ブックマン家の朝は早い。アトルナ棟の武人たちが朝稽古を始めるのが日の出前。ウィダミア棟の知識人たちが王城や他国へ出向くのが日の出から直ぐのこと。唯一、アデウス棟だけがゆったりと1日を始める。日の光が窓より差し込んでから、主神の名を冠する建物の住人たちは活動を開始する。
そんな中、先日より例外的存在が当該棟に住まうようになった。その者の名はラディアム=ブックマン。13歳という年若さながら特殊な能力――詠み人のインサイドスキルを開眼し、ブックマン家の本家筋として迎えられた少年である。
彼は日の出と共に起きて食事を取り、少しの時間読書をしてから出かける。その際――
「おっはよおー!! ラディ!!」
蒼く澄んだ空に、大音量の気持ちいい挨拶が木霊した。
その声の主はアルマリータ=ブックマンという名の少女である。以前にラディアムも住んでいたウィダミア棟で暮らしており、ラディアムとはいとこ関係にある。彼女は、大好きなラディアムをウィダミア棟から奪った本家筋を逆恨みしている。そのため、毎朝毎朝、アデウス棟の安眠を妨害しているのだ。
「お、おはよう。アルマ」
苦笑し、小さな声で挨拶するラディアム。
アルマはそんな彼に向けて人差し指を振って、ちっちっちっと舌を打って見せた。
「元気がないわね、ラディ。朝は大きな声ではっきり挨拶。常識よ。せーの」
すぅっと大きく息を吸うアルマリータ。
ラディアムはおろおろと困った表情で周りを見やる。窓辺で迷惑そうにこちらを見ている本家筋の人間が数名見えた。ラディアムはしばしば、このことを因として嫌味をぶつけられている。可能であればアルマリータの所業を止めたいところであった。
しかし、止めたところでやめるいとこではない。ラディアムは諦めたように瞳を閉じ、せめて耳を塞いだ。
「おっ――むぐ」
存外たいしたことのない騒音状況。それというのも、アルマリータの口を直ぐさま塞いだ者がいたからだった。その者は、サイドへなめつけた艶やかな黒髪が印象的な少年であった。
「その辺にしとけよ、アルマ。結果的に困るのはラディだぞ」
呆れ顔で言った少年の名は、ラドクリフ=ブックマン。やはりラディアムのいとこであり、武人揃いのアトルナ棟に住まう13歳である。年相応の小さい体ながら、引き締まった体躯は大人顔負けだ。
そのようなラドクリフに背後から押さえられ、口を塞がれたアルマリータは、完全に動きを封じられてしまった。もごもごと怒り顔で口を動かしてはいるが、人語を発するには至っていない。
「あ、ラド。おはよう」
「おはよう、ラディ。アデウス棟の暮らしには慣れたか?」
尋ねられると、ラディはくすりと笑った。
「それ、毎日きいてるよ? ラドは心配性だね」
「大事なラディのことだからな。心配くらい、いくらでもするさ」
にっこりと、朝から爽やかな笑みを浮かべるいとこを瞳に映し、ラディアムは苦笑する。いとこで、しかも男の自分に口説き文句をぶつけられてもなぁ、と。
じたばたじたばた!
そこで、一層激しく暴れだすアルマリータ。
「ん? どうした、アルマ」
「息が苦しくなったんじゃ…… ラド、放してあげてよ」
未だ多大な不安はあったが、ラドクリフは手を緩めた。他でもないラディアムに頼まれては仕方がない。
すると、アルマリータはばっと彼の手を振り払った。そして、ビシッとアデウス棟の正面玄関奥を指さす。そこには――
「出たわね、性悪女! さっさとラディを返しなさいっ!!」
先ほどとは比べものにならない大音量の声。
キィンと耳鳴りに顔を顰めつつ、ラディアムとラドクリフは、いとこの少女が指さす先を見やる。
そこに居たのは、やはり彼らのいとこであるラケシス=ブックマンであった。彼女はラディアムたちよりもだいぶ年上であり、当年取って26歳である。ブックマン家現当主のティアーガン=ブックマンの孫娘であり、かつ、アデウス棟に住まう本家筋の人間ということで、現状、最も次期当主の座に近いと噂されている。
しかし、アルマリータにとってみれば、彼女はラディアムを本家筋に引き込んだ当人であり、憎むべき対象でしかない。突然罵倒を浴びせたのも当然といえば当然であった。
ふぅ。
罵られた当人は、疲れたように息をついて見せた。
「アルマリータ。朝はもう少し静かになさい。アデウス棟の仕事は不規則な場合も多く、つい先頃眠りについた者もおります」
「べぇ! そんなの知らないもん! 私のラディを奪った罰よ!」
ふぅ。
舌を出して挑発してみせる幼いいとこ。彼女を見つめ、ラケシスは再度ため息をついた。
「居住スペースを変えただけでこれでは…… 伝えたくないですね、まったく」
「?」
年の離れたいとこの言葉を耳にし、ラディアムは首を傾げた。何を言っているのかよく分からない。
そんな彼に、ラケシスは向き直った。
「ラディアム=ブックマン」
「は、はい」
硬い口調で呼びかけられ、ラディアムは身を固くする。すっと姿勢を正し、直立不動で次の言葉を待った。
アルマリータとラドクリフもまた、何事かと首を傾げ、ラケシスの言葉を待つ。
ラケシスはそんな彼らを見回し、ようよう口を開いた。
「貴方は学校へ行くことを禁止します。勉学については家庭教師をつけますので、部屋へ戻りなさい」
……………………………
沈黙が落ち、アデウス棟を静寂が支配した。
しかし、それも一瞬のことであった。
『えええええええええええええええええええぇええええええええぇええええええええぇええぇえッッ!!』
少年少女の驚愕の声が、アデウス棟どころか、ブックマン家領内を駆け抜けた。
その日の夜、ラケシスの部屋を訪れる者が居た。その者の名はミランダ=ブックマン。ラディアム同様、最近本家筋入りし、アデウス棟に住まうこととなった女性である。
彼女は哀しそうにまなじりを下げ、ラケシスに懇願する。
「ラケシス様。ラディくんの件ですが、あの年で学校へ行けないというのは可哀想です。どうにかなりませんか?」
ラディアムの部屋はミランダの部屋の隣である。彼の部屋から、すすり泣く声が朝から絶えず聞こえてくる。先ほどようやく眠りについたようで、静かになったところだった。
「まだまだお友達と一緒に学び、遊びたいに決まっています。ただでさえ、仲良しのリタちゃんやラドくん――いえ、アルマリータちゃんやラドクリフくんとも会いづらい環境に身を置くことになってしまったわけですし……」
「ミランダ」
びくっ。
鋭い声を向けられ、ミランダは身を固くする。こうして意見しに来はしたが、彼女からすればラケシスは雲の上の存在といっても過言ではない。ミランダの婚約者であるアルヴェルト=ブックマン――ラディアムの兄君がラケシスといとこ同士であるために会話くらいは出来るが、本来であれば言葉を交わす機会など一切なくてもおかしくはないのだ。
ゆえに、ここで口出し無用と命ぜられてしまえば、従う以外の選択肢はない。
「本家の持つ詠み人の力や、秘蔵している書籍の数々。その秘密が外に漏れれば、必ず悪用しようとする愚者が現れる。本家入りして年月が浅いとはいえ、貴女もそのことは承知しているはずです」
静かな声音で、ラケシスは言う。
ミランダは恐縮し、コクリと小さく頷いた。
ブックマン本家の者には、共通して不可思議な力が備わっている。例えば、ラディアムにはインサイドスキルという、書物の中に入り込む力のあることが確認出来ている。
このインサイドスキルは、歴史書や日記に書かれた出来事に干渉し、過去を変える力がある。かつて、ブックマン家初代当主であったガンダルフ=ブックマンは、その力をもって過去を変え、本来は生じ得なかった100年間の戦争を引き起こしたという。
「ならば、人の集まる学校という場に、年若い未熟な詠み人を送り出すことがどれだけ危険か、わからないはずはないでしょう?」
「……はい」
問いかけに、ミランダは素直に頷く。逆らえぬことはもとより、ラケシスの言うことは紛れもなく正しい。ただ、それでも――
「承知していようとも、納得は出来ない、という顔ですね」
ふぅ、とため息をつき、ラケシスが言った。
「そ、そのようなことは……!」
「取り繕わずともよいですよ。ラディアム、ひいては出納長――アルヴェルトと懇意にしている貴女ならば、当然の感情です」
そう口にして瞳を閉じ、ラケシスは先を続けた。口の端を小さく持ち上げている表情からは、機嫌の良さを窺える。
「勘違いしているかもしれませんが、正直なところ、わたくしはラディアムのことを信用しています。彼は、一度は愚弟――マグダリアに惑わされ、貴重な日記を持ち出しはしました。しかし、最終的には自分自身の意思で過去の改ざんを否定しています。更には、ガンダルフの為した罪に多大な恐怖を抱いていた。インサイドスキルの危険性は充分承知しているでしょう」
ラケシス自身が目にした小さないとこの言動は、彼女に好印象を与えていた。しかし――
「とはいえ、他の者にとってみれば、彼は幼い未熟な少年に過ぎません。何も知らず、ただ突然に力を得た、愚かな子供。信用などあると思いますか?」
「……いえ」
客観的に見て、現在のラディアムに、本家筋の人間たちが信用を置くはずがない。仮にラケシスが保証したとしても、である。
だからこその、今回の措置なのだ。ならば、ラケシスがどうこう出来る話でも、ましてや、ミランダがどうこう出来る話でもない。
そのように思えた。だが……
「そう。信用など皆無なのです。しかし、ならば信用を勝ち取ればよい」
「え?」
ミランダは落としていた視線を上げた。ラケシスの表情を窺い見る。
そこに浮かぶのは、微笑みだった。