話をしたと言っても、ラディアムは極限まで恐怖に打ちめかされていた。感心されるようなことは何ひとつない。情けなくて消えてしまいたくなっていた。
 しかし、アルマリータとラドクリフは、ラディアムのそんな様子を照れているものと勘違いした。
「今日の肝試しはあたしたちの完敗ね。ただ逃げ出しただけだったし」
「ちぇ。そうだな」
 彼らはそう言って、地面に放り出していた鞄を手に取った。アルマリータは自分の分のみを、ラドクリフは自分のものとラディアムのものを。
「ほら、ラディ。そろそろ戻ろう。家庭教師がイライラして待ってるぞ、きっと」
「……そうだね。あ、あれ?」
 ラドクリフが差し出した鞄を手に取ったラディアムは、戸惑った声を出した。
「どうしたの?」
 アルマリータが問う。
 ラドクリフも訝しげに首をかしげている。
「こ、腰が抜けたみたい……」
 ……………………………………
 地下への入り口がある森に静謐が満ちた。
 そして――
 ぷっ。
『あははははは!』
 続けて笑い声が満ちた。

 その日のPM9時を過ぎた頃、ブックマン家ウィダミア棟の廊下をラディアムとアルマリータが歩いていた。
 ブックマン家には大きく分けて3つの棟がある。
 まずは、現在ラディアムたちがいるウィダミア棟である。智慧の女神ウィダミアから名をとったこの棟は、学者や経営者の親戚筋が住んでいる。
 続けて、ラドクリフが住んでいるアトルナ棟である。闘いの女神アトルナの名を冠するだけあり、騎士の親戚筋が住まう。
 そして最後に、アデウス棟がある。主神アデウスの名をいただいていることからも分かるとおり、当主ティアーガンを筆頭に、本家筋と呼ばれる重鎮たちが住んでいる。
 これらの棟はそれほど離れていないが、ラディアムのような子供が夜中に行き来することは禁止されている。そのため、ラディアムとアルマリータが、ラドクリフに夜中に連絡を取ることは難しかった。
「じゃあラディはアルヴェルト兄様ね。あたしはシエスタ姉様に聞いてくるから」
「う、うん」
「ラドもラスター兄様に聞いてるはずだから、明日登校するときに情報をまとめるわよ。それじゃ、また明日」
「うん。おやすみ、アルマ」
「おやすみなさい」
 笑顔で元気に手を振りつつ、アルマリータは廊下の先へと消えていった。そちらにはシエスタの部屋とアルマリータの部屋がある。
 一方で、ラディアムはゆっくりとした動作で左を向く。直ぐ近くにある扉へと視線を向ける。その部屋のネームプレートには『アルヴェルト』と書かれていた。
 彼が現在いる場所は、兄のアルヴェルト=ブックマン、姉のカルディーナ=ブックマン、そして、彼ラディアム=ブックマンの居室がある辺りであった。目の前の部屋は当然、アルヴェルトのもの。その左隣がカルディーナの部屋で、右隣がラディアムの部屋である。
 ラディアムは自室には向かわず、アルヴェルトの部屋の扉を控えめにノックする。
 こんこん。
「はい」
 爽やかな声が応えるのを待って、ラディアムはドアノブを回した。
 がちゃ。
 そのまま押して扉を開く。
「やあラディ」
 とび色の瞳が弟に注がれ、愛しそうに細められている。そして、艶やかな黒髪は一分の隙もなく油で整えられていた。宮廷学士助手であり、ブックマン家の出納長を務める、アルヴェルト=ブックマンその人である。
「こんな時間にどうしたのだい?」
「や、夜分遅くにごめんなさい。アルヴェルト兄さん。少しお尋ねしたいことがあって……」
 恐縮した様子で、ラディアムが言った。
 普段から気弱な弟ではあるが今日はいつも以上に調子が悪そうだ、とアルヴェルトは察し、心配そうに眉根を寄せる。
「どうしたラディ。具合でも悪いのかい?」
「う、ううん。大丈夫だよ、兄さん」
「そうか? まあ、それならいい。それで、何の用だい?」
 ラディアムの大丈夫は、その言葉どおりであるとは到底思えなかったが、アルヴェルトは気にしないことにした。弟がいとこのアルマリータやラドクリフと一緒にいたのは知っている。彼らはいつもラディアムの良き友でいてくれている。任せておいて大丈夫であろう。
「あのね。アルヴェルト兄さんは、ラスターさんやシエスタさんと森の奥の地下に肝試しに行ったんだよね?」
「森の奥の地下? ああ、確かに昔行ったが……」
「今度僕らも肝試しに行こうって計画してるんだけど、あそこって何がいるの? あと、本を持って行っちゃいけないって聞いたけど、どうして?」
 ラディアムはオドオドと嘘をついた。何となく、牢獄でマグダリア=ブックマンに出遭ったことは言いたくなかったからだ。
「あの肝試しは恒例行事になりつつあるのか? 別に面白くなどなかったと思うが…… まあいい。あの牢獄に何がいるかだったね」
 アルヴェルトは小さく嘆息し、苦笑した。
「何もいなかったよ。肝試しの前にばらすのは興ざめかもしれないがね」
「え?」
 ラディアムは乾いた声を出した。
「ラスターは『怪物がいる』とかうそぶくだろうが、騙されないように。まあ、アルマリータとラドクリフはそういう演出があった方がいいだろうから、黙っておくといい。でもお前は怖がりだからなぁ」
「ほ、本当に……何もいない……はずなの?」
 弟の言い回しに、アルヴェルトは首を傾げる。しかし直ぐに微笑んで頷く。
「ああ、保障しよう。だから安心して行っておいで。さて、あとは、本を持って行ってはいけない理由だったね。すまないが、そちらに関しては私も分からないんだ。ラスターに聞いただけだったからね」
「……そう……」
 生返事をするラディアム。彼の思考は既に停止していた。
 あそこに何もいないはずであるというなら、彼が見たマグダリア=ブックマンと名乗った男は、一体何だったというのか。
「ラディ? 本当に大丈夫か?」
 がたっ。
 立派な肘掛椅子から立ち上がり、アルヴェルトが近寄ってくる。
 ラディアムは何とか立ち直り、小さな笑顔を作った。
「大丈夫。僕、もう寝るね」
「……ああ、そうだな。少し顔色が悪い。ゆっくり休みなさい」
「うん。お休みなさい、アルヴェルト兄さん」
 ぺこり。
 頭を下げて扉から出て行くラディアム。
 アルヴェルトはそんな弟を笑顔で見送り、扉が閉まった途端に眉根を寄せて難しい顔をした。
「……あそこは何かあるのか? 本家に少し探りを入れてみるか」
 そう呟いてから彼は、肘掛け椅子に優雅に座り、机の上に積まれた書類との格闘を再開した。