順調に桐香へ提出する文章が作られていく中、雅は大人しくソファでプリントを眺めている。たまに幹也の方を見てはいるが、近寄りはしない。うっかり解答を見てしまうことを恐れてのことだろう。たまに声をかける時も、ソファからである。
そうして二人がすごしていると、雅の電話から八分ほど経って雄大がやって来た。すこしばかり息があがっている。
「何だよ、姉ちゃん。突然」
「用っていうのはこれ。桐香の課題。これをお姉ちゃんと一緒に解きましょう。あと、コーヒー淹れて」
「ちょっと待て! 前半はいいとして、後半のコーヒー淹れてって何だよ!」
雄大が目つき鋭く叫ぶと、雅はソファにどっしりと座ったまま大儀そうに応える。
「えー、だってあんたここの従業員でしょ? お客様にコーヒーくらい淹れてくれてもいいんじゃない?」
彼女のそのような物言いに、雄大はたじろぎ、しかし、直ぐに得意げに声を上げる。
「へへーん。今日はバイトの日じゃないから従業員じゃないってせんせえのお墨付きだもんね。だから俺は、今日はここの人間として動かな――」
「雄大」
幹也がキーボード上で指を軽快に動かしつつ、声をかけた。
雄大はそちらを見やり、笑顔で応える。
「あ、せんせえ。お忙しそうっすねぇ。さっさと五月蝿い姉ちゃんは連れ帰るんで、ばっちり桐香さんの課題を――」
「今日は給仕係として雇ってやる。一杯淹れる毎に五十円やろう。というわけで、僕にもコーヒーをくれ」
「へ?」
「当然、あたしにもね。砂糖は二つでお願い」
「ちょ」
「僕はブラックでいい」
「……判ったっす」
雄大は好き勝手言う雇い主と姉を交互に見やり、諦めたようにため息をついて奥へと消えた。そちらには水道とガスコンロがある。
「はい、どうぞ。せんせえ」
「有難う」
まず雄大は、幹也にブラックコーヒーを出す。すると、彼は雄大を一度瞳に入れて頷き、礼を言った。
続けて、角砂糖を二つ入れたコーヒーを姉の前に出す。
「どうぞ。お客様」
「ん」
雅は尊大に相槌を打ち、礼も言わずにカップに口をつけた。
雄大は、礼くらい言えよ、と文句を言いたくなった。しかし、今は給仕と客だ、と自分に言い聞かせ、自粛する。
黒い液体が雅の喉を鳴らす。
「一応ドリップなのね。インスタントかと思ったわ」
「せんせえがインスタント嫌いなんだよ。そのくせ、金なくて毎食インスタントラーメンだったりするけど」
「お金の使いどころが変わってるのねぇ。こだわりの男とでも言えば聞こえはいいけど……」
「フィルタと豆くらいならそれ程かかりませんよ。直ぐ腐るものでもありませんしね」
ややずれた発言をした幹也を、雅が呆れた瞳で見る。
「そういう問題かしら……」
「あんまり気にしないであげて」
姉弟は軽くため息をつき、それから相対してソファに腰掛ける。
そして、姉は弟にプリントの束を突きつけた。
「じゃ、まずはこれを読みなさい。それからじゃないと、意見を出し合うこともできやしない」
「けど、せんせえが読んで答え出たんだろ? なら、別に俺が見なくたって――」
「幹也さんってばあたしに答えを教えてくれないんだもの。それで明日、桐香に答えを聞かせるまでのあいだ考えてみれば、とか言うのよ? そこまで言われたら挑戦を受けるしかないじゃない?」
「そこで俺が参入する意味が分からない」
憮然とした表情で言う雄大。
「そこはそれ。あたしだけじゃ行き詰まっちゃったわけ。というわけで、あんたには美しいお姉さまに協力するありがたい権利をあげ――ちょい待て」
満面の笑みで言葉を紡いでいた雅は、ソファから立ち上がり帰ろうとする弟を無理やり座らせる。
「なに帰ろうとしてるのかしら? お姉さまが困ってるっていうのに」
「知るか! 姉ちゃん一人で悩めよ。俺は帰る」
「さっきは、課題を解くのはいいとして、って言ってたじゃない」
「コーヒーを突然要求されるよりはマシって意味でいいって言ったんだよ。この寒い中急に呼び出されて、課題を解きましょう、とかマジ勘弁だから!」
「雄大」
再び幹也の声がかかる。
雄大は嫌な予感を覚えながらも、聞き返す。
「……なんすか?」
「せっかく来たんだ。課題を解くくらいいいだろう? このとおり僕は忙しくて、雅さんのお相手をできないからな。お前が相手をしてくれると助かる」
勿論、幹也は今口にした通りの役割も、雄大に求めているだろう。しかし、幹也が自分に求めているのはそれだけでないと、彼は知っていた。
「……それで、姉ちゃんの相手をする一方で、適宜せんせえのご要望どおりにコーヒーを淹れてこい、とそういうことですね」
「まあ、そういうことだな」
悪びれすることもなく言われ、雄大は脱力してしまった。もはや姉に反抗する気も起きず、その後は諾々と課題を解きにかかる。
それから一時間ほど経ち、幹也はようやく課題解答と題したレポートを書き終える。
「雄大。頼む」
そして、そこで三杯目になるコーヒーの給仕を雄大に言いつける。
「はぁい」
「あ、あたしもね。砂糖は一つで、今度はミルクも」
雄大がプリントを置いて立ち上がると、雅も二杯目となるコーヒーを頼んだ。
「わあったよ」
幹也は苦笑して雄大の動きを追い、その姿が視界から消えるとパソコンの液晶画面に視線を移す。そして、マウスを操って新規の文章ファイルを開く。彼は小さく、一応作っとくか、と呟いて、題名を打ち込んだ。
その文章ファイルは『小説解答』と題された。
「これさ。果歩が犯人ってことはないの?」
「けど、途中で否定されてるじゃない?」
「それはそれでミスリードかもしんないだろ? 知恵の事件だって果歩ならやれたんじゃね?」
「は? 何でよ」
「だってさ。果歩は知恵の部屋の鍵を持ってたんだろ? だったら――」
「あのね。果歩は知恵が窓の外を落ちていくところを見たのよ。知恵が落ちていく時に俊和の部屋にいたのに、知恵を突き落としたりできたわけないじゃない」
「あ、そうか。……いやでも、俊和は知恵が落ちてくとこを見てないんだから、果歩の証言自体が偽装かもしれないぞ」
「ん、それは…… いや、やっぱないわ。だって、知恵が下に落ちた音が実際聞こえたじゃない? 知恵が落ちたか、もしくは突き落とされた時、やっぱり果歩は俊和と一緒だったのよ」
「……んん。そう――みたいだなぁ。すると、果歩はシロか。てか、そうなると犯人はやっぱ香月かな? 知恵の部屋を他に開けれたのは香月だけだろ」
「そうなるでしょうね。知恵も馬鹿じゃないだろうし、あの状況で鍵を内側から開けるのには警戒したはずだもの。特に鍵崎が相手なら絶対開けないでしょ」
「とすると、トリックはわからないにしても、犯人としては香月が最有力か。あ、でも、荒斗の事件は香月にはちょっと無理じゃないか? 鍵はマスターキーでかけられたにしても、逃げるのは…… 知恵がいたから、上には逃げられないし、下だって俊和と果歩が上って来てた」
「そこはクローゼットの出番よ」
「あそこには小物がぎっしりだったじゃん」
「あれは後で詰めなおされたのよ。そして、香月は小物を詰めなおすと直ぐに部屋を出てった」
「つまり姉ちゃんは、死体を見て呆然としている俊和たちの脇で香月がクローゼットから出てきて、小物をつめなおして、それからこそこそと出て行った、とそう推理するわけか?」
「ばっちりでしょ!」
「いや。駄目駄目だろ」
「なんでよ! 見咎められない可能性だって、少しはあるでしょ!」
「少しもないと思う。つか、それよりだったら、階段の踊り場にある窓の外に気合でぶら下がってた、とかの方が現実味がありそうだし」
「な! 雄大、素晴らしい推理力ね…… 姉として褒めるべきか、それとも、あたしの推理に感心しないことに怒るべきか、迷うわ」
「いや、別に素晴らしくないし。怒られるいわれもないし」
雄大がため息混じりに言ったその時、幹也は小説解答と題した文章を完成させた。これであとは、明日来た桐香にどういう順番で話をするか、決めるだけだ。
しかし幹也は、それは後にしようと決め、雄大に声をかける。
「素晴らしいかはともかく、面白い発想だと僕も思うぞ。香月がそれを実行可能なほど逞しい体躯をしているのだったら、その解答も充分に高い採点をされただろう」
「あ、せんせえ。聞いてたんすか?」
「文章を打ちながらでも会話くらい聞けるさ。それより、またコーヒーを頼めるか?」
「はいはぁい。……どうせ姉ちゃんもいるんだろ?」
雄大の視線の先にある雅のコーヒーカップは、空になっていた。
しかし、雅は眉を顰めて否定的な言葉を吐く。もっとも、だからといって、それが雄大にとって希望足りえるわけではなかったが……
「んー。コーヒーは少し飽きたわね。紅茶ない?」
「……あるよ。こっちはティーバッグだけど」
「じゃ、それ。そう睨まないの。レモンを浮かべろとか、そんな贅沢は言わないから」
「当たり前だっ!」
笑顔の雅に対して声を荒げながらも、雄大は幹也と雅のカップを手に取り、何度目になるか分からない給仕活動を始める。
一方、残された二名は会話を始める。
「キーボードを叩く音が止みましたけど、桐香に提出する書類を作り終えたんですか?」
「ええ。一応。ただ、書類を提出するだけではなく、しっかり納得させるためにまずは口頭で説明しようと考えていますから、まだその話の順番を考える必要はあります」
「ふぅん。ここまできたら、その書類を見せろとか野暮なことは言わないけど、ちょっとくらいヒントくれません? 聞いてたみたいだから分かってるかもしれませんけど、雄大の発想って大体あたしと似てるんですよね。さっきは少し変わった意見もでましたけど……」
「確かに、雄大と雅さんはよく似ている姉弟のようですね」
解答を作成しながら聞いていた内容を幹也は思い出し、そう結論付けた。つい先程は少しばかり議論が為されていたが、そこ以外は確認作業のようになっていた。
「ええ。そんななんで、二人で頑張ってもちょっと…… というわけで、ヒントお願い。じゃないと、襲うわよ」
「い、いやいや、雄大がいるところでそれはまずいでしょう?」
「あたしは気にしないわ」
にやにや笑っていても、どこか本気に見える雅に恐怖を覚え、幹也は観念したように両手を上げる。
「……分かりました。ヒントですね。まあ、僕の解答が絶対ではない以上、課題の解答というよりは、僕が考え出した解答を得るためのヒントとなりますが、いいですか?」
「勿論!」
雅は先程までとは異なる質の笑みを浮かべ、元気に応えた。
幹也はその変わりように苦笑し、それからゆっくりと口を開いた。
「では僭越ながら助言といきましょう」
期待に瞳を輝かせる雅を見つめ、幹也ははっきりとした口調で話す。
「知恵が落下する前、俊和の部屋で果歩が口にした自虐的な推理を少しばかり転換すれば、もう一つの道が見えてくるはずです。僕は、それを採用しています」
「?」
その言葉に雅が首を傾げた時、雄大がカップを二つ持ち、おまたせっす、と言いながら戻ってきた。
幹也はやはり礼を言ってそれを受け、黒い液体を満足そうに飲み下す。そして、雅はやはり礼を言わずに受け取り、しばらくカップに口をつけなかった。
「? どうかしたか、姉ちゃん」
「ん。そのね――」
その様子をいぶかしんだ雄大が質問をぶつけると、雅は先程の幹也の言葉を繰り返した。それを耳にした雄大も首を傾げ、時が無為に過ぎていく。
二人は、果歩が俊和に推理を聞かせているくだりを見直し、あれこれと議論を重ねるが、結局は何も浮かばない。
そして、その日姉弟が新たな道を見出すことはなかった。