虚偽

 陽光降りそそぐ三月の中旬。春一番が吹き荒び、入学、卒業、入社、進学、人事異動と、日常にも慌ただしさという風が吹き込む。僕こと清水昌信が勤める総合病院に、頭部を強打したという乳幼児が担ぎこまれたのは、そんな時季だった。
 その子は、頭頂部に小さな裂傷を受け、それだけでなく、打ち所が悪かったためか意識がなかった。レントゲン検査を試みると内部での出血が見られ、緊急の外科手術を要する状態だった。そして、その執刀を行うことになったのが、毒島琢磨先輩だ。
 彼の腕はいい。今のところ、毒島先輩が患者さんを救えない、という場面を僕は見ていない。勿論、僕は去年の春からこの病院にいるだけだし、五年も勤続している毒島先輩の全てを知っているわけではない。しかし、それでも僕は、今回も多大なる期待を彼に向けていた。そして――

「ふぅ。終わったぁ」
 手術室を出た毒島先輩の第一声だ。彼は大きく伸びをして、それから自販機に向う。
「ちょちょ! 先輩! ご家族に説明を――」
「うぜぇ。死ね」
 先輩の肩を掴んだ腕が乱暴に払われる。結構、痛い……
 僕が払われた腕をさすっていると、先輩は辺りを一瞥し、それからこちらに侮蔑の瞳を向けた。
「第一、どこに家族がいる? 俺が見たところ、そっちのソファにも、こっちのソファにも、父親らしき男も、母親らしき女も、誰もいないが?」
 それは――事実だった。改めて辺りを見回すと、目に入るのは忙しく動き回る看護師とリハビリ中らしき患者さん。他にもちらほらと人がいるのだけれど、運び込まれた子の家族らしき男性も女性も見つけられない。そもそも家族がこの場にいるのなら、手術室から出てきた僕らに寄って来ない道理はない。しかし、少なくともさっきまでは、家族三名が手術室の前には集っていたはずだ。乳幼児の姉は緊急車両に乗って付き添いで病院までやって来ていたし、両親もあとから駆けつけたはずだ。にもかかわらず……
 まずい、かもしれない。
「まさか…… 事実の露見を恐れて逃亡したんじゃ……」
 ごちると、先輩の肩がぴくっと震えた。こちらを振り返った表情は、硬い。
「どういうことだ?」
「先輩も気付いたでしょう? あの子の体には小さな傷が沢山あったし、腕には煙草を押し付けたような痕もありました。絶対、幼児虐待ですよ。今回のこれだって、後頭部ならばともかく、頭頂部を事故で打つなんて普通ないでしょう? こう、足を持って逆さづりにして、それから下に落としたとしか……」
 身振り手振りを加えながら、説明した。しかし、その説明は遮られた。
 顰め面で僕を見ていた先輩が、突然僕の頭に拳骨を落としたのだ。
「っつぅ…… 何するんですかぁ」
「そんなこと、わざわざお前に説明されなくても判っている。それよりも、家族が逃亡したかもしれないというのはどういうことだ? お前、手術中に一度外に出たな? まさか――」
「い、いえ。別にご家族に問いただしたわけじゃありませんよ! ただ、看護師の平野さんに事情を説明して警察に電話を……」
 僕の説明は、再び遮られた。拳骨の二発目が頭に落ちたからだ。
「警察に連絡だぁ? これまた、しち面倒くさいことをしやがって…… 日常的な虐待は間違いないだろうが、今回は――いや、そんなことよりも……」
 悪鬼の如き表情でこちらを睨んでいた先輩は、一転無表情になり、言葉を途中で止めて一歩を踏み出す。その向う先は……待合いロビーだろうか?
 よく判らないまでも、僕もそのあとに続く。しかし、突然上着の裾を引っ張られて立ち止まらざるを得なくなる。何事かと視線を後方へ向けると、そこにはまだ一桁代の年齢だろうことを窺える少女がいた。不安そうに涙を溜めているその顔には見覚えがあった。あの子のお姉さんだ。
「宗太は、どうなったの?」
 運びこまれた子は岸田宗太くんという名前だ。
 僕はそのお姉さん、岸田千尋ちゃんに結果を伝えようとして――
「たっ! ちょ、先ぱ……」
 また拳骨を落とされた。本日二度目だ。文句を口にしようとしたけれど、先輩は千尋ちゃんに相対していて、こちらを見てすらいない。  しかし、毒島先輩が子供の相手を自分からするとは珍しい。彼は自他共に認める子供嫌いなのに……
「岸田千尋さんですね?」
 千尋ちゃんがこくりと頷く。
 相変わらず、先輩が子供と話す時の様子はおもしろい。先輩は患者さんやそのご家族と話をする場合、それがどんな人物であれ、あのように丁寧に話す。信用を勝ち取るためなのだろうけれど、千尋ちゃんくらいの歳の子であれば寧ろくだけた言葉遣いの方が親しみ易いだろうから、逆に威圧感を与えていそうだ。実際、千尋ちゃんの表情は先ほど以上に強張っている。
 先輩が続ける。
「お母様とお父様はどちらにおられますか?」
「……そっちのおじちゃんから、宗太は大丈夫だろうって、さっき聞いたから、なら、もういいだろうって言って、お父さんも、お母さんも、パチンコに…… わたし、追っていって、もどろうって言ったのに、聞いてもらえなくて、それで…… ひとりでもどって……」
 ……何だよ、それ。僕はまだ子供どころか結婚相手もいないけど、自分達の子供が頑張ってる時にパチンコとか、何考えてるんだよ。思わず、この近辺にあるパチンコ店を虱潰しに当たり、怒鳴りつけてやりたくなる。
 しかし、僕の先輩は特に感想もないようで、淡々と言葉を続けた。
「そうですか。判りました。それではこれで失礼します」
 え?
「あの……! 宗太は――」
「申し訳ありませんが、術後の説明はもうしばらくお待ちください。至急、確認しなければいけないことがありますので。失礼します。清水、来い」
 何か言おうとしたらまた拳骨を食らったため、僕らはそのまま千尋ちゃんと別れた。

 待合いロビーには電話が備え付けてある。緑を基調とした色彩で、テレホンカードや小銭を入れる口が、数字が書かれたボタンが、懐かしさを誘う。先輩はその電話に歩み寄り、テレホンカードを入れた。
 僕は、彼が電話をかけるための動作をしている間、質問を投げかける。
「どうして千尋ちゃんにあんな態度を――というか、どうしてまず電話優先なんですか?」
「お前が余計なことをしたからだ。無能な警察が、平素の所業はともかく、今回のことまで誤解したら、虐待野郎どもとはいえ気の毒じゃねぇか」
 意味が判らなかった。そのように正直に言うと、毒島先輩は短く一言だけ返してくれた。
「落ちた距離が短すぎる」
 それを聞いても、意味がわからなかった。が、それに重ねて質問を投げても、答えは返ってこない。そして、そうしているうちに、先輩は電話での会話を始めてしまった。しかたがないので、僕は答えを待つことをやめ、先輩と相手の話に耳を傾けることにした。もっとも、受話機の向こうにいる人物の声が聞こえるわけもないため、以下はあとで毒島先輩から聞いた話を踏まえて会話の内容を予想したものである。

『はい。相沢です』
「あぁ、奈津子ちゃんか? 克実さんはいるかな?」
『あ、琢磨さん。はい。お母さんなら今、居間でゴロゴロしてるとこで…… 呼んで来ますね』
「頼むよ」
 ここで三十秒ほど沈黙があった。
『もしもし? たくちゃんかい? どしたの?』
「ああ、カツさん。寛いでいたところを悪いね。岸田宗太という乳幼児がいる家庭の住所を知らないかな?」
『岸田さん? 岸田さんならうちの近所だよ。父親が京哉、母親が貴玖夜、それから、お姉ちゃんが千尋ちゃんだわね』
「カツさんの目が光る町内か。そいつぁ、二度手間にならなくて何とも運がいい」
『そういえば、救急車が来ていたようだけど…… 何か聞きたいのかい?』
「ずばり訊くが、あそこの家は岸田宗太を虐待しているか?」
『してるだろうね。赤ん坊なんだから日常的に泣き声が聞こえるのは当然だけど、それだけじゃなくて、父親や母親の怒声も日常的に聞こえる。直ぐ隣に住んでいる人なんかは、宗太くんが執拗に叩かれている場面を見たことがあるって言ってたよ。とてもじゃないけれど、しつけの範囲を逸脱してたってさ』
「ふむ。まあ、予断は禁物にしても、まず間違いないと思えそうな話だな。それで、岸田千尋に被害は?」
『千尋ちゃんも以前は酷くやられてたらしいけどね。宗太くんが生まれてからは、標的が宗太くんに移っちゃったみたいよ。それでも偶に、宗太くんをかばって殴られたり、蹴られたりしてて、可哀相な子だわね』
「ふん。なるほどね。取り敢えずは、マシな方の予想が合ってそうな状況だが……」
『何のことだい?』
「何でもねぇよ。それよりも、なぁ? 千尋は宗太に悪い感情は持っていないと言い切ることができるかい?」
『言い切ることは、できないね。だって、次のようなことも考えられるもの。例え虐待という形をとっていたとしても、両親とのコミュニケーションを宗太くんは千尋ちゃんから奪った。千尋ちゃんはそのことで宗太くんに嫉妬しているかもしれない。宗太くんをかばう行為でさえも、千尋ちゃんが両親とコミュニケーションをとりたがっているだけのことかもしれない。そういうことが考えられなくもない。もっとも、あたしはそんなことないと思うけどねぇ。千尋ちゃんはいい子よ。確かな理由なんてないけど、あたしはそう思ってる。だから、主観的なことを言わせて貰えば、千尋ちゃんが宗太くんに悪い想いを抱いているとは思わない。とはいえ、たくちゃんはそういう感情論からくる情報はお気に召さないでしょう? そういうわけで、違う可能性も口にさしてもらったわけよ』
「そいつはどうも。じゃあ、ついでに訊くが、千尋がそういう妙な感情を持っている可能性はどのくらいかな? 普通の神経をしていれば、コミュニケーションを取る機会が例え虐待しかないとはいえ、虐待されることを望みはしないだろう? 千尋はそこまで精神的にまいっている可能性は高いか?」
『低いわ。そこまでまいっているなら、人は極端に愛想がよくなるか、極端に愛想が悪くなるか、普通ではなくなることが多い。千尋ちゃんは普通よ。普通に何かを怖がりつつ、それでも、あたしが声をかければ普通に挨拶くらいは返す。環境が環境だから、いつもおどおどして怖がっているのは変じゃない。それでいて、その状態でも挨拶を返すくらいの理性はある。環境に合った反応を示してる、いたって普通の子。逆に両親は普通じゃないわね。変に愛想だけはいいのよ。外面は気持ち悪いほどいい』
「そうか……」
 ここでも二十秒ほどの沈黙があった。毒島先輩は何かを一所懸命考えていた。そして、再び質問を重ねる。
「宗太は歩けるか? 掴まり立ちでもいい」
『歩けるわ』
「千尋は小遣いを貰っているか?」
『貰ってると思う?』
「思わない」
『ご名答。あの両親が小学生の子供にお金なんて与えるわけないさね。あ、けど、あたしがいくらかあげることもあるわ。宗太くんの面倒を見ているのを見かけたときとか、偉いわねぇって声かけて、これでお菓子でも買って食べなさいって二百円ほど』
 先輩が瞳を細めたのはこのタイミングだと、僕は考える。
「それは何回くらいあった?」
『お小遣いをあげた回数? そうねぇ…… 三回よ。総額六百円ね』
「そうか。判った」
『訊くことは終わり?』
「いや。最後にひとつ。……千尋や宗太は、両親から引き離された方が幸せか?」
『なぁに言ってんのよ。知らないわよ、そんなの。それは千尋ちゃんと宗太くんが決めることだもの。あたしに訊くことじゃないでしょ?』
「……はっ。ごもっともだ。助かった。有難うよ」
 毒島先輩は苦笑して礼を口にしてから、受話器を置いた。それからしばらく考え込んでいたけれど、直ぐにこちらを振り向いて歩き出す。
「あ、あの、先輩。どなたに電話を……」
「三丁目の相沢克実っつうオバさんだ。そこここから情報を集めてくるのが趣味な暇人」
 先ほど来た道を戻る先輩についていきながら、僕は首をかしげる。
「どうして?」
「岸田家がどんな状態なのかを知りたかったからな。お前が警察なんぞを呼ばなきゃ、別にここまでせんでもよかったと思うが」
 電話をした理由はわかったけれど、どうして『ここまでするのか』までは判らなかった。僕が警察に連絡を取ったこととどう関係があるというのか……
「それで、どこに行くんですか?」
「お前がしつこく言ってた、家族への説明をしに行くんだよ。パチンコ屋にいる方は知ったこっちゃないが」
 パチンコ屋にいる方は、僕もどうでもいいと思う。

 僕らが目的の場所まで至ると、そこには、千尋ちゃんと視線を合わせて話をしているごつい男がいた。一見すると防犯ブザーが鳴り響く場面ではあるが、僕らに気付いた男が懐から警察手帖を取り出して見せたため、防犯ブザーの出番は、ない。
「佐々木といいます。そちらが……」
「岸田宗太を執刀した毒島だ」
「清水です」
 佐々木という警察官は、毒島先輩の不遜な態度に眉を軽く顰めたが、それだけだった。特に言及はせずに、先を続ける。
「通報によると、その岸田宗太くんが虐待を受けている恐れがあるとか?」
「それが……」
「悪いが、まずは両親にでも話を聞いてきてくれ。パチンコ屋にいるそうだ。俺らはそっちのレディに、岸田宗太の様態の説明をしなくちゃいけねぇ」
 佐々木さんに説明を始めようとした僕に、何度目になるか判らない拳骨を落とし、毒島先輩が言った。僕としても、警察と話をするよりもまず、千尋ちゃんに説明をしてあげたいとは思う。
「……まあ、いいでしょう。そちらの話はどのくらいで終わりますか?」
「そんなにはかかんねぇよ。まあ、十分もあれば充分さ」
「わかりました。それでは、その頃にでもまた」
 患者の様態を家族に話すというのが効いたのだろうか。佐々木がずいぶんとあっさり引き下がる。
 僕らは去っていく佐々木を見送り、それから廊下に在る椅子に座った。
「先ほど、佐々木さんと何を話していたのですか?」
「……お父さんやお母さんが、宗太を突き飛ばしたり、投げたりしたかって」
 先輩の問いに、伏し目がちに千尋ちゃんが応える。
 佐々木という警察官も、もう少しぼかした訊き方をできないものだろうか…… そんな感想が思わず浮かぶ。
「それに対して、千尋さんは何と答えましたか?」
「……そんなことしてないって、そう言った」
 千尋ちゃんは先輩の方も、僕の方も見ない。
 これは、嘘をついているために後ろめたさを覚えている、ということの証左なのだろうか? 先輩が相沢克実さんという方と話していた内容は少しだけ聞きかじったが、宗太くんの両親が虐待をしているのは間違いがなさそうである。そうであるならば、千尋ちゃんの言っていることはおそらく嘘だろう。しかし、千尋ちゃんが嘘を言う必要はあるのだろうか? 自分が過去に虐待され、今は弟が虐待を受けている。そんな相手をかばうものなのだろうか?
「なるほど。正直であることはいいことです。しかし、貴方は本当のことまで話しているわけではありません。そうでしょう?」
 千尋ちゃんがびくっと肩を震わせ、先輩を見た。先の発言に、何か思い当たるところがあったようだ。
 しかし、僕にはよく判らない。先輩は、正直であることはいいことだ、と言った。つまり、千尋ちゃんの発言は嘘ではない、と先輩は判断したのだ。ならば、宗太くんの両親は宗太くんを虐待していないというのだろうか? 相沢克実というご婦人は、誤ったというのか?
「それよりも、宗太は……」
「岸田宗太さんは亡くなりました」
 見開かれた千尋ちゃんの瞳を、僕はやはり見開いた瞳で見詰めた。

「……死んだ、の? 宗太、死んだの……?」
「ちょっと! 先ぱ……!」
「黙っていろ、清水」
 にべもなく言われ、その上で殴られもしたけれど、今回ばかりはこの程度で黙るわけにはいかない。
「そういうわけには……!」
「黙っていろ」
 振り向いた先輩の瞳は、真剣だった。
 ……ふぅ。よく判らないけれど、信じますよ、毒島先輩。
 僕が黙ると、先輩は話を再開する。
「ええ。亡くなりました。そこで一つ、貴女に教えておかなければいけないことがあります。大変な時ですが、聞いて下さい。大事なことです」
 千尋ちゃんは特に反応を示さない。
「世の中には殺人罪というものがあります。そうしようという意思を持ってして人を殺す場合が、その罪にあたります。一方で、過失致死罪というものもあります。こちらは、そうしようという意思などなく、不慮の事故などで人を殺してしまった場合に相当します。そして、過失致死罪の方が殺人罪よりも、罰則が軽いのです」
 先輩が何をしようとしているのか、何となくわかったけれど……
「先輩。ちょっと話が難しすぎると思いますが……」
 思わず声をかけると、毒島先輩は少し考え込み、言い直した。
「ようするに、そうしようと思って宗太さんを死なせた場合と、そんなつもりなどなく宗太さんを死なせた場合では、責められる度合いが違うのです。判りますか?」
 千尋ちゃんは、かろうじて頷いた。その様子を目にした先輩は、瞳を細めて口を開く。
「ですから、本当のことを話しませんか? 黙っていても、いい状況には転びません。状況証拠だけでいえば、宗太さんのアレが事故でないことは明白です。そして、そのまま殺人とみなされてしまう可能性も高い。どうか正直に話して下さい」
 それから、数分の沈黙があった。先輩は忍耐強く待ち、僕も質問をはさみたいのをじっと待った。
 千尋ちゃんの大きな瞳に溜まっていた涙が、流れた。
「わたし…… 宗太をよろこばせ……たかったの…… あの子、逆さに……して…… 持ち上げてあげると…… いつもキャッキャッてよろこんで……」
「その時、宗太くんの足には、貴女が買ってあげた靴下がはめてありましたね」
「……宗太、歩ける……ようになったのに…… お父さんも…… お母さんも…… 何も……してあげなくて…… だから…… 相沢の……おばちゃんにもらったお金で…… それが……あんな……!」
「宗太さんを持ち上げた際に、はめていた靴下が脱げた。そして、宗太さんは頭頂部から床に落ちた。そうですね?」
 千尋ちゃんはしゃくり上げながら、弱弱しく頷いた。
 じゃあ…… 今回のことに関して言えば、加害者は――いや、過失者は両親じゃなかったんだ…… 今現在、先輩が虚偽に基づいて話を進めているのも、千尋ちゃんの罪悪感をあおり、それで話を引き出しやすくするためか…… てっきり、彼女の口から両親の罪悪について語らせるためのものだと、僕なんかは勘違いしていたんだけれど…… って、そうだ! もうこんなことしている必要はないじゃないか!
「先輩! もう……!」
「好きにしろ」
 許可が出たので、千尋ちゃんを抱えて走る。
 千尋ちゃんは僕の腕の中で、謝罪を繰り返していた。宗太くんへの謝罪を、ずっと口にしていた。
 けれど――
 僕は、病室の扉を開け放つ。術後の患者が寝泊りする部屋だ。
 中にいたのは看護師長の梶原縞子さんだ。ベッドに横たわる乳幼児を優しく見守っている。
「あ、清水先生。どうなさいました?」
「はぁ、はぁ。か、梶原師長。宗太くんのその後の具合はどうです?」
「え?」
 千尋ちゃんは瞠目して僕を見上げてから、ベッドに視線を移した。そこには、静かな寝息を立てている乳幼児、岸田宗太くんがいた。
 ……毒島先輩は、子供が相手でも容赦がないんだ。

 今、僕と先輩と千尋ちゃんは、宗太くんの病室にいる。千尋ちゃんだけが椅子に座り、僕らは立っている。
 先輩が口を開いた。
「岸田千尋さん」
「……何? 意地悪なオジちゃん」
 僕は思わず笑いそうになったけれど、そこは自粛した。そうそう何度も殴られたくはない。
 先輩は、少し言葉につまってから、再び口を開いた。
「貴女は、お父様やお母様と、これからも暮していきたいですか?」
「……どうしてそんなこときくの?」
 それは僕も是非聞きたい。先輩の質問はいつも突然だ。
「離れたいと願うならば、今回の件はそれを促進する確かな材料になるからです。事情を聴取し、警察がしかるべき判断を下したなら、児童保護施設への連絡が為されるでしょう。貴女が望むのであれば、お父様からも、お母様からも逃れる結果を掴み取れます」
「本当……に?」
 千尋ちゃんの瞳には、希望が見えた気がする。やはり、先輩が口にしているようなことを望んでいるのだろうか。
「本当です。しかし――」
 毒島先輩は首肯しつつも、否定の言葉をもまた、続ける。
「その道が必ずしも幸福に繋がるとは限らないことも、覚えておいて下さい」
「え?」
 不思議そうに聞き返す千尋ちゃん。
 そんな彼女を見返し、先輩は淡々と続けた。
「私は親に虐待を受けた経験はありませんし、施設に入ったこともありません。しかし、想像はできる。虐待を受けるのは辛いだろう、情けなく感じるだろう、怖いだろう、と。そして、施設に入ったあとの想像もできる。施設の食事なんて大したものじゃないんだろう、所詮は他人だからそれほど大事にされないんだろう、学校では苛められたりするんだろう、などとね。どれも悪い想像ばかりですが、そうである可能性はゼロじゃない。逃げた先にこそ、更なる不幸が待ち受けていないとも限らない。世の中とはそういうものです。だから、覚悟しておいて下さい。貴女が親元を離れ、宗太さんと共に施設入りを望むのであれば、警察も、よろしければ私も、支援いたします。しかし、その先にあるのは幸福とは限らない。そのことを、充分に覚悟し、そして、選んで下さい」
 毒島先輩は、本当に子供相手でも容赦がない。……けど、これも優しさなのかもしれないと、付き合いが短いなりに、僕は思う。
「わたしは……」
 千尋ちゃんは呟き、長い沈黙に入る。考え込んでいるようだ。話が難しかっただろうに、内容には理解が及んでいるらしい。
 それでも、答えは直ぐには出せないのか。沈黙は長い。
「たっぷり考えるといい。じきに、警察とご両親が揃うでしょう。その時までに結論を出すといい」
 先輩はそう声をかけて、僕を促して病室を出る。

 僕らは廊下に在る長椅子に並んで腰掛けた。僕は、さっそく疑問に思ったことを訊く。
「先輩。どうして、宗太くんが亡くなったなんて嘘をついたんです?」
 正直、亡くなったという虚偽を作り上げなくても、普通に問い詰めてもよかったのではないかと思える。
「すんなり話を進めるためさ。あのガキは結構曲者だろうからな」
「曲者……ですか? よく判りませんけど、普通に問い詰めただけじゃ駄目でしたか?」
「駄目だな。執拗に時間をかけて問い詰めれば自供したかもしれんが、もしかしたら、ひたすらに言い逃れしようとした可能性もある」
 そんな子にも見えないけれど…… 実際にその意見を口にしてみた。すると、真顔で馬鹿と言われた。
「緊急車両でここに岸田宗太が到着した際、付き添っていたのは岸田千尋だけだった。つまり、両親の留守中に事故が起きてしまい、千尋は119番に連絡を入れ、その上で一人で付き添いまでしたんだ。随分としっかりしている。それでいて、事故の真相に関しては黙っていたんだ。どう考えたって、確信犯。責任逃れする気が満々じゃねぇか。そんな確信犯なガキは、そうそう本当のことなんて言わねぇよ。大人なら理詰めで追いつめりゃあ、それなりに逃げ道がなくなったところでゲロするだろうが…… その点、ガキは頑固だろうよ。逃げ道がなかろうと、屁理屈こねて逃げようとする。だから、逃げ道を限定してやったのさ」
「つまり、過失致死で手を打った方がお得だと、思わせようとした、と?」
 千尋ちゃんは果たして、そこまで考えた上で自供しただろうか?
「そういうことだ。お前、千尋がそこまで腹黒く考えていたか疑問に思っているだろ? ガキだからって甘く見てんじゃねぇぞ。アレは充分過ぎるくらいにしたたかだ。そもそも、それなりに難しい話を理解している時点でおつむは悪くないだろ。なら、自分にとってどういう選択肢が得かくらい、判断して行動する」
 そう……なのかもしれない。けれど、それは悪いことではないはずだ。ただ、子供らしさにかけるだけ。早熟すぎるだけ。僕はそう考えることで、納得した。それに、千尋ちゃんは自分の利のためだけに自供したわけじゃないとも信じている。だって、彼女は本当に辛そうに、『死んでしまった』宗太くんに謝っていた。だからきっと、先輩が言う性質だけが彼女じゃない。
 僕はしばらく考え込んだ。自分の子供の頃がどんな風だったかなどの瑣末なことを考え、それからそれに飽きると、今回の事件を反芻した。そんな中で、僕はまたひとつ疑問を抱いた。
「毒島先輩?」
「んあ?」
 声をかけると、先輩はおかしな応答をした。軽く居眠りしていたようだ。そういえば、昨日あまり寝ていないって言ってたっけ。
「眠いところを申し訳ありませんけど、もうひとつ質問していいですか?」
「……いいぜ。手短にな」
「はい。先輩は、いつから千尋ちゃんが……ということに気付いていたんですか?」
「お前、馬鹿だよな」
 ……はい?
 突然の言葉に、どう反応したものか困った。まあ僕だって、自分が天才だなどとは思っていない。しかし、鶏口となるも牛後となるなかれ、という言葉に則り、三流医科大をトップ成績で卒業したのだ。少なくとも、馬鹿ではない、はずだ。
 はずだ、などと付け加え、いまいち強気に出られないのは、毒島先輩の経歴を知っているせいかもしれない。どうやら彼は、鶏口どころか牛口だった人物らしいのだ。一流の医科大をトップ成績で卒業したという噂を耳にしたことがある。人格はアレだけど……
「馬鹿、ですか?」
「馬鹿だな。今質問したことに対する答えなんて普通、岸田宗太の執刀をする前から気付くことだろ?」
 にべもなく言われた。というか、そんなことに普通は気付くだろうか?
「納得いかないって感じの顔だな。いいか? 岸田宗太の頭頂部の傷はお前も見ただろ? 物凄く小さい傷だった。加えて、頭蓋骨への損傷はほぼ何もなかった。内出血していたおかげで、あわや大惨事ってとこだったが、本来なら、泣き叫ぶ岸田宗太を懸命になだめるだけでも事足りたような状況だった」
 それはそうだ。まあ、例え内出血していなかったとしても、病院には来て欲しいけれど……
「しかしな。岸田宗太くらいの年齢なら、頭蓋骨の硬さはそれほど充分じゃねぇ。ちょっとした高さから垂直落下するだけで、もっと酷い損傷を受けていてもおかしくなかったはずだ」
 それも、やはりそうだと思う。
「なら、大人が虐待している図は想像がしづらいじゃねぇか。大人が虐待の結果として垂直落下させたのなら、大人の膝くらいの高さから落ちることになるだろ。そこまで高いと、まあ、運がどのくらい悪いかにもよるだろうが、今回みたいな軽傷にはならねぇ。岸田千尋が証言したような、逆さにして遊ばせているような図を想像したとしても、過失の場合を想像したとしても、大人が為した場合はやはり大きな事故になったことが予想できる。だからこそ、疑うべきはガキだろう? ガキがガキを虐待、もしくは、世話していて、その結果としてのアレ。そうとしか考えられねぇんじゃねぇか?」
 こちらを見た先輩の瞳は、明らかに僕を馬鹿にしていた。
 まあ、先輩が口にした『落ちた距離が短すぎる』という言葉の意味を今更理解した身としては、その侮蔑の瞳も、先ほどの馬鹿という評価も、甘んじて受け入れるしかないだろう。手術前の段階で気付くのは牛口たる先輩の特権だろう、と強がってみたとしても、先輩の言葉を耳にした段階で気付けなかったのは、やはり愚鈍すぎる。
 残念ながら、僕は馬鹿みたいだ。

 風の噂で、千尋ちゃんと宗太くんが児童保護施設に預けられたと聞いた。その後、彼らが幸福に過せたかどうかは知らない。けれど、そうであればいいと思う。先輩が提示したような、更なる不幸が彼らを襲ったりはしないと、そう信じたいと思う。

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