第1章 Moon And Sun
インサイド

 かつかつかつ。
 深夜。アデウス棟の廊下にて、ラケシス=ブックマンが歩みを進めていた。その足は書庫の扉の前で止まった。
 がちゃ。
「ストゥール=ブックマン。居ますか?」
「は、はい。ラケシス様。おります。いかがなされました? 異常はございませんが……」
 ストゥールと呼ばれた男性は、緊張した面持ちで応えた。
 彼は本家筋の者である。しかし、現状としては下に扱われており、見張りなどの雑用に登用されることも多い。
 そんなストゥールの言葉を聞き流しつつ、ラケシスは視線を厳しくする。そうしてから、書庫の奥の左から5番目の棚へと向かった。
 すっ。
 彼女は腰をかがめた。そして、床を指でなぞる。その指を顔に近づけ、そこに極細い糸が付着しているのを見て取った。秘密の出入り口に挟んでいたものである。
「……ここを、しばらく空けましたか?」
「い、いいえ。ずっと詰めておりました」
 一瞬、言葉を詰まらせたストゥール。
 ラケシスは眉間を指で押さえ、悩ましげに首を振る。
「尋ね方が悪いのかしら? ではこう訊きましょう。見張りが継続不可能となった時間が――ありましたか?」
 静かな声が書庫を満たし、沈黙が落ちる。
 ストゥールは観念した。
「……はい。居眠りを少々。申し訳ございません」
 ふぅ。
「あまり気にやまないことです。おそらくは眠りの魔法でしょう。部屋に魔力の残り香があります。――鍵を」
 じゃら。
 ラケシスの呼びかけに伴い、ストゥールが懐から鍵の束を取り出した。
 それを受け取り、ラケシスは棚の前から体をどかす。
 ストゥールがその棚へと歩み寄り、ゆっくりとそちらへ体重をかけた。すると、棚は奥へと押し込まれ、その後、左へスライドする。
 古めかしい扉が姿を現した。
「奥を調べてきます。貴方は見張りを継続してください」
「はい」
 がちゃ。
 扉が開かれ、ぽっかりと空いた闇の穴へと、ラケシスが進入した。

 数刻前、書庫内に眠らせていた男に鍵を返し、ラディアムたちはこっそりと外へ向かった。深夜ということで誰もおらず、唯一、アデウス棟のまわりを巡回している者がいるくらいのものであった。その見張りもなんとかやり過ごし、彼らはそれぞれの棟へと戻った。
「ふあぁあ。さすがにねむーい。じゃーね、ラディ。明日、また詳しく話しましょ。それと、学校から帰ったら今度はみんなで一緒に地下へ行くんだからね! 一緒に!」
「う、うん。わかってるよ、アルマ」
「よろしい。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 ぶんぶんと手を振ると、アルマリータは自室へ戻った。
 それを見送り、ラディアムは踵を返す。そして、再びウィダミア棟の裏口へと向かった。彼の手には、先ほど手に入れた書が――カテリーナ=ルーンの日記があった。

 著名人たちの日記を保管している部屋まで至ったラケシスは、口元にゆるく握った右手をあて、考え込んでいた。
(途中にあったオークの死体が受けた魔法。あの魔力の感じはおそらく――アルマリータ=ブックマン)
 オークを絶命させたのは雷鳴の魔法のようであった。そして、その体に残っていた魔力は、彼女の小さい従妹のものと酷似していた。
(そして、ゴブリンたちの受けた傷。あの切り口の具合はアルマリータ=ブックマンのものと、もう1人、ラドクリフ=ブックマンのもの。この2人が揃っていたということは、まず間違いなくラディアム=ブックマンも居たはず)
 彼ら3人の仲がいいことはわかっている。揃ってこの場へやってきていただろうことは疑うべくもない。
 しかし、他の疑問がある。いったいなぜここに、という疑問が。
(ここの場所をミランダから聞き、興味をもって来た? ラディアムは歴史を好むときいていますし、あり得なくはない。けれど……)
 ラディアムがそこまで大胆な性格かというと否である。加えて、比較的大胆な性格のアルマリータとラドクリフは、歴史書どころか書物自体にそれほど興味がないはずだ。ここに侵入までする道理がない。
 かつかつかつ。
 考えを巡らしながら、ラケシスは歩き回る。視線は何気なく書棚の一角へ向けられた。
 彼女の瞳は驚愕により見開かれる。
(――カテリーナ=ルーンの日記…… まさか、マグダリア!)
 かつて歴史を救おうとした馬鹿者がいた。その馬鹿者を思い出し、そして、ラケシスは昨日の出来事のひとつもまた思い出した。
 アデウス棟を訪れたのは出納長――アルヴェルト=ブックマン。ラディアムの兄である。そして、彼がミランダに尋ねていたのはまさに、あの地下室のことであった。
(あの男と出逢い、彼らのうちの誰かが力に目覚めた? そうであれば…… そして、マグダリアが絡んでいるのであれば……)
 かっ。
 勢いよく踵を返し、ラケシスは出口へと急いだ。

「……………ま、マグダリアさん」
 震える小さな声で、ラディアムはマグダリアに呼びかけた。
 深夜に、漆黒の闇に包まれた森を歩み、さらに、地下への昏い昏い階段を下りるというのは、ラディアムにとっては心臓が止まりそうな程に難しい所業であった。心臓の音がうるさくて仕方がない。
「ラディアムか? よく来られたな。夜中にここに来られるほど勇気があるとは意外だ」
 出逢ってまもない男が、正鵠を射た所見を述べた。
 ラディアム自身にも意外なのだから反論のしようもない。
「まあいい。例のものは?」
 がさがさ。
 尋ねられると、ラディアムは懐から古いノートを取り出した。
「……カテリーナ=ルーンの日記です。これで、歴史を――悲劇の当主を救えるんですか?」
「ああ。上手くインサイドすれば、な。どれ、初めてのお前では荷が勝っていよう。俺に渡せ」
 すっ。
 鉄格子の向こうから、太い腕が伸びた。
 しかし、ラディアムはその腕を見つめるだけで、ノートを渡しはしない。
「……貴方に本を――どんな本でも渡してはいけないと聞いています。大変なことになるって」
 ふぅ。
 ラディアムの言葉を耳にすると、マグダリアは小さく息をついた。
「真面目な奴だな。まあ、良家のお坊ちゃんらしいか。いいさ。なら、お前がやってみな」
「……やってみるって?」
「1度はインサイドしたんだろう。同じ要領でその日記を詠め。あとは、歴史を変えればいい。彼女を救えばいいのさ」
 ラディアムは1度ためらい、しかし、持ってきていたランタンを点けた。地面に光源を置き、ノートを広げた。
 連なる文字列は、カテリーナ=ルーンがまだ無垢な少女であった頃のものであった。
「ラディアム。お前は俺と同じ。悲劇を嫌う者だ。歴史は――悲劇は救われなければいけない」
 マグダリアの言葉。
 それを耳にしながら、ラディアムは再び、文字の連なりの奥深くへと潜った。