暗闇の中の事件

 西の空が赤みをおび出した頃合。数名の男女がこそこそとコンクリート建築の非常階段を上っている。彼らは三階の扉を開けて建物の中に入り込み、廊下を進む。そして、扉の前に至った。うち一名が腰のポケットに右手を入れて鍵を取り出す。
 がちゃ。
 錠を開け部屋に侵入する。玄関口から直ぐのところには、家主が営む事務所の応接間がある。そこには背の低いテーブルが一卓とソファが二脚、そして、更に奥には家主のデスクがあった。コンピュータと固定電話機、各種書類が積まれている。玄関から左に向かうとそちらにはキッチンがあり、小さいながら冷蔵庫や給湯器もある。風呂、トイレはないようだが、家主曰く、銭湯が近くにあるので問題ないという。トイレもまた、建物に共同のものがある。
 さて、こそこそと部屋に侵入した彼らが何者なのか。それをここに記す。彼らはこの部屋の主の友人達である。部屋の主が本日めでたく三十路にまた一歩近づくため、それを祝う目的で集まったのだ。彼らはこっそりと作っておいた合鍵で侵入し、サプライズ企画の準備をしようとしている。
 その人数は四名。
 風邪気味なのか、マスクをしている男性が一名。縁のない眼鏡の奥には神経質そうな瞳がある。名を国見博という。彼は運んできた飲み物を冷蔵庫に詰める作業を始めた。
 そして、国見と共に荷物を手にしていたもう一人の男性――古川歴彦は、右手に持っていたビニール袋を冷蔵庫の側におき、それを指差して国見にしまっておくように頼んだ。そうしてから、応接間のテーブルへ向かい、左手に持っていたビニール袋の中の雑多な品々を出して飾りつけを始める。彼は、室内だというのに袖口や首元にファーのついたダウンジャケットを着込んでおり、軽く汗ばんでいるようだ。しかし、脱ごうとする気配はない。
 そのような男性陣の作業を目にしつつ、女性が二名、部屋の隅に佇んでいる。そのうち一名は、長い黒髪を無造作に下ろしている。彼女は手にしていたショルダバッグの口を開けて、中身の確認していた。
「ちゃんとある? 理代子」
 確認作業に精を出していた女性――木羽理代子に声をかけたのは、残った一名である灰原さよりだ。
 彼女は黒いキャミソールの上に、肩が大きくでるだっぷりとした白のセーターを着込み、下はぴったりしたパンツ、そしてブーツを履いている。一応マフラーをつけてはいるが、それも網目の粗い、機能性よりも見かけを重視したものであり、初冬と呼んでもいい時節において適切な服装かと問われれば、多くの者は首を横に振ることだろう。そのようにオシャレにうるさそうな灰原ではあるが、なぜか化粧っ気は皆無といってよかった。体質的に肌に合わないのかもしれない。
「ええ。この二つでいいんだったよね?」
 木羽がバッグから二つの壜を取り出して見せた。一つは香水。そしもう一つは――
「おーい。理代子。料理の下準備もしとくんだろ? さっさと済ませようぜ」
 冷蔵庫に品物をつめる作業を終えた国見が顔を出して言った。
 声をかけられた木羽が返事をしてそちらへ向かう。
「なあ、さより。ここがいいかな?」
 木羽がキッチンに消えるのを見送っていた灰原に、古川が声をかけた。彼の指差す先には、何も置かれていない床があるのみだ。
「……そうね。その辺りがちょうどいいかもね」
 玄関に一度瞳を向けてから国見が示した床に視線を戻し、灰原が頷いた。そして、キッチンに瞳を向けて可笑しそうに口元を歪める。古川もまた声を立てずに笑い、彼女と同じ方向に瞳を向ける。そうしてから、彼らは談笑しながら飾り付けの続きを始めた。
 しばらく経つとその作業も終わり、木羽と国見も料理の準備を終えて戻ってきた。サプライズ企画の大方の準備を終え、彼らは満足そうに頷きあう。そして、もうひと作業だけ終えてから、いよいよ部屋の電気を消し、家主が帰宅するのを息を潜めて待つことにした。

 侵入者達が部屋の電気を消してから三十分ほどが経った。日もすっかり暮れてしまったその頃合に、家主が帰ってきた。玄関からは鍵を錠に差し込む音が聞こえる。そして扉が開く。彼は玄関口で一度立ち止まり訝しげな声を漏らすが、直ぐに歩を進めて部屋に進入した。彼がスイッチに手を伸ばし、いよいよ電気が点けられたその時に――
「おめでとう!」
 クラッカーの音に重ねて、潜んでいた者達めいめいが祝福の言葉を口にした。
 一方、本日めでたく歳を重ねた当人は瞠目し、誰もいないはずだった空間に見知った顔達を認める。彼は、そこで安心したように一度表情を緩めるが、ソファの奥の床に瞳を向けると一転、眉根に皺を寄せ、言葉を失って立ち尽くす。
 勿論そちらにもサプライズ企画の参加者である女性が一人いるけれど、それにしても、そちらにばかりに視線を送っているのは妙な話だった。しかも、彼の表情は先述のとおり、尋常ではない事態を想起させるものなのである。
 怪訝に思い、他の三名は視線を移す。帰宅した友人が見つめる先――今回の企ての共犯者がいる箇所に、ソファ近くの床に視線を移す。そこには……
「きゃああああああ!」
 女性が――灰原さよりが叫んだ。瞳に入ってきた光景を因として、力いっぱい絶望を吐き出した。
 床には紅が広がっていた。流れ出る血が辺り一帯を染めていた。床には、血を流してうつ伏せに倒れている木羽理代子がいた。ぴくりとも動かないその様子は事切れているだろうことを予見させた。
 国見博が駆け寄って理代子の手首を取る。そうしてしばらく経つと、彼はゆっくりと首を振った。
「死んでいる」
「ほ、本当なのか? もう一度よく――」
 古川歴彦が動揺した様子で尋ねると、国見は沈痛な面持ちで彼を見返した。そして言葉を紡ぐ。
「これでも一応は医師だ。間違いない。死んでいる」
 断言されると、古川は眉を顰めてぎりっと歯をかみ締めた。
 灰原も口元を押さえて涙ぐむ。
「きちんと調べないと確かなことは言えないが、心臓を一突きされたのが死因だろう。ナイフが刺さったままだ」
 木羽の身体を軽く持ち上げて身体の正面を覗き込むと、国見が言った。そして、再び木羽を寝かせて手を合わせる。
 古川は髪をかきあげて無念そうにしゃがみこみ、灰原はソファに倒れるように座って嗚咽を漏らし始めた。
 その一方で、この部屋の主である男性はくんくんと鼻を鳴らし、視線を巡らす。
「この匂いは……香水か?」
 男性の言葉を耳にし、灰原が嗚咽交じりに応える。
「理代子、幹也くんのために男性用の香水を買ったらしいから、それが零れたのかも」
 それを耳にすると、男性――葦乃木幹也は倒れている木羽に近づき、腰を屈めた。彼女の側には、確かに割れた香水の壜があった。鼻を刺激する強い匂いが漂っている。
 幹也は香水の壜をしばらく見つめ、それから木羽に視線を向ける。床に広がる紅い液体を目にし、瞳を細めた。そうしてからゆっくりと立ち上がる。
「これは?」
 幹也が死してしまった友人を指差す。いや、正確には彼女の指先を示した。そこには血の跡があった。しかし、それは血が自然に流れて出来た跡ではない。文字のようにも見えた。
 国見が木羽を少し動かしたために指先が血の跡からずれてはいるけれど、間違いなく、女性が遺したものだろう。
 つまり――
「ダイイングメッセージ……」
 誰かが呟いた。
 床に刻まれた紅き文字は「十」と見えた。
 幹也は瞳を細め、全員を順々に見やる。
 国見博。古川歴彦。灰原さより。そして、倒れている木羽理代子。
 彼らを瞳に入れてから、幹也はゆっくりと口を開く。
「どうやら僕のためにサプライズパーティを企画していたようだが、とんだことになってしまったらしい。ところで、君達全員に訊きたい。暗闇の中で犯行があったようだが、何か気づいたことはないか?」
 全員が一様に首を横に振る。
 幹也はその様子を目にし、口元を緩める。そうしてから、灰原に視線を向ける。
「灰原さん。今日は化粧をしていないようだけど、どうしたのかな?」
 突然の質問に灰原は呆けた。しかし、直ぐに答える。
「ちょっと急いでたから、どうせ気の知れた奴らばかりだしと思って……」
「なるほど」
 瞳を閉じて微笑み、幹也が呟いた。
 そして沈黙が落ちる。誰もが口をつぐんでいた。
 木羽理代子の胸にはナイフが刺さっている、と国見は口にした。それはつまり、十中八九の確率で殺人事件ということになるだろう。自分自身の意思でナイフを心臓に突き刺すという可能性がゼロではないとはいえ、それは限りなくゼロに近い。ならば、事実は重苦しいものであるはずだ。更に言うなれば、この部屋で事件が起きたという状況から、木羽を殺害した犯人が部屋にいた者、即ち、国見、古川、灰原の中にいる可能性は濃厚である。
 それぞれの者達が他の二名に疑わしげな視線を送る。
 一方で、彼らのそのような様子を観察しながら、唯一容疑圏内から外れている幹也は、自分のデスクへと向かう。そして、おもむろに固定電話機に手を伸ばした。
「とりあえず、国家権力を呼びつけるとしようか。たまには税金を還元して貰わなくてはな」
 その言葉を耳にし、国見が立ち上がる。
「ま、待ってくれ。お前は一応探偵だろう? この状況なら、残念ながら犯人は俺達以外に考えづらい。俺は誰が犯人であれ、この事件の真相を警察よりもお前に見破って欲しい。頼めないか?」
 彼の言葉を受け、葦乃木探偵事務所の所長である葦乃木幹也は肩を竦めた。
「君は何か勘違いしてるな。実際の探偵というのは小説やドラマの登場人物と違って、殺人事件を解決したりしない人種なんだ。僕を頼るのは筋違いというやつさ」
 その言葉に国見が、古川が、灰原が顔を強張らせる。そして、慌てた様子で国見が幹也に駆け寄った。
 しかし、彼が探偵の元へ至るよりも先に、探偵が彼を手で制した。そして受話器を置き――
「とはいえ、今回ばかりは架空の存在である名探偵のように全てが見通せてしまった。さて。君達の期待に応えて、この部屋で企てられた全てを白日の下に晒すとしようか」
 微笑みながら、そう口にした。

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