深淵の闇の中、月明かりだけが辺りを照らしていた。静謐な時が夜を満たしている。
がさごそ。
その静けさを、物音が破った。茂みから人が顔を出す。
「うぅ。暗いよぉ、怖いよぉ。ここがカテリーナ=ルーンの日記の中……?」
涙声で呟いたのは、ラディアム=ブックマンであった。何かが潜んでいないかと、きょろきょろ辺りを見回すが、暗闇が広がるばかりで視界が悪い。より一層恐怖がかきたてられただけだった。
がさがさがさ。
びくっ!
肩を跳ね上げ、ラディアムは固まった。彼が生み出したものではない物音を因として。
彼はなるべく物音を立てないよう、移動した。
「人? 獣? まさか、オバケとか?」
ぶるると震えあがり、ラディアムは木の陰で泣きそうになっていた。
地下牢に向かった時とは違う。ここは彼の家の敷地内でもなければ、頼りになるいとこがそばにいるわけでもない。
「ややや、やっぱり帰ろ――」
「カテリーナ。待ったかい?」
「あぁアンディ。いいえ、いま来たところよ」
ラディアムの弱気な発言を遮ったのは、男女の心地よい声音だった。どちらも穏やかな口調で、悪い人間ではなさそうである。
特に女性の名は――
(カテリーナ? じゃあやっぱり、ここはカテリーナ=ルーンの日記の1場面なんだ)
夜を包む闇が晴れたわけではないため、ラディアムはいまだオドオドとしてる。しかし、逃げ出そうという気持ちは消えたようだ。
悲劇の当主を救う。
その希望を果たすために、腹を据えたらしい。
そして、とりあえずは監視することにした。
月明かりの下、男女の姿を微かに窺える。彼らは、双方ともに身なりがよい。
女性は確かにカテリーナ=ルーンのようであった。前日に教科書を使ってインサイドした際に見た女性と比べれば年若いようであったが、確かに面影があった。
一方で、男性が誰であるのか、ラディアムには分からない。
(誰かの面影はあるような気がするんだけどなぁ……)
カテリーナと繋がりがあるくらいであるゆえ、教科書などに近影が載っている人物かと思い熟考するが、該当する人物は思い出せなかった。
「ルーン家はやはり強硬姿勢を解かないつもりかい?」
「……えぇ。お父様をはじめ、皆、ソレイユ家への敵対意識が強いの。来週の和平会談は出席するおつもりのようでしたけど、とてもではないけれど友好的には進まないのではないかと」
「ソレイユ家もだよ。皆、ルーンの名を聞くだけで眉をしかめて語気を荒くする始末。先が思いやられるよ」
ふぅ。
嘆息し、男性は苦笑する。
カテリーナ=ルーンもまた哀しみに表情を暗くし、瞳に影を落としている。
「ねぇ、アンディ」
「うん? 何だい、カテリーナ」
すっ。
(わ、わぁ)
思わずラディアムは瞳をそらす。
カテリーナ=ルーンは男性にそっと寄り添った。
「もしもの時はわたくし、家を捨てるわ」
「……あぁ。僕もだ」
弱弱しい月明かりが――男女を照らす。
ラディアムの視界が突然明るくなった。先頃までいた森の中ではなく、今や彼は建物の中にいた。ブックマン邸に負けず劣らぬ豪奢な部屋。その窓辺に立っていた。
その突然の出来事に彼がまごついていると、部屋の外がにわかに騒がしくなる。そして、ラディアムのいる部屋に入ってくる気配を見せる。
慌てふためき、ラディアムは物陰に身を隠した。
がちゃ。
それと同時に、部屋には壮年の男性と、カテリーナ=ルーンが姿を現した。
「お父様! なぜ、なぜソレイユ家との和平を拒まれるのですか!?」
「くどいぞ、カテリーナ。お前が言うから和平会談には一応出てやった。しかし、実際にあいつらと相容れるわけにはいかんのだ」
「ですから、どうして!?」
ばんっ!
男性が腰掛けた執務机に荒々しく手を付き、カテリーナは声を荒げた。その瞳には、怒りと共に哀しみがあった。
父――ラグドール=ルーンは小さく息をつき、重々しく口を開いた。
「お前もいずれルーン家を治める身。知らねばならぬことか……」
呟くと、ラグドールは抽斗を開けた。そして、書類を取り出す。
「この国の領地配分と領民分布だ。見なさい」
「今は勉学など――」
「勉学などではない。我らルーン宗家、そして、分家、我らが領民の未来の話だ。いいから、目を通しなさい」
不満顔を浮かべるカテリーナ。しかし、憮然とした調子ではあるが、渡された書類に目を通す。そうして、ようよう顔色を変えた。
「そ…んな……! そんな! 人に対して領地が少なすぎる。それに、こちらの食糧生産率と貯蓄率は10年と経たず餓死者が出かねない数値ではございませんか!」
「そうだ。だからこそ、ソレイユ家と和平を結んでいる場合などではないのだ」
「それは――いいえ。ならば、ソレイユ家と協力して――」
「能わぬよ。ソレイユも易しい事情ではない。我らか、ソレイユか。それが残された道だ」
この当時の主要な良家は、ルーン家、ソレイユ家、そして、ブックマン家の3家であったとラディアムは記憶している。ならば――
「ぶ、ブックマン家は! かの家もまた分家と領民は多いはずではございませんか!」
カテリーナの口から自身の家の名が出たことで、ラディアムは身を硬くした。彼自身考えたことではあるが、改めて他の者に言われると緊張する。隠れた物陰にてもぞもぞと動いた。
一方で、ラグドールは微動だにせず重々しい口調で続ける。
「ブックマン家は国王様に重用されておる。手を出せばその時こそ我らは潰される。何度も言うぞ、カテリーナ。ルーン家か、ソレイユ家か、その――2択なのだ」
「……仮に我らが敗れれば、皆は――」
「人は歴史を辿る。蔑まれ、悪くすれば奴隷となろう。我らも勝てばそうすべきよ」
全てを養う土壌があるならば、ラグドールもまた和平の道を模索しただろう。しかし、現実はそうではない。
自家が人並みに暮らすためには、他家の全てを受け入れるわけにはいかないのだ。
ぎりっ。
カテリーナ=ルーンは辛そうに、強く強く歯をかみしめた。
再び、場面が転換した。そこは、暗い部屋だった。小さく開いた窓から差し込む月明かりだけが光源となり、机の上を照らしている。
机の上には、古びた手紙があった。
「親愛なる、K……」
手紙には、家を捨てることは出来ない、もう逢うことは止めようと、手紙もこれを最後にしようと、書かれていた。そして最後には――
「愛していたよ。Aより」
そう書かれていた。
ラディアムは知らずに涙を流していた。彼は未だ女性を愛したことはない。それでも、親しい人と――例えば、アルマリータやラドクリフとこのような別れをせねばならなくなったなら……
がちゃ。
その時、部屋の扉が開かれた。
「――っ!」
「……あら。ソレイユ家の刺客の者ですか?」
廊下の明かりに照らされているのはカテリーナ=ルーン。先ほどまでよりも年を重ねた容姿である。
「その、ぼくは、あの……」
「まあ。まだ子供ではございませんか。ソレイユの者なのですか?」
「ち、違います! 僕は、その、ブックマン家の者です……」
言ってから、ラディアムははっと口を噤んだ。
ルーン家がソレイユ家が戦う要因のひとつは、ブックマン家の圧倒的な国王からの支持でもあると、先ほどラグドール=ルーンは口にしていた。ならば、カテリーナ=ルーンにとってブックマン家の者は許せない存在かもしれない。
しかし――
「ブックマン家の? それがなぜわたくしの部屋に…… あぁ。ふふ、子供は冒険好きですものね。ルーン家当主の私物を持ってこれた者が勝ち、などいう遊びですの?」
「え、あ、そう……です……」
カテリーナの勘違いに、ラディアムは拍子抜けしつつも話を合わせることにした。どう足掻いても彼がここにいる理由を説明などできないのだから。
「では、そうですね。その手紙をお持ちになって早くお帰りなさい。子供がこのような夜中に外出すべきではございませんわ」
机の上の古びた手紙を指し、カテリーナは言った。
「え! でも、この手紙は――」
驚愕して叫ぶラディアム。
その様子にカテリーナは含み笑いをしつつ、部屋の扉を閉める。
「嘘の苦手な方ですわね。大きな声を出してはなりません。誰か来てしまっては匿えませんわよ」
カテリーナの言動に、ラディアムは戸惑った。
そうしながらも、手紙を勝手に見てしまっている現状を思い出し、頭を下げる。
「あの、ごめんなさい」
「手紙のことですか? よいのです。出しっぱなしにしていたわたくしが悪いのですから。何年も前に頂いた手紙なのですけれど、ついつい未練がましく持ち続けてしまっていて…… 恥ずかしいですわ」
優しく微笑むカテリーナの表情には、吹っ切れたような清々しさがあった。
「そんなこと、ないです。だって、これはアンディさんからの――」
「やはり、貴方でしたのね」
ラディアムの言葉を遮り、カテリーナが言った。その顔は楽しそうに輝いている。
「やはりって……?」
「その手紙には差出人の名はAとしか書いておりません。なぜアンディの名を?」
「え、あ!」
ふふふ、と小さく笑い、カテリーナはゆっくりとした歩調でラディアムへ近づいた。そして、彼の顔を間近で見つめる。
ラディアムはたじろぐ。
「わたくし、何年も前に貴方を見たような気がします。あれは彼を待っていた森の中。突然の物音に瞳を向けると、月明かりに照らされた貴方そっくりの男の子がおりました。男の子はわたくしと彼の様子をしばらく見つめておりましたけど、少ししましたらこつ然と姿を消したのです。不思議な――出来事でした」
穏やかな語り口調。それを耳に入れつつ、ラディアムは緊張していた。見られていたのだ、と。
「貴方は、精霊なのでしょうか?」
「い、いいえ。僕はそんな凄いものじゃないです。僕はとりえのない子供で、ただの子供で……」
くすくす。
恥ずかしそうに視線を下ろすラディアム。
その様子を瞳に入れ、カテリーナはしゃがみ込んだ。そして、ラディアムの顔をのぞきこみ、やはり楽しそうに笑った。
「貴方の名前を教えてくれますか?」
「……ラディアムです。ラディアム=ブックマン」
「そう」
にこり。
微笑み、カテリーナはラディアムの頭を撫ぜる。
「では、ラディアム。不思議な御子よ。貴方が見たわたくしを、アンディを、ルーン家とソレイユ家を、そして、この時代を覚えておいてくださいませんか?」
え、とラディアムは瞳を見開いた。
「平坦な道ではなく、楽しいばかりの道でもありませんでした。決して平和とは言い難い時代でした。それでも、その全てがわたくしたちが生きた証です」
「ねぇ!」
思わず、ラディアムは叫んでいた。ルーン家の他の者に聞きとがめられるやもしれない。それでも、叫ばずにはいられなかった。
涙を流し、カテリーナに対峙する。
「逃げたいとは思わないの? 望まない今を嫌だと思わないの? 過去を変えられるとしたら、変えたいと思わないの? 僕がそれを出来ると言ったら、貴女は――そうしたいと思わないの?」
突然の問いに、カテリーナは面食らったように呆けた。しかし、直ぐに微笑んだ。
「思わない、とは言い切れませんわ。わたくしは結局ただの人ですもの。弱くて、脆くて、自分の幸せを願わずにはいられない。けれど、わたくしはカテリーナ=ルーン。守るべきものが沢山ございます。それは彼も――アンドリュー=ソレイユもまた同じ。それが――」
ラディアムは涙が止まらなかった。悲しくて哀しくて、とめどなく涙が溢れた。
カテリーナはそれでも、明るく笑う。
「わたくしどもの誇りです」
ラディアムはあるいは色彩に富む空間を、あるいは色彩のない空間を、あるいは五感で認識できない空間を漂っていた。
カテリーナ=ルーンの日記は、先ほどが最後だったのだ。カテリーナはあれから争いに敗れ、捕えられ、そして、処刑された。
彼には、彼女が人の介在する救いを求めないことがもう分かっていた。それでも――
(詠み人の力。僕を彼の許へ――)
邸の窓辺に男が立っていた。その瞳は空へ向けられている。うつろな瞳を浮かべながら、それでも彼は微笑んでいた。
ラディアムはそんな男に――アンドリュー=ソレイユに歩み寄る。
「アンディさん」
「……君は?」
突然の訪問にもかかわらず、アンドリューはカテリーナと同じように笑い、尋ねた。
「ラディアム=ブックマンと言います」
「ブックマン家のものか。何用かな?」
「今この時は、貴方にとって――何ですか?」
問いを返され、アンドリューは面食らったように瞳を見開いた。そうしてから苦笑する。
「難しいことを訊くね。さて、僕は弱い人間だから後悔を沢山する。ああすればよかった。こうすればよかった。そして、あんなことをしなければよかった。幾度も考えたよ」
「……………」
「でもね。僕はこれだけば絶対に後悔しないと決めているんだ。唯ひとつ」
アンドリュー=ソレイユ。彼もまた――
「彼女と同じ道を歩めたこと。それだけは何があっても後悔しない。そうして、歩み続けた今この時は――僕らの誇りだ」
過去の改竄を望まない。
「その結果が――」
「彼女を殺すことであっても、だよ。明日、僕は――ソレイユ家当主である私は、ルーン家当主である彼女をこの手で殺める。例えその時であっても、いいや、これからもずっと、私は、彼女は……」
アンドリュー=ソレイユ。56歳まで生き、生涯独身でいたソレイユ家の当主。目の前に佇む笑顔の青年には確かに、教科書に載る壮年のいかめしい面構えをした男の面影があった。
「歩んできたこの道を、誇りに想う」
それこそが、彼らの歴史なのだ。
後ろ手に縛られたカテリーナ=ルーンが、断頭台にあげられる。その傍らにはソレイユ家当主アンドリュー=ソレイユ。
ラディアムはその姿を、断頭台の目の前で見つめていた。
以前歴史の授業中にインサイドした際とは違った。恐怖は一切ない。ただ、悲しみだけが胸にうずまいていた。
一方で、いざその時であっても、彼と彼女は小さく微笑んだ。
カテリーナは小さな声で何か言った。
アンドリューもまた、誰にも聞き取れぬ声で呟く。
そして――
しゅっ。
アンドリューの剣が、断頭台の刃をとどめていた麻紐を断った。
「愛しております。わたくしの――太陽」
「僕もだ。我が愛しき――月の姫」