第1章 Moon And Sun
闇に消える幻救

 暗闇の牢獄にぼうっと光が浮かぶ。床に落ちていたノートが淡く輝いた。
「……戻ったか」
 マグダリア=ブックマンはにやりと笑い、鉄格子に寄った。
 そうして、ようよう輝きの中に人の姿が浮かび上がった。ラディアム=ブックマンである。
「よお。良い旅路だったか?」
「……マグダリア、さん……」
 よろり。
 膝から崩れ落ち、ラディアムは弱弱しい言葉を吐いた。
「詠み人の力は体力を消耗する。長くインサイドし過ぎたな」
「……僕は、どのくらい?」
「せいぜい20分くらいだ。それで? カテリーナ=ルーンを救ったか? 歴史は救われたのか?」
 期待に満ちたマグダリアの言葉。
 しかし、ラディアムは彼の期待に応えられない。
「カテリーナ=ルーンは悲劇の当主であることを望み、そのことを誇りであると、そう言いました。僕には、あの人が救われるべきだなんて思えない」
「……何?」
 低くなった声。マグダリアの瞳には険が宿った。
 ラディアムは萎縮し、しかしそれでも、言葉は曲げない。彼が感じ取った、カテリーナとアンドリューの誇りを、生き方を汚させるわけにはいかない。
「貴方は歴史が救われるべきだと言った。でも、歴史は人の生きた道です。悲しかっただろう、苦しかっただろうと、僕たちが嘆いていたとしても、実際に生きた人々の気持ちがそうだったとは限らない。少なくともカテリーナさんとアンドリューさんは――彼らの生を誇っていた。笑っていた」
 がんっ!
 鉄格子が荒々しく叩かれた。地下に音が反響する。
「ふざけるなっ! そんなもんは強がりだっ!」
 そうかもしれないと、ラディアムも思う。カテリーナも、アンドリューも、一切迷わなかったわけではない。しかしそれでも、強がりだったとしても――
「強がりだって何だって、彼らはその道を選び、誇りだと言ったんだ! なら僕は、彼らのその気持ちを信じる!」
「過去は変わらない! 時は取り戻せない! 誰もがそう考えて諦める! けれど違う! 過去は変わる! 俺たちが変えられる! ならば俺たちは歴史を――悲劇を変えなくちゃいけねぇ!!」
 誰も彼も、どうしようもない現実を諦めて先へ進む。そのことは紛れもない事実なのだろう。
 ならばそれは間違いなのか。変えられる過去まで諦めて、辛い現実を受け入れるのは馬鹿なことなのか。
「違う! 僕らは変えられるからこそ、変えちゃいけない過去がある! 誇りがある! 汚しちゃいけない気持ちがある!」
「そんなわけはねぇ! 誇りだの何だの、死んじまえば全て無駄だっ! 俺は信じねぇ! 歴史は――」
 ばんっ!
 衝撃の波がラディアムを襲った。風の魔法である。
 彼は地下を転がり、壁に背中を打ち付けた。
「うぅっ…… そんな詠唱もなしで……」
「歴史は救われなくちゃいけねぇ」
 ふわり。
 床に転がったノートが浮かび上がった。カテリーナ=ルーンの日記はページをぱたぱたとはためかせ、舞う。
「だ、ダメだ……」
 ぱたぱた。
 ノートはゆっくりとマグダリアの元へ向かう。彼の手に渡れば、間違いなくカテリーナとアンドリューの誇りは汚される。その結果として迎える現在がどうであろうと、それは誤りだと今は思える。だからこそ、ラディアムはくじけず怯えず、前を見る。
「止めてっ!!」
 しかしながら、彼はマグダリアを止める術を持たない。ただ倒れ伏せ、哀しみの浮かぶ顔を向けるのみだ。
 ぱたぱた。
 マグダリアの顔に喜色が浮かび、ノートがようよう牢獄へ至ろうという、その刹那。
「カ・リ・ザフラ」
 短い詠唱が地下に響いた。焔の短縮詠唱である。
 ぼっ。
 小さな炎が地下を照らし、そして、宙を漂っていたノートが燃え落ちた。
「なっ!」
「カテリーナ=ルーンの日記。歴史的価値の高いものではありますが、仕方がありません」
 声が響いた。慣れ親しんだ声ではないが、聞き覚えのある声。
 ラディアムは壁際で倒れたまま、視線を巡らす。
「ら、ラケシス様……」
「ラディアム。マグダリアに惑わされてカテリーナの日記を持ち出したことは感心しませんが、最悪の結果を回避したことについてはよくやりました」
 小さく微笑む女性――ラケシス=ブックマン。地下の暗闇に佇み、鋭い瞳を闇の奥へと向ける。
「さて、マグダリア。貴方も年々小賢しくなりますね」
「へっ。何のことかね」
 肩をすくめ、マグダリアが不遜な態度をとる。
 ラケシスは気にした風もなく先を続ける。
「ラディアムに秘められた詠み人の力をわたくしが検知出来ないよう妨害魔法をかけ、さらには本家の警備魔法も解きましたね。そして、貴方を封じていた魔法もいつの間にやら解いている。その溢れる才能を、今からでも有効に活用しようとは思いませんか?」
 尋ねる口調でありながら、ラケシスは始めから諦めたように瞑目している。良い応えなど得られないことを知っていた。
「俺は端から有効に活用する気しかねぇ。歴史を救うためにな」
「過ちを犯すのは始祖ガンダルフ=ブックマンのみで充分です。なぜ貴方はそれが分かりませんか?」
 ぎろり。
 牢を睨めつけるラケシス。
 対するマグダリアもまた、鋭い眼光を携えていた。
「俺はガンダルフとは違う。私欲のために過去、現在、未来を変える気なんぞさらさらねぇ。ただ、正しい今――悲しみの無い今を創ろうとしているだけだ」
「過去を変えて今がどう変わるか、予測などつけられない。ひとつの悲しみが消えたとて、結果ふたつの悲しみが生まれないとなぜ分かるのです。なればこそ、詠み人は過去をかえてはなりません。私利私欲に囚われていようといなかろうと」
「そんなもんはティアーガンの爺がこねてる屁理屈だろうが! 悲しみが100あれば、その全てをなくせるまで過去を変えればいい! 悲しい過去も今も、そして未来も、俺たちは無くせる! それなのに爺も姉貴も、誰も彼も、なぜそうしない!」
 激高したマグダリア。
 ラケシスは大きくため息をついた。
「何時までも純粋で羨ましい限りですね。5つの幼子だった折より変わらぬ主張。見事です」
「……ちっ」
 馬鹿にしたように言ったラケシスから瞳をそらし、マグダリアは大きく舌打ちした。
 彼のそのような様子を冷ややかな様子で見つめ、ラケシスは口を開く。
「さて、危険思想を抱く人物は再び封じるとしましょう。次にまみえるのは何年後か……」
 ふるふるとかぶりを振り、ラケシスは息をついた。
 それを見て取ると、マグダリアはにやりと笑う。
「寂しいかい? 姉貴」
 問われ、ふっと笑みをこぼすラケシス。
「まさか。さようなら、愚弟。ベ・スロリィ・ロン・ダ・アイ」
 きゅぅ!
 小動物の鳴き声のような音が響き、マグダリアを闇が包んだ。その闇は収縮していき、やがて地下の闇に紛れた。
 静けさが落ちる。
「ふぅ。さらに封を施して何重にも閉じておかなければいけませんね。暗号化魔法もかけておきましょう。……ふむ。シエスタに頼むとしますか」
 牢を見つめ、ラケシスはごちた。
 一方で、ラディアムは混乱して地面にぺたんと倒れこんだままでいた。ブックマン家の始祖ガンダルフの所業や、ラケシスとマグダリアの関係、これから自分に下されるだろう罰、気になることはたくさんある。しかし、それについて考えたり、尋ねたりすることはもう出来そうにない。
 疲労、恐怖、緊張、そして安堵から、ラディアムはそのまま瞳を閉じ、意識を手放してしまった。