茶色くも白くもない日 大学GW編

 今のままでいいだなんて思ってない。

 新緑芽吹く四月末、私が進学したKS大学は活気づいていた。新入生は希望と共に迎えた大学生活に笑顔が絶えず、在学生はサークルに新人を迎えて力が入っている。講義の時間ともなると静謐がキャンパスを満たすが、ひとたび講義が終われば嬌声と歓声と笑い声で溢れかえる。
 一方で、私は休み時間が好きでは無い。いや、一部例外を認めよう。昼休みと、全学部の授業が無くなったあとの時間は好きだ。来夏や志穂、宗輔に会えるからだ。しかしながら、授業と授業の合間の十分、十五分程度の時間はどうしても好きになれない。過ごし方がわからない。
 私が入部したSLS――スイーツ・ラヴ・サークルの新入生もこの文学部にはいるので、顔を見たことがある人間は一応いる。しかし、だからといって話せるわけではない。ぶっちゃけた話、私自身はスイーツに然程興味がない。来夏が興味を持っているから、私も入っただけだ。SLSで一緒だとしても、共通の話題などないに等しいのだ。
「ふぅ」
 思わずため息が漏れてしまう。あと三分。そして、講義九十分を我慢すれば今日はもう授業がない。来夏と志穂はその次の講義もあるはずだけど、宗輔の農学部はここ文学部と同じで、今の講義枠で終わるはず。学食で彼に何か奢らせつつ、来夏が来るのを待って、SLSに顔を出すことにしよう。
「御堂さん」
 ……誰だっけ? 声をかけてきたのは、おそらくSLSの人だ。けれど名前が思い出せない。
「何?」
「授業終わったあと、一緒にサークル行かない?」
 少しぽっちゃりした見た目で、人懐っこい笑み。SLSの先輩方によく弄られている女の子だ。名前は……やっぱり思い出せない。基本、興味が無いからだろう。
「ごめんなさい。来夏や宗輔と行くから」
 よく知らない人間と群れるつもりはない。この態度は来夏から、最近とみに注意を受けるのだけど、知ったことではない。
「西陣さんと久遠寺くん? 御堂さん、あの二人と仲良いよね。……え、えっとね。わたしもご一緒しちゃ駄目かな?」
 更に食い下がってきやがった。鬱陶しい女ね。
 ぷいっと視線を逸らして、教室へ入ってきた壮年の男性を見やる。近代文学史の講義を受け持つ講師だ。
「先生が来たみたいよ」
「あ。ご、ごめんね。その、あの、またね」
 驚く程に動揺して、彼女がいつもつるんでいる連中のところへ戻っていく。そして、何やらひそひそと仲間内で話しているようだが、どうせ私の悪口とかだろう。耳を傾けても気分が悪くなるだけだから、窓の外でも眺めとこう。
 ……そういえば、あの子の名前は結局何だったかしら?

 五限目がある西陣さんと待ち合わせるため、僕と御堂さんは学食で無為な時間を過ごしていた。普段であれば、御堂さんが僕を弄り倒すという形ではあるにしても、それなりに盛り上がる会話も、今日に至ってはまったく弾まない。
 御堂さんとの付き合いも、西陣さんや来栖さんほどではないけど、それなりに長くなってきた。何があったのかくらいは察しがつく。
「えーと、御堂さん?」
「……何よ?」
 KS大学の学食にはスイーツの種類が多い。僕らの所属するSLSが働きかけた結果らしい。そんなスイーツメニューのひとつ、ミルフィーユを器用に食べながら、御堂さんはもの凄く不機嫌そうな瞳をこちらへ向けた。発する声は地獄の底から響くかのように低い。
 こ、怖い……
 けど、西陣さんや来栖さんにも、御堂さんの現状について適度なてこ入れを頼まれてるし、ここで引き下がるわけにはいかない。……引き下がりたいけど。
「が、学部の授業で何かあった?」
 努めてにこやかに、明るく尋ねる僕。
「別に。いつも通りよ」
 努めず不機嫌に、暗く答える御堂さん。
 やっぱり、いつも通り友だちが出来ないみたいだ。
 そろそろ四月も終わりに近づき、世間はゴールデンウィークに入ろうとしている。我らがSLSでは親睦会をかねた大学構内での二泊三日の合宿を行うらしい。ちなみに、大学構内という残念な宿泊先に落ち着いたのは、予算の都合と聞いている。
 その際には、グループに分かれてお菓子作りを行うというのだが、困ったことに同校出身で組むことが禁じられてしまった。つまり御堂さんは、西陣さんや僕以外の誰かを誘う、もしくは、誰かから誘われないといけないのだ。にもかかわらず、彼女に友だちは未だ出来ていない。
 西陣さんや来栖さんは、いい機会だからもっと積極的に友だちを作れ、とやや突き放し気味だ。それでいて僕には、ちょっと面倒を見てあげて欲しい、と頼んできた。
 とほほ。無茶ぶりにも程があるよ。
 この間の説明会では、二、三名の小規模グループでお菓子作りを行うと言っていたから、最低一人の友人、いや、この際ぜいたくを言わずに知人が居ればいいわけだ。何とかなる……といいんだけど。
「はぁ」
「どうかしたの? 暗いわよ」
 思わずため息をつくと、目つき鋭く指摘された。
 君のせいです、とは言えない。

 講義を終えて、久遠寺くんと玲紗、そしてあたしの三人でSLSの部室へ向かう。
 相変わらず玲紗は機嫌が少し悪い。友だちが出来ないんだろう。
 彼女の物言いは遠慮が無いというか、ぶっきらぼうというか、とにかく怖い印象を人に与えるようで、ファーストコンタクトは大抵失敗する。ただ、じっくり付き合ってみると意外と気遣ってくれるし、たまに笑うと可愛いし、嫌いになる要素はあまりない。小学校からの付き合いのあたしが言うのだから間違いない。
 その辺りを分かってくれる人が出てくれば、友だちの一人や二人や三人くらい直ぐに出来ると思うのに……
「うーん」
「何うなってるの? 悩み事?」
 主に君のことでね、なんて言えない。
「さすが大学とでもいうか、授業が難しくて」
 適当なことを言ってお茶を濁しておく。
「来夏がそんなこと言ってたら、私と宗輔なんて留年確定じゃない。……今のうちに単位の取りやすい講義の情報を兄さんから吸い出しとこう」
「あ、それ僕も知りたい」
 無事に話が逸れてくれたようで何より。ちなみに、あたしは興味のある講義を受けたいな。単位に関しては、努力さえすればどんな講義だって取れるはず。
 と、あれ? 今、視界の端に何か……あ。SLSの子だ。確か、玲紗と同じ文学部の――
「あの! みみみみみみ、御堂さんっ!」
 ぽっちゃり系の女の子がこちらへ駆け寄ってきて、大声を上げた。SLSの新入生歓迎会の時に少し話したくらいで、あまり深くは付き合っていない。それゆえ、名前くらいしかわからない。そんな子だ。
 ……玲紗だったら名前も覚えてないかもしれない。
「あんたは…… どうしたの? 何か用?」
 常に違わず、玲紗は無愛想である。表情筋を動かさずに先の台詞を口にするのだから、声をかけて来た子がオロオロしている。いっそ泣きそうだ。
「その…… あの…… えっと……」
 数秒間、そのようにあたふたとして、女の子は意を決したように真っ直ぐ玲紗を見た。
「合宿で一緒のグループになってくださいっ」
「……は?」
 戸惑った顔を浮かべて、玲紗が間の抜けた声を上げた。
 一方で、あたしは思わず久遠寺くんと顔を見合わせる。意識せずに笑みがこぼれた。他二人の目がなければ、手に手を取り合って民踊舞踏を踊っていたかもしれない。
 そして、しばしの沈黙が流れた。玲紗が口を真一文字に結んで佇んでいる。
 勇気ある告白をした子はビクビクとしていたため、玲紗が機嫌を損ねた、とか考えていたかもしれないけど、実際は緊張しているだけだろう。あの子はあれで、不測の事態に弱い。
 その予想が正しかった証明として、玲紗は一分程経ってから、ゆっくりと頷いた。
「いいけど。別に」
「ほんとっ」
 ぱあああぁあっと笑顔を輝かせる女の子。頬を桜色に染めて、非常に可愛らしい。随分と喜んでいるようだ。
 うんうん。何とも喜ばしい。これで不安なく合宿を迎えられるよ。
「ああああ、ありがとっ。断られると思ってたから、すっっっっっごく嬉しいよぉ!!」
「そう」
 緊張が解けたためか、涙を流しつつ満面の笑みで騒ぎ立てる女の子に対して、玲紗は相変わらずの仏頂面で簡単な返事のみをしている。対象的すぎて面白いくらいだ。
 ……にしても、あの子よろこび過ぎ。そういう趣味の子じゃないよね?

 合宿当日一日目の午後。私とぽっちゃり子は材料の買い出しにやって来た。今さら名前を聞くのもアレかと思い、未だ彼女の姓名が分からない。
 それはともかく、本合宿のアジェンダを紹介しておこう。午前中はお菓子の企画書を作り部長の承認を得る。午後はその材料集めと調理。最後に、夕食の代わりとして各グループのお菓子を試食。これが主立った流れだ。一日目と二日目はそのようにして過ごす。そして、最終日には二年目以上の部員たちがお菓子を作って、新入生に振る舞うのだという。
 一日目は私とぽっちゃり子のグループ、宗輔と名前の分からない女のグループが作る。二日目は来夏とやはり名前のわからない女二人のグループ、そして、同じく名前の分からない女と男のグループが作る。
 私個人は、お菓子作りがそれほど好きなわけではないし、上手くもない。美味しいと言わしめるようなものは作り得ない。そのため、他のグループのお菓子を食べるのだけが楽しみだ。グループで活動しなければいけない状況も面倒だし。
「御堂さん。お砂糖あった?」
 買い物カゴを下げたぽっちゃり子がやって来る。一日二グループしかお菓子を作らないのに対して、SLSのメンバーは総勢二十名になる。お菓子がそのまま夕食になるという特性上、各グループは結構な分量を作るように要求された。そのため、カゴの中身は結構な量になっており、運ぶのも一苦労なのだろう。えっちらおっちら歩いている。
「あったわよ」
「それ塩! 塩だよ、御堂さん!」
 む。そんなベタなことをするわけが…… わお。まごうことなきソルト。
 いけない。いけない。どうもボーっとしてしまったようだ。
「悪いわね。砂糖は……」
「あ。さっきあっちにあったよ」
 にこにこと笑いながら回れ右をするぽっちゃり子。中々に頼りになる。
 おっと、カゴがあった。
 ひょい。
 空の買い物カゴを手に取り、ぽっちゃり子を追いかける。そして、彼女が持ったカゴの中に入っている小麦粉やらイチゴやらを、私の腕に下げたそれに移動する。
「あ、その…… ありがと」
「別に」
 何やら顔を赤らめているぽっちゃり子。赤面症というやつだろうか。忙しい女ね。

「久遠寺くん。何やってるの? 早く材料集めようよ」
 一緒に行動している女の子に急かされ、しかたなく二つのカゴを持って歩き出す。御堂さんたちの様子が気になるけれど、取り敢えずそれなりに仲良くやっているようで安心した。
 というか、何やらおかしな仲になりかねなく見えるのは穿った考え方だろうか? 御堂さんにその気はないと思うけど、どうだろ?
「えっとぉ、これと、あれと、それと…… うーん、これも買っちゃお」
 材料を次から次へと放り込んでいく女の子。
 ……ちょっと買いすぎじゃ? カゴが重くなってきた。

 その日の夕食は当たり外れが大きかった。
 玲紗のグループはイチゴショートを二ホール、バタークッキーを何十枚と作っていた。結果、ケーキはスポンジが上手く膨らんでいなかった。更に言えば、砂糖の量も足りなかったようで、中々に残念なものになっていた。生クリームとイチゴが美味しかったのがせめてもの救いだろう。
 クッキーはクッキーで、あるものは味気なくぱさぱさしていて、あるものは甘すぎて、あるものは盛大に焦げていた。ごくたまにおいしいのが数枚あったけど、本当にごくたまにだった。
 久遠寺くんのグループはチョコブラウニーを大量生産していた。見た目は凄く美味しそうで、おぉ、とため息が漏れたものだった。ただ、ふたを開けてみればスポンジが焦げていた。チョコで塗り固められていたため、見た目も匂いもなんとかごまかせていたけど、当然ながら味まではごまかせない。
 それらはイコール、私たちの一日目の夕食である。
 あたしのチョコで耐性のついている久遠寺くん以外は、漏れなく顔を顰めていた。そして、残りの二グループ――つまり、あたしのグループともう一つのグループである――は、明日頑張ろう、と切実な決意を固めたのだった。

 二日目の午前中。お菓子作り、といってよいのか迷う惨劇を既に越えた私はすることがない。当然ながら、ぽっちゃり子と宗輔たちも同じだ。ゆえに私は、宗輔と適当に遊びに行こうかと思っていたのだが……
「久遠寺くん、久遠寺くん! ほら、行くよ!」
「えっと、あーその、うん」
 彼は一緒のグループの女と一緒に、大学郊外へと飛び出していった。少しばかり戸惑った表情をしていたことから推察するに、『喜んで』ついていったわけではなさそうだ。まったく、あの男は押しに弱い。
 しかし困ったわね。来夏はグループ活動のまっただ中だし、暇になってしまったわ。
「あ、あの、御堂さん」
「……何よ?」
 ぽっちゃり子が挙動不審な様子でこちらを見ている。毎度のことながら、この子は何を緊張しているのやら。
「あのね、先輩方が部室でゲームしたりお喋りしたりするから来ないかって。御堂さんも、その、どうかな?」
 ……先輩、ね。あんまり気乗りしないけど、この子には昨日迷惑かけちゃったからな。
 お菓子作りが失敗に終わったのは主に私のせいだった。ぽっちゃり子の手際は完璧で、独りで作っていたら何の問題も起きなかったことが予想できる。
 その贖罪ってわけじゃないけど、まあ、少しくらいは付き合ってあげましょう。
「いいわよ。行くわ」
 ぱああぁあ。
 満面の笑みを浮かべてこちらの手を握ってくるぽっちゃり子。大げさな女ね。

 先輩方を交えたカラオケ大会というのは中々に緊張する。そもそも何を歌ったものやら……
 一緒に来た女の子は早くもなじんで、流行の歌で盛り上げている。少し来栖さんに似ているかな。
「ほらほら、久遠寺くんも歌いなよ」
「あ、はい」
 そう言って女の先輩の一人がマイクを渡してきた。SLSはお菓子を作ったり食べたりするサークルだけあって、女の人が多い。このカラオケ大会に来ているのも、僕以外は男の人が一人だけだ。そういった事情も僕の緊張を助長する一因ではある。
 ふぅ。まあいいや。歌うのはそんなに嫌いじゃないし……って!
「な、何なんですか、この選曲!」
「覚悟決めろ久遠寺。SLSは女社会だ」
 諦め顔をした男の先輩の言葉。先行きが非常に不安だ。
 きらきらした前奏と共に始まるのは、最近人気の女性グループMWS48のヒット曲。
 裏声は辛いよ……

 いける……! これはいけるよ!
 あたしのパートナー二人はどちらも熟練者のよう。テキパキと下準備を進めて、もう焼きに入っている。大量生産に耐える体力も持ち合わせているらしい。
 あとは、あたしが遊び心を発揮しなければ死角は無い。気絶チョコを作ろうなんて考えない。考えないんだからっ。

 部室ではドンチャン騒ぎが繰り広げられていた。鬱陶しい嬌声、耳を突く笑い声、どれも本当に五月蠅い。これでお酒が入っているわけでも無いのは本当に驚きだ。
 私はそんな部屋の中でちびちびとジュースを飲んでいた。たまに先輩が話しかけてくるが、二、三言葉を交わすと去って行く。暇だ。
「み、御堂さん、あの……」
「ほら、一年だけで固まんないの」
「あ、えと、ごめんなさい」
 何やら声をかけてきたぽっちゃり子は、先輩に連れられて去って行った。せわしない子である。
「あの子、御堂だっけ? 同じ学部の子があんな暗くて残念ね−」
「そんなこと……!」
 ……何とも遠慮無い物言い。まあ、そういう性格の人なのだろう。私は自分が明るい性格とも思ってないし、ある程度は的を射た発言といえる。
 しかし、居心地の悪いこと悪いこと。一旦外の空気でも吸いに行こうかしら。
「ま、あんたはあんたでちょっと太りすぎだよね。今年の文学部は残念シスターズってところかしら」
 うわ。軽い冗談のつもりなのかもしれないけど、さすがに遠慮しろって感じね。
 まあ、別にあんな軽口気にしなきゃいいだけだけど。
「……あ、はい。えへへ」
 曖昧に笑うぽっちゃり子。
 ……ふぅ。
 むにっ。
「ひゃっ」
 腹をつまむと、甲高い声を上げる先輩。
「な、何すんのよっ」
「ああ、いえ。つまみやすそうなお腹でしたのでつい。五十歩百歩という言葉、知ってます?」
 尋ねると、部室が静まった。
 私は肩をすくめて、とっとと扉へ向かう。
「ちょっと外の空気吸ってきます。失礼しました」
 がちゃ。
 扉を閉めると、部屋の中から罵詈雑言が聞こえてきた。先程の先輩が騒ぎ立てているらしい。まったく、鬱陶しい女ね。
 外に出て少し歩くと、噴水のある広場へ出る。大学の敷地というより、公園のようだ。ここは一般にも公開されているため、子供や老人などが集まっている。
 そして、当然ながら、大学生らしきグループもたむろしている。中でも男数人で集まっている奴らはガラが悪そうだ。あまり関わりたくは無い。ちょっと離れとこう。
 ぱたぱたぱたぱた。
「御堂さん!」
 あら。ぽっちゃり子だわ。
 はぁはぁ。
 私の目の前までやって来て、しばらく肩で息をしていた。大急ぎで何をしに来たのやら。
「あの、その、ごめんね!」
「何が?」
 本当に何がごめんねなのやら。さっぱり意味が分からない。
「わたしのせいで先輩方から不興を買っちゃったみたいで……」
「別に。もとから不興みたいだし」
 肩をすくめて見せると、ぽっちゃり子は小さく笑った。
「御堂さんって優しいよね」
「……はぁ?」
「ぶっきらぼうで、あんまり笑ってくれないけど、すっごく優しくて可愛いと思う」
 にぱっ。
 こいつは何を勘違いしているんだろう。おめでたい女だ。
「勝手に言ってれば」
「うん」
 にっこりと、ぽっちゃり子が微笑む。その時――
 どたどたどた!
 乱暴な足音が聞こえてきた。部室のある方向から、先程の感じ悪い先輩が目つき鋭くやって来る。何やら面倒なことになりそうな……あ。
「ちょっとあんた達のせいで、なぜかあたしが怒られ――」
 どんっ。
 言葉の途中で見事に人にぶつかる女。この鬱陶しい先輩は意外とドジっ娘らしい。
「ご、ごめんなさい」
 素直に謝る女。しかしながら、ぶつかったのは、先ほど見かけたガラの悪そうな男共。まったくもって運が悪い。
「おいおい。ジュースこぼしちゃったし。ごめんじゃ済まないぜ、こりゃ」
 ジュースぐらいごめんで済ませよ。てか、『ちゃった』ってあんた。可愛いわね。
 突っ込みどころ満載の男の言葉に、しかし、女はびくびくと視線を落とす。必要以上に怯えている。内弁慶か、こいつ。
「慰謝料代わりにちょっと付き合ってもらおっかな。別に取って食いやしないからさ」
 完全に悪役の台詞を吐く男。天然記念物かってーの。
 青い顔で手を引かれて行く先輩A。
「ったく」
 ざっ。
 一歩前に出て、先輩Aを連れて行こうとする男の真ん前に出る。
 男は訝しげな顔で立ち止まった。
「あ? 何か用?」
「慰謝料も何も、ぶつかったってことはあんたも前方不注意だったってことでしょ。お互い様じゃない。妙な言いがかりつけてうちの先輩つれてかないでくれる?」
 目を瞠る男共と、先輩A。ついでにぽっちゃり子も驚いた顔。
「うわー。ちょー格好いいじゃん。すげぇ」
 ふん。鬱陶しい物言いをする男共ね。いわゆるギャル男ってやつかしら。ケタケタと笑う様がもの凄く腹立たしい。
 彼らの手が私に伸びる。
「俺らロリコンじゃないんで、君みたいな小さい子に用ないの。ちょっとどいててくれな」
 む。失礼な。確かに私はちょっと背が低いけど、小さい子扱いは心外だ。
 まあ、だからといってこいつらに構って欲しいわけではないけど……
 っと、そんなことはどうでもよくて、男の手がこちらに伸びたのはチャンスだ。
 どたっ。
 タイミングを見計らって、私は盛大に地面へと倒れ込んだ。端から見ると、男が私を押して倒したように見えるはずだ。
「ちょ、おま。やり過ぎじゃね?」
「え、いや。俺は何も――」
 さて、あとは悲鳴でも上げて騒ぎ立てればこんな小悪党……
「や、止めてえええぇえええぇえ!!」
 びくっ。
 突然の悲鳴に、男共も先輩Aも、私も肩を跳ね上げる。
 悲鳴を上げたのは、ぽっちゃり子だ。
 私たちの周りに人垣が生まれ、にわかにざわめく。彼らの視線は主に男たちに向けられており、非難めいた声も聞こえる。
「やばっ! 逃げようぜ!」
「あ、ああ」
 男共は呻いて、小走りで去って行った。
 あとには私とぽっちゃり子、先輩Aが残され、野次馬たちはようよう立ち去る。
 危うい局面は乗り越えた、かな。ふぅ。面倒なことに巻き込まれたもんだわ。まったく。
「あ、あの、その…… ありがと」
 先輩Aがしおらしく言った。ツンデレか。
「別に。目の前で攫われていっちゃ寝覚めが悪いと思っただけです」
「あんた、ツンデレ?」
 それはお前だ。
 がしっ。
 ……? ぽっちゃり子?
「だだだだだ大丈夫? 御堂さん!」
 涙目で、えらい焦った様子で尋ねてくる。動揺しすぎ。ま、心配してくれてたんだろうけど……
「問題ないわ」
「よかったぁ…… 先輩も大丈夫ですか?」
「ま、まあね」
 まったく。ぽっちゃり子は人が好いわね。嫌なこと言ったウザイ先輩相手に。ま、こういう馬鹿は嫌いじゃないけどね。
 先輩Aは先輩Aで、まったく同じことを考えていたのだろう。ばつが悪そうな顔を浮かべている。
 ……そうだ。
「時にあんた。名前なんていうの?」
『え?』
 ぽっちゃり子に瞳を向けて尋ねると、当人と先輩Aの声が重なった。ぽっちゃり子の顔はやや哀しそうに、先輩Aの顔は多分に呆れの色がにじんで見えた。

 カラオケ大会から憔悴して帰ってくると、御堂さんが同じグループの女の子や先輩と仲良くしている光景が目に入った。
「ああ、宗輔。この子、如月楓。楓、こいつ久遠寺宗輔」
 それぞれを紹介してくれたけど……
「えっと、知ってる」
「同じ部に入って一ヶ月くらい経ったしね」
 僕も如月さんも苦笑混じりでコメントした。
「そう?」
 そんな、記憶力いいな、みたいな目で見られても…… 御堂さんこそもっと他人を気にするべきだよ。
「ちょっと! あたしは?」
 一人、特に紹介もされずに放置されていた先輩が声を上げた。
「ああ、自己紹介してもらえます?」
「あたしの名前もわかってなかったの!?」
 はは。さもありなん。

 やってしまった…… つい遊び心を発揮してしまった。
 まあ、チョコクッキーのいくつかに特製レシピを注入しただけだけど、見事当たりを引いた人は盛大に呻いていた。ちなみに、久遠寺くんも当たりを引いたうちの一人だったりする。
「来夏。あんた……」
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。つい」
 懸命に頭を下げる。
「でもまあ、いつものよりも控えめな威力だね。加減したの?」
「そう言う問題じゃないでしょ。大事な夕食に激まずな爆弾が混ぜられてても困るわよ」
 遠慮無い物言いなのは当然玲紗。反論の余地がありません。
「えっと、玲紗ちゃん。言い過ぎじゃ……」
 あれ? 如月さん、『玲紗ちゃん』って?
「楓、気をつけた方がいいわよ。来夏は人をチョコで気絶させることを目指すはた迷惑な女なんだから。当然ながら、このチョコクッキーは殺人級よ」
 へえ。『楓』か。思わず頬が緩む。
 じろっ。
 玲紗がこちらに鋭い瞳を向けた。
「……何よ?」
「べっつにー。」
 ふふ。よかった。
 さあて、当たりを引いちゃった人たちに謝って回らなきゃっ。まずは、思わずにやけちゃう顔を引き締めないとね。

「何かいいことあったのね?」
「別に」
「合宿、楽しかったみたいだな?」
「まあまあよ」
 ばたん。
 帰るなり質問、というか念押しみたいな声かけを浴びせてくる母さんと兄さんを適当にいなして、さっさと部屋へ引っ込む。何を持って『いいことがあった』とか、『楽しかった』とか決めつけたのやら。
 ばふっ。
 緩い合宿だったとはいえ、何だかんだで緊張していたのだろう。ベッドに倒れ込むなり、気持ちよくて眠ってしまいそうになる。
 まずいまずい。せめて歯を磨いてから昼寝しよう。スイーツ三昧の昼食後にそのまま寝るなど、虫歯の温床になりかねない食生活だ。
 自室を出て洗面所へ向かう途上、先輩方の作ったスイーツに思いをはせる。
 私と楓は、例の先輩Aに掴まってスイーツをご馳走された。彼女はフィナンシェとプリンを担当していたのだが、どちらも中々に美味だった。人はみかけによらないというか何というか。そのままの言葉で評したところ、彼女はまた怒り出したが、怒っている様が先輩ながら少し可愛く思えてきた。
 あと、部長のクッキーは絶品だった。表面はサクサク、中はしっとりという、あまりお目にかかれない食感は人気を呼び、先輩方が用意したスイーツの中でもいち早く無くなった。二、三枚しか食べられなかったので、機会があればまた作って頂きたい。
 と、そういえば、楓は県外から来ているらしい。普段つるんでいる連中も同郷なのだという。今度紹介するとか言われたけど、よく知らない連中を紹介されても少し困る。そんなことを言ったら軽く怒られた。まったく、来夏や志穂じゃないんだから、私に説教なんて百年早い。
 きゅっ。じゃー。
 蛇口をひねって、顔を洗う。眠気までは消えないが、それでも少しすっきりした。
 ふぅ。……ん?
 顔を上げて鏡を見ると、そこには随分と機嫌の良さそうな女が映っている。当然ながらその女は、私だ。
「……なるほど、『楽しかった』みたいな顔ね」
 まったく、我ながら気味の悪い顔である。

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