私が私で彼が彼であるということ 三話

 天野屋をあとにし、私達は先ほどの信号まで進む。そこから本郷通りを南下し湯島聖堂を目指す。
 湯島聖堂の入り口は本郷通り沿いに二箇所あるけれど、私達は聖橋に近いほうの入り口から入った。もう一方の入り口だと、入って直ぐに杏壇門という門が在り、その奥に大成殿と呼ばれる孔子廟が在る。本星に直ぐさまお目にかかれるのでは、ありがたみというものが少ない。
 入り口から入ったところにある階段を下り、下りた先の左手には黒い門が在る。この門は入徳門と呼ばれるもの……だったはずだ。
 私達はその入徳門を左手に見ながら先を進む。大成殿があるのは入徳門から奥なのであるけれど、先述したとおり本星を先に見てしまうのは避けたかった。それゆえ、まずはそれ以外のところを片付けてしまおうと考えたのだ。
 道に沿って歩くと、最初に楷樹と呼ばれる樹木が在った。この樹木は葉が理路整然とした形をしており、その形ゆえ楷書の語源となったらしい。
 その楷樹をしばし眺めてから、視線を前に向ける。すると、そこには大きな石像が存在した。孔子の像である。くっきりと刻まれたその顔は陰影がはっきりしており、力強さを感じる。また、その物腰も威風堂々としているように見受けられる。
 しかし、彼の足元――衣服の模様が刻まれた部分に、観光客が置いていったのだろうか、一円玉と五円玉がきれいに並べられていた。それが少しばかり間抜けに見え、おかしかった。こうしていくことこそが礼儀なのだとしたら、自分の無知を恥じながら心の中のみでこっそり笑うとしよう。
 孔子像のある場所から飲み物の自動販売機が見えた。建物の前にいくつも並べられている。彼が喉が渇いたと言ってそちらへ向ったため、私は鞄の中に入っているペットボトルのお茶を気にしないようにしながら小銭入れを取り出す。
 今度も彼はお茶を購入した。銘柄が違うとはいえ、同じ緑茶であるのだから、やはりそういうことなのだろう。私が軽く息をついているとそのお茶が差し出される。彼はそっけなく、飲め、と言って、それを私に押し付けた。私は有り難く貰うことにした。
 お茶を買った場所のすぐ近くに、またもや門があった。こちらの門の名は忘れてしまった。確か門の上部に書かれていたはずであるが……
 門の正面に回りこみ、その名を求めて視線を上げる。そこには『仰』と刻まれていた。
「……こうぎょうもん?」
 私が呟くと、隣で彼が大きく溜息をついた。
「ぎょうこうもんだ」
「え?」
「昔は左からではなく右から読んだ。つまり、これもこうぎょうもんではなく、ぎょうこうもんだ」
 そのように指摘され、私は思わず、あ、と声を上げる。
 そういえばここに来る前に目にしていた入徳門もまた『門徳入』と門の正面には書かれていた。しかし、仰門は『仰』と書かれているだけで、『門』の一字がないのである。そんな仰門とは違い『門』の一字が入っている『門徳入』は、無意識の内に右から『にゅうとくもん』と読めたのだろう。
 勿論、入徳門は記憶の片隅に名が刻まれていたからという理由もあるが、それでもやはり、『門』の一字が入っているか否かというのは大きいと思う。
 つまり言い換えるならば、過去の人々が横着して門の一字を入れなかったのが悪いのだ。私はそれに近いことを口にして、思わず彼に対して言い訳していた。
 それを耳にすると彼は、呆れたように瞳を細めてから、そういえば、と呟いた。そして、深い皺の刻まれたおでこを撫でる。何かを思い出そうとする時の彼の仕草だ。
「前にも似たようなやり取りをしなかったか? 曖昧だが、そんな記憶があるんだが……」
 思わず声を上げそうになった。
 覚えているのだ。頼りないながらも、全てを忘れてしまっているわけではないのだ。
 勿論、本当の意味で全てが失われているわけではないのだから当然だろう。物覚えが悪い人であっても、何かのきっかけで過去の出来事を想起することはある。彼だってそういう状態のはずだ。
 そうでなければ、脳というものが私の予想以上に残酷であるのなら、今日こうして御茶ノ水くんだりまでやってきた甲斐がない。
 その成果は今のところ芳しくないとはいえ、ここで初めて確かな結果を得られた。いや、もしかしたら、これまでの彼の行動もまた嬉しい結果であったのかもしれない。
 神田神社では以前の非礼を踏まえたかのように、示し合わさなくとも神への一応の敬意を共に払った。
 天野屋を訪れることも、今日の予定には入っていなかった。にもかかわらず、彼が入ろうと促したのは曖昧ながらも以前の記憶があった証左なのかもしれない。
 このような可能性はこれまで幾度も頭に浮かべた。けれどもやはり……
 私達は仰門を再び潜り、入徳門のある辺りまで進む。現在、入徳門は漆を塗ったばかりということで、綺麗に黒光りしている代わりに近寄ることが出来なくなっていた。門はかたく閉ざされ、代わりに脇の勝手口が通れるようになっている。
 その勝手口を潜って入徳門の内側に入ると、階段があった。それほど急ではないが、上りきると息が切れる。
 それゆえ、一度立ち止まって辺りを見回した。
 すると、キャンバスに絵の具をのせている人が二名いた。一名は老いた男性で、もう一名は若い女性だった。女性の方は美大生だろうか。二名とも黒塗りの美しい大成殿を熱心に見詰め、筆を動かしている。
 彼らの脇をすり抜け、私達は大成殿へ至るために杏壇門を潜った。広い前庭を見渡すと、右手に東回廊、左手に西回廊が見える。いずれも、ここ湯島聖堂全体を彩っている黒で塗られており、不思議な印象を受ける。
 聖堂というわりに、黒一色なのが神聖さを想起させないからだろうか。もっとも、孔子の廟なのだから、黒くて落ち着きのある方が好ましいという意見もありそうではある。
 そのようなことを考えながら大成殿に足を向ける。目の前に立ち、直ぐに興味を失って空を見上げた。正直、建物の外観の美しい黒塗りには心惹かれるが、中身にはあまり興味がない。
 彼も同じなのか早々に視線を逸らしていた。そのため、私もまた彼の視線の先へと瞳を向けたのだ。
 最初は空を仰いでいるのかと思った。空は蒼く澄んでおり、こうして振り仰ぐのがとても気持ちよかったから。
 けれど、彼の瞳は少し下に向いているようだった。しっかり観察してみると、深い皺と細かい皺で周りを飾られた瞳は、大成殿の屋根に向いていた。
 そこには何かを象った石像が――名古屋城の屋根に乗っているしゃちほこのようなものがあった。そして、屋根の更に手前には狛犬のようなものがあった。どちらも昔目にしたものだった。名前は――覚えていない。普段聞かないような名前の者達であったはずだ。
「あれは……なんでしょうね」
 かつてと同じ質問を向けてみた。ここで、前に教えただろう、という応えが返ってくれたなら、幾分か気が休まるだろうが……
「……しゃちほこのようなあれは鬼\頭というはずだ。確か想像上の神魚で水の神。火の気を避け建物を護るのだったかな」
 そんなことはいくらでも覚えているくせに、とイライラが募る。けれど、それを責め立てたところで詮方ないことだ。
「狛犬にみえる方は鬼龍子。想像上の霊獣で、聖人君主の徳の高さに反応して現れるらしいな。ここが孔子廟だからああして置いているんだろう」
 昔は感心して聴いていた説明を、私はとても哀しい気持ちと共に耳に入れた。
 彼の様子からして、かつての記憶は欠片も存在しないように見受けられる。先ほど熱心に想像上の生き物達を見つめていたのも、かつての記憶が懐かしかったためではなかったのだと分かる。きっと知的好奇心というどうでもいいものが働いた結果だったのだ。
 それ以上観て回る気もおきず、私は彼に声をかけて杏壇門から外に出る。そして、門を出て右に折れた先に在る出入り口から湯島聖堂をあとにした。

 彼が退職して何年が経っただろうか。私達は倹しい生活の中でそれぞれ趣味に生きてきた。
 彼は読書に加え同じ趣味の方々と外で語らって楽しそうにしていた。
 私は私で信心なんてそれほど持ち合わせていないけれども、友達と寺社仏閣を見て回るのが好きだった。
 そんな風にそれぞれ楽しんで生きている中、彼が傘を忘れて帰ってきたことがあった。無地の黒い傘だった。ちっとも高価なものではなく、想い出が詰まっている訳でもなかった。
 問題はそんなことではなかった。彼が結婚して初めて傘を忘れたことこそ問題だったのだ。
 あれこそが始まりであったのだ。
 勿論、そう断言できるのは今だからこそである。当時の私は、仕方ないわね、などと口にして馬鹿みたいに笑っていた。彼と一緒に、ただ幸せを享受して笑っていた。
 それから数ヶ月経ち、彼は昼食から三十分後に再び食事を求めた。さっき食べたでしょう、と笑って声をかけると大人しく引き下がったけれど、流石に違和感を覚えた。
 その週末、本の場所を尋ねられた。
 私は元より彼の所有する書物の所在など知らない。けれど、見つからないのだと困った顔で問われれば、一緒になって探すしかあるまい。書斎に入り、所望する題名の書物を探すと、意外にもあっさりと見つかった。彼がお気に入りを揃えている棚の下から二番目の段の目立つところにあった。あまりに見つけ易い場所にあった。
 私に構って欲しかったのだろうか、とも考えた。けれども、彼の様子を窺うとそのような印象は纏っていない。
 愈々おかしいと思った。

「おい、見てみろ」
 聖橋を渡っている時、彼が言った。
 その示す先は、つい先ごろまで自分達がいた場所である。
「近くで観るのもいいが、こうして遠くから眺めるのも乙なもんだな」
 湯島聖堂は塀と緑に囲まれていた。古めかしい時代を思わせる長い長い塀が、緑あふれる地を囲っている。そして緑は、黒塗りの建物達を覆い隠している。
 確かに素敵な光景である。
 直ぐ近くでは同じくそちらへ視線を送り、小さく声を上げて携帯電話を取り出している女性がいた。彼女は携帯電話を両手で構え、何やら操作している。そして、そちらからは、カシャ、というシャッター音が聞こえてきた。カメラつきの携帯電話なのだろう。
 そう。彼が示した光景は、ここから切り取って大切な人に見せてあげたくなる、そんな光景ではある。しかし――
 こうして私に教えてくれるのは覚えているからこそなのだろうか。それとも忘れているからこそなのだろうか。
「昔、私が貴方に教えたものなんですよ?」
 私の呟きは小さく、電車の通り過ぎる音によって消え去ってしまった。