私が私で彼が彼であるということ 四話

 認知症。
 痴呆症が名を変えてそう呼ばれるようになったのはいつのことだっただろう。あれからまだ十年は経っていないのではないかと思う。
 当時の記憶を掘り起こしてみれば、患者の尊厳を護るために痴呆症という名前は宜しくない、というような主張をよく耳にした気がする。そういう面も確かにあるとは思う。しかし、私としては残酷な名である痴呆症のままの方がよかった。
 認知症などと聞いてもちっともぴんと来ない。まるで違う症状のものであるかのように感じる。
 もっともっと残酷に、現実を目の前につきつけて欲しいのだ。はっきりと、彼は呆けたのだと解らせて欲しい。
 認知症という名には、その力がない。

 本郷通りを南下していくと、右手前方に大きな教会が在るのが見えた。ニコライ堂の通称で知られる、日本ハリストス正教会復活大聖堂である。
 詳しくは知らないが、明治期に建造された教会らしい。関東大震災で崩壊したため、当時のままの状態とはいかないようではあるが、異国情緒あふれる佇まいは見ていて楽しい。
 以前御茶ノ水を訪れた時は、あそこにも行こうとしていた。キリスト教には、仏教、神道以上に興味がなかったけれど、建築物としての教会には興味があった。それに、人づてに見学ができることを聞いていた。
 あの日、私達は今回と同じように、ニコライ堂があるのとは逆側の歩道を歩いていた。それゆえ、ニコライ堂へと向うわき道をしばらく過ぎたところにある信号まで向かい、そこで道路を横断して引き返したのだった。
 そうして戻ったあと、私達は紅梅坂という坂道に入った。そこをのぼった先に門があるようだった。それまでに神田神社、湯島聖堂と見て回っていた私達は少なからず疲労しており、それほどの傾斜ではなかったにもかかわらず息を乱したものだ。
 しかし、そのように苦労して門へ向ったというのに、私達は結局、門から先へ入ることはなかった。
 苦労して坂をのぼり、門を瞳に入れた。その際、私と彼の視線の先には同年代らしきご婦人の二人組みがいた。彼女たちは門の前で立ち止まり、胸の前で十字を切って祈っていたのだ。その光景を目にした直後、彼が怖じた。
「やはりやめませんか?」
「どうしたのですか?」
 私の手を握って声をかけた彼に、私は驚いて尋ねた。
 彼は門から内へ向っていったご婦人を目で追い、顔を顰めていた。
「今の方々の様子が、何というか、その、苦手でして…… 私はあまり宗教というものを信用していない。だからその、ああいう風に敬虔な信者さんがいる場所は少し……」
 彼がそう口にした時、私は思わず周りを確認してしまったものだ。教会の門の前でそのようなことを口にして、信者さんが聞いてでもいたら気分を害すだろうと思ったから。
 その心配は徒労であったけれど、それにしても、あの場で口にすることではないだろうと、当時思った。今でも思う。
 当時を思い出すと何だかおかしくなったけれど、でも、こういう想い出も彼は忘れてしまっているのかもしれないと思うと、やはり憂鬱であった。あの日した話、辿った足跡、目にした光景、覚えているのは私だけ。その事実はとても恐ろしいものだった。
 勿論、彼が何も覚えていないのかどうか、まだ分からない。はっきり確認したわけではないし、人の思考を読み取る術もない。
 けれど、だからといって、おいそれと確認などできるはずもなかった。
 そんな恐ろしいことが、できるはずもなかった。

 そのまま本郷通りを南下し、靖国通りと交差したところで信号を渡って右に折れた。これまで通っていた道に比べ、行き交う人の波が激しい。それもそのはず、この通りに面して多くの店舗が軒を連ねているのだ。若者から年配の方まで、楽しそうに通りを歩いている。
 昔の神田散策において、これまでの道程は私の趣味嗜好を満たすためのものであった。そして、この通りは彼のためである。
 この通りに面した店舗には古書店が多い。所謂、神田古書店街と呼ばれる場所だ。
 本郷通りと合流している地点からしばらくは書店も数件しかないけれど、次の信号を越えたくらいからだろうか。その辺りからは本当に古書店ラッシュと呼んでも過言ではない乱立状態である。
 昔から読書好きである彼が好まないはずはない。そう確信できるストリートだろう。彼に瞳を向けてみると、かつてもそうであったように瞳の輝きが違う。
 ここのことであれば、詳らかに覚えているということもあり得そうだ。それが事実であれば、嬉しいようで腹立たしくもある、というのが正直な感想だ。
「お。まずはここに入ってみよう」
 さっそく彼の食指が動いたらしい。一風変わった佇まいの書店にいそいそと入っていく。その店の名前は『歴史時代書房時代屋』となっている。どういう書物を扱っているのか非常に分かり易い店名である。
 私は彼に続こうとして、何気なく店前に置かれている陳列棚に視線をやった。するとそこには、大学在籍時代に母校の教授だった方の書物が五百円で置かれていた。
 紙が焼けて変色しており、自分が学生だった時代はそんなにも昔のことなのかと改めて認識させられる。連れ合いが痴呆症を患ってしまっている現状も、当然といえば当然のことなのかもしれないと思えてしまえた。哀しいことに。
 店内に入ると、着物を身に纏った女性が目に入った。こちらを見て、いらっしゃいませ、と口にしたところをみると店員のようだ。時代小説を扱う店ということで、着物が制服なのだろう。
 そこで、では男性店員はどうなのだろうか、と気になった。まさかちょん髷を結っているということもないだろうけれど、同じく着物くらいは身につけているのかもしれない。そのように考えて、店内を見回して男性店員を探してみるが、生憎どこにも見当たらなかった。少しばかり残念である。
 気を取り直し、彼を探す。彼は店の奥の方で江戸期の習慣について書かれている書物を手に取っていた。特別江戸時代に興味があるわけではなく、手を伸ばした先にその本があっただけなのだろう。彼は書物であれば何でも楽しく読めるらしい。
 私は手持ちぶさたなので、その近くの本棚に並べられている時代小説の文庫本に目を向けた。どこかで聞いたことのある名前の本が何冊かあった。時代劇としてテレヴィジョンで活躍している有名どころが数点あったのだ。もっとも、興味は特に沸かないので手には取らない。
 そうして、適当に本棚を眺めはじめて数分。彼が漸く本を本棚に戻した。そして、こちらに瞳を向ける。満足したのだろう、外に出るように促された。
 私は一度頷いて、踵を返して出入り口へと向う。その際、店内をメロディが満たした。ゆったりとした曲調が耳に入ってくる。
 この音楽が時代小説などを専門に扱っている店で流れることに違和感を覚えるが、ただ単純に、すぐ近くに在るから、という理由だろうか。スピーカーから流れてくる音楽は、電車の中から見た緑色の河川を題名とする歌であった。

 続いて彼の関心を惹いたのは、源喜堂書店という美術関係の本を専門に扱っている古書店であった。店の前に陳列されている書物を手にとってみると、鮮やかな色彩の絵画の写真が多く載っていた。こういった画集であれば私でも楽しめそうだ。
 彼は店の出入り口へと続く階段を一段一段ゆっくりのぼりはじめた。私もそれに続く。
 店内は天井高くまで本棚が占拠していた。これが全てひとつの分野について書かれた書物ばかりなのだから、圧巻のひと言である。
 彼が入り口から右に折れたため、私も特に考えなしについて行った。そちらには洋書が多く並んでいた。英語らしき文字が並ぶ背表紙が多数あり、ちらほらとフランス語も目に入った。どこの国の言葉なのか判別できない文字もあった。
 美術作品が収録された書物だからいいものの、これが小説であったなら読めたものではないだろう。
 私はそのうちの一冊を手に取り眺める。遊牧騎馬民族の使用していた馬具や武具、防具などの写真が載っていた。特別興味があるものではないが、こうして眺めていると、草原を風のように駆ける古の民の姿が目に浮かぶようだ。文章は英語表記でさっぱり理解できないが、中々にいい本だと思う。
 一方、彼は美術作品の載っている本を熱心に読んでいた。ちらりと覗き込むと、一枚の絵が瞳に飛び込んできた。
 あの絵は見覚えがある。落穂拾いというタイトルで、画家の名はミレーだったはずだ。ということはミレーの画集だろうか。それとも、フランスの画家の作品を集めたものだろうか。
 彼の背後からしっかりと覗き込んでみると、ミレー以外の作品と思われるものも載っており、また、フランス語で注釈がそこここに書かれていた。フランス画家の作品集か何からしい。
「買うんですか?」
「いや買わん。少し気になっただけだ。絵画も嫌いではないからな」
 訊くと、はっきりとした否定の言葉が返ってきた。
 そう広くもない店内である。店員の耳にも入ってしまったことだろう。何となく居心地の悪さを感じた。
 しかし、それは私の気のせいだったのかもしれない。その証拠に、レジにいる店員はこちらに瞳を向けることもなく何かの作業を黙々と続けていたし、もうひとりいる年配の店員も、レジにいる店員に何やら声をかけている。
「こうして紙を巻いて背表紙のところに値段を書いておけば、値段を見た上で手に取ることになるから、お客様は財布との相談がしやすいだろう? 特に太い本なんかは手に取りづらいし、予め値段を知れた方がいい」
「はぁ、なるほど」
 レジにいる店員は紙を切ったり、字を書いたりしているし、自分がしていることの意義についての疑問をもう一人の店員にこぼしたのかもしれない。その上で、先の会話に発展したのだろう。
 彼らの話を踏まえた上で改めて見てみると、なるほど、確かに本棚に並ぶ本達には紙が巻きつけられており、そこには走り書きで値段が記されている。購入を考える上では有用かもしれない。
 もっとも、私は最初から買う気などないし、先の言によれば、彼も買う気はないようであるからして、こちらに対するサービス――勿論自店の利益も考えてのことだろうが――は痛み入るけれど、私達には無用の産物となってしまっている。本当に申し訳ない話だ。
「そろそろ出るか」
 いつの間にやら店内を一周してきたらしい彼が言った。
 せめて、熱心に立ち読みをしている他のお客にとって、値段の記された紙が有用であることを祈ろう。そんなことを考えつつ、私は彼に続いて店をあとにした。

 その後も彼は、興味をそそる古書店を瞳に入れるたびに足を止めた。
 靖国通りと明大通りが交差する辺りにある三茶書房、そこから靖国通りに沿って更に行った先にある慶文堂書店、真っ直ぐ進んで二つ目の脇道の角にある小宮山書店。私が覚えられただけでもその三つ。彼が足を止めて店頭の本を物色しただけの店もあわせれば、何店舗だっただろうか。十前後はあったかもしれない。
 昼過ぎに御茶ノ水駅を訪れ、神田神社や湯島聖堂などを見て回った。そして、古書店街に入ってからは、休むことなく立ちっ放しで書店巡りである。さすがに疲れてきた。
 そんなことを考えた時、彼が一冊の本を片手にレジへ向った。財布の中身が寂しいために買わないようにしていたようだが、ここに来て我慢ができなくなったらしい。それでも五百円の小説を一冊買うに留めたようであるから、頑張った結果だろう。
「行くか」
 そう口にすると、彼はさっさと店を出て行った。私は彼を追いかけ、通りを早足で歩く。
 小宮山書店の隣とその隣にも古書店があったけれど、彼はそちらに目を向けながらも足は止めない。流石に、いちいち立ち止まっていたのではキリがないことは分かっているのだろう。
 しかしそういえば、以前ここを訪れた際、彼は書店を見かけるたびに足を止めてのぞき込んでいた。今回そうしないのは、もしかしたら、私同様に少し疲れているのかもしれない。
「少し休みませんか」
 喫茶店らしき外観の店が目に入ったので、そちらを指差して提案してみる。しかし、彼はそちらを一瞥しただけで特に返事もせず、先を急ぐ。何とも腹立たしい態度だ。
 とはいえ、独りでそこに入るわけにもいくまい。私は彼を追いかけて進む。
 彼が以前からああいう態度を取っていたかというと、当然そんなことはない。以前訪れた際は出逢ったばかりだったというのもあるかもしれないが、彼は、私が疲れたと口にしたら、喫茶店を探してきて手を引いて案内してくれたものだ。ちなみに私達は、その時に初めて手を繋いだのだった。何とも懐かしい。
 それが今はどうだろう。あの態度。勿論、気を遣う必要がないほどに慣れたということだろうけれど、それにしても否定の言葉くらい口にしてくれればいいものを、黙って先を急ぐとは何事だろう。
 まあ、ああいう態度も可愛いと思う時はあるにはある。もっとも、残念ながら歩き詰めの現状では憎らしいと思う気持ちの方が大きい。
「おい。ここに座ってろ」
 そのとき突然、彼が言った。一誠堂書店という名前の古書店の前でのことだった。
 彼は店の前のレンガ造りの花壇らしき場所を指差して、私に座るように促したのだ。
「何ですか、突然」
「疲れたと言っていただろう。俺はこの店を見てくるから、しばらくここで休んでろ」
 一方的に言い放つと、彼は一誠堂書店に入っていった。
 私はしばし放心し、それからくすくすと小さく笑い出した。確かに彼は、私に対して遠慮というものがなくなったし、態度も比較的冷たくなった。でも、言葉少なで、分かり辛くなっただけで、相変わらず優しいみたいだ。