幸多き非日常の刻

 その日、長篠(ながしの)家は龍ヶ崎町(りゅうがさきちょう)を離れて電車に揺られていた。冬流(とうる)と夏茄(かな)、秋良(あきら)、春風(はるか)はボックス席に座って、ゆったりとくつろいでいる。
 彼らは今、耶麻口県(やまぐちけん)、新耶麻口駅を目指して西へと向かっていた。
「春風さん。みかんくれ」
「はい。どうぞ、冬流ちゃん。秋良さんと夏茄は?」
「もらおうかな」
「私も」
 もきゅもきゅ。
 東卿(とうきょう)駅で買ったみかんを各々で口にして、その甘味と酸味に頬をゆるめる。
「ちょいと季節外れだが、旨いな。もう1個くれ」
「んー。5個しかないし、残りはじゃんけん――」
「私はいらないよ」
「私も。それより、さっき売店で買った雑誌ちょーだい」
「イエー! んじゃ、俺のー!」
 冬流がテンション高くみかんを奪い取る。
 譲り合いの心を解さない29歳である。
 春風は苦笑しつつ、KIOSKEの袋からティーンズ誌を取り出す。
「はい。夏茄」
「ありがと。桜莉がお気にの読モが載ってたんだ。写メって教えようと思って」
 ぱらぱら。
 ページを繰って目的の記事を探し当てる。
 そして、ケータイをポケットから取り出した。
「えっと、カメラ機能を――」
 プルルルル! プルルルル!
「うわっ! マナーモードにするの忘れてた…… ちょ、ちょっとデッキいってくるね」
「長電話しないようにね」
「はーい」
 タタタ。
 小走りで通路を進み、自動ドアを潜る。
 ピッ。
「はい。どちらさまですか?」
『夏茄ちゃん? シーズン出版の四季です』
 電話の相手は四季弥生だった。彼女はシーズン出版社の編集者であり、児童文学作家如月睦月(きさらぎむつき)先生の担当編集である。
 その如月睦月というのは実は、みかんを2個手に入れてテンションを上げていた夏茄の叔父、長篠冬流その人のことである。
 相手が弥生であったことに、夏茄は小首を傾げる。前に電話番号を交換してはいたが、叔父にならともかく、弥生が夏茄に電話をするというのは、どういった用なのか全く想像できなかった。
「弥生さん? こ、こんにちは。夏茄です。えっと、何かご用ですか?」
『夏茄ちゃんに用っていうかね…… 如月先生、いる?』
 やはり冬流に用であるようだ。であれば納得だと、夏茄が得心する。
 しかし、一点疑問が残る。
「いますけど…… 叔父さんのケータイに直接かければいいんじゃ……」
『ああ。あの人、私のこと着拒してるみたいだから』
「はあ!?」
『あはは。締切前はいつもそうなのよ。……てか、もう締切後なんだけどね』
 前半は不自然なほどに機嫌良く、後半は明らかに機嫌悪く、弥生が言う。
「……あ、えっと、叔父さんに替わります。はい」
 タタタ。
「叔父さん。叔父さん」
 夏茄が席に戻って冬流を手招きする。
「何だ?」
「叔父さんに電話。いいから来て」
 弥生の名を出すと冬流が忌避する可能性が高いだろうと読み、夏茄は事情を説明せずにただ手招きした。何か質問が飛んでも、いいから、のひと言で済ます。
 そして、まんまと叔父を誘き出すことに成功した。
 タタタ。
 デッキまで移動し、ようやくケータイを冬流に渡す。
「もしもし。ったく、誰だよ」
『締切10日過ぎてるのにそのまま旅行に行くとかなに考えてるんですかッッ!!』
 夏茄の耳にも届く大声が響いた。あたかも、ハンズフリーにしていたかの如くである。
 冬流は耳を押さえて低く呻いている。
「……こ、鼓膜やぶる気か!」
『腕と頭さえご無事ならどうでもいいですよ。耳で執筆されるわけではないでしょう?』
「てめえ……!」
 冬流がケータイを睨み付ける。TV電話というわけでもないため、全く意味がない。
『とにかく、帰っていらしてください。旅行先は耶麻口でしたよね。卿都(きょうと)駅で下車して引き返して貰えます?』
「やだよ」
「やだよ、じゃないでしょ! 締切って、4月20日の中編でしょ? 終わったって言ってたじゃん!」
 夏茄が叫ぶ。
 だからこそ、冬流もまた新幹線に乗り込む運びとなったのだ。そうでなければ、独りだけ留守番する予定だった。
「ほら、エイプリルフールじゃん?」
「それ月の頭! っと、今日が4月30日でしょ? 龍ヶ崎町に戻るのが5月3日の予定だから……」
『5月3日に第1稿だされても、まず間違いなく落ちますからね。如月先生、いつも寝不足状態で無理矢理原稿あげてくるから、誤字脱字とか、つじつまが合わないとか、そういうの多いですし』
 冬流と夏茄の会話がだいたい聞こえていたらしい。弥生が割り込んだ。
「じゃあ、作者急病のため、だな」
「叔父さん!」
『先生!!!』
 怒声がユニゾンで責める。
 はぁ。
 電話口から吐息が聞こえた。
『5月15日発売号は普段よりも予約注文が増えています。これは、先生の代表作『三大陸幻想譚』の中編が載るからと考えて間違いありません。休載となればどれだけの人がガッカリするか……』
 如月先生は意外と人気があるらしい。
「つってもなぁ。まだ半分くらいしか書けてないぜ?」
「叔父さんが胸を張るところじゃないよ」
『まったくもってその通りです。ふぅ。では、旅行はこのまま続けていただいて結構です。ただし、その書けている半分を私にメール送信してください。そして、続きは旅行中に書いていただきます。キリのいいところで続きもメール送信していただいて、こちらでは、先生の執筆と平行して校正作業に入ります。それならギリギリなんとか……』
 本当にギリギリの進行になるだろうが、5月3日に全稿を出されるよりはマシと判断した。
「PCもってきてな――」
「持って来てましたんで送らせまーす。あと、ちゃんと書いてるか監視もしときまーす」
 叔父の言葉を遮って、姪御が言う。
 彼女の叔父上殿は何だかんだで真面目なのか、荷物にしっかりモバイルPCを含めていた。WiMIXという無線ネットワークにも繋げるマシンのはずだ。
『お願いね、夏茄ちゃん』
「はい。私に出来ることはします」
『……先生』
「あー?」
 やる気なさげな声が、電波に乗ってシーズン出版社まで届く。
 編集者はデスクに姿勢良く座り、頭を下げた。
『龍ヶ崎町からも予約注文が入ってました。おそらく、あの夏茄ちゃんと同級生の子――黒輝雪歌(くろきせつか)ちゃんでしょう。6年、7年と根強く支持してくれているんですから、期待を裏切らないようにしてあげてください。お願いします』
「う……」
 そう下手に出られると、冬流は弱い。何だかんだで人が好いのだ。
 夏茄の友人である黒輝雪歌が話題に上がったことも大きい。雪歌は本当に長くファンでいてくれるし、素直に慕ってくれるため無碍に出来ない。
 その上――
 ぽんっ。
「あ?」
「雪歌泣かせたら殴るから」
 にっこり笑顔で姪御がのたまった。
 冬流が諦めたように息をつく。
 はぁ。
「わかったよ。とりま、書けてる分は送る。んで、続きも気合い入れて書こう。特別だぞ?」
『ありがとうございます。よろしくお願いします、先生』
 はらわたを煮えくりかえして怒鳴りつけてもいいというのに、四季弥生が素晴らしい大人の対応をした。
 立派である。本当に。

 新耶麻口駅に到着した。そのままの足で予約していたホテルへ向かう。
「ツインを2部屋ご予約の長篠様でございますね。お待ちいたしておりました。それでは、お部屋にご案内させていただきます」
 受付の言葉を受けて、ボーイが歩み出る。
 長篠家の面々は彼に続いて進む。エレベーターに乗り込んで、3階を目指した。
 チーン。
 ほどなく上昇を終え、部屋ナンバー324と325に案内される。
「324を私と冬流で、325を春風と夏茄で使おう。食事は――」
「ホテルの食堂は20時30分がラストオーダーとなっております」
 秋良の視線を受けて、ボーイがにこやかに説明した。
「今が18時30分か…… 少し休んでから――19時30分くらいに行こうか」
「つか、外に食いに――」
「行ってる暇ないでしょ? 新幹線の中であんまり書けてないんだよね?」
 叔父の言葉を姪御が遮る。
「な、何言ってんだ。もう終わるっつーの。あと数行だぜ」
 目を泳がせて冬流が言う。まったく信用できない。
「弥生さんからはまだ2回目の受領メール来てないけど?」
「は?」
「弥生さんと話して、叔父さんから原稿受領したら私にメールして貰うようにしたの。1回目の受領メールは来たけど、そのあとは全くだよ?」
 夏茄の冷めた視線を受けて、冬流が呻く。
「夕飯まで頑張んなね」
「くっそ」

 こんこん。
 ノックの音が響いた。時刻は22時。ホテルマンが訪れるには遅い。
「はい?」
「お父さん。私。開けてー」
「ああ。夏茄か。どうした?」
 がちゃ。
 ドアを開けて、秋良が尋ねる。
「叔父さん。ちゃんとやってる?」
「あー。やってるぞ」
 目を逸らす父。信用できない。全く。
 夏茄は嘆息して、324号室に入る。
「んー。地方局の番組も結構頑張ってるよなー。全国区のより面白いじゃん」
 寝っ転がってテレビに興じる馬鹿の姿があった。
「叔父さん!!」
「おわ! か、夏茄! こ、子供はもう寝なきゃいかんぞ」
「まだ22時だよ! それより――」
 怒り顔の姪御を、叔父がまあまあと宥めにかかる。
「ほら、あれだよ。あんまり言われるとやる気がなくなる思春期特有のあれだ」
「29歳が何を言うかな!」
 ごもっともだ。
 夏茄が嘆息して、言葉を繰る。
「お母さんとも話してたんだけど、4分の1――原稿用紙25枚分を書き上げられなかったら、明日の夏芳洞は留守番してもらうから」
「はああぁあ!?」
 夏茄の宣言に、冬流が叫ぶ。腹の底から叫ぶ。
 此度の旅行において、夏芳洞に行きたいと言いだしたのは冬流だった。一番楽しみにしているはずだ。
「決めたから」
「横暴っ!」
「嫌なら書けばいいんでしょ。そもそも締切が4月20日だった時点で、叔父さんに文句言う資格なし。んじゃ、頑張って」
 スタスタ。
 言うだけ言うと、夏茄は部屋を出て行った。
 呆然とベッドに座り込む冬流。
「……まあ、頑張れよ」
「……おう」

 翌朝6時、夏茄のケータイには無事、弥生からのメールが届いていた。メールには進捗具合も書かれており、全稿の8割、9割は受信済みとのことだった。
「ふあぁ。叔父さんも餌があればちゃんとやるんだね。まったく、世話のかかる……」
 寝ぼけ眼で身を起こす。そうしながら、隣のベッドに視線を向けた。
 春風がすやすやと寝息を立てていた。
(いつも早く起きてご飯の準備とかしてるんだもんね。旅行中くらいはゆっくりしてもらわなきゃ)
 物音を立てないように着替えて、鞄の中の雑誌を取り出す。そして、部屋を出る。ロビーでぼうっとすることにした。
 エレベーターに乗って下降する。直ぐに1階へ着いた。
 チーン。
 ロビーには既にスーツ姿の人がちらほら居た。ゴールデンウィーク中とはいえ、お仕事で忙しいようだ。
 頑張って下さい、と心の中でのみ激励をしつつ、ロビーを見回す。ゆったりと座れるところを探した。
(あれ?)
 その時、見知った後ろ姿を瞳に入れた。
「叔父さん?」
「ふおっ。……おぉ、夏茄。おはよーっす」
 冬流だった。
「おはよう。出発するまで寝てるのかと思ったけど…… 早起きだね」
 夜遅くまで頑張っていただろうことを思うと、朝6時に既に起き出しているのは流石に辛いのではないだろうか。
「いや、つーか、寝てねぇし」
「へ?」
「調子出てきたんでな。夜中に降りてきてずっと書いてた。9割方書いたぞ。弥生のチェックが入った前半部も返ってきたし、そっちもちょこちょこ手直ししてた」
 そのやる気をもっと早く出せばいいじゃないか、と嘆息する姪御を尻目に、冬流が椅子にぐったりと沈む。
「ふあぁあ…… ねみぃ」
「ペース配分って知ってる?」
 14歳が頭を抱えた。

 長篠家の面々が、耶麻口県實彌村へとバスで至る。
「ありがとうございました」
 運転手に一礼して降車する。
 春の温かな日差しが彼らを照らした。
「んー。いい天気ね」
「そうだな。行楽日和だ」
 夫婦が穏やかな表情で呟く。
 一方で、彼らの弟がぐったりしている。
「大丈夫? どっかのお店で休んでたら?」
「……い、いいや! それじゃ、何のために昨日頑張ったのか分からん!」
「読者のため、でしょ?」
 それはそうだ。観光のために頑張るのがそもそもおかしい。
 けれど、そんな正論を馬鹿は聞きたくないのだ。
「うっさい! とにかく行くぞ!」
 妖しい足取りで、冬流が道路を先へ行く。十字路を左に折れた。
 他3名も、苦笑して後を追う。

 夏芳洞は自然の鍾乳洞であり、かつて天皇陛下も訪れたらしい。
 何百年、何千年とかけて形成された自然の神秘は、多くの人の心を魅了する。
「わあ…… 凄いね。広いし、綺麗だし、こんなのが自然に出来ちゃうんだね」
「そうねぇ。冬流ちゃんが来たがるのも分かるわねぇ」
 母娘がゆっくりと歩みながら、感嘆した。
 一方で――
「うおおぉお! ここ登れるみたいだぞ! 行こうぜ、兄ちゃん!」
「ま、待て! お前、寝不足でそんなところ登ったら危ないぞ!!」
「だいじょぶだって! ほれ、勇気を出して行こうや!」
「勇気と無謀をはき違えるな!」
 いい歳した兄弟が騒いでいた。非常にうるさい。
 他の観光客が眉を潜めている。
(他人のフリでいいよね)
 紅い顔をして、姪御が縮こまった。
 一方、春風は彼らを瞳に映して――
「あらあら」
 楽しそうに笑った。

 夏芳洞を抜けて、長篠家の面々は今、夏芳台と呼ばれる台地を眺めている。
 爽やかな風が薫り、頬を撫でていく。
 その心地よさに皆が瞳を細めるなか――
「うぅ……」
 約1名がぐったりとベンチに座り込んでいる。
 家族は相手をするのが面倒になったようで、彼をほったらかしにしている。
(薄情者めぇ)
 冬流が恨みがましい目を家族へ向けた。
 しかし、自業自得である面が強いため、同情の余地はないと言ってよいだろう。
(このあとまたバスに乗って湯田温泉にいくだろ? 保つかね……)
 少々不安を覚えていた。
 湯田温泉まで無事に着いたとしても、さらに執筆活動に勤しむ必要がある。恐らくは、明日の宮島・厳島神社観光についても、本日の進捗具合で留守番可否を決められる可能性が高い。予断は許されないのだ。
(うおおおぉお! 日の本の地に宿る気の力よ! 俺に奇跡を授けてくれえ!)
 馬鹿が居た。
「お兄さん、だいじょぶなん?」
 心配そうなソプラノの声音が響いた。
「……は?」
 冬流が顔を上げると、いつの間にやら女性が隣に腰掛けていた。知らない顔だった。
「あんた、誰だ?」
「うちか? うちは辰野亜依いいます。實彌村の観光協会に勤めてますねん」
 にぱっ。
 元気よく笑う女性からは、とめどなく陽の気が注がれる。
「それより、具合悪いん? 何なら協会で休みます? 宿の手配もどうや?」
「……いや、いい。このあと湯田温泉までバスで行くんだ。ここでゆっくりはしてらんねえよ」
 項垂れて、冬流は辰野を見ずに乱暴に言い放つ。
 対して、辰野は腹を立てるでもなく微笑む。
「そうなん? ほな――」
 ぱぁ。
(ん? 何だ、このあったけえ光。体調も治ってきたぞ……)
「出血大サービスや。實彌村のこと好きになって帰ったってな」
 そんな声が聞こえて、冬流は再び顔を上げた。
「……へ? さっきの女は――」
 どこにも居なかった。
 辰野と名乗った女の声は、つい先頃まで聞こえていた。それは数秒前のことだ。
 当然、彼女がどこかに身を隠す暇などない。
(夏芳洞には河童の伝説があったな…… まさか……!)
 ある考えに至り、冬流が勢いよく立ち上がる。
「河童のご加護かッッ!!」
「あ。何か分かんないけど、叔父さんが回復したみたい」
「なら行くか。そろそろバスの時間だろう?」
「そうね。温泉、楽しみだわ」
 馬鹿に構わず、長篠親子が荷物を背負う。そして、歩みを進めた。
 ぐっと拳を握った29歳の阿呆が、独り残される。

「はあ…… 気持ちいいねぇ、お母さん」
「そうねえ……」
 温泉にどっぷりつかって、夏茄と春風がゆっくりしていた。
 ぼけーっと呆けている。
 数分ほど、湯の波打つ音だけが聞こえていた。
「いい湯だな、はははん!」
 突然、歌声が聞こえた。
 春風が男湯に視線を向けて、苦笑する。
「あら。冬流ちゃんね」
「……まったく、恥ずかしいなぁ」
 ため息をついて、夏茄が言う。そうしてから、桶の中に手を伸ばす。
 そこには、防水ケースに入ったケータイがあった。
「18時30分…… 宿のご飯、何時だっけ?」
「19時からにしてたはずよ。そろそろ上がりましょうか」
 ざぱあっ。
 湯から、メリハリのある肢体が露わになる。
 対して、いまだ湯につかる身体はすらりと凹凸がない。
(大丈夫。私はまだ成長期…… 育ち盛り……)
「どうかした?」
「な、何でもない。行こ、お母さん」
 ぎこちない笑みを浮かべる夏茄に、春風がにっこりと微笑み返した。
「ええ」

「ふくー!!」
 旅館の一室にて、ふく料理を前にして冬流が騒ぐ。
 眠気はすっかり飛んだらしい。
「ふく? ふぐじゃなくて?」
「耶麻口ではふくと言うんだ。郷に入っては郷に従え、だ」
 びっと親指を立てて、冬流が言った。
 いちいち動きが子供っぽい。さすがは『龍ヶ崎町の29歳児』の異名をほしいままにする男である。
「ふーん。あ、お父さん。お醤油とって」
「ああ。ほら」
「ありがと。あ、叔父さんもいる?」
「おう」
 小皿にしょう油をそそいで、各々ふくちりに舌鼓を打つ。
 その時、部屋の扉が開いて、仲居数名が姿を見せる。
「おー、鍋かー! なーべーなーべー!」
 更にテンションを上げる冬流。
 テキパキと準備が進み、鍋が火にかけられた。
「煮だったら蓋を開けてください」
 そう言い置いて、仲居は部屋を辞した。
 冬流は刺身・唐揚げ・白子と食しつつ、鍋の様子をしきりに窺う。
「まだかな、まだかなー」
「ちょっと落ち着きなよ、叔父さん」
「だってよー。早く食いたいじゃん?」
「あんまり何度もふた開けると、鍋できるの遅くなると思うけど」
 もっともな意見である。しかし、堪え性のない子供は聞く耳を持たない。
 あいかわらず、まだかなーと呟きながら、何度もふたを開ける。
「一杯どうぞ、あなた」
「ああ。ありがとう」
 夫婦は弟に構わず、日本酒に手を着ける。
 それを見ると、冬流が元気よく手を上げた。
「あ! 俺も俺も!」
「叔父さんはダメ。今日もお仕事しないと、でしょ?」
 彼に休む暇などないのだ。
「ぶーぶー! 横暴だー!」
 そんなことはない。決してない。
「9割方は書けたんでしょ? あとちょっとじゃん。頑張んなよ」
「そーだけどよぉ。っと、煮だった! いよっしゃああぁあ!!」
 煮だっただけではまだ完成とは言えまい。
 全体的に火が通っていないのは、見た目から明らかだ。
 ぺしッ。
「はいはい。もうちょっと待つ」
「ぶーぶー!」

 翌朝、弥生からのメールには、全稿を受領した旨が記されていた。しかし、まだ手直しが必要な箇所があるため、今日明日もまた協力して欲しいと書き添えられていた。
(勿論です。ご迷惑おかけしてすみません。っと)
 返信しつつ、夏茄はほっとひと息つく。
 まだ手直しが必要とはいえ、全く見通しがたっていなかった時から比べると、天と地との差である。
(今日は廣島に移動して、宮島観光だったよね。で、そのまま旅館に泊まって…… 宮島はお父さんの希望だったけど、叔父さんも興味津々っぽかったし、大人しくしてないだろうな。とすると、移動中と旅館についてからがお仕事タイム、かな。それなりに目処つけるまで頑張ったんだし、観光させないってのはさすがに気の毒――というより、効率悪いよね)
 もはやマネージャーのようである。
 すやすや。
 気持ちよさそうに寝息を立てている父母と叔父。3人ともぐっすり寝入っている。
 時間は6時30分。10時1分の電車で耶麻口から発つことを考えると、2度寝をするのは危険な時間帯と言えた。
(んー。今日もロビーで雑誌でも読んでよっかな)
 立ち上がって、鞄を漁る。目的の物を取り出して――
 ぱたん。
 部屋を出た。

 潮の香りが鼻を突き、波の音が耳朶に心地良く響いた。
 ぷおおおおぉおお!
 汽笛が潮風に乗って遠ざかっていく。
 廣島県宮島口からフェリーに乗って、長篠家は宮島へ移動していた。
「おお。あれが大鳥居か。TVで観た通りだなあ。なあ、春風」
「ええ、あなた。それで、その奥にあるのが厳島神社ね。神さまとかどうでもいいけど、アレは素直に凄いわね」
 信心深い者が聞いたら眉を潜めそうなことを、春風が平気でのたまう。
「着いたら12時20分くらいだし、まずはご飯?」
 夏茄が尋ねると、秋良が頷いた。
「ああ。フェリー乗り場から厳島神社へ向かう途中に、あなごめしのお店があるらしいから、そこにしよう。牡蠣は予約してる旅館の夕食で出るしな」
 ざわざわ。
「わー。楽しみー」
 ざわざわ。
「こんな時期だし、混んでないかが心配ねぇ」
 ざわざわ。
 まわりの騒々しさを意に介さず、長篠家の3名がお喋りに興じる。
 そして、残りの1名はというと……
「うおおおぉお! かーっちょいいいぃい! 宗像三女神ふぉおおおぉお!!」
 叫んでいた。
「……船員さんに知らせた方がいいかしら?」
「お母さーん。あのおじさんへーん」
「しっ。指さしちゃいけませんっ。関わり合いにならない方がいいのっ」
 恥ずかしく、悪目立ちしていた。
(宮島に着くまでは他人のフリ、他人のフリっと)
 きらめく海面を注視しつつ、長篠家の3名は自己防衛を決め込んだ。

 あなごめしに舌鼓を打った4名は、2組に分かれて行動することにした。
 秋良と冬流の兄弟組は、寺社仏閣を訪ねる歴史の旅へ向かう。
 春風と夏茄の母娘組は、宮島水族館にて生命の神秘を究める。
「今が13時30分くらいだから、16時30分にフェリー乗り場に集合しよう」
『はーい』
 秋良の言葉に返事をして、各々が歩みを進める。
 兄弟は厳島神社へ向かった。
 母娘は厳島神社に続く道を横目に直進し、水族館を目指す。
「ねえねえ、お母さん。イルカとかいるかな? いるかな?」
 瞳をキラキラと輝かせる娘へ、母は慈しみに満ちた視線を向ける。
「どうかしらねぇ。いるといいわねぇ」
「うん!」
 夏茄が本当に楽しそうにしている。
 彼女は動物番組でキモく身もだえするほどに、動物好きなのだ。
(あぁ…… 夏茄がこんなに可愛いのって何時ぶりかしら。眼福だわあ)
 親バカっぷりを隠すでもなく、ニヤニヤ笑いを浮かべて母が道を行く。
 義弟に負けず劣らず、関わり合いになりたくない様をしていた。

 その時――
「厳島ああああぁああ!! うおおおおおおおおおおおおおおおぉおおお!!」
「はっはっはっ。冬流は元気だなぁ」
 兄弟は他の追随を許さないほどの近寄りがたさを誇っていた。

 そしてそれは――
「ふああああぁあ! ペンギンかわいいいいいいいぃいいぃい!!」
 姪御も一緒だった。
「ままー。あのおねーちゃん……」
「しっ。見ちゃいけませんっ」
 幼稚園児から小学校低学年の男児・女児が集うなか、中学生の夏茄はたいそう目立った。
 しかも、テンションの上がり具合が異様である。
「きゃあああああぁあああ!」
 下がる気配も一向にない。
「何だかんだで、冬流ちゃんに似てるわよねぇ。あの子。そこが可愛いんだけど」
 かしゃかしゃかしゃっ!
 母は苦笑して、娘を写メで激写した。

「アシカショーがねッ! 凄かったんだよッ! あとねッ! ペンギンとのふれあいコーナーがあってねッ!」
 宮島を辞して旅館に着いてからも、夏茄のテンションは下がりきっていなかった。
「何をッ! 厳島神社だって凄かったぞッ! 回廊ッ! 拝殿ッ! 本殿ッ! 大鳥居ッ! 宗像ッ、あッ、三女神いいぃいッッ!!」
 冬流のテンションはもっと酷かった。正直、賛同しがたい。あまりにも酷い。
 そんな子供たちを見る大人の視線は、温かい。
「いやあ、冬流も夏茄も、可愛いなぁ。宮島に行ってよかったな、春風」
「ええ。夏茄のレアショットを撮れて、私はご満悦です」
 浴衣に身を包んだ秋良、春風が言った。とても満足げである。
 あとは宮浜温泉につかり、牡蠣料理に舌鼓を打つだけだ。
「あ、そだ。叔父さん、メールチェックした? 弥生さんからチェック済み原稿戻ってきてるんじゃない?」
「お前…… 突然、現実に戻ったな。つか、飯くって温泉はいってからでいいじゃん?」
「ダーメ。迷惑かけてるんだから、ちゃんと誠意をみせなきゃ。それに、致命的な矛盾がありましたーとかって返信きてたらどうするの?」
「ったく、うるせえなあ。縁起でもねえしよ」
 そのようにグチグチ言いながらも、冬流は鞄を漁る。モバイルPCを取り出して、電源ボタンを押した。
 PCは直ぐにスリープ状態から復帰する。
 ぴこりん。
 電子音が鳴ってPCが立ち上がる。
「さて、と。メーラーを起動して送受信ボタンをプッシュ!」
「あ、そうだ。あなた。冬流ちゃんの写真とか撮ってるなら送ってくれない?」
「ああ、いいぞ。春風も夏茄の写メ、私に送ってくれ」
 送受信という単語から連想したのだろう。夫婦が宮島でのそれぞれの成果物を交換した。
 秋良と春風がホクホク顔でスマホ画面を凝視する。
「お父さん。お母さん。交換するのはいいけど、他の人には絶対見せないでよ? 私のクールなイメージが……」
 そんなものは、ない。
「げっ。まだ手直しさせるのかよ。めんどくせー」
「その口ぶりだと大した手直しじゃなさそうだな」
 メールチェックを終えた冬流のぼやきを耳に入れて、秋良が言った。
「んー。まあ、2、3時間で終わるかなー。明日の帰りはゆっくり出来そうだぜ」
「ゆっくりって言っても朝は今日より早いからね。あんまり夜更かししないでよ?」
「明日は9時出だったか?」
「えーと…… 廣島駅を9時13分発だから、宮島口駅を8時27分発でしょ。うん。旅館を出るのは8時ね」
 春風が手帳を取り出して、明日の予定を開示した。
 モバイルPCを閉じ、冬流が不満に頬をぷくっと膨らます
「えー。27分発なら8時出じゃなくてよくね? 8時10分とか」
 可能な限り眠っていたいようだ。春眠暁を覚えずというやつだろう。
 しかし、そのような惰性を許さない者がいた。
「何いってるの、叔父さん! 行動は早め早めに! 基本でしょ!」
「えー」
「えー、じゃない! しっかりしてよ! もっと熱くなれよッッ!!」
 熱血夏茄ちゃんだった。
(うぜえ…… まあ、仕方ねえっちゃーねえけど)
 こんこん。
 その時、ノックの音が響いた。
 岩牡蠣料理三昧という謳い文句の夕飯がおでましのようだ。

「次は終点、東卿。東卿。お忘れ物のないように……」
 新幹線内にアナウンスが流れる。
 長篠家はようやく東卿まで戻って来た。地元、龍ヶ崎町まではまだしばらくかかる。
 しかし、彼らはまっすぐ龍ヶ崎町に足を向けず――
「さあ、叔父さん! 弥生さんにメール送った?」
「おお。送った、送った」
「お父さん! 忘れ物はない?」
「ん…… ああ、ないな」
「お母さん! 次の電車は?」
「10分後に卿浜東北線(きょうはまとうほくせん)ね」
 春風の回答を耳にすると、夏茄は勇み足でデッキを目指す。
 降車のための列はまだ短い。
「10分後となれば急がなきゃ! ほら、叔父さん! 早く!!」
「いや、都心の電車って数分おきに来るだろ。別に遅れても――」
「やる前から諦めちゃダメ! もっとやる気出して!」
 昨日に引き続き、熱血夏茄ちゃんだった。
 キャリーバッグを引きつつ、張り切って通路を行く。
「さあ! いざ、上野へ!」

 その日、日本のとある地にある動物園は、たいそう騒がしかった。

「きゃあああああああああああああああああああああ! かああああああああああいいいいいいいいいいい!」
「うおおおおおおおおおぉおおおおぉおおおおおぉお! 白黒おおおおおおおおおおおおぉおおおおおぉお!」
 ジャイアントパンダが笹を食べていた。

「お鼻ながあああああああああぁあああぁあいッッ!! おっきいいいいいいいいいぃいいいいぃいッッ!!」
「ぱおおおおおおおおおぉおおおおおおおぉおおおおおおぉおおおぉおおおおぉおおおぉおおぉおんッッ!!」
 象が巨体に水をかけていた。

「み、みんな可愛いよおぉおぉお! 連れて帰りたいよおおおおおぉお! はうああああああぁあああぁあ!」
「うきゃきゃきゃきゃきゃきゃッ! うっほ、うほほ、うほほほほほッ! 夢喰いごめえええええぇえんッ!」
 ニホンザルが親子で毛繕いしていた。ゴリラが胸をどんどこ叩いていた。バクが寝ていた。

「はしゃいでる夏茄は可愛いわねー。眼福ねー。シャッターチャンスねー」
「冬流も何だかんだで楽しんでるようで、やはりシャッターチャンスだな」
 ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ!
 激写の嵐だった。

 すぅ。すぅ。
 窓から一日の名残が差し込む中、がたんがたんと規則正しく響く音に寝息を乗せて、小さな子供と大きな子供が寝入っていた。
 13時頃からたっぷり5時間はしゃいだのだから、疲れて眠ってしまうのも当然だろう。
 そんな彼らを、夫婦がにこやかに見つめている。
「行ってよかったわね」
「ああ」
 幸福の気の力が満ちる時間。何物にも代えがたい大切な刻である。

 5月3日、19時。シーズン出版で眠い目を擦りつつ、四季弥生がPCの液晶画面を注視していた。
(原稿はこれでいいわね…… あとはアレをしてコレをして、止めていた印刷業者に電話して…… あ。夏茄ちゃんにもお礼の電話しなくちゃ。あと、先生には多少文句を言ってもいいわよね、うん。電話替わってもらおう)
 懸命に頭を回しながら、栄養ドリンクをぐいっとあおる。
 そうしてから――
 はああああああぁあ……
 大きくため息をついた。
「……ゴールデンウィークって、なんだっけ?」

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