小説の解答

「さて、こちらが小説としての解答が書かれたプリントです。こちらこそが小説を書いた人物が意図した解決であり、今まで示していたものは、筆者がしかけたミスリードに沿っていると思われる推理、即ち、課題としての解答だったのです」
 その幹也の言葉に、ばっちりトリックを読み解いた気でいた雅と雄大が声を上げる。
「ちょっと待ってよ、幹也さん! 小説としての解答とか、課題としての解答とか、意味が判らないわ。何よ、それ」
「そうっすよ。せんせえ。俺らが頑張って考えていたのは何だったんすか?」
「雅さんはともかく、雄大。お前には鮫川准教授にお会いしたあとに、少し話したはずだがな」
 そのように言われ、雄大は考え込む。そして、確かに昨日、似たようなことを幹也の口から聞いていたことを思い出した。
「そういや聞いた覚えもあるっすけど、でも、意味が分かんないっすよ。課題としての解答とか、小説としての解答とか、それはどういう区別なんすか?」
「つまり――小説としての解答を出すことが、本課題において必ずしも評価されるとは限らない、ということだ。そして、小説としての解答とは言葉の通り、小説を素直に読み解いた際に生まれる解答を意味し、課題としての解答というのは、恐らくもっとも高い評価を得ることができるだろう解答を意味する」
「あ!」
「おっと。西島さんはご理解くださったようですね」
 声をあげた桐香に幹也が声をかけると、彼女は曖昧に笑った。
「まあ、鮫川先生の授業に出ていますし、先生と一番多く接していますからね。鮫川先生とほとんど接点のない雅や雄大くんが判らないのは仕方がないかもしれません」
 そう口にした桐香に対し、雅は細めた瞳を向ける。
「何よ、桐香。上から目線? 感じ悪ぅ」
 桐香は慌てる。
「え? べ、別にそういうんじゃ――」
 その様子に、雅は声を上げて笑い。冗談だ、と舌を出してみせた。そうしてから、幹也に声をかける。
「で、結局はどういうことなの、幹也さん。桐香と貴方だけで諒解しているのはいただけないわ」
「そう焦らずともきちんとご説明しますよ。まあ、鮫川准教授を批判するようで気は進みませんが……」
「早く」
 そこで雅がにっこり微笑むと、幹也は薄ら寒いものを感じ、余計なことを口にするのを止め、慌てたように説明を始める。
「えー…… 僕が課題としての解答をわざわざ用意した理由――それは、鮫川准教授の独善的な教育者精神に依ります」
「どくぜんてきなきょういくしゃせいしん?」
「ええ。少し話をしたり授業に出たりすれば判るのですが、鮫川准教授は人にものを教えることを喜びとしている面があります。しかしそれは、素直に教えを享受する者に対して教授する場合にのみ見出される喜びなのです。例えば、彼は授業中に生徒に問い掛け、正しい答えが返ってくると不機嫌になるということがあるそうです。この場合、間違えた答えが返ってくることを期待し、その上で、正しい答えを自分が教授してやろう、という独善的な考え方を持っていることが伺えます。それから――雄大。思い出してみろ。僕らが鮫川准教授と話をしていた時、彼はところどころで不機嫌そうにしていなかったか?」
 突然話をふられた雄大は、戸惑いながらも昨日の鮫川との面会を思い出す。
「それは――そうだった気がするっすけど、それは俺が余計な茶々とか入れたからじゃないっすか?」
 雄大の質問に、幹也は首を振る。否定する。
「いいや。お前が余計な無駄話をしていた時は、准教授は別段気にした風でもなかった。彼が不機嫌になったのは、お前がサーバ・クライアント型という通信形態に対して正しい知識を見せた時、ボトルネックがネックと同義だという正しい予想をした時、そして、僕が彼の言葉を遮って話の先を読んでみせた時。いずれも彼が教授する機会を奪う行為の時だった。彼は、よく言えば教育熱心。悪く言えば自己中心的なのさ」
 そういえば、と呟き、納得する雄大。
 一方で、雅は、うーん、と唸り、訝しげに幹也を見る。
「あたしはその鮫川に実際に会ったことがないから、幹也さんがそう言うならそうなんだろうって思うしかないわ。けど、それはそうだとしても、鮫川が独善的な教育をしている奴だとしても、ミステリ小説を正しく推理してみせたからって、それで成績を悪くつけるってことはないんじゃないですか? 自分の感情に任せて、本来ならば合っている解答に不正な評価を与えるとか、公私混同にもほどがあるでしょ?」
「それは僕も考えました」
 幹也は深く肯く。しかし、その肯定を言下に否定する。
「しかし、西島さんに授業中の鮫川准教授について伺う限り、彼は公私混同をしかねない人物であると、今となっては、僕は半ば確信しています」
 その言葉を聞くと、雅は桐香に瞳を向けて、問う。
「……桐香、幹也さんにどんな話したの?」
「えぇと、たぶんアレのことかな。さっき葦乃木さんも仰っていたけれど、鮫川先生は質問に対して学生が正しい答えを返すと、不機嫌になるのよ。それで、そのあとは少しだけ授業が荒れるの」
 桐香の言葉を耳に入れると、雅は表情を歪める。そして、
「うわ。それは……確かに公私混同しかねないわね。ていうか、絶対しそう」
 嫌そうに言葉を紡ぐ。しかし、幹也の言っていたことには納得したようで、直ぐに満足そうに頷いた。
 と、そこで、今まで他の者の言葉にただ耳を傾けていた雄大が、疑問の色を顔に塗りたくり、声を上げた。
「んー…… それは判ったんすけど、せんせえ。これって小説を読んで推理する課題っすよねぇ」
「そうだな」
「だったら、まあ確かにこっちへ答えることを要求してますけど、そこで正解したからって鮫川准教授が教授することを妨げるってことにはならないじゃないすか。こっちが正解しようと間違えようと関係がなくないすか?」
 その言葉に、幹也は感心したように、ほぉ、と声を上げ、しかし、ゆっくりと首を振った。否定した。
「それは一理あるのだがな、雄大。そうだな。例えば、お前がクイズを考えたとしよう。それにあっさり答えられるよりは、なかなか正解されない方が嬉しくないか?」
「なんすか、いきなり。まあ、それはそうすけど……」
 雄大が肯くと、幹也は畳み掛ける。
「鮫川准教授はそういう傾向がとみに強い人間なのだ。それが授業中の様子からうかがえる。彼は人に教授することを好むが、それは寧ろ、人に自分の知識を『教えてやっている』という事実を好むと言った方が正しい。そして、そういうタイプは、人に自分の考えた答えを悟らせず、そして、上手くだませることに、喜びを見出すことが多い。自分の頭の良さに光悦感を覚える場合が多い。そして、それが高じてしまい、だませないことに苛立ちを覚えることさえある。予想の域は出ないが、彼は、そういった人間なのだ」
「待って下さい、せんせえ。何度も中断して悪いっすけど、これは小説を解かせているんすよ? 小説は違う誰かが書いたんだから、だまそうとしているのはその違う誰かであって、別に、鮫川准教授は――」
「鮫川准教授だ」
 幹也が言い切る。
 他の三名は、直ぐに反応できなかった。そして、しばらくして桐香が口を開く。
「それは……どういう意味ですか? もしかして、鮫川准教授があの小説をお書きになられた、と?」
「そうです」
「ちょ、だって理系の准教授ですよ?」
「理系の准教授が執筆をしてはいけないと、誰が決めたのです?」
 問われると、雅は黙った。
 一方で、桐香は冷静に質問を繰り返す。
「けれど、なぜそのようなことが判るのですか? 准教授に直接お訊きになられたのですか?」
 その疑問には、そんなことは訊いてなかったすねぇ、と雄大が答えた。
 幹也は、そうだな、と軽く相槌を打って、それから桐香を見やる。
「鮫川准教授は著作権の問題に酷く敏感です。それは西島さん、貴女からもお聞きしましたし、鮫川准教授が研究されているピアツーピアの直面している問題から考えても、判ります。そして、西島さん、貴女は言いました。鮫川准教授は授業中に、この小説の出典について何も口にしなかった、と。そして、プリントにもまた出典は書かれていない」
「ああ…… それで……」
「ええ。何か出典があるのなら、鮫川准教授は必ず書くでしょう。また、仮に知り合いの小説家に特別に書き下ろしてもらったのだとしても、そのことを少なくとも口頭で伝えるはずです。そのどちらでもないのであれば、今回課題として出したミステリ小説は、著作権を一切気にする必要のないもの。すなわち――」
「自分で書いたもの……すか」
 聞きに徹していた雄大が、呟く。
「そういうことだ。そして、自分で考えた答えを看破されることを、鮫川准教授は恐らく、嫌う。小説を正しく読み解かれることを、嫌がる」
 幹也の結論に、誰もが黙り込み、そして肯いた。納得したのだろう。
 そして、彼らのそんな様子を目にした幹也は、この場に居る全員が前提の知識を得たと認識し、続ける。
「以上が、僕が課題解答と小説解答を分けて考えた理由です。そして、西島さんの利益を考えると、つまり、単位取得を考えると、まず必要なのは課題としての解答でした。しかし、その解答は所詮ミスリードを辿りに辿って得たもの。多くの綻びを含んでいるのは仕方がありません。実際、物理的な綻びは解決してみせることができましたが、動機などはすっきりしないままです」
「小説としての解答は――それがないんすか?」
「僕が考える限りでは、な。もっとも、慧眼な西島さんから見れば綻びだらけかもしれないが」
 幹也がいたずらっぽく笑うと、桐香は頬を染めて照れる。
「そんな、慧眼だなんて…… 馬鹿で知らないことが多いから質問が多くなるだけです」
「知らないということを認識し、質問することでその穴を埋めるのは大切なことです。疑問をそのまま残したのでは、あとになって恥をかくこともあります。また、色々なことに気付き疑問を覚える人間を、一般には馬鹿と呼びません」
 慌てて否定しようとする桐香だったが、あまり否定しすぎるのも礼儀に反するかと思い直し、恐縮です、と本当に恐縮している様子で呟く。それから、コーヒーカップを手に取る。しかし、そこには何も入っていなかった。勿論、給仕役を務めた雄大が淹れ忘れたわけではない。長い討論を終えて、いつの間にか中身を飲み干してしまっていたのだ。
 それに気付いた雄大が、素早く立ち上がり、桐香のカップを手に取った。その際、幹也と雅のものも受け取る。
「桐香さんは紅茶で、せんせえがブラック。姉ちゃんはコーヒーの砂糖二つか?」
 全員が肯く。そして、それを確認すると、雄大は事務所の奥へ消える。しばらくして戻り、幹也、桐香、雅の順番でカップを差し出す。そして、彼はソファにどっかと座る。
 幹也はそれを待って、話を再開する。
「さて、では小説の解答を開示するとしましょう。これはある一つの前提条件に気付くだけで、容易に解けてしまうほど簡単なものです」
「何ですか? その前提条件って」
「まあまあ、雅さん。それを最初に言ってしまっては面白くありません。それは最後に言及しましょう。それから、問いに対して最初から順に話していくと面白くない、というより、勘のいい方であれば前提条件にいち早く気付いてしまう可能性があるので、最後から答えていくことにします」
「つまり、犯人は誰かっすね? 普通なら、それこそ最後に聞きたい答えっすけど」
「今回ばかりはこれが最初でも問題はないさ。恐らく、誰もが納得する人間だ。まあ、雅さん辺りは意外性がなさ過ぎて不満を覚えるかもしれませんが……」
「とすると、鍵崎?」
「ええ。僕はこの小説における犯人は、鍵崎芳樹であると考えます」
 雅は本当につまらなそうに、つまらないわ、と呟く。
 桐香はそのような雅を苦笑と共に見つめ、それから幹也に視線を移して言葉をかける。
「わたしは他の人間が犯人と言われるよりは納得できます。鍵崎はわたしがこだわっていた動機をきちんと持っていますし、何よりこの状況で事件を起こすことに矛盾が少ないのですから」
「そうですね。鍵崎はもともと荒斗達に殺意――かどうかはともかく、憎しみを持ち、追いかけてきていました。動機はそれとして、あのような状況で犯行に走ったのも、たまたま荒斗達に追いついたのが、彼らが双搭に入ってしまってからだった、という風に考えられます。更に言えば、一応容疑者の圏内から外れ得る位置にいたということも、荒斗殺しを助長した一因でしょう」
「はい」
 雅はなおも、それはそうだけど、と納得しつつも不満げに呟く。
 他の面々はそんな彼女を適度に無視し、話を続ける。
「で、知恵が死んだ時はどんな方法でやったんすか? 正直、鍵崎は知恵に部屋に入れてもらえなかったと思いますし、マスターキーも借りられなかったと思うっすよ。果歩に知恵の部屋の鍵を借りるってのも無理でしょうし」
「知恵の部屋で出入りする箇所は扉だけではないだろう?」
「扉だけじゃない、ですか? けれど、葦乃木さん。他に外との出入りが可能なのは、知恵が落ちた窓と、トイレの天井にある屋上へ出るための出入り口しか――」
「それです、西島さん」
「え?」
 まさか自分が言葉にした二つのうちに、幹也が想定している答えがあるとは思っていなかったのだろう。桐香は瞠目した。
 一方で、雄大は特に考えなしに先を促す。
「どっちっすか? せんせえ。窓っすか? それとも――」
「天井にある出入り口だ。そこから鍵崎は出入りした。小説内で言及されていないために確実ではないが、誰も侵入などできないだろうと思われる箇所にある出入り口だ。鍵などはかけられていないだろう。入り込むのは容易だったはずだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、幹也さん。誰も侵入できない。つまり、鍵崎だって侵入できないですよ? だって、鍵崎が屋上に来られたはずが――」
「雅さん。そこは今は置いておいて下さい。とにかく鍵崎は屋上へ来られた。そう認識して下さい。そして、部屋に侵入し、知恵を窓から落とした。逃走経路は恐らく窓でしょうね。トイレの出入り口を使ったのでは、トイレが濡れたままになってしまいます。小説の最後辺りに書かれていましたが、知恵の部屋のトイレットペーパーは不自然なほど減っています。これは恐らく、侵入の際に出入り口から浸入してしまった雨露を拭いたためでしょう。部屋の内部と、あとは体も拭いたとすれば、一ロールくらいは使いそうです。そこまで手間をかけたというのに、逃走時に再びトイレの出入り口を使って、雨露の浸入を許すとは思えません」
 一同はすっかり呆気にとられている。幹也の言葉を理解はするものの、ところどころで不可解さが目立っていて、集中できない。
 しかし、ひとり雅だけが奮起し、なおも反論を試みる。
「ちょ! だから逃走経路が窓とか――」
「そこも無理やり納得して下さい。続けて荒斗殺しです。勿論窓からの侵入は無理です。鎖がありましたから。とはいえ、玄関の鍵が開いていたということが判っています。そうであれば、鍵崎は玄関から堂々と侵入できました。誰かに見咎められないか注意することは必要とされたでしょうが、それでもさほど苦労したとは思えない。そもそも、建物内には人がそれほどいませんでしたしね。加えて、荒斗は鍵崎と話し合いたいと考えていたことが俊和との会話でわかります。ならば、鍵崎はノックをして部屋を訪問するだけでよかった。それで彼は、被害者である荒斗自身に招き入れてもらえたことでしょう。そして、部屋にまんまと入り込んだ鍵崎は、荒斗を殺し、部屋の鍵をかけ、窓から逃げ出しました」
「待った! 今度こそ本当に待った!」
 みたび雅が声を上げる。その強い口調に、今度ばかりは幹也も話を中断した。
「ど、どうしました?」
「窓から逃走ってところはさっきも気にするなって言われましたし、気にしません。ですけど、それ以外にも気にすべき点があるじゃない! 俊和達が荒斗の部屋に踏み込んだ時ですけど、確か――」
「あ、窓は鎖がかかったままだった!」
「そうよ! 雄大の言うとおりです。窓から逃げられたはずがないじゃないですか」
 姉弟が勢い込んで否定したが、幹也は余裕の笑みを浮かべている。そして、何やら考え付いたように見える桐香に声をかける。
「どうです? 西島さんは何か判ったようにお見受けしますが?」
「え、あ、その…… わたしも窓から逃走とか、トイレの天井の出入り口から侵入とかいう話に異議を唱えたいのは雅と同じなのですが…… 仮に窓から逃走できるのだとしたら、鎖はあまり問題ではないと、そう思います」
「はぁ? 何でよ、桐香」
 雅が訝しげに訊く。
 桐香は課題のプリントを捲り、出窓に関する記述がある辺りを開いて雅に示した。
「だって、これ見て。出窓は人が入り込めるくらいのスペースがあって、鎖は出窓の入り口に張り巡らされているって書いてあるじゃない? それで、鎖を固めているのは南京錠。南京錠は、張り巡らされた鎖に腕の通る余裕さえあれば、外側にいても内側にいてもかけられるんだよ?」
「あ」
 雅はあっさり納得した。
 しかし、雄大は未だ納得いかないようで、首を捻っていた。
「え、えっと…… あ! いや、ううん…… あれ? あの、桐香さん…… わ、判りそうで判んないんすけど」
「あのね、雄大くん。まず、ベッド脇の引き出しから鍵を取り出す。そしたら、南京錠を開けて、鎖をとるでしょ。鍵は元の場所に戻して、次は鎖と開いた南京錠を手にして、出窓の開いているスペースに体を入れる。そうしてから、鍵崎はまた、鎖を出窓の入り口に張り巡らせる。少しやりづらいかもしれないけど、やってやれないことはないはずだわ。そして、張り巡らせることを完了したら、あとは出窓側から手を出して南京錠をかけ、そのまま閉める。これで――」
「あとは窓を開けて出て行くだけ! 窓自体には錠がないって、俊和が明言してたし!」
「そうね」
 嬉しそうに声を上げた雄大に、桐香はやさしく微笑む。
 そして、雅もまた言葉を継ぐ。
「更に言うなら、鍵崎は何か理由をつけて、荒斗を殺す前に鎖を解いていた可能性が高いでしょうね。鎖を外して、更にかけて、ってやってたんじゃ、時間的にギリギリな気がしなくもないし」
 その言葉を聞き、雄大はまたもや嬉しそうに、なるほど、と叫んだ。
 そして、それで全員が鎖の件については納得したと判断し、幹也は話を続けることにする。
「では、次です。課題の問いの最初、鍵崎はどうやって峡谷を越えたのか? これは――」
「課題としての解答と同じではないのですか? この問いはアレで納得できるのですけど……」
「あたしもそう思うわ。ていうか、それ以外では無理じゃありません? まさか、走り幅跳びで越えるわけにもいかないでしょうし」
「いえいえ。課題解答で示したように手間をかけて上流、下流に向かわずとも、鍵崎は峡谷を越えられました。えーと…… 雄大。お前が一番的を射た発想をしそうだ。突拍子もないことを言いそうだからな」
 指名された雄大は、瞳を白黒させる。急に発言を促されても、いい考えなど浮かばなかった。
 しかし、必死に思考を巡らし、そして――
「えーと…… そ、空飛んだ……とか?」
「アホ雄大」
「雄大くん…… それはいくらなんでも――」
 ぱちぱちぱち。
 女性二名に哀れみの視線を向けられ雄大が泣きそうになる一方、幹也は笑みを浮かべて手を叩いた。
 桐香、雅、共に訝しげに彼を見やる。
「葦乃木さん?」
「見事だ、雄大。それが真実だ」
『は?』
 誰もが――発言した当の雄大であっても目を見張る。全員、先程までの幹也と現在自分達の目の前にいる人物が同じ人間だとは思えなかった。
「あの、幹也さん? さっき雄大が何て言ったか聞こえてた? 空飛んだって言ったんですよ?」
「聞こえていましたよ」
「それで……それが答えなのですか」
「ええ。そうですよ、西島さん」
「本当に?」
「自分で言ったくせに何を驚いている、雄大」
 幹也以外の全ての者が頭を抱える。
 そんな中、幹也は楽しそうに笑い、続ける。
「鍵崎は空を飛べるのですよ。そして、そう考えれば第一の殺人も第二の殺人も可能です。第一の殺人では見事窓から逃げ出すことができる。第二の殺人ではトイレの出入り口から侵入でき、窓から逃げられる」
「それはそうっすけど――あ、いや、空を飛べたとしても問題があるっすよ」
「ほぉ、何だ?」
 手を打って得意げに言った雄大に、幹也は可笑しそうに笑い、訊く。
「屋上への出入り口の存在を鍵崎がどうやって知ったかっす! あんなの普通判らな――」
「それは大丈夫よ、雄大くん」
 幹也の突飛な言葉に呆然とさせられていた桐香であったが、雄大の発言を否定するために頭を切り替える。混乱していながらも、雄大の発言を否定するための冷静さは持ち合わせていた。
「大丈夫って…… どうしてっすか? 桐香さん」
「鍵崎が割り当てられた左の搭の最上階の部屋にも、屋上への出入り口があることを香月が明言しているわ。鍵崎は知恵の部屋にもそれがあると予想できたはずよ」
「ええ。その通りです」
 彼女の言葉に満足そうに肯き、幹也は補足を行う。
「また、俊和達が鍵崎を訪ねた際、彼がお風呂から出たばかりであったのも、鍵崎が雨の中を飛んでいたことを予見させます。雨に濡れたことを誤魔化すため、そして、冷えた体を温めるため、でしょうね」
 そこで、なるほど、と納得するのは雄大ひとりだ。なぜならば、他の二名はそういった細かい点を気にすることも出来ないほどに、混乱していた。常識的な見解で課題の解答を示した葦乃木幹也と、突飛な妄想で小説の解答を示そうとしている葦乃木幹也。二人の幹也の差異に戸惑っていた。
「あ、せんせえ。もひとつ質問あります」
「なんだ?」
 普段から幹也と接している雄大だけは、早くも戸惑いを取り払い、元のペースを取り戻している。
 雄大はなぜ鍵崎が空を飛べるのか諒解しているわけではないのだが、とりあえず、その情報を無条件に信じることにしていた。そこには考えるのを早くも放棄したという事情もあるのだが、それ以上に、彼は幹也の発言に絶対的な信頼を寄せていた。
 そして、そんな彼が再度訊く。
「鍵崎は、第二の殺人時点でなら知恵の部屋を知ってたでしょうけど、第一の殺人の時点で荒斗の部屋を知らなかったはずじゃないすか。まさか各部屋をノックして回るわけにもいかないだろうし、どうやって?」
「それは簡単だ。建物に入る前に荒斗がどの部屋にいるのか窓から覗いておけばよかったのさ。空を飛べるのだ。容易にできるだろう。更に言うなら、それを匂わせている記述も、一応ある。鍵崎は知恵が倒れた時、『上に運んでやろう』と口にした。そこから読み取れるように、鍵崎は、知恵の部屋が荒斗の部屋の上にあることを知っていた。俊和も果歩も香月も、誰も教えなかったというのにな。それはやはり、空を飛んで外から確認していた結果だろう」
「ああ。なるほどぉ」
 あはは、と笑う雄大と、小さく笑む幹也。
 笑い合う葦乃木探偵事務所の人間達とは対照的に、他二名は相変わらず頭を抱えて悩んでいる。
 と、そこで、雅がきっと目つきを鋭くして、叫ぶ。
「なるほどじゃなぁいっ! やっぱ納得できない! ていうか、できるはずない! ちょっと幹也さん、人が飛ぶはずないでしょ! いい加減なこと言って煙に巻こうったってそうはいかないわよ!」
「いい加減なこととは心外ですね。僕は大真面目ですよ」
「なんでやねんっ!」
「――もしかして、あの序文……」
 雅が騒ぎ立てる一方で、ひたすらに考え込んでいた桐香が呟く。
 その呟きを耳にした幹也は、満足そうに笑んだ。
「そうです、西島さん」
「は? ちょっと! あたしは無視?」
 興奮していて桐香の呟きが聞こえなかった雅は、不満げに幹也へ詰め寄った。
 今にも手が出そうなその様子に、幹也は頬を引きつらせて一歩下がる。
「ま、まあまあ、落ち着きましょう、雅さん。これから、説明しますから」
「説明? 人が空を飛ぶのに、納得のいく説明なんて――」
「待って、雅。納得のいく説明はあるわ。だって、これは小説なんだもの」
「は? 桐香まで何を――」
 雅の注意がそれた隙に幹也は更に数歩下がり、安全圏に避難する。そして、話を再開する。
 誰もが軽視した言葉を、解決の舞台に上げる。
「西島さんの仰る通りです。今考えている事件は小説の中の出来事です。物理法則に支配される現実の出来事ではない。常識は捨てるべきなのです。ましてやこれは――ファンタジーなのですから」
 一瞬、時が止まった。そして――
『ああ!』
 姉弟が叫ぶ。
 幹也は微笑んで、先を続ける。
「ファンタジーはフィクションと同義として考えてはいけない、このミステリ小説を解決に導くための、ひとつの大切なファクターだったのです。そして、ファンタジーであれば人が空を飛んだとしても、魔法のようなことを実行できたとしても、おかしくありません。というより、この小説の世界では魔法が使えるのではないかと、僕は考えますね」
「ファンタジーといえば魔法がでてきてもおかしくはないと思いますが、そうお考えになるのはなぜですか?」
「それはですね、西島さん。俊和が不自然な状況で火を出していたり、果歩が急に水を出していたりしたからです。小説の冒頭で俊和は果歩にせがまれて火をつけていました。しかし、それは弱冠ですが不自然でしょう? 雨が降り続けている中で、どうやって火を? まあ、ライターを持っていたとしたらあり得ますが、いくら寒いといっても、ライターの小さな火を出してくれとせがむのはおかしい。あれは、ライターのような微弱な火を求めたのではなく、魔法で温まれるだけの大きな火を出してくれないか、という頼みごとだったのではないかと考えました。また、行軍のさなかで果歩が、荒斗と知恵に水を与える場面がありましたね。あれも水筒を持っていたと考えれば不自然ではないかもしれませんが、それならそうで『水筒から水を出して差し出した』としっかり書きそうなものです。しかし、そうじゃない。あれも、魔法で天然水を作り出し、彼らの手の平のくぼみに注いだ、というようなことなのだと思います」
 そこで桐香は手をたたき、笑みを浮かべて声を弾ませた。
「それでは、建物の一階でされていた、俊和と果歩の不可思議な会話も……」
「果歩が『着替えやタオルがいらないだろう』と口にしたくだりですね。そうですね。あれも恐らく、火の魔法から派生した魔法、濡れたものを乾燥させる魔法のようなものが存在する、といったような話でしょう。さらに付け加えるなら、その直前にあった、俊和が荒斗の煙草に火をつける場面も、煙草は外の雨ですっかり濡れてしまっているはずですから、乾燥させて、それから火をつけたのでしょうね。勿論、魔法で。荒斗の『便利なモン持ってんな』という言葉も、便利なモンというのはライターなどの火をつける科学の産物をさすのではなく、火の魔法や乾燥させる魔法を意味していたのでしょう」
「なるほど…… あ、ですけれど、そのように鍵崎が空飛ぶ魔法で殺人を実行したとすれば、当然、知恵は犯行に関係ないのですよね? では、序盤の知恵がトイレの場所を聞かなくてもその場所が判ったと読み取れるくだりは――」
「あそこはそれこそミスリードを誘っているのでしょう。よくよく考えてみれば、地元民である知恵が双塔を以前に訪れていたとしてもおかしくはない。例えそうでないとしても、デパートなどのように一目瞭然でトイレと知れるような表示が為されていたのかもしれません。何にしても、あれはミスリードするための布石の一つです。加えて、知恵がクローゼットの開閉を止めたくだりも、結局は荒斗と同じ理由だったのではないかと思いますよ。小説内では実行していませんが、仮に知恵の部屋のクローゼットを開けたなら、見事に小物がなだれてくることでしょう。というわけで、こちらもミスリードの布石だろうと、僕は考えます」
「確かにそうも考えられますね」
「ちなみに、これもどうでもいい予想ではありますが、鍵崎は、銃と同等の威力を誇る殺傷力を有した魔法を使えたかもしれませんね。そう設定すれば、銃器を発見されて犯罪が露見するというおそまつな展開を除去できます」
 課題のプリントを捲りながら文章と照らし合わせて説明する幹也と、すっかり納得してしまった桐香が会話をしている。そこに、雄大が、さすがせんせえっすねぇ、と心の底から感心したように声をかけ、会話に加わった。
 三名は課題のプリントを囲み、読み返しながら、魔法が関係していそうな記述を拾い出して、談笑している。
 一方で、一人ショックを受けたように呆けていた雅は、はたと我に返り、息を大きく吸い込む。極限まで肺を膨らませ、それから――
「こんなふざけた真相のミステリ小説があるかああああぁあっ!」
 叫んだ。
 ミステリ小説好きが発した怒りは、和見町界隈の空気を激しく振動させた。

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