ラディアム=ブックマンが目を覚ますと、そこは見慣れた自室だった。部屋の匂いや枕の感触、天井の染みまでもが彼の記憶に染みついている。
ぎし。
体を起こし、ラディアムはベッドに腰掛けた。窓の外を見ると空が白み始めていた。
「お目覚めですか。ラディアム」
びくっ。
突然の声に肩を跳ね上げ、ラディアムは振り返る。部屋の入口に女性が佇んでいた。
ラディアムのいとこ、ラケシス=ブックマンであった。
「ラケシス様…… あの、マグダリアさんは?」
「貴方も見ていたでしょう? あの愚弟ならば別空間に隔離しました。わたくしの空間閉鎖魔法のみでは強度が足りないでしょうから、本日、改めてシエスタに高強度な空間閉鎖と暗号化をお願いする予定です。再び彼が貴方に接触する恐れはないと言えましょう」
ラディアムとラケシスのいとこであり、アルマリータの姉であるシエスタ=ブックマンは、基礎魔法学、応用魔法学、短縮詠唱学、圧縮魔法学、暗号化魔法学、全ての学位を取った、魔法学会の若き天才である。
その天才が封を施すというのだ。万が一にもマグダリアが世に解き放たれることはないであろう。
しかし、ラディアムが尋ねたかったことはそのようなことではない。
「マグダリアさんは――ラケシス様の弟君は、封じられるようなことをしたのでしょうか? 彼は間違ったと僕も思います。でも……」
ギロリ。
主張するラディアムを、ラケシスは睥睨した。
すると、ラディアムは慌てて俯く。縮こまり、肩を落とした。主張もまた、そのまま飲み込んでしまった。
ふぅ。
いとこの少年の様子を目にし、ラケシスは小さく嘆息した。
「ブックマン家が復興した最大の立役者、初代当主ガンダルフ=ブックマン。彼は、富を得るために過去を変えました。当時武器商人であった彼は、ある戦に敗れた将軍の手記にインサイドし、その戦が長引くように、そして、自国――ラトワイズ王国が勝利するように、策を弄したと言います。その戦の名は――百年戦争」
「え?」
ラディアムは、ラケシスの口から出た戦の名に、驚嘆した。
百年戦争とは、八百年近く前にあった戦である。ラトワイズ王国と、かつて栄えていたヤーダ神聖公国の全面戦争であり、最終的な勝者はラトワイズ王国であった。この戦はその名の通り百年間続き、延べ数千万の命が露と消えたという。
「本来、百年戦争は数年で終わるはずの戦であったそうです。しかしながら、ガンダルフの介入が想像以上の影響を及ぼし、結果として歴史に残る程の大きな戦となってしまったのだと、そうガンダルフ自身が晩年に告白したそうです。彼は罪の意識に苛まれ、生涯満足に眠ること能わず、その死に顔ですら苦しみに満ちていた、と。それが事実であるか、確かめる術はありません。過去は既に変わり、正史となってしまった。けれど――」
ガタガタガタガタ。
ラディアムはベッドの上で、小刻みに震えていた。恐怖で心がおかしくなりそうだった。
自分の身に宿る力はそこまでに恐ろしいものなのだ、と。
ふぅ。
再度、ラケシスは嘆息した。そして微笑み、小さないとこを見つめる。
「この話に恐怖を覚えるのならば、貴方は大丈夫でしょう。さて、これで先ほどの疑問にも答えたと考えてよろしい?」
……コク。
マグダリアは確かに大変なことをしようとしていたのだと、今度はラディアムにも理解できた。それでも、封じてしまうのはやりすぎではないのか、という思いは残るが…… そこを混ぜっ返しても仕方があるまい。
「それはよかった。では次の話に移りますよ?」
「つ、次の話……ですか?」
これ以上にラケシスと話すことが何かあるのだろうか、とラディアムは疑問を覚える。彼女とは今回図らずともかかわることになったが、平素であれば一切かかわることなどない。
これ以上、彼女とラディアムの間に共通の話題があるだろうか?
「ええ。次の話――つまり、貴方の本家入りについてです」
ウィダミア棟の朝は騒がしかった。忙しく荷物を運ぶ使用人たちと、甲高い怒鳴り声をいとこにぶつける少女。どちらの騒ぎも、ひとつの出来事を因としている。それ即ち――
「何でラディが本家入りなのよ! ふざけないでよ!!」
ラディアム=ブックマンの本家入りだった。
ウィダミア棟の彼の部屋からは、机が、椅子が、箪笥が、ベッドが持ち出されていく。みるみる物が消えていく様子に、アルマリータはギリっと歯を噛みしめる。
「ふざけてなどいませんよ、アルマリータ。ラディアムは本日付けで本家入りし、アデウス棟に移ります。ラディアムのご両親の許可はもとより、彼の兄、姉の許可も取ってあります。もはや、貴女がどれだけ騒いだところで決定は揺るぎません」
「――っ! り、理由は!? 納得の行く理由があるんでしょうね!! じゃなきゃ却下よっ!!」
「申し上げられません。ついでに言えば、貴女にそのような権限はありませんよ」
にこり。
……フルフルフル。
ラケシスの言葉に、アルマリータは震える。当然ながら、寒気を感じたためでも、恐怖を覚えたわけでもない。
早朝のブックマン家を、金きり声が駆け抜けた。
早朝の学園。ラディアム=ブックマンは普段よりも早く登校し、図書館にこもっていた。授業の開始まではまだまだ時間があるため、調べ物をするには十分な余裕がある。
彼は歴史関係の書物がある区画を歩き回り、目についたモノを片っ端から手に取っていく。数冊手に取り、重さに耐えられず机へ運ぶ。その繰り返しの末、十数冊の書籍が机には積まれた。その全てがシエラ戦争関係で占められている。
がたっ。
ラディアムは積まれた書籍を見つめ、それから目を瞑り、席に着いた。
そうしてから、積まれた本を次から次へと調べていく。一心不乱にページを繰り、目的の記載がないかどうか探し、目を凝らす。
窓から差し込む光はようよう高くなる。早朝と呼べる時間帯はとうに過ぎ去り、登校してくる生徒の姿がちらほらと見えてきた。学園内にも活気が満ちはじめる。
そんな中、ラディアムは相変わらず活字に意識を集中している。
記述されているのは通り一遍のことから詳細まで。基本的な事柄に始まり、通常授業では習わないような事柄まで様々だ。それでも、ラディアムの知りたいことが記述されている書物は存在しない。
それは、事実であったかすらわからないこと。そうであればいい。そのように彼が望んでいるだけのこと。
もはや去ってしまった過去に、一抹の希望を求める愚者の願い。望む記述があったとて、それで何が変わるのか。何が救われるのか。何の意味もないこの作業は、愚かとしかいいようのない行いだった。しかしそれでも、彼は調べた。
「ラディいぃ!! どこよっ! いるんでしょっっ!!」
その時、甲高い叫びが鼓膜を刺激した。
遠くから聞こえてくる声音。幼い時分より耳にしている、聞きなれた高音。
パラパラパラ!
焦ったようにラディアムは頁を繰る。じっくりと調べている場合ではなくなった。彼のいとこ、アルマリータは、程なくこの場所へ至るだろう。ラディアムが教室にいなければまず間違いなく図書室の歴史書区画にいる。それは、彼らいとこ3人組の間では疑うべくもない事実であった。
ぴた。
その時、ラディアムの手が止まった。彼の目は、望む文字列の連なりを捕えた。
「……ふふ」
笑みをこぼし、ラディアムは本を開いたまま机上に置いた。
ばあん!
そこに、にぎやかな少女が乱入した。静謐に満たされた図書室に、けたたましい物音がこだまする。
「ラディ!! いるのっ!?」
「こら、アルマ。図書室では静かにしろ。――お、ラディ。やっぱりいたか」
険しい目つきで飛び込んできた少女――アルマリータと、ため息交じりにやってきた少年――ラドクリフ。
ラディアムはいとこ両名を瞳に映し、申し訳なさそうに、しかし、嬉しそうに微笑んだ。
「お、おはよう。アルマ。ラド」
ギャーギャーっ!!
けたたましい声が図書館に響く中、開きっぱなしにされた本が自然に閉じられようとしていた。頁がゆっくりとめくれ、ぺらりと音が鳴る。その頁には――
『シエル戦争の勝者ソレイユ家は敗者ルーン家を隷属するも、その人格を最大限に認め、治めた。その扱いは奴隷というよりは、一市民ともいうべきものであった。勿論、ソレイユ家傘下の者と比べれば格段に冷遇されていたものの、財政に余裕さえあれば正当な扱いが約束された。これは歴史上において類稀なる事実であり、当主アンドリュー=ソレイユが後の世で高い評価を得る最大の理由でもある』