私が私で彼が彼であるということ 五話

 つい先日のことである。自宅でゆるりと過していた私達は、共に食卓について夕食をとっていた。確か、白米に豆腐ステーキ、金平ゴボウ、アサリの味噌汁というメニューであったはずである。テレヴィジョンに映るNHKの寺社仏閣特集番組を目にしながら、私達はそれらを平らげたのだった。
 そして、私は食器を洗うために台所へ、彼は本を読むためにダイニングのソファへそれぞれ向った。
 私は、数分かけてその作業を終え、ダンボール箱にしまっていた林檎を取り出した。皮をむき、食べ易いサイズに切ったそれを容器に入れる。フォークを二本手に取り、ダイニングへと向った。
 ダイニングでは彼がソファにうつぶせに寝転び、本をソファに置いた状態で読んでいた。直ぐ側のテーブルに林檎を置いてやると、小さく頷く。あれで一応、感謝の意を表している合図である。
 私はその態度に苦笑し、それでも特に何も言わず、自分もソファに腰掛ける。そして、落ち着いた姿勢で林檎をひと齧り。
 しゃり。
 紅玉は硬すぎず、柔らかすぎずで食べ易い。噛んでいると、染み出した果汁が口いっぱいに広がり、甘い。とても美味しかった。
 そのような感想を抱きつつ、私は彼に視線を向けた。林檎に手を伸ばしながらも、本からは視線をそらしていない。随分と熱心に読んでいる。彼が読んでいるのは宮沢賢治著、銀河鉄道の夜である。その本は以前にも読んでいたと記憶しているが、きっと、また読みたくなったのだろう。名作と謳われる作品なのだから、そのように何度も読みたくさせる魔力が備わっているのかもしれない。
「え?」
 そこで思わず声を上げてしまった。というのも――
「どうした?」
「ねえ。食事の前に、その本の最後の方のページを読んでなかった?」
 そう。私の記憶が確かであるならば、彼は夕食前、あとちょっとで読み終わると言いながら、食卓に着くのを渋っていたのである。結局、読み終わる前に私が軽く叱りつけて、読むのを中断させたのだった。
 しかし、林檎片手に彼が開いているページは、どう贔屓目に見ても前半部分だ。
 彼はこちらを訝しげに見ていた。
「そんなわけないだろう。今読んでいるところだって、読んだことのない文章だ」
「……そうですか」
 簡単に言葉を返しながら、私は強い衝撃を受けていた。
 宮沢賢治の銀河鉄道の夜を、読んだことのない文章だ、と言ったのだ。彼は。これまでの人生において、本当に読んだことがないのならばいい。食事前までにほとんど最後まで読んでいたはずだ、という私の記憶が誤っていたと考えることもできよう。しかし、それは事実ではない。
 彼が銀河鉄道の夜を読んでいるところを、私は何度か目にしている。そのことについて以前彼に訊いたところ、何度も読んでいるが偶にふと読みたくなることがある、と口にしていた。
 にもかかわらず――
 私はその時まではやや気楽に考えていた。認知症などといってもそれほど身構える必要などない、気にする必要などない、といったように。けれど、それは間違いだと気付かされた。
 認知症などという生ぬるい言葉に騙されている場合ではないのだと、痴呆症という残酷な響きの現実を見つめなければならないのだと、そう認識せざるを得なくなった。
「ねえ」
「何だ?」
 鬱陶しそうに応える彼に、思い切って訊いてみた。
「私が誰か分かりますか?」
 彼は訝しげにこちらを見つめ、それからおかしそうに笑った。そして、徐に口を開いた。
「俺の妻だ」
 本当に最低限の救いだった。でも、嬉しかった。

 十数分ほどして漸く彼は出てきた。特に買ったものはないようであるけれど、満ち足りた顔をしていた。興味のある本が多かったのだろう。彼の趣味嗜好を鑑みれば、民俗学や歴史、宗教といった分野のものが多かったことが予想できる。信心がないくせに、書物に関して言えばそういうものを好む傾向にあるのである。不思議なものだ。
 少しばかり呆れて息を吐きながら、私は立ち上がる。そして、通りに出てきた彼の方へ向った。真っ直ぐ彼を見つめていると、彼が見返してきたので軽く微笑んでみた。
 すると、彼はなぜか瞳を逸らした。あんまりな態度に立腹して声をかけると、今度は戸惑った様子でこちらを見る。
 どうしたことだろう。いつもであれば憎まれ口の一つでも飛んでくるところなのであるけれど……
 彼は無言で先を急ぎ始めた。先ほど通ったばかりの道を戻っていく。
「ま……」
 待ってと口にしようとして、そこではたと気付く。最も恐れていた瞬間が訪れてしまったのではないか、と。
 大好きな本の内容すら忘れてしまう程の症状なのだ。この時がいつ来てもおかしくはないと、あの夕食後の一件から覚悟はしてきた。けれど、その時が来るのをただ待っている気も勿論なかった。だからこそ、ここに来たのである。知り合ったばかりの頃に来た街。私と彼が夫婦足り得るために在るこの地に。

 かつて、もう少し靖国通りを先へ行ったところ、白山通りと交差するあたりで、彼は意を決したように大声を出した。私の名前を呼んだのだ。
 当時の私は、当然ながらとても驚いたものだ。本当に唐突であったのだから。
 しかし、その程度の驚きはまだ可愛らしいものだった。そのあとに続いた彼の言葉は、私の動悸を激しくし、年甲斐もなく顔を一気に紅潮させた。耳たぶもまたその例外ではなかった。
 彼はかつて言ったのだ。
 ここで、確かに、結婚しよう、と。

 かつてのように、私の動悸は激しくなる。しかし、その原因は全く異質のものであった。覚悟はしていたのだ。本当に覚悟して、何度も想像して備えてきた。けれど――
 遠ざかる背中に手を伸ばす。けれど、乾いてしまった喉からは何も発せられることはない。
 ならばと足を動かそうとするけれど、上手く動かない。もつれてけつまずいてしまった。身体全てが自分のものでないようだ。
 そうだ。喉が渇いて上手く声を出せないなら、渇きを潤せばいい。幸い、鞄には彼が買ったお茶が二本もある。私は立ち止まり、鞄を探ろうとファスナーをあける。
 と、その時――
「あ。すみません」
 突然止まった私に、後ろを歩いていただろう人がぶつかった。
 私は重力に任せるままに転ぶ。そして、ファスナーのあいていた鞄からは、中身が全て飛び出してしまった。
「ご、御免なさい。拾います」
 ぶつかってきた若い男の人は、慌てた様子で散らばったものを集めだす。
 けれど、そんなことはどうでもいい。仮に今、全ての荷物を奪われたとしても、同じ感想を抱いただろう。
 彼を追いかけなくてはいけない。
 視線を上げて、彼が去った方向を見た。すると、彼は立ち止まってこちらを見ていた。気の毒そうに瞳を細めている。そして、若い男同様に、散らばった荷物を集め始めた。
 けれど、彼が目にしているのは可哀相な誰かであり、私ではない。
 頬を温かいものが伝った。
「ど、どこか痛めましたか?」
 ぶつかってきた男が尋ねた。
 彼は少し離れたところで呆然としている。
「どうして――」
「え?」
 訊き返した男を押しのけて、彼に対する。
「どうして返事をしないの! どうしてそのまま行こうとするの! どうして――」
 忘れるの。
 忘れてしまっている人に言っても詮方ないことを、叫んだ。
 誰もが戸惑っているようだった。傍から見れば私こそ狂人だ。でも、だからなんだ。どうでもいい人間にどう思われたところで、知ったことではない。
「それは、その……」
 彼が俯いて呟いた。恥ずかしそうにしている。
 このように妙な騒ぎに巻き込まれているのだ。当然だろう。けれど、簡単に解放などしてあげない。
「答えなさい!」
 再び叫ぶと、彼は真っ赤な顔でこちらを見た。
 しかし、妙だった。この状況を、周りの人達に注目されている状況を恥ずかしがっている風ではない。これは――
「貴女のような綺麗な方に、間違いでも声をかけられて恥ずかしかったのです。私は恥ずかしながらこの歳まで独り身で、かといって、女友達と楽しく過すことが多いわけでもない。それで……」
 かつて見た表情だった。

 お見合いパーティで一つのワイングラスをお互い手に取り、顔を見合わせた時のこと。彼は顔を真っ赤にして瞳を忙しく動かしていた。そうしてしばらくすると、決心したように目つきを鋭くし、取りとめもない話をし始めたのだった。
 結婚してしばらくしてから聞いた。私がとても綺麗だから緊張していたのだ、と。

 記憶はなくなった。それは一時的なものかもしれないし、これから一生戻らないのかもしれない。でも――
 私は涙を拭いて立ち上がった。
「間違いではないんですよ」
「え?」
 私が言うと、彼はこちらを見上げて訊き返した。
「私、貴方とこの通りを歩いて回りたいんです。宜しければご一緒していいですか?」

 その後、彼は恥ずかしがりながらも私の申し出を了承し、私達は荷物を拾うのを手伝ってくれた男の人――つまり私にぶつかった男の人だ――にお礼を言って歩き出した。立ち並ぶ古書店を休み休み見て行き、その途中で、彼は私を私と認識するに至り、二人は同じ電車に揃って乗り、自宅まで帰ることができた。

 それから何度も彼は、私を、過去を忘れた。そしてまた、何度もそれを思い出した。
 そんなことを繰り返して、繰り返して、疲れないといえば嘘になる。哀しくないといえば、それもまた嘘になる。
 でも、彼は彼だ。
 私は私だ。
 そして、私達は私達だ。
 彼の記憶が変わろうとも、そして仮に、いつか私の記憶が変わる時が来たとしても、その事実だけが変わらないのであれば何の問題もない。どちらかが、いや、どちらも互いのことを忘れたとて、私達は出逢えばまた始まる。
 私達は――夫婦だ。