木曜日の朝十時。幹也はソファに深く腰掛け、桐香に渡すための資料を読み直していた。適宜課題のプリントと照らし合わせ、矛盾がないか、もしくは、桐香が質問を挟みそうな箇所がないかチェックしている。そして、幸い矛盾を見つけることもなく、予想しうる質問の答えは上手くひねり出し――
「……この質問はこないで欲しいものだな」
幹也は呟く。
順調に答えを用意してきた幹也であったが、ここにきて説明を求められると困る事象にぶつかった。もっとも、それはトリックとして立ち行かなくなるという類のものではない。事件自体の解決には関係はないのだが、ちょっとばかりの疑問が残ってしまう、という類のもの。今回の課題において訊かれているようなことでもないため、そもそも答える必要のないことであるが、それでも、雅の推理に疑問を感じ、わざわざ探偵に解決を依頼した凝り性の桐香であれば、そこすらひっかかってしまう可能性はある。
そして、その質問に桐香が拘泥するようであれば、彼女の満足のいく答えを提示することが出来ないという結果を迎えることになり、そして、この依頼に対する報酬はなしだ。
もっとも、そこで課題としての答えを上手く提示できなくなったとしても、桐香を説得する自信が幹也にはあった。
要は、『課題の解答』ではなく『小説の解答』を示してみせればいいのだ。そして、鮫川准教授のある性質に触れ、それから『課題の解答』の必要性を説けばいいだけなのだ。そこまで丁寧に話せば、さすがの桐香も納得すると思われる。即ち、『課題の解答』はそれほど正確さを有していなくともいいのだ、と。
とはいえ、そこまで話さずに済むのであればそれにこしたことはない。正直なところ、そこまで丁寧に話すのは面倒なのだ。鮫川の人物批評を行うという行為も、幹也の趣味には合わない。幹也は陰口のようなことは嫌いだった。
できるだけ課題としての解答だけで話を終えたいものだ。
幹也はそう考え、立ち上がる。雄大がいないため、彼は自分でコーヒーを淹れることにする。事務所の奥へ行きかけ――
「幹也さぁん! 開けてー!」
その時、扉を叩きながら叫ぶ女性が登場したため、幹也は、黒い液体を抽出するために事務所の奥へと向けていた足を、止める。そして、乱暴に扉を叩く女性を招き入れようと、足を速めた。
「今開けます。どうかなさいましたか、雅さん」
「お早うございます。桐香はまだよね?」
「どもっす。せんせえ」
雅だけかと思いきや、扉の前には雄大もいた。
「西島さんは午後からいらっしゃる予定ですが…… 用があるのでしたら電話でもされたらどうです?」
「ああ、違うんです。桐香に用じゃなくて、幹也さんに用があるの。だから今のは、桐香がまだ来てないことを確認するための疑問」
「はあ…… とすると、また課題のことですか?」
幹也が訊くと、雅は人差し指を立て、大きな声で肯定した。
「昨日一日雄大と議論したせいですっかり気になっちゃってね。こうなったらとことんやろうと思ったのよ。それで、朝も早くから雄大と一緒に参上した次第です」
「俺はどうでもいいんすけど、付き合わないとあとが面倒なんすよ…… あ、コーヒー淹れましょうか、せんせえ」
ぼやきつつも、雄大がタイミングよく訊いた。
ちょうど用意しようとしていた幹也が断るはずもなく、素直に肯く。そして、彼の肯定を受け、雄大は事務所の奥へ向かう。
雅は雄大に自分も欲しい旨を伝え、それから幹也に瞳を向ける。
「それで、またヒントが欲しいんですけど」
「昨日のだけでは駄目でしたか?」
幹也の問いに、雅は眉根を寄せて返す。
「何となく言わんとしていることは判ったわ。けど、それだと第二の殺人のほうが……じゃないですか?」
「知恵の心情面を考慮しないなら、殺人を広義で捉えるという選択肢があります」
「それはそうですけど…… 納得は出来ませんよ」
「でしょうね」
苦笑し、幹也は言う。
そして、軽く笑んで二つ目のヒントを与える。
「殺人を広義で捉えない道をとるのであれば、雅さんが気にするべきは鍵の問題です。これ以上口にするのは、ヒントというよりは答えそのものですから、あとはご自分でお考え下さい」
「鍵の問題? つまり、密室を作れたかどうかよね。けど、それなら荒斗殺しがやっぱり謎になりますよ。第一と第二の殺人の犯人が異なることになる……」
「おまたせっす」
雅が頭を抱えていると、雄大がコーヒーカップの乗ったトレイを持って戻ってきた。
今日は幹也、雅の分だけでなく、自分の分もある。
「はい、せんせえ。それからこっちは姉ちゃんな」
「有難う」
「ねえ、雄大」
やはり礼を言う幹也に対し、雅はやはり尊大に受け取る。そうして、雄大に訝しげな瞳を向け、声をかける。
なんだよ、と訊き返す雄大に、雅が先程の幹也との会話を聞かせる。すると、雄大もまた考え込んだ。
「うーんと…… せんせえの昨日のヒントを聞いて姉ちゃんが考えたのは、荒斗殺しの犯人が知恵じゃないかってことだろ? 果歩が下におりて誤魔化せたっていう推理をちょっと違う風に変えて…… もし知恵を犯人と考えるなら、知恵は上に逃げて、それからタイミングをみてまた戻ってくるだけでよかった。鍵は荒斗が持っていたやつを使ってかけて、その鍵はタイミングを見計らって引き出しに入れておけばよかった。死体発見後、俊和と果歩が下へ行ったあとは独りで残ったんだから、簡単にできるな。けど、そうなると二つの目の殺人で、犯人である知恵が死ぬことになる。自殺を『自分を殺す』という意味で殺人と定義することもできるけど、その結論は結論で据わりが悪い。悩みどころはそこか……」
「そういうことよ。それぞれの事件は独立していて犯人がそれぞれいる、という風な解答も面白いかもしれないけど、ちょっとどうかと思うしね。そんなことまでありにしたら、いくらなんでも自由度が高すぎるわよ」
「けど、ならどうなるのさ。知恵が犯人だってんなら、知恵殺しは広義に解釈した殺人――つまり、自殺ってことになりそうだけど…… やっぱ、知恵の自殺ってのはあり得なくないか? 止むに止まれぬ事情で荒斗を殺したんなら、殺したその場で後追って、自分も死にそうなものだし、タイムラグがあるのがよくわからない。まあ、あとになって急に、ってことがないとは言わないけど」
「どうかなぁ…… 荒斗を殺したのが知恵だったら、荒斗の死体を発見した時の知恵は演技してたってことでしょ? あそこまで完璧に哀しみを演じる女狐が、男を殺したことを後悔して自殺とか、そんなこと絶対しないと思うわよ?」
「そういうもんか? じゃあ、やっぱ犯人は知恵じゃなくて香月? 知恵殺しを実行したと思われる香月が荒斗も殺した――っていうのは無理なんだよなぁ……」
「そうねぇ…… 逃げ場がなかったからねぇ。やっぱ行き詰るわ」
議論を止め、姉弟は仲良く考え込んだ。
幹也はそのような彼らを見やり、それからひとつの考えを提示する。
「僕は雅さんの先程の考えも面白いと思いますがね」
「え? 先程の考えって?」
「それぞれの殺人をそれぞれの犯人が実行した、という考え方です。僕が鮫川准教授であったなら、その解答は解答で評価を高くしてもいいと考えるでしょう」
幹也の批評を受け、雅は不満げに唇を尖らせる。しかし、評価されたことが嬉しいのか、表情が柔らかい。
その雅が口を開く。
「けど、ひとところで同時期に殺人が二件発生って、いくらなんでもあり得なくないですか?」
「つい昨日のことですが、こういう言葉を僕は聞きましたよ。偶然が重なりあい、謎としか思えない事象が生じる。真実とは大抵そんなものだ」
それは雅が桐香に対して口にした言葉だった。それゆえ、雅も強く反発できない。
「……偶然にも殺人事件が二件起こった、と」
「その可能性がゼロというわけではないでしょう? 例えば、実は荒斗が香月の生き別れの息子だったとでもすれば、荒斗殺しに起因して知恵殺しが起こることもあり得る」
「それはそうっすねぇ」
雄大が相槌を打つ。
雅も頷いて、そちらの意見には納得した。しかし、それでも不満顔で再度口を開く。
「そこまで聞くと、あたしも自分の思い付きがそれ程悪いものじゃないと思えるわ。けど、今はそれで納得できない。だって、あたし達は幹也さんの推理を知りたいんだもの。貴方の推理は違うんでしょう?」
訊かれた幹也は軽く笑い、肯いた。
「ええ。違いますよ。とはいえ、非常に近い意見を持っています。荒斗殺しは、雅さんと雄大が考えているトリックとほぼ同じと言っていい」
「なら、犯人は知恵っすか? けど……」
「さっきの疑問がまた浮かんでくるわね。堂々巡りだわ」
首を捻る姉弟。それぞれ唸りながら俯く。
そんな彼らを目にし、幹也は苦笑する。そして、ヒントを提示することにする。
「そこでそれほど悩む必要はないのですよ。そうですね…… あまり直接的なヒントではつまらないでしょうし――」
しばらく考え込み、それから幹也は言葉を続ける。
「知恵が犯人の場合を考えると、荒斗殺しでも少しばかり説明できない点――というよりも、綱渡り過ぎる部分があります。それを考えてみてください」
「綱渡り過ぎる部分っすか?」
「そうだ、雄大。何か思いつかないか?」
「うーん…… 上の階まで逃げる余裕があったか、とか?」
苦し紛れに口にした雄大に、雅が意見する。
「それは大丈夫じゃないかしら? 銃は一発で命中しただろうし、直ぐに外に出て、鍵かけて、走って階段を駆け上がる。部屋まで戻る暇はなかっただろうけど、その必要もないし」
「それもそうか…… じゃあ、なんっすか?」
「そう焦るな。雅さんはどうです?」
「え? そうですねぇ…… 鍵を持ち出したのがちょっと危ない、とか?」
その言葉を受け、雄大は、おお、と思わず声を上げて感心したが、幹也は首を振る。
「いえ、そこは大丈夫でしょう。仮に誰かが死体発見直後に鍵がないことをあらためたとして、それでどうなるかというと、現場が密室ではなかったと認識される、ただそれだけの話です。あの殺人が密室で行われなければいけないという蓋然性はないのですから、当然無視してもいい」
「それもそうね」
再度姉弟が考え込む、幹也はコーヒーを一口飲み、桐香へのプレゼンテーションについて考える時間を与えられた。
そのようにして十分ばかり過ぎると、雄大が突然大きな声を出した。
「あ!」
「何か思いついた?」
雅が期待を込めた瞳を彼に向ける。
「たぶんだけど…… せんせえ、もしかして、凶器?」
「ああ。そうだ」
問うた雄大に、幹也は満足そうに笑んで返す。雄大もまた誇らしげに笑った。
笑いあう男二人の傍らで、雅が首を傾げて、凶器、と呟く。しばらく考え込み、訊いた。
「凶器をどこに隠したかってこと? けどそれなら、八階と九階の間の階段の、下から死角になっている場所にでも一時的において、それで……」
「雅さんは実際に殺人を犯したとして、その最重要証拠となる凶器をそのような無造作な場所に置きますか? しかも今回は、銃器という本来そこら辺に転がっているはずのないものです。八階と九階の間に置いてある以上、犯人は知恵以外に考えられないということになるのですよ」
「う…… それは大分不安ですし、ちょっとやりたくないわね」
幹也に問われると、雅は唸った。
しかし、幾度かその犯行場面を脳内でシミュレートし、そして、反論する材料を見つける。
「あ、けど、それなら部屋まで戻って隠してから来ればよかったんじゃ? そうすれば、部屋を入念に捜索されない限り、凶器が発見されることはないだろうし――」
「いや、けど知恵は果歩と同じくらい早く八階に着いてるぞ。俊和が銃声のような音を聞いた時点を知恵が荒斗の部屋を飛び出したスタート時としても、鍵をかける時間や部屋で凶器を隠す時間、階段を上り下りする時間、全部あわせたら、果歩が二階分を駆け上がる時間よりもずいぶん長くなりそうじゃないか?」
「部屋で凶器を隠す必要はなかったんじゃない? 入り口付近で無造作に投げ出して、それで即行で下りれば――」
「それも駄目だろ。それじゃ結局階段の死角に隠すのと大差はないじゃん。結果的に言えば、俊和と果歩が知恵を残して香月に報告に行ったから、知恵は部屋に戻って凶器を隠す時間を得ることに成功しているけど、そこで俊和達が知恵の部屋へ行っていたらジエンド。そんな怖いこと俺はしたいと思わないぞ」
「う…… 雄大のくせにさっきからあたしを論破しまくってて、可愛くないわね…… とはいえ、一理あるわ。しっかり凶器を隠して、それで遅れて下に顔を出す方が安心ね。すると、果歩と同じくらいのタイミングで下へおりた知恵は、結局犯人じゃないって結論になる?」
「そうなるか? けど、せんせえ。それじゃ堂々巡りっすよ。『知恵が駄目となると香月かな。あ、でも香月も駄目だっけ。じゃあ、知恵……』てな風に堂々巡りっす。意味わかんないっす」
雅と共に推理を展開させていた雄大は、いよいよ行き詰まり、結局幹也に視線を向ける。
彼らが話をしている内容に耳を傾けながらも、午後の桐香対策に頭を向けていた幹也。彼は頭を切り替え、雄大に対し、言葉を紡ぐ。
「そこで新たな発想を加えるのだ。知恵だけで犯行が無理だからといってそれを捨てる必要はない。そこに要素を一つ加えるだけで、スムーズに行く」
「新たな発想……っすか?」
再び考え込む雄大。
一方で、雅は何かに気付いたように目を見張る。それから課題のプリントを手に取り、頁を繰り出す。そして、目的の記述を見つけると幹也に瞳を向けた。
「やっぱり。ねぇ、幹也さん。貴方は知恵と香月が元から知り合いだったとか考えてない?」
「ええ、可能性は高いでしょう」
満足そうに笑み、なるほどね、と雅は呟く。
対して、雄大は訝しげに彼女を見る。
「どゆことさ? 姉ちゃん」
雄大が訊くと雅は得意げに胸を張り、プリントを雄大に差し出した。
「ここ見なさい」
「ここ? えっと…… 俊和達が双搭の建物に到着した辺りの頁だね」
「そうよ。で、知恵はまずどうした?」
紙面に瞳を落とし、雄大は問いに答えるための情報を得る。
「トイレに向かったな。まあ、雨に濡れて寒かっただろうし、トイレが近くなるのも――」
「尿意を催すメカニズムに対する考察なんてどうでもいいのよ。それよりも、知恵はトイレの場所を訊いた?」
「へ? ……あ!」
「訊かずにスタスタ向かったわよね。恐らく知恵は、双搭の建物へ来たことがあるのよ」
なるほど、と感心する雄大だった……が、そこで更なる疑問を覚える。
「で? だから何なの?」
「あんたは鋭い時と鈍い時の差が激しいわね。ここまできたら気付きなさいよ」
「なんだよ。姉ちゃんまでせんせえみたいにもったいぶるなよ」
雅は、それもそうね、と笑い、ソファにどっかと座り、右手の人差し指を立てた。
「ずばり。荒斗殺しは知恵と香月の共同戦線なのよ」
「共同戦線――共犯ってこと? けど、知り合いってだけで……」
「勿論、知り合いだから共犯っていう二段論法は暴論よ。けどね。香月だけでは犯行が不可能だった状況を考えると、誰か協力者がいただろうことは思いつく。まあ、それも幹也さんにヒントを出されて気付いたわけだけど、その点は置いといて…… そうなってくると、ただの知り合いだったとしても、知恵が共犯者としてノミネートしてくる可能性は高くなるじゃない?」
「それは――まあ、そうか。で、せんせえのお考えもそれなんすか?」
その問い掛けをした雄大よりも、寧ろ雅の方が期待のこもった瞳で幹也を見やる。そして、彼らに対する幹也は、雅が期待する通りの動作をした。肯いた。
「そうだ。この事件は知恵と香月の二人によるものであり、そして、第二の事件で知恵が殺された以上、全体としての犯人は香月であると、僕はそう判断した」
雅は、よし、と小さく声を上げ、指を鳴らした。
「やっぱ普段ミステリを読んでるだけあって、雄大よりもあたしの方が早く真相に辿り着いたわね。さすがあたし」
「散々手伝わしといてよく言うよ」
呟いた雄大を、雅は軽く小突く。そうしてから、再度幹也に瞳を向けた。
「それはともかく、幹也さんは実行犯がどちらだと考えますか?」
「雅さんはどうなのですか?」
幹也が問うと、雅はこめかみに人差し指を当て、考え込んだ。
「そうですねぇ…… 荒斗がベッドで撃たれていた状況を考えると、知恵かな? 荒斗は香月が訪問したら立ったままで相対する気がします。ま、荒斗が寝てたって状況もあり得るけど、そんなご都合主義な状況よりは……よね」
「ふむ。そこは僕と違う意見がでましたね。とはいえ、そちらの意見の方が納得しやすくもある気はしますが……」
「せんせえはどう考えたんすか?」
と、雄大。
幹也は、こほん、と咳払いをし、口を開く。
「僕は香月が実行犯だと考えていたよ。だが、これには特に理由がない。二人が共犯であるなら、どちらが荒斗を撃ち殺したとしても犯行は可能だったろうからな」
「どっちでも…… そうっすか?」
「あたしもそうだと思うわ」
それぞれ違う風に相槌を打った姉弟を一度見やり、幹也は続ける。
「まず香月が実行犯だった場合を考えよう。彼は普通にノックして訪問するか、もしくはマスターキーで侵入するかして、荒斗を撃ち殺す。すると直ぐに外に飛び出し、マスターキーで部屋に鍵をかけ、階段を駆け上がった。勿論、共犯である知恵はタイミングを見計らって階段を下り、素知らぬふりで果歩や俊和と合流しておく。一方で、香月は知恵の部屋に向かい、ちょっとやそっとでは発見されないだろう場所に銃器を隠し、俊和や果歩が荒斗の部屋にいる間に階下へ向かう。続けて、知恵が実行犯だった場合を考えてみるが、この場合でも代わり映えはあまりしない。香月は九階で待機し、知恵が荒斗を殺しに行く。見事殺し終えたら、知恵は香月から借りたマスターキーで部屋に鍵をかけ、そのマスターキーと銃器を、九階で待機している香月に渡す。あとは、先程の香月が実行犯である場合と同じ筋書きだろうな。ちなみに、俊和がマスターキーを借りに行くと言ったときに、扉をぶち破ろうと知恵が提言したのはそういった事情があったからではないかと推測できる。さすがにあの段階では香月も銃器を隠し終えていなかっただろうし、そもそも俊和達が荒斗の部屋に入っていないのだから、階下へ逃れることもできなかった。あの場面は、知恵としては内心焦っていたことだろうさ」
そこで幹也はコーヒーカップを持ち上げ、黒い液体を口に含む。
話が途切れたところで、雄大は今までの話を必死で整理する。そして、理解できたのだろう。頷いて、幹也に瞳を向けた。話の先を待っていると見える。
幹也は一拍置いてから、続ける。
「もっとも、この方法を採るのであれば、実際に姿を現していない道彦も怪しい。この建物に来たことがあるのであれば、知恵は道彦とも知り合いであると考えるべきだろう。しかし、最後まで道彦が姿を現さない以上、そちらを共犯者として選ぶのは突拍子がなさ過ぎる。課題の解答としては相応しくないように感じる。また、鍵崎を共犯者と考える道もあるが――」
「へ? ちょっと待って、せんせえ」
「何だ?」
「そこで何で鍵崎が出るんすか? だって、鍵崎はマスターキーを手に入れる機会はないっすよ」
「馬鹿」
雄大に応えたのは雅だった。
「ば、馬鹿ってなんだよ」
「馬鹿だから馬鹿なのよ。マスターキーである必要がないでしょ」
雅が言うと、雄大は少しだけ考え込み、それから納得した。
「……あ、そうか。荒斗の鍵でいいのか。マスターキーの方がよりいいってだけで、荒斗の鍵を使ったからって駄目なわけじゃないんだっけ」
「そういうことだな」
幹也は苦笑して相槌を打ち、コーヒーをひと啜りする。そして、潤った喉を震わす。
「さて、鍵崎が共犯者であった場合、実行犯は知恵かもしれないな。さすがに、急に鍵崎が登場すれば荒斗は戸惑うだろう。警戒されてしまう可能性もある。ただし、僕はやはり共犯者は香月だと考える。そのひとつの理由としては、果歩が知恵の部屋でクローゼットを開けようとした際に、知恵がそれを止めたことだ。予想でしかないが、あれは銃器が入っていたために止めに入ったのではないかと思う。そうであれば、銃器を持ち込んだのは誰かという話になるが、恐らくは元からあの建物にあったのだろう。知恵が銃器を所持していたと思われるほどの荷物を持っていたなら、俊和か果歩が行軍のさなかに気付いた公算が高い。にもかかわらずそのような記述はなかった。ならば、銃器は建物内の人間があらかじめ用意しておいたのだ。その人物として当てはめることができるのは、香月か道彦。そして、前述した理由から、共犯者は香月なのではないかと推測する」
そのように言い切り、幹也は話を終える。
雄大は、ほぅ、と息をつき、雅は満足そうに頷く。
「凄いわ! 思わず聞き入っちゃいました!」
興奮した雅に迫られ、少しばかり頬を引きつらせて身を引く幹也。昨日襲われる一歩手前だったのを思い出したのかもしれない。
「そ、そのように感心されるほどのことではありませんよ。実際、第一の殺人での実行犯のくだりについては、雅さんの説にこそ説得力があるでしょう。僕はどちらでもいいと考えて適当に選びましたからね」
「あら。意外とアバウトな一面もあるのね」
「せんせえはいつもこうだぜ」
からになった幹也のカップを手にし、雄大が言う。そして、新しく淹れてくるっす、と幹也に声をかけて事務所の奥へと向かう。
雅は雄大に自分の分も所望したが、雄大はなみなみと注がれている彼女のカップを指差し、そうしてから、無言で事務所の奥へと消えた。話に夢中だったためか、彼女は飲み物に手をつけていなかった。
手付かずだった自分のカップを見やり、嘆息してから、雅はすっかり冷めているコーヒーを啜った。
「時に雅さん。西島さんに説明する際に、先程の貴女の考察を加えて話していいですか? 荒斗の死んでいた場所を考えると、確かに香月よりも知恵の方が実行犯として相応しいように感じますし」
「あら、あたしの意見も正式に採用してくれるんですか? それは結構嬉しいかも。勿論オッケーですよ」
「有難う御座います。さて、そうなると西島さんに提出する書類を少し変える必要がありますね」
デスクに近づき、パソコンの電源を入れる幹也。
その時、雄大が戻ってきた。
「どうぞっす、せんせえ」
「ああ、有難う」
幹也は礼を言い、カップを受け取る。ひと啜りしてからマウスを繰り、課題解答というファイルを開く。キーボードに手を置き、目的の箇所の修正作業に移り――
「ところでせんせえ。結局、冒頭の文は内容と全く関係なかったっすね。やっぱファンタジーとフィクションを同義に使ってたんすかねぇ」
雄大が訊いた。
その言葉を幹也は、作業に集中していることにして聞き流した。
必要にかられて嘘をつくことはあっても、出来るならば偽りを述べるのは避けたい。幹也はそういう性分だった。だからこそ、雄大の言葉に肯定的な相槌を打つことは避けた。代わりに、話を逸らすための話題転換を試みる。
「そろそろ昼時だな。いまだ予定のままであるのが不安材料だが、西島さんからの報酬も入ることだし、今日は外に食べに行くか、雄大。といっても、あまり高いものは無理だが…… ああ、雅さんもご一緒にどうです」
「マジっすか! 奢り?」
「あら。あたしもいいんですか?」
雄大は見事に話にのり、雅も嬉しそうに応える。
幹也はこっそりとほくそ笑み、しかし、表面上は柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「勿論です。結局西島さんの依頼は全員で取り掛かったようなものですし、雅さんも恩恵を受ける権利があります。ただ、先にも述べた通り、少しばかり安い恩恵となってしまいますが……」
「奢ってもらえるんなら文句は言いませんよ」
これがデートなら話は別だけど、と呟く雅を適度に無視し、幹也は雄大に瞳をやる。
彼は勿論異存がないようで、腹減ったー、と騒いでいる。
「それでは少しばかりお待ち下さい。直ぐに書類を修正します」
「わかりました」
「はぁい。オッケーっす」
承諾を受けた幹也は、言葉どおり直ぐに作業を終え、一同は十二時ちょうどに事務所を出た。葦乃木探偵事務所の面々プラス一名は、その日の昼食を、全国にチェーン展開しているカレー屋で済ませた。