葦乃木幹也の受難

 桂坂さちは、約束の時間が近づくにつれて落ち着きがなくなっていった。視線は浮つき、何を報告されても上の空。終いには、秘書が彼女の代わりに仕事をしている始末である。彼女の秘書を勤めている女性は、ここ数ヶ月でさちの仕事の多くをこなせるようになったという。まあ、そのようなことはともかくとして、さちは、いざ約束の時間の一時間前を迎えると、化粧室に飛び込み入念に化粧直しを始めた。そしてそれを終えると、仕事着から、あらかじめ用意しておいたお気に入りの服に着替える。これで出かける準備は完璧だ。
 浮かれた様子で社員と挨拶を交わしつつ、オフィスを飛び出し、人の波に乗って駅へ向かう。電車で二駅移動すると、そこは和見町商店街の最寄り駅である。この界隈にさちの住居はあり、加えて、葦乃木探偵事務所はある。
 そして、今回の目的地は自宅ではない。葦乃木探偵事務所である。葦乃木幹也に依頼することがあるのだ。その内容は逃げ出してしまった猫の捜索――いや、正確には、『逃げ出すように仕向けてしまった』猫の捜索だ。
 さちは猫の――与作のことを当然心配している。自分で逃がしておいて妙な話ではあるが、誰かに苛められていないだろうかと心を痛めている。しかし、ひと月に一度のこれだけは止めるわけにはいかないのである。なぜならば、葦乃木幹也との接点は猫探ししかないのだから。
 さちは二十歳で起業し、それから八年間仕事に情熱を燃やしてきた。恋愛など二の次で、仮に誰か殿方から誘われようと、断ってきた。しかし、半年ほど前のこと、現在毎月の行事となっているのとは違い、その時ばかりは本当に与作が行方不明になってしまった。そして、さちは自宅から一番近いところにある探偵事務所に転がり込んだ。その時、今にも泣き出しそうなさちを優しく慰め、数日で与作を見つけ出してくれたのが、葦乃木探偵事務所の所長、幹也だった。
 それから、さちはひと月に一度のペースで与作を『逃がしている』。その理由を訊くのは、野暮天のすることだろう。

「御免なさいねぇ。与作ちゃんってばまた逃げ出しちゃって」
「いいえ、いいのですよ。見失ったのは商店街にある魚屋近隣ですね?」
「ええ。その晩のおかずにするお魚を選んでいる時に気を抜いてしまって、その隙に……」
「なるほど。わかりました」
 幹也は必要なことをメモし、それからさちを見る。
 いつも通り、濃すぎる化粧がまず目を引く。しかし、よくよく見ると、着ている服や身に着けている装飾品は高価なものが多く、加えてよく似合っている。さすがに、毎月と言ってもいいほどの頻度で、猫探しに二十万円を払う女社長だけのことはある。とはいえ――
 幹也は右手の腕時計をちらりと見やり、それから、事務所の扉に瞳を向ける。そろそろ訪問者がやってくることを認識しながらも、別にさちと鉢合わせたところで問題はないか、と結論付け、思考を再開する。
 とはいえ、毎月二十万円をかけて猫探しを依頼するくらいであれば、猫が逃げないような対策をそのお金をつかって施した方が安上がりなのではないだろうか。さちがこの事務所を訪れるようになって半年は経つ。総計はもはや百二十万円ほどだろう。その分の金銭が細長い毛むくじゃらの体に加算されていることを考えると、与作という庶民的な名前の割に、さちの猫は大層豪華だ。
「あの、ところで、葦乃木さん?」
「はい? 何でしょう、ミス桂坂」
 問われると、幹也は笑みを携えて返す。
「先程からお時間を気にされているようですけど、これから何かご予定があるの?」
「いいえ。予定というような大層なものはないのですが、最近このくらいの時間になると訪問者が多いもので」
「まあ、お仕事が忙しいのねぇ」
 手放しで喜んでいるさちを目にし、幹也は苦笑する。
 というのも、訪問者はまず間違いなく依頼を持ってきたりはしない。仕事は全く忙しくないのだ。
「幹也さぁん!」
 バぁンっ!
 そこで、噂の訪問者が大音量と共に飛び込んできた。
 突然のことに、さちは大層驚いた。
「ちょ! 雅さん。来客中ですので、もう少し穏便に……」
 目を丸くしているさちを横目に、幹也は立ち上がり声を上げる。
「あ、御免なさい。いつも誰もいないから、どうせ今日もそうだろうと思って」
「ちょっと、雅。失礼だよ。あ、こんにちは、葦乃木さん」
「ええ。こんにちは、西島さん。僕はこちらの方のお相手をしていますから、お二人は雄大とでも話していて下さい」
 幹也が言うと、さちの化粧の臭いを因として息を潜めていた雄大が立ち上がる。
 そして、彼が二人を招いて事務所の奥へ行こうとした、その時――
「失礼しました。ミス桂坂。えーと、どこまで――」
「……わたくし、今回は他の探偵事務所に頼むことにしますわ」
 突然、さちが言った。
「そうです……か…… はっ?」
 瞠目し、聞き返す幹也。
 しかし、さちはそんな彼に構わずに勢いよく立ち上がる。そして、桐香と雅に鋭い瞳を向け、足早に事務所を飛び出していった。
「ちょ、え? ま、待って下さい! ミス桂坂!」
 幹也は慌てて、去っていく女社長を追った。

「ねえ、桐香。今のってさあ」
「うん。たぶんそうだよね」
「よく今のやりとりだけで判るな、姉ちゃんも。桐香さんも」
 コーヒーと紅茶を淹れてきた雄大が声をかけると、女性二人は意外そうに瞳を見開く。
「あんたこそ、よく気付いてたわね。正直、お姉ちゃんはあんたのこと鈍いと思ってたんだけど」
「俺だって鋭いと自負してやいないけどさ。けど、あの人ほど露骨なら分かるよ。せんせえのことぽーっと見てることあるし、そもそも、猫逃がしてるのだってわざとじゃないのかなぁ」
『猫?』
 桐香、雅の疑問の声を耳に入れ、雄大は語りだす。半年ほど前から続いている、さちの猫騒動を。
 さて、それはともかく、桐香と雅がここを訪れる理由は何なのかだが、例の課題の一件のように依頼をしにきたわけでもなく、また、深い事情があるわけでもない。早い話、暇をつぶしに来ているのである。
 以前の依頼の折より、雅はここをしょっちゅう訪れ、雑談をしたり、幹也にミステリ小説を読ませて解かせたりしている。一方、桐香もまた時たま事務所を訪れる。それは雅と共にであったり、独りであったりする。もっとも、彼女も依頼をしに来るわけでもなく、無駄話をしに来るのが常だ。
 その桐香は、あの時の課題のレポートとして、幹也が用意した課題解答を出来る限り自分が納得できる形に変えて提出したという。彼女としては動機がしっかりしていないとすっきりしないということで、鍵崎を知恵の共犯者にしたてあげ、どうにか話をでっち上げたそうだ。評価がどのようになるかはまだ分からないが、桐香としては満足できるレポートを仕上げたので、あまり心配はしていないようだ。
 と、そこで雄大による猫騒動の説明が終わる。
「ふぅん…… そりゃまた気の長い…… で、幹也さんは気付いてるの?」
 雅が相槌を打ち、それから訊いた。
「んん…… せんせえは気付いてないと思うぞ。そんな様子ないし。……せんせえ、変なとこで鈍くてなぁ」
「あんなに鋭い推理をされる方なのに、そっち方面は鈍いのね」
「変な人よねぇ」
 苦笑して言葉を紡ぐ三名は、それぞれカップに口をつけ、喉を潤した。

「み、ミス桂坂ぁ……! 待って下さぁい……!」
 ふらふらになって追いかけて来る幹也を見やり、さちは少しばかりの喜びを見出す。まるで、浜辺で追いかけっこをする恋人同士のようだ、と。しかし、まだ腹の虫が治まらないのか、引き返しはしない。
 一方で、幹也は棒よりも虚弱になりつつある足を押さえて走り、懸命にさちを追いかける。今月の事務所のテナント料の支払いや諸々の出費を考えると、ここでさちの依頼を手放すわけにはいかなかった。手放してしまったらならば最後、彼はしばらく日雇いのアルバイトを死ぬ気で掛け持ちしなければならないだろう。
「待って……くだ……さい……!」
 倒れそうになりながらも、声を張り上げ、よたよたと走る幹也。既にランナーズハイを感じる時期すら通り過ぎた。明日といわず、数時間後には筋肉痛で苦しむことになるであろう。
 そして、そのような状況を鑑みると、仮に猫探しの依頼を無事得られたとしても、幹也が猫を追いかける役となることはまずない。完全に雄大任せとなるはずだ。
「ミ……スか、かつ……らざ……か……」
 額に張り付いた前髪を払う元気もなく、幹也は途切れ途切れに言葉を発す。商店街の面々が苦笑とともに彼を見ているが、そのことに気付く余裕すらありはしない。これ以上ないというほどに、苦しみだけを享受している。
 葦乃木探偵事務所所長、葦乃木幹也は、残念ながら、本日もこの商店街の名を――和みを享受できないらしい。

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