その日、西島桐香は十五時きっかりに葦乃木探偵事務所を訪れた。そこには事務所の主である葦乃木幹也と従業員の霧谷雄大の他に、彼女の友人である霧谷雅もいた。なぜ雅がここにいるのかという疑問から始まり、桐香と雅は少しばかりの雑談を交わした。そして、それからしばらくして、課題に関する幹也の話が始まる。
課題の第一問目の解答、鍵谷が峡谷を越えた方法は、以前に、桐香が雅から聞かされたものと同じであった。即ち、峡谷の下流か上流に、なんとか渡れるだけ谷の幅が狭くなっているところがあるのだろう、とそういうストーリーだ。その話には雅から聞かされた時でさえ納得したのだから、桐香も勿論文句はない。
続けて第一の殺人のトリックが開示された。その明快さに驚嘆したのは、先に雅の突っ込みどころが満載である推理を聞いていたためというわけだけでもないだろう、と桐香は素直に感心した。特に犯人が複数いたという発想は桐香の中に全くなかった。四つ目の問いで『犯人は誰か』と単独犯を匂わせている以上、どちらかといえば頭の固い性質である桐香には、それに反する複数の犯人という発想は決して出せなかっただろう。
第二の殺人のトリックは、桐香が雅から聞いたものと同じものだった。しかし桐香が、雅にぶつけた質問を幹也にもぶつけてみると、こちらは分かりやすく、順を追って、その疑問を解消してくれた。
そして、第四の問いである『犯人は誰か』への解答は、話の流れから考えると当然ではあるが、香月だった。
以上で幹也の説明は終わり、質問はないかと、桐香は訊かれる。
途中で何度か質問を挟んではいたが、それでもいくつか訊きたいことが残っていた。それを口にする。
「見事な推理だと感心しました。ですが、二つだけ疑問が残ります」
「二つ――ですか」
「はい。一つ目は動機です。知恵が荒斗に対して殺意を持っているように匂わせる箇所はありませんし、香月も……」
それはそうですね、と肯いてから幹也は、話し始める。
「確かにそういった描写はありません。しかし、本課題において動機は訊かれていません。西島さんはそれについて考える必要はないのです。どうしても言及したいというのでしたら、無理やりに作ってしまうこともできますしね。例えば、名前だけが出てきている道彦の娘の路美。実は彼女に、荒斗が昔何かをした。まあ、殺したことにでもしましょうか。そして、道彦に仕える香月と、実は路美と友人だった知恵が復讐を企てた、とか。無理やりにも程がありますが、そういった妄想を思い浮かべることも可能でしょう。もっとも、そのようなことを考えずとも、物理的に犯行が可能だった人間を突き詰めていくと知恵と香月の二人組のみに行き当たる。ならば、犯人は彼らなのです。動機などどうでもいいことです。少し意味合いは違うでしょうが、『不可能を消し去ったあとに残ったものが、どんなにありえそうにないことでも、真実なのだ』と口にした方がいらしたそうではありませんか。それです」
幹也がうろ覚えの言葉を口にすると、雅が嬉しそうに声を上げる。
「シャーロックホームズですね!」
「ああ、これはかの有名なホームズの言葉なのですか。知りませんでした。さすがミステリ好きですね、雅さん」
「いやぁ、それ程でもありますけど」
得意げに応えた雅を瞳に入れ、桐香は可笑しそうに小さく笑う。しかし、直ぐに幹也を見やり、言葉を続ける。
「分かりました。では、動機についてはそれで納得するとします。……もう一つだけ質問をよろしいですか?」
「ええ」
余裕の笑みで応える幹也。しかし、内心では焦り、念のため用意しておいた『小説解答』と題されたプリントを見やる。他の者達は、幹也のそのような様子には気付かない。
桐香が右手で赤縁の眼鏡を押し上げ、口を開く。
「知恵と香月は、なぜこのような状況で殺人を犯したのですか?」
『へ?』
霧谷姉弟がまったく同じタイミングで間の抜けた声を上げ、幹也は苦笑して『小説解答』のプリントを手に取った。
桐香が続ける。
「わざわざ不可解な状況で荒斗を殺さなくても、他にもやりようはあったはずです。知恵が、荒斗を下まで呼び出して殺害し、それで外に遺棄すれば、誰が犯人でもおかしくない状況になります。それに、銃器を使うのも納得がいきません。腕力のなさそうな知恵や香月だから銃器を使用したというのは分かりますけど、それならサイレンサーをつけるべきでしょう? 銃声が鳴ることで犯行が直ぐに発覚するのは、どう考えても避けたいはずです。いいえ、そもそも、双搭で殺す必要性が見出せません。知恵は双搭以外でも荒斗と一緒にいる機会はあります。香月にしたって、少し休暇を貰って荒斗達が住む地へ足を運ぶことは可能なはずです。わざわざ犯人が限定される今の状況でなぜ犯行に走る必要があったのですか?」
雄大や雅が、あー、とか、確かに、と口にしている中で、幹也は最後の悪あがきを試みる。
「荒斗がとった何らかの行動に起因して、突然殺意が湧いたのかもしれません。サイレンサーは持ち合わせていなかったし、荒斗をあの部屋で殺すことにこそ意味があったという風にも考えられましょう。例えば、先程の路美の復讐という仮説を持ち出せば、その部屋こそが元路美の部屋であり、そこで復讐を成し遂げたかった、とか。いや、そもも動機同様、この問題は考えずともいいことではあります」
「それはそうなのですが……」
「納得、できませんか?」
幹也が訊くと、桐香は遠慮がちに肯く。しかし、直ぐに慌てた様子で手を振った。
「あ、ですけど、依頼料はお支払いします。確かに動機とか状況的におかしいとか、そういうことは課題と関係がありません。わたしが納得できないというだけで、課題の解答としては完璧です。ですから――」
「いえ。クライアントが納得していないというのに料金をいただくのは、僕の美学に反します。金銭を受け取るわけにはいきません」
幹也がきっぱりと言い切った。
「しかし」
更に反論しようとする桐香の言葉を手で制して遮り、幹也はプリントを手に立ち上がる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「この事務所の金銭状況を鑑みて心配してくださっているのでしょう? 有難う御座います。しかし、ご安心下さい。なにも僕は、依頼料は結構です、と言わんとしているわけではありません」
『え?』
幹也以外の三名が声をそろえる。
「西島さん。これから貴女を納得させてみせます。是非、すっきりしてこの事務所を出立して下さい」
微笑み、幹也は断言した。