少しの欠落

 その日、間島幹彦は彼女と別れた。
 そうなった理由は幾つかある。例えば、仕事が忙しくて約束を破った。例えば、十数回に渡りメールの返信をしなかった。例えば、愛し合っている最中に違う女性の名を呼んだ。
 最早、数えるのも億劫である。
 どうでもいいか――マルボロを咥え、深く息を吸いながら間島は結論付けた。
 強がりでもなんでもない、正直な気持ちだった。
 そもそも、付き合いだした当初であっても、間島が彼女を愛していたのかどうか怪しい。相手の話を聞かず、相手の意見を尊重せず、だからといって、傲慢であったり利己的であったりしたかというとそうでもなく……
 相手に敬意を持つでもなく、自分の価値観を押し付けるでもなく、要するに、間島は彼女に対して関心が薄かったのだ。交際を申し出たのが彼からであったにもかかわらず……
 間島は、深夜まで営業している飲食店の喫煙席に腰掛けている。周りの席には誰もいない。すっきりとしたものだ。
 田舎の深夜営業なんてこんなもんか、と妙に納得しつつ、間島は勢いよく紫煙を吐き出した。細かな粒子がゆらゆらと上昇し、天井付近に留まる。その様子を目で追い、四散していくのを見届けてから、間島は伝票を手に取り立ち上がる。
 レジには誰もおらず、間島が声をかけると奥から中年の男性が出てきた。
 支払いを済ませ、扉を潜る。
「ありがとうございましたぁ!」
 はっきりした口調ときびきびした動作が鬱陶しい。間島はそのような感想を抱きながら、閑静な夜の街へ足を踏み入れた。

 閑散とした街灯に照らされて歩きつつ、間島は考えを巡らす。築十四年のアパートまではもうしばらくかかるため、暇つぶしが必要だった。暇つぶしに選ばれた題材は、女性と本気で付き合えない大元の理由。
 間島には、高校時代に付き合っていた女性がいた。特別美人でもなく、特別可愛らしくもなく、しかし、とても心惹かれた女性だ。間島は今と違って、彼女を最大限に敬い、かつ、一所懸命に自分を大きく見せようとしていた。
 そして、相手の女性も間島を愛し、敬っていたと、間島自身は――少なくとも当時は――感じていた。
 今思うとどうか。それは…… 何とも言えない、というのが正直なところだった。
 付き合っていたその瞬間に限って言えば、愛されていたことを確信している。彼女の言動、しぐさがそれを示していたと、成長した今でも思える。
 しかし、彼女はいつの間にか間島の傍を離れた。気がつけば、彼女はどこにもいなかった。それは、精神的な意味ではなく、肉体的な意味でだ。間島に何も言わずに、突然に消えてしまったのである。
 それでいて、間島以外の者達は何か知っている風で、彼は当時、憐憫の瞳をよく向けられたものだった。思い出すうちに、苛立ってくる。
 間島はマルボロを取り出して火を点す。田舎のわりに、この地域は素早く歩行喫煙を禁じているが、この時間帯ならば文句も出まい。そのように考えながら、彼は満足そうに瞳を細め、紫煙を天へ向けて放った。
 寸の間、星の光が遮られた。間島は思索を続ける。
 もし、彼女が本当に間島を愛していたのなら、そういう行動に出ただろうか。消える理由を他人のみに知らせて、間島だけに知らせないという行動に。正直な意見として、何とも言えないな、と彼は思う。
 事情が分からないのだから判断のしようがないという事実がある。そして、予想を語ったとしても判断のしようはないと、間島は考える。事実、間島を愛していなかったのだという場合もあれば、間島に打ち明けずにいなくなったからこそ、間島を愛していたと考えられる場合もあるのではないか。そう思える。
 例えば、借金のかたに風俗へ売り飛ばされたとか。例えば、帰り道で強姦されて精神を患ったとか。例えば、不治の病に罹り余命が半年だったとか。どれもあったかも知れなく、どれもなかったかも知れない。ただの予想だ。
 しかし、どれが事実で、どれが事実でなかったとしても、彼女が間島の前から消えたこと、それだけは疑いようのない事実だった。ならば、それ以上に必要な事実などあるだろうか。結果として彼女はいなくなり、間島は他の異性に関心が薄くなった。それが全てだ。
 間島はマルボロをコンクリートの外壁に擦りつけ、火を消す。そうしてから、携帯用灰皿にすっと放り込んだ。
 ふと瞳を巡らすと、蛾が盛んに体当たりする看板があった。見たことのない店名が書かれている。田舎に居酒屋など数件しかないため、間島は全て記憶している。にもかかわらず知らないとなると、最近営業を始めたのだろう。
 気分転換に、間島は暖簾を潜ることにした。

 がらっ。
 閑古鳥が鳴いているな。店内に入った間島の第一印象はそのようなものだった。
 店員はカウンタの中にいる女性一人。首の後ろで緩く結んだ黒髪が、和装に包まれた背中を流線型に流れている。はっきりした目元の上の柳眉は緩やかに流れ、ふっくらとした口元は笑みの形をとっている。助兵衛な親父が喜びそうな艶やかな容貌だな、と考える一方で間島は、運良く空いている時間帯に来ただけなのかも知れない、と先程の印象を取り払った。
 更に店内に注意を向けてみる。カウンタには誰も着いておらず、座敷に男女が一組。改めて見ても、やはり閑古鳥を飼っているようにしか見えないが、間島はそれ以上気にしないことにする。考えても判るものではない。女主人に質問をぶつけるのも悪い。
 さっさとカウンタに腰掛けようとして、男女がいる座敷の横を通り過ぎ、間島ははっと気づく。双方見覚えがあった。その上、片方は――
「理都!」
 間島の呼び掛けを受けて振り返った女性――久留間理都は、驚いたように瞳を見開いてから、優しく微笑んだ。首元に巻かれている赤い布が、紺の上着に映えていた。
 昔と変わらない。間島は未だ驚きから回復しない脳に、そのような簡単な感想のみを浮かべる。
 理都は間島の高校時代の同級生――更に言ってしまえば、恋人だった女性だ。つい先程、思い出の中の住人であった女性。ずっと行方が知れなかった女性。
 間島はつい先ごろまで考えていた、彼女が消えた謎を解明しようと口を開くが、理都の対面に座っている男を瞳に入れて眉を顰める。先には見覚えがあるな、くらいの印象でしかなかったが、改めて注視すると、そこにいたのは学生時代に変人と名高かった男が。
「宍戸晴馬……か。意外な奴と一緒だな」
 理都は学生時代に宍戸のことを、苦手である、と間島の前で評した。そうであったにもかかわらず、数年来行方の知れなかった彼女は今、彼と共にいる。
 宍戸は、意外ねぇ、と呟いてから小さく声を漏らした。笑っているらしい。
「な――」
 ごおぉーん、ごおぉーん、ごおぉーん……
 間島が気分を害し、声を荒げようとしたその時、鐘のような音が響いた。どうやら柱時計が夜中の十二時を知らせたらしい。
 勢いを削がれた間島であったが、はっきりとした不快を表情に出し、口を開く。
「……何が可笑しいんだよ」
「別に。気にするなよ。それより、間島君は俺の最大の特徴を忘れたか?」
 相手を軽く睨めつけつつ訊いた間島は、宍戸の飄々とした態度に意表を衝かれて毒気を抜かれる。敵愾心は消えないまでも、余計な気負いが失せていく。
 その上で、間島は高校時代を思い出す。彼は、宍戸晴馬は、ある特定の人種に興味本位で声をかけられる以外には常に独りだった。教室で本を読んでいるか、寝ているか。兎に角、誰かと共にいるところを間島は見たことがない。
 そして、そんな宍戸が受動的ではあれ、話しかけられた結果ではあれ、言葉を交わしていた相手、その特定の人種というのが――オカルトオタク。
 宍戸は霊感体質の少年として有名であった。噂によれば、霊と対話し、除霊のようなことをするらしい。
 しかし当然のごとく、間島をはじめ多くの者は眉唾であると決め付け、気味の悪い奴だと遠ざけた。意識的に接触を、会話を避けた。やむを得ず関わらなければならない時は、できる限り手早く済ませた。それは、理都も同じだったはずだった。
 理都は霊的なものを頭から信じないというわけでもなかったが、それでも宍戸との接触は避けていた。実際に霊と語り合うという噂は、さすがに受け容れ難いものだったのだろう。
 そこまで思い出してから、間島は再び宍戸と言葉を交わす。
「忘れる訳がない。憶えているさ。お前の変人ぶりはな」
「そうか。ご記憶いただけて恐悦至極だね」
 弱冠トゲのある間島の言葉に対し、宍戸はやはり気にした風もない。頬杖をつき、細めた瞳を間島へと向ける。そして、歪めた口元から音を発した。
「俺の最大の特徴を憶えていて、その上で、久留間理都が俺といることに疑問を覚えるというのなら、お前の記憶は未だに『思い出』のままなんだな。まあ、久留間君に対した際の様子からして、それは明らかだったけれど」
 意味が、判らなかった。間島には、宍戸の言葉の意味が判らなかった。
 彼の言が、まだ思い出にできないのか、とでもいうものであれば、理都は現在宍戸と付き合っており、間島の出る幕ではない、とそういう話になるのだろう。しかし……
「どういう……ことだよ?」
 間島はこれ以上ないというほど訝しげに、宍戸を見た。
 宍戸はやはり含み笑いを漏らし、まあ落ち着こうぜ、と声をかけた。それからカウンタの女性にコーヒーを注文する。
 居酒屋然とした店にコーヒーなど置いているのだろうか、と間島は疑問に思ったのだが、しかし数分すると、上品なカップに注がれた黒い液体が間島の前へと運ばれる。湯気とともに芳しい香りが立ち上る。
「この店は下戸のためにコーヒー、オレンジジュース、ファンタ、コークと手広く揃えてるんだ。更にはペペロンチーノ、チャーハン、ナポリタン、八宝菜、蕎麦、饂飩、ハンバーグ、焼きそばと、食事も充実している。巷では節操がないと大層評判さ」
 ファミレスかよ。間島は思った。
 なるほど、こうして閑古鳥が鳴くのも妙に納得であろう。そのような体では酒飲みは興が削がれるであろうし、ファミレスメニューを好みそうな客はそもそも、居酒屋としての外観を因として敬遠する。
 もっとも、間島が今気にするべきはそこではないのだが……
 間島は理都に瞳を向ける。勿論、宍戸の妙な発言も気にはなった。しかし、まず関心が向くのはやはり彼女だ。その見た目はあまり変わりがなく、強いて言うなれば顔色の悪さが隔てた年を感じさせるくらいか。
「理都。その……久し振り。元気、だったか?」
 間島が言葉を選んで遠慮がちに訊くと、理都は口元だけで小さく微笑み、そして、なぜか困ったように瞳を伏せた。膝上に置かれていた両の拳が、紺色のスカートをぎゅっと掴んでいるのが見える。
 どうしたというのだろう。間島は戸惑いながらも幾つかの可能性を模索する。その全てがお世辞にもいい予想にはならず、間島は怖くなる。その負のベクトルを捻じ曲げるために、理都に向けて更に言葉をかけた。
「俺は、その、元気だった。偶に風邪はひいたけど、それだけだ。飯もよく食ったし、睡眠時間も申し分ない。運動不足な感は否めないけど、健康に支障が出るほどじゃない。腹も出てないし」
 何を話しているんだ、と間島は自分に呆れる。が、理都は彼の言葉にいちいち頷いて見せた。嬉しそうに、嬉しそうに頷いた。間島もまた強く喜びを覚え、軽快に言の葉を繰る。
「大学は東京の方に行ったんだ。ランク的には良くもなく悪くもなくで、けど私立だから無駄に学費だけ高くて。だからバイトをたくさんやって、金貯めて、勉強はあんましなかったけど、友達と馬鹿やって、笑ったり、怒ったり。充実してた。あ、卒業もしたぞ。中退じゃない。凄いだろ?」
 理都は口元に手をあてて、形の良い頬に小さな窪みを作った。笑っているのかもしれない。声は立てていないが。
 間島は続ける。
「就職はこっちでした。小さな出版社の営業。これが結構きついんだ。足が棒になるまで歩き回るってよく聞くだろ。本当にそんな感じ。書店は勿論、教科書とかも扱うから塾なんかにも行って、今は大分慣れたけど、最初は毎日死にそうだった。けど、楽しい。辛いけど、楽しいんだ。それに、ここに、この田舎にいたかった。だから、ここで仕事が出来て、ここにいれて嬉しいんだ」
 ここにいたかったのは想いがあったからだ。そう間島は認識している。忘れられない想い。それをいつか果たせると、そう信じて、帰ってきた。
 それが、今なのだ。
「愛してる、理都。昔みたいに、また――」
 理都の口が動いた。
 ゴ、メ、ン、ネ……
 間島は、彼女の唇がそのような発声を促すように動いたと感じた。御免ねとはどういう意味だと考える一方で、彼はあるひとつの想像を持つ。
「理都! お前、喋れな――」
「喋れるさ」
 宍戸が言った。そして、間島を真っ直ぐと見て、もう一度、喋れるんだ、と口にする。
 そこでゆっくりと瞳を閉じ、瞑想しているような風体になった宍戸は、更に続ける。
「けれど、お前には聞こえない」
「どういう――」
「まあ待て。少し昔話をしよう。そう興奮するな。短い話だ。直ぐ終わる」
 鋭い目つきの間島を手で制し、閉じた時同様、ゆっくりと瞼を押し上げた宍戸は、コップの中身をあおる。色合いと泡の湧き具合から見てコークだろう。
 気泡の湧く黒い液体を口に含み、飲み下した宍戸は、唇をひと舐めしてから続けた。
「六年前――いや、もう七年前か。その頃に、この付近のとある高校には不発弾があった。詳しくは知らねぇけど――別に知りたくもねぇけど、まあ、戦時下のものだろうさ。そして、それは見事爆発した。結果、女生徒が一人死んだ」
 そこまで口にしてから、宍戸は間島を一瞥する。
 間島は相当苛立っていた。理都との会話を中断され、聞かされた話が意図の読めない悲劇の物語だったのだ。仕方がないだろう。
 そんな間島の様子に、宍戸は嘆息する。ここまで話しても駄目か。そう呟く。
「何なんだよ、その話は。そもそもどこの学校だ? 俺は聞いたことがない」
「だろうな。反応でわかる。更に突っ込んで話すとしよう」
 宍戸は咳払いをしてから、理都を一度瞳に映す。理都は真剣な様子で一度頷いた。
 中空の媒体を振動させ、昔話が響く。
「死んだ女生徒の名前は、久留間理都」
 間島の鼓膜を、音の波が揺らした。

 しばしの沈黙の後、乾いた笑いが響いた。間島だった。
「はは、笑えねぇよ」
「笑ってるじゃねぇか」
 がっ!
 冷めた瞳で言った宍戸の胸倉に間島が掴みかかる。
 しかし、宍戸は慌てるでもなく、先程と変わらない様子で口を開く。
「お前は過去を忘れているんだ、間島君。過去が『思い出』になっている。良い部分だけを抽出している」
 宍戸は、間島を見つめつつ、そう言った。そして、久留間君、と理都を呼び寄せる。
「そろそろお前は、『思い出す』べきなんだ」
「何を――」
「気付かないのか? 久留間君の容姿は七年前のままだ。久留間君の瞳は、唇は、頬は、全てはあの頃のままだ。彼女の身を包むのは、懐かしき母校の制服だった紺のセーラー服だ。なぜ、気付かないんだ?」
 宍戸は少しだけ悲しそうな顔をした。
 間島はそう感じた。錯覚しただけやもしれない。しかし、そんな気がした。
 ただ、それもその一瞬だけだった。宍戸は直ぐに元の表情を取り戻し、続ける。
「さっきの話には続きがある。女生徒が――久留間君が死んだ場に立ち会った者がいた。久留間君が弾ける瞬間を、少し離れた場所から目にしていた者がいた。彼は、久留間君の同級生だった。彼は、久留間君の恋人だった。彼は――」
 一瞬、ほんの一瞬だけ、宍戸は口を噤んだ。
 しかし、それだけだった。
「間島君、お前だった」
 衝撃が間島の体を駆ける。
 そして、慄く。宍戸の胸倉を離し、一歩下がる。

 ゆら。
 宍戸は間島を追って一歩踏み出す。そして、はっきりとした口調で言う。
「お前は久留間理都が死ぬ瞬間をその瞳と脳髄に刻みつけた」
 右手をゆっくりと上げて宍戸は、近くに来ていた理都の顔を大きな手の平で覆い隠す。
「さあ、『思い出せ』」
 手が除かれる。すると――
 理都が崩れ落ちた。

 それは理都だったのだろう。しかし、それから理都を連想することはできない。
 それは、幾つもの部分が集積された、ただのものでしかない。有機物の片の集合でしかない。
 何本かの指があった。左右どちらかの足があった。名称の判らない臓器が千切れていた。破れた赤のスカーフがあった。
 血の臭いを嗅いだ気がした。しかし、これが霊的な現象であるのなら、血など流れていない。ならば、血の臭いなどしない。
 それでも、間島の鼻腔には確かな血の臭気が溜まる。
 かつて、嗅いだからだ。
 間島幹彦は『思い出した』。

「あああああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!」
 叫んで店を飛び出す間島を見送りながら、宍戸は苦々しく笑った。
「そりゃあ逃げるよな」
 そう呟いてから理都だったものに寄る。宍戸が手を翳すと、それは再び、理都の外見を形成した。
 理都は小さく微笑んでから頭を下げる。
 宍戸は、そんな彼女を不満げに見る。
「本当にあれでよかったのか? あそこまでの荒行を為さなくても、お前が死んだ事実を認識させるくらいできただろうに」
 理都の唇が忙しく動いた。が、その行為で生きる者へ情報を伝達することはできない。鼓膜を揺らし、音声を与えることはできない。
 ただ宍戸のみが、理解した。
「まあ、久留間君がいいならいいが…… ん? ああ、行くのか。それじゃあな。天国とか地獄とかあの世とか、そういうのがあるのか俺は知らねぇけど、そういうとこに行けるんなら、ま、さっさと行ってくれ」
 弱弱しく笑う宍戸。
「正直、トラウマを長年引きずってた間島君じゃなくても、俺でも、元同級生がぐちゃみそなのはなるべく見たくねぇよ」
 よく見ると、宍戸は顔色が悪かった。
 理都は楽しそうな笑顔を貼り付けてから、手を振る。そして、消えた。
 宍戸は理都がいた場所と、間島が出て行った扉を見比べて、とんだ騒ぎに巻き込まれたぜ、と笑う。そうしてから、足を投げ出してごろんと座敷に寝転んだ。深くため息を吐く。
 と、そこで、寝転んだ宍戸の顔を覘きこむ者がいた。

「終わりましたか」
「ああ、終わった。騒がせたな、美智」
 構いませんよ、とカウンタにいた女性――美智は言った。座敷の、宍戸の脇に腰掛け、理都がいた場所を見る。そして、口元に手を当てながら、しばらくお肉は食べられませんね、と笑った。
 宍戸は呆れた瞳を彼女に向ける。
「お前…… 見るなと言っておいただろうに。物好きだな」
「そう仰られると、つい見たくなってしまうものですよ。それにしても――」
「どうした?」
 入り口の扉を見つめて言葉を止めた美智に、宍戸が訊く。そうしながら、彼は腹筋運動の要領で起き上がり、コーク入りのコップに口をつけた。
 美智は艶やかな唇を可笑しそうに歪めて、声を弾ませる。
「間島さんでしたか。彼は一生忘れないでしょうね、久留間さんのことを」
「そりゃなぁ…… 一回『思い出し』ちまったんだ。都合よくまた『思い出』には戻せねぇさ」
「ええ。久留間さんも本望でしょう」
「やっぱそういうことも狙ってたのかねぇ」
「それはそうでしょう。間島さんのことをとても、愛していらっしゃったのでしょうね」
 既に共に在ることが能わぬために、想いを遂げることが能わぬために、そのため、どんな形であれ、彼の記憶の中に留まり続けられる方法を望んだ。その記憶が、肉塊としての自分だったとしても……
「怖ぇ女」
 ぼおぉーん。
 鐘が、一度鳴った。

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