私が私で彼が彼であるということ 二話

 本郷通り沿いに湯島聖堂はある。しかし、私達が通っていた歩道は、その入り口とは反対側であった。
 湯島聖堂を右手に見ながら更に北上していくと信号につきあたる。反対側の歩道へ渡れば無事湯島聖堂を訪れることが可能ではあるが、ここまで来たのなら先に神田神社を見てこよう、と彼が提案したためそうすることにした。
 図らずとも以前と同じ観光ルートとなった。
 以前も私達は湯島聖堂の前に神田神社を訪れた。あの時もまた、今回と同じような理由であったはずだ。もっとも、以前とは違うことがひとつある。それは、彼が口にした神田神社という名称に対し、私が違和感を抱かなかった点である。
 神田神社とは神田明神の正式名称である。以前の私は、神田明神という通称しか耳にしたことがなかった。そのため、彼の言を耳にし戸惑っていた。そして彼に尋ねたのだった。当時は丁寧に説明をしてくれた彼だが、今同じことを訊いたとしたらどうだろう。
 恐らくは、先ほどのように少しばかり厳しい言葉が飛んでくることだろう。
「見えてきたな」
 彼の呟きを耳にし、私は進行方向へと視線を向ける。
 私達は先ほどの信号のところを右折し真っ直ぐ来た。その先に神田神社の鳥居が見える。石造りのそれは私の身長の五倍程度はありそうで、少し遠くから目にするくらいが丁度いいと感じる。
 それから数十秒経ち、私達は漸う鳥居の根元へと至る。そこに立って見上げると、鳥居はますます大きく見え、私は軽くめまいを覚えた。
 彼も上を見すぎて首を痛めたようで、肩を軽く揉んでいる。そして、でかいな、と呟いた。私は、そうですね、と応えながら、まるで初めて訪れたかのように瞳を見開いている連れ合いを目にし、少し哀しくなった。
 そのような感情を隠すため、私は彼に声をかけて鳥居を潜る。
 神殿へと続く道は緩い坂になっていた。それぞれ年を重ねている私達は、息を切らしながらえっちらおっちらのぼる。かつて訪ねた際は、ここまで辛いとは感じなかったものだが……
 坂を上り切ると門があった。確か名を隨神門といったはずだ。大正十二年にあった関東大震災で焼失し、昭和五十年に再建されたらしい。知らぬ間に鮮やかな色で彩られており、ここだけは過去の記憶と大幅に違うことを認識できた。
「……派手だな」
「……そうですね」
 今度ばかりは彼とともに新鮮な気持ちを味わえた。
 その門を潜ると、私達は左手にある水場に向った。柄杓を手に取り左手、右手、口を洗う。正確な作法など共に覚えていなかったが、両手と口を洗うことは確かだ。
 もっとも、私達の意識は水場に備え付けられている竜の彫刻に向っていたため、そこに神に対する敬意など皆無であった。ただ竜の彫刻に心惹かれたゆえに、ついでに両手と口を清めているともいえる。
 そうしてから、参道の端を歩き神殿の前に立った。取り敢えず訪れた以上、義務を果たしておこうと考えたのだ。
 姿勢を正して気持ちを落ち着け、二度深く礼をする。そして、二度手を叩き、もう一度礼をする。そのとき私は、鳥居の前で礼をするのを忘れたな、と思い出す。
 以前誰かに聞いたのだが、本来はそこでも礼をするものだという。まあ、終始神への敬意など持ち合わせていない私達がそれをやったところで、神様も失笑するだけだとは思うけれど。
 その後は特に気を遣うでもなく神殿から離れて散策する。一応の敬意でも払ったのだから、あとは他人に迷惑をかけない限りご容赦いただきたい。
「でかい狛犬だな。近所の神社のは小さくて頼りないが、これだけ大きければ神様を護るのに充分なことだろうな」
 神殿前にいる狛犬を目にした彼は、そう口にした。私もそう思う。その立派さは近所の小さな神社とは格が違うことを認識させた。
 その狛犬の直ぐ近くには水の流れ落ちる小さな岩山があった。獅子山と呼ばれるそれは、享保年間につくられたと言われているそうだ。  享保年間がいつのことなのか、以前耳にした覚えはあっても記憶が曖昧であり、ぱっと出てこない。そのため連れ合いに尋ねる。すると、千七百十六年から千七百三十五年、という短い答えが返ってきた。相変わらずの記憶力である。
 もっとも、大事なのは年代という数字の羅列ではないと私は思っている。だから、再び彼が呆れた視線をこちらへ向けていても気になどしない。平静を装って獅子山を瞳に映す。
 積まれた岩と、そこに繁茂する植物。加えて、その岩山を流れ落ちる水。それら自然を代表する物質たちの頂点に、威風堂々とした獅子がいる。全てを制圧するかのように雄雄しく存在する彼を見上げ、私は胸が高鳴るのを感じた。以前も目にしたものとはいえ、やはりこれはいい。
「喉が渇いたな」
 私が感動している一方で、彼がぼそりと呟いた。水を目にしたことからの連想だろう。雰囲気を壊されたことへの若干の憤りはあるながらも、実際ここまで歩いてきて喉に渇きを覚えているのは確かだ。
 先ほどあった水場の近くに自動販売機があったと記憶しているけれど、と考えつつ振り返ると、確かにダイドーの自動販売機が在るのが見えた。
 彼に声をかけそちらを指差すと、行こう、と口にして彼が先行した。小銭入れを鞄から取り出しながら、私は続く。
 紅く塗られたダイドーの自動販売機は休憩所の直ぐ横に備え付けられていた。私達はペットボトルのお茶を一本購入して、休憩所にある椅子に座る。
 そこから外を目にしてみると、入り口の縁に世界が切り取られてしまい、テレヴィジョンに映っている神田神社を見ている気分になった。今この時が現実ではないように感じた。
 私はそれをもしかしたら願っていたのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。たとえ受け入れたくない事実があろうと、過している一瞬一瞬が幸せでないとは言いきれないから。
「ほら。お前も飲め」
 彼がペットボトルを差し出した。
 私は礼を口にして受け取る。自覚しているよりも乾いていたらしい喉は、与えられた恵みに感謝するように震えた。

 隨神門がまだ派手さを手に入れる以前、私達は鳥居の前で礼をすることもなく、両手と口を洗うこともなく、参道の真中を堂々と歩き、神殿前では中を覗き込むだけで手を打ちすらしなかった。
 そうしてから、やはり今回と同じように大きな狛犬に近寄った。それぞれに強そうだ、頼もしい、と感想を述べ、再び隨神門から外に出ようと振り返った時、私達の目には、正しい参拝の仕方、と銘打たれたポスターが映った。
「あら…… 私達、あの参拝の仕方をまるっきり無視してしまっていますね」
 私がポスターを指差して声をかけると、彼は苦笑して頭をかいていた。照れているのかと思ったのだが、違った。
「私はあのあたりの作法は知っていましたが、正直なところ、神様なんてものは信じていないのです。だから従う気もなかったのですが……」
 その言葉を耳にして、当時の私は大層呆れたものだった。神社の境内で口にする言葉とは思えなかったからだ。そして強い罪悪感を覚えた。それゆえ、思わず提案したのだった。
「郷に入りては郷に従えといいます。勤め先でだって相手に全く敬意を感じていなくても、最低限の礼節を示すことくらいはするでしょう? せっかく御茶ノ水くんだりまで来たのですから、一度くらい正しい参拝を経験してみませんか?」
 彼は当時戸惑いながらも一緒に鳥居前から参拝し直してくれた。
 今回、形だけでも正しく参拝できたのは――鳥居の前での礼は忘れたけれど――彼が当時を記憶していたからだろうか。尋ねれば知れることであるけれど、やめておこう。訊かずに、ただ信じておこう。これ以上現実に絶望しないように。

 鳥居から外に出ると彼が、甘酒を飲もう、と言い出した。喉が渇いたという。その視線の先には甘酒茶屋天野屋という店があった。
 今でこそ天野屋と読むことが出来るけれど、看板に書かれた字は古い字体なのか決して天野屋と読むことは出来ない。……少なくとも私は昔、読むことが出来なかった。この店は遠い江戸の時代から続く老舗なのだという。いずれも昔に知ったことだ。
「いらっしゃいませ」
 店内に入ると、店員がこちらを見て声をかけてきた。私達は適当にあいている席に座り、甘酒を二杯頼む。
 甘酒がくるのを待っているあいだ店内を見渡すと、私達の他にはご婦人が数名まとまって座っている以外に客らしき人はいなかった。あとは店員と、台に乗って古めかしい掛け時計に手をかけている老人がいるだけだった。
 その老人は何やら忙しく時計を弄っており、それにともない、時を知らせる鐘が何度も鳴り響く。
 修理をしているのかもしれない。掛け時計は古そうなものが三つ。いずれもインテリアとして良さそうな外見をしていた。
「歴史を感じるわねぇ」
 客のご婦人の一人が連れのご婦人達に向けて声をかけていた。私はそれを耳にしてから店内を改めて検分してみる。
 正直なところ、歴史を感じる、というのも妙な話だと思った。古めかしい雰囲気が満ちているのは間違いない。しかし、歴史を感じるとまで口にするのは大げさに感じた。懐かしい、くらいが正当な評価に思える。田舎の古い家の匂いと気配。そういうものが満ちている場所だと思う。
 そんなことを考えていると甘酒がきた。甘い香りの立ち上るそれは私の食欲――この場合、飲欲と呼ぶべきだろうか――を刺激した。直ぐに右手に命じて口に運ばせる。熱く保たれたそれは口内を刺激するが、熱さに強い私の皮膚はものともしない。適度な甘さに満足しながら飲み下す。
 一方、彼はそうもいかないようだ。常より熱いものを苦手としており、間違いなく猫舌である彼は、懸命に湯気が立ち上るコップに息を吹きかけている。
 私が飲み終える頃に漸く半分ほどを減らし、それから更にしばらくの時間を要して飲み終える。彼は満足そうに息を吐いて、コップを置いた。
 その一連の動作はいちいち過去とかぶり、私の心を蝕むのだった。