私が私で彼が彼であるということ 一話

 JR新宿駅から中央線に乗り込み東を目指す。速度に乗った箱が人間や樹木、家屋を置き去りにしていく中、私はひしめくビルディングと滞る緑色の汚水を眺めていた。天に広がる蒼もまた目を惹く存在だが、そんなものは天気がよければどこからでも目に出来る。いま見るべきものでは全然ない。それに引き換え、ビルディングでできた森林と汚水で満たされた河川のなんと魅力的なことだろう。
 私達が住む町は、東京都内にあるとはいっても高層ビルなどそうそう存在せず、雲の流れる様子を目で追えないことなどそうそうない。また、河川も清く澄んでおり、神田川のように触りたいと決して思わせない不思議な色合いの水が流れていることもない。それゆえ、電車の外に広がる光景は私にとって目新しいものであった。
 しかし、私の連れ合いはそれらに一切の関心を持たず、手にした文庫本に意識を向けている。
 宮沢賢治著、銀河鉄道の夜。ページ数がそれほど進んでいないため、ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道内で顔を合わせた辺りかもしれない。彼はここ最近、あの本ばかり読んでいる。
 文庫本を支える手には深い皺が刻まれ、目元や口元にも同様に年月を思わせる痕が見受けられる。後退しかけている前髪などは完全に白く、私も人のことは言えないけれど、随分と年をとったものだ。
 とはいえ、前髪が未だしっかりと残っているのは大したものではないかとも思う。私達の歳になれば男性の多くは無惨に抜け落ちている。最近では人工的に髪を生やすことも出来るし、それを実行している者もいるようだが、彼のは間違いなく天然ものだ。
 そこで思い出した。かつて私は完全に禿げ上がってしまっている男性を嫌っていたのだ。よくは覚えていないが、禿げている芸能人の誰かを嫌っていたためだったはずだ。今ではそのような狭窄的な考えなど持っていないが、かつてはそうであった。
 とすると、彼の頭が未だ持ちこたえているのは私への愛情ゆえなのかもしれない。そんなことを考え、少しおかしくなり笑む。
「どうした?」
 一応気にしていたのか、目ざとくこちらの変化に気付き彼が尋ねた。
 先ほど考えていたことをそのまま口にするのは、いくらなんでも恥ずかしい。私は過去を改竄する。
「いいえ。神田川の汚さが随分だったので、少しおかしくて」
 有名な楽曲の印象との差異が。
「そうか? 俺は勤めている間はずっとこれを見てきたからな。慣れた」
 彼は文庫本に目を落としたままで言った。
 話すときくらいはこちらを見ればいいのに、と思いながらも口には出さない。長年の付き合いだ。このくらいは慣れた。
 私は再び緑の河川へ意識を向ける。彼もまた、文庫本に意識を持っていったことだろう。
 しかし申し訳ないかな、彼の意識は再びこちらへ向うこととなった。
「あ」
「どうした?」
 思わず声を上げた私に対し、先ほどと全く同じ問いかけをした連れ合い。しかし今度は、彼の視線がこちらに注がれていた。
 私はその瞳を見返し、流れていく景色の一点を指差す。
「ほら、亀」
「かめ?」
 彼は体をひねって窓の外へ瞳を向ける。
 先ほど私が目にした小さな生き物は、当然遥か後方へ流れてしまっている。しかし幸いながら、私達が共に身を乗り出したその時に、悠々と泳いでいる別の亀がいた。
「亀だな」
「ええ。亀でしょう?」
「水があるんだ。亀くらいおってもおかしくはないだろう」
 早々に結論付けると、彼は座り直して文庫本を開いた。
 それはそうだけれど、もう少し反応の仕方というものがあるのではないだろうか。
「これだけ汚い水でも生きられるものなのねぇ」
 一度読書に戻ってしまったならば、その興味をこちらへ向けることは容易ではない。そうだと分かっていても、私は最後の足掻きとして呟いた。
 しかし、やはり彼は反応しない。沈黙と共に数秒が流れ、私は景色を眺める作業に戻ろうと視線を外へ向ける。
 JR水道橋駅のホームが凄まじい勢いで流れていった。
「慣れるか諦めるか。そうするだけでいい」
 隣から聞こえた声。
 では、あの亀はどちらだったのだろうか。

 二十年程前のこと。私達は中高年向けのお見合いパーティで出逢った。それぞれ五十を越えるまで私達は独身で身軽であったが、それゆえか男女の色香が漂う気配に不慣れで、警戒心を不必要に振りまいていた。そしてそのお蔭で誰とも話せずにいた。
 そんな中、あてもなくうろうろすることに嫌気が差した私達は、偶然一つの食卓により、偶然一つのワイングラスに手を伸ばした。グラスに入っていたのは、パーティの会費の安さを鑑みるに定価三千円にも満たないスパークリングワインだったことだろう。
『あ』
 手が触れ、目と目が合った。
 如何なる場合でもそうであるように、きっかけさえ掴めば私達も饒舌に話すことが出来た。会話は弾み、彼は読書が趣味であることを知った。彼も、私が神社仏閣に少しばかりの――本当に申し訳程度の――興味があることを知った。
 そのため私達は、次の週末に本日向っているのと同じ千代田区神田界隈で初デートを試みることにしたのだった。
 JR中央線に揺られ、取り留めのない話を続けていたあの頃。未だお互いに気を遣っており、今考えるとおかしく思える。
 あの日私は、聖橋がひじりはしと読むことを知り、神田明神の正式名称が神田神社であることを知り、湯島聖堂が孔子の廟であることを知った。また、共にその場を訪れた彼が信心を持たないことを知り、そのくせ敬虔なキリスト教徒を恐れることを知り、そして、書物が本当に好きなのだということを知ったのだった。
 それから半年後、私達は結婚した。

 御茶ノ水駅で下車し改札を出る。すると、湯島聖堂が改札出口が向いている方向とは真逆に在ることを示している看板が目に入った。私がそれを指し示すと、彼は一度頷いてそちらへ足を向ける。そのようにして本郷通りを北上すると、直ぐに聖橋があった。
 橋の端には『ひじりはし』と平仮名で書かれており、私は思わず口元を緩める。
「あら、ひじりはしと読むのねぇ。せいばしだと思っていたわ」
 試しに私は、昔と同じことを口にしてみる。
 彼はこちらに瞳を向け、呆れたように瞳を細めた。
「せいばしはないだろう? 普段ワイドショーしか観んからそんな下らない誤認をするんだ。本や新聞を読め」
 言い放って先を行く彼。彼はかつてここで全く違う反応を見せた。
『本当ですね。私もさっきまでせいはしだと思っていましたよ』
 そう言って笑ったのだ。気を遣っていたのだろう。
 ならば先ほどの反応は、気を遣わない彼の本音ということになる。そう思うと嬉しくもある。私は確かに彼の妻なのだ。……勿論、腹立たしくもあるわけだが。
 私は小走りで彼に近づき、わざと靴の踵を踏んでやる。
 彼は軽くよろけ、こちらを見る。
「あら、御免なさい。橋の下に意識がいっていたものだから」
 嘘だけれど。
 彼は、気をつけろ、と口にして、私が意識を向けていたという橋の下に瞳を向ける。
 私も共に初めて意識を向ける。
 橋の下ではやはり、緑色をした水が滞っていた。