十一.苦手にも様々な程度と種類がある
「――来る」
窓から陽光が差し込むより前の時間帯、ある建物の一室で、女が突如起き上がり、呟いた。漆黒の髪と金色の瞳。その瞳に映るのはただ暗闇ばかり。
誰が来るのか、あるいは何が来るのか――その答えを唯一知るはずの女は、その意識を手放し、再度心地よい眠りを享受している。
そして、その日の午後――
「ふう…… 人目のつかないところから街まで運ぶのも結構大変だよなぁ」
温泉地マイラの入り口で、大きな荷物を背負った男がぼやいた。彼の名はアジャス。一応、大昔に世界を救ったとされるロトの子孫だ。
「仕方ないじゃない。お爺さんの正体ばれたら大変なんだし」
続けて言葉を紡ぎ、アジャスと同じくらいの大きさの荷物を背負った少女はローラ。これまた一応、この地ラダトームを治めるラルス陛下の娘――つまりラダトームの姫君である。
「ご、ごめんね? 竜王の手下だとかって、はぁ、勘違いでもされたら、はぁ、後々大変なのよ」
二人よりも少ない荷物を、二人よりも息を切らして運んでいるのは黒髪の少女。しかしその正体はいい年した爺さんであり、この姿は魔法で変化している仮のもの。ついでに、竜族というかなり珍しい種族でもある。
さて、この三者三様に他と一線を画している三人がなぜこの土地の土を踏んだかというと――仕事である。
彼らはある方法で、格安迅速な運び屋を行っている。そしてその要が竜族の老人。竜族の名は伊達ではなく、彼は物語に出てくるような竜にその姿を変えることができるのである。その背に荷物を載せて、というのが彼らの運搬方法なのだ。
少し前のこと。彼らはドムドーラで書類の運搬を頼まれ、そしてその日の内に、その書類――受注依頼書に書かれていた品物を運んでくるというパフォーマンスを為した。その話は瞬く間にドムドーラ中に広まり、本当に早くて安いと大評判になったのだ。
そして仕事が殺到。手紙などが十六件。道具や武具や食料などの届け物が三件。それも目的地がガライ、リムルダール、ここマイラと散らばっていた。
手紙もまたその三つの街宛てばかりだったのは幸いだったとしても、これまで老人は計十九件の依頼の荷物を全て背に乗せ、大陸中を飛び回っていたのだから散々であろう。
しかしそれもひと段落。この街では手紙四件とアジャス達の背にある荷物を武器屋に届けて本日の仕事終了。今後の予定としては、今日の宿をここでとり、明日の朝早く荷物をここからドムドーラまで運んで全ての依頼コンプリートと相成るのである。
というわけで、三名は疲労感を漂わせながらもえっちらおっちら武器屋に荷物を届け、続けて個人宅を回って手紙を渡す。もう直ぐ宿屋と温泉で休めるからか、三名の――特にアジャスの顔には希望の色が濃くなっていた。彼は温泉大好き人間なのだ。
「ありっとうござぁした〜!」
疲労からか、少々いい加減な礼を言ってアジャスが、届け先男性宅の扉を閉めた。これにて仕事完了。
「よっしゃあぁぁあ! 温泉に突撃だあぁぁあ!! 癒しパワーをたっぷり補充するぜぇぇ!!」
と、叫ぶのは当然アジャス。通行人にじろじろ見られるのは自明の理というやつだ。
「もぅ、うるさいなぁ。恥ずかしいから止めてよね」
「そうは言いながら、ローラも嬉しそうじゃない? 楽しみなんじゃない?」
アジャスに呆れた視線を送っていたローラだったが、老人にそう声をかけられると、まあね、と照れたように言って笑う。彼女も疲れているため、温泉に入れるというのは願ってもないことなのだろう。
そんなわけで、三人仲良く宿屋に向う。宿にチェックインすれば温泉の無料券をもらえるらしいし、どうせ今日は泊まっていくことになっているからだ。疲れていてもそこは抜け目なくいくようである。
と――
「あぁ〜、やっぱりいたぁ。アジャちゃ〜ん」
そこで、足を向けていた宿の方向から歩いてきた女が、間延びした声で妙なことを言い、三人の方を指差した。それに二名は首をかしげ、一名は――
「もうぅ、どこ行くのぉ? アジャちゃん。ほらぁ、わたしだよぉ? ミリアちゃんだよぉ?」
踵を返して走り出そうとしたアジャスの外套を、とてつもない速さで間を詰めた女が引っつかんだ。口から出る言葉とは違い、随分と素早い。
「……アジャス、この人誰?」
心もち不機嫌にローラが尋ねた。色々勘違いしているということが容易にわかる。
「わたしはミリアちゃんだよぉ? ねぇ? アジャちゃん」
「あ、あははははは…… 久し振りだね、姉さん」
アジャスの乾いた笑いと、女の正体を明かす言葉が空間に浸透していく。そして――
『姉さん!?』
他二名の声がこだました。
「はじめましてぇ。わたしぃ、アジャちゃんの姉でミリアっていいますぅ」
「はあ……」
路上で衝撃の真実が明らかになってから十数分。立ち話もなんだからという理由で宿に向った一行。二部屋とって一方にローラ、一方にアジャスと老人が荷物を置いた後、ミリアが泊まっている部屋に集まってきていた。
ミリアは黒い髪が肩にかかっており、瞳は黄金色。童顔だが、体つきは適切な箇所が隆起しており女らしい。鬱陶しい口調を考慮しなければ男受けはよさそうである。
性格もどちらかというと普通の範疇で、ローラや老人には、アジャスが逃げようとした理由がよくわからなかった。先日会ったブロアスと比べると、聖母のようにすら見える。
「わたしぃ、アスちゃんがアジャちゃんに会ったって聞いてぇ、久し振りにアジャちゃんに会いたくなったのぉ。それでぇ、きちゃったぁ」
笑顔でアジャスにそう声をかけるミリア。アジャスは曖昧な笑みで、そうなんだ、と適当な相槌を打っている。
ただ、ローラは少し疑問を覚えて口を開いた。
「あの、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」
「はぁい、アルロちゃん」
アジャスに向けていた瞳をローラに移し、ミリアは先を促す。ちなみに、アルロはローラの偽名。
「どうしてアジャスがここに来るとわかったんですか? ドムドーラで聞いたとか?」
ミリアは、会いたくなって来た、とだけ言った。それではアジャスの居場所をどうやって突き止めたのかというのはわからない。もっとも、そんなことどうでもいいじゃないか、と言ってしまえばそれまでではあるが……
「それはねぇ、なんとなく分かっちゃうんだぁ」
「……はい?」
ミリアの答えに、当然ローラは疑問たっぷりで訊き返す。
しかし、それにはアジャスが答えた。
「昔から姉さんは俺がいる場所を当てるのが得意なんだ」
「そうなのぉ」
何気ない姉弟の言葉。しかし、役に立つかどうかは微妙とはいえ、何だかすごい能力だという印象を受ける。ローラも大分驚いているよう。
「まあ、それだけなら問題はないんだ。問題はその能力を兄さんが利用することなんだ」
誰も次の言葉を発しないでいると、アジャスがぼそぼそと何かを言っているのが際立った。彼は、誰に向けて言っているというつもりではないのだろうが、これでは部屋の中の全員に聞こえてしまう。さて、続きを聞いてみよう。
「俺が隠れても兄さんは姉さんに訊き、姉さんは悪気一切なく俺の居場所を教える。いや、それだけでもまあいいとしよう。さらに悪いのは、姉さんの懐柔されやすさだ。兄さんが明らかに俺を苛めている時だって、『これは修行なんだ』の一言を無条件で信じて、海へダイブ大作戦を手伝ったり、丸一日砂に生き埋め大作戦も手伝ったり。兄さんと違って悪気がないから怒れないのも辛いし、兄さんが絡まない時に――いや、絡んでる時も普通に優しいのも微妙に辛い」
「あらあらぁ、アジャちゃん。苦労してるのねぇ」
アジャスの長い長い呟きを聞いたミリアは、手を胸の前で組み、にこやかに笑って声をかけた。脳みそがゆるいのか、その言葉はアジャスの呟きの内容に即していない。
がくっ。
アジャスは脱力して床にへたれこんだ。
「まあ、これじゃあちょっと逃げたくなるかもね……」
一連の様子を眺めていたローラはそう呟く――が、
「なっ!」
「アジャちゃんはぁ、落ち込んでる姿も可愛いわねぇ」
言って、ミリアはアジャスの頭を撫でる。そして、それだけに止まらず力一杯頭を抱き締める。アジャスは嫌がりまくっているが、人によってはとても喜びそうな光景だ。
そして、人によってはある感情を沸き起こしそうな光景でもある。その感情とは即ち――
「ちょ、ちょっとミリアさん! お姉さんだからって、そんなことするのははしたないと思いますっ! 離れてください!!」
ローラは険しい表情で強く言葉を紡ぐ。それにアジャスは戸惑い、老人は肩をすくめ、ミリアは、
「まぁ、もしかしてぇ…… あらあらぁ、まぁまぁ。アスちゃんに聞いてたけどぉ、こぉんな可愛い妹ができるなんてぇ」
にこやかにそう言った。
それを受けたローラは、その顔を朱に染めて、
「な、何を言ってるんですか!? 私は別に――」
「まぁまぁ、続きはぁ、温泉に入りながらぁ、ということにしましょ〜」
「え? え? だから、続きとか別に――」
「いいからぁ、いいからぁ」
女二人はそんな調子で部屋を出て行った。ちなみに、鍵はテーブルの上に置いているので、かけないまま出て行ったのは明白だ。
「ふぅ〜、兄さんもそうだったけど、姉さんも何を勘違いしてるんだか……」
「あはは、そうね〜」
呟いたアジャスに、老人は微妙な笑顔で答える。
そして、残された男と男もどきは、代わりにミリアの部屋の鍵をかけ、自分たちの部屋に戻り、同じく温泉に向う用意をして部屋を出た。
はたして、溜まりに溜まったアジャスのストレスが、温泉程度で癒されるかどうか。その答えを知るためには、取り敢えず当の温泉に向うしかない。
「はぁ〜。いいお湯ねぇ、アルロちゃん」
「そ、そうですね」
女湯に入った二名は、かたや楽しそうに、かたや落ち込み気味に言の葉を紡いだ。
「ところでぇ、アルロちゃん。さっきぃ、何をしていたのぉ?」
と、ミリア。
視線をミリアの顔から少し下げて何かを見詰めていたローラは、ふいにかけられた声に慌てるが、直ぐに持ち直して答える。
「ああ、あれは覗き穴を塞いでいたんです。前ここに来た時に―― って、あれ?」
自分のしたことが何を意味していたのか、ミリアが理解していないということは――
「のぞき穴ってぇ?」
「あの、ミリアさんは昨日からマイラに滞在しているんですよね?」
「そうだよぉ」
「昨日も温泉に入ったんですよね?」
「そうだよぉ」
…………………………
ローラは同性として、ミリアがこの村の女の子たちと同じ時間帯に入っていたんだったらいいなぁ、と願うくらいしかできなかった。
「ふぃ〜、取り敢えず癒されるぜぇ」
「この姿で入るのは久し振りじゃのぉ」
アジャスと老人がそれぞれ言葉を紡ぐ。
さすがの老人も、少女の姿で男湯に入るわけにもいかないというくらいの常識は持ち合わせていたようで、普通に爺さんである。
「あれぇ、今日は塞がってら」
「まじ? ちぇ、期待してきたのによー」
と、ぼけーっとしているアジャス達から少し離れたところで、そのような声が上がった。その声の主は、二十代くらいの男二人。
何気なくそちらを見たアジャスは顔を顰める。
「あそこは確か―― まったく、覗き穴は大概の場合塞がっているって聞いたが、結構頑張ってる奴らが多いんだな。今日はローラと姉さんが入ってるから、強硬手段にでも出ようもんなら阻止しねぇと――」
以前オヤジAに聞いた覗き穴のことを思い出し、彼らもそういう心積もりだろうと気付いたアジャスは、少々の警戒心を沸き起こして男二人を見詰める。強硬手段とはつまり、壁をよじ登るとかそういうことだろう。
しかし、少しだった彼の警戒心は、次の男達の言葉でマックスを迎える。まあ、警戒というよりは……
「昨日の黒髪の姉ちゃん、ナイスバディだったよなぁ」
「ああ、あれ宿屋に泊まってる人だろう? 今夜も見れるかと思ってたんだけどなぁ」
ひゅっ!
どがあぁぁ!
「ああ? てめぇら! 何ふざけた事してやがんだっ!!」
アジャスが男達に瞬時に詰め寄り、片方の頭を力一杯殴って叫んだ。
「ななななな、何だよ、お前! 何怒ってんだ?」
もう一人は動揺して声を裏返しながらも、語気を荒げて返す。
「昨日何見たって! ああ?」
「だから黒髪の姉ちゃんの裸――」
「死にさらせえぇぇえ!!!!」
どがあああぁぁあ!!
もう一人の男の頭にも怒りの鉄拳が落ちた。
温泉には、落ち葉と共に霊長類が二体浮かぶ。
「少々ひどいと思うがのぉ。おぬしだって見られるなら見るじゃろうに……」
「その言葉は否定しませんが、身内が被害を受ければまた別の問題ですっ!!」
アジャスは微妙な正義の宣言をした。
「? なんだか男湯の方、騒がしいですね。というか、アジャスの声がするような…… まったく、他の人の迷惑じゃない」
ローラは、仕方ないなぁ、というように肩をすくめる。それを眺めながらミリアは――
「それでぇ、ローラ様ぁ。いつお帰りになるおつもりでぇ?」
「っ!」
突然正体を当てられたローラは表情をこわばらせるが、ブロアスの前例があったためそれほど慌てない。そして言葉を紡ぐ。
「気付いていたんですね」
「まぁ、なんとなくぅ。それよりぃ、そろそろ帰った方がいいと思うんですよねぇ」
「……どうしてですか?」
人差し指と親指で髪をいじり小首を傾げながら言ったミリアに、ローラは訊き返す。もっとも、その答えがどうだったからといって、帰る気はさらさらないのだが。
「ラルス陛下はぁ、そろそろわたし達にも頼んでくると思うんですぅ。父さんもぉ、さすがにロトの子孫二人以上でぇ、人ひとり『救えない』のは面目丸つぶれだからってぇ、わたしとアスちゃんにはぁ、問答無用で連れ帰るように言ってるんですよぉ。だからぁ――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ミリアの話から妙な印象を受け、ローラはその言葉を遮った。彼女が感じたこと――それは、
「貴方達一家――ロトの子孫達は、私が家出だと知っているのですか?」
「えぇ。わたし達ぃ、あんまり知らないことってないんですぅ。姫様ぁ、ドムドーラで兵士さん達をのしましたよねぇ? そこから漏れた感じですぅ。あ、でもぉ、アスちゃんが巧みに聞きだした感じなんでぇ、兵士さん達は怒らないであげてくださいねぇ」
ローラは唇を噛む。ドムドーラでの軽率な行動が裏目に出てしまったゆえだ。とはいえ、今問題なのはそこではないので気にしないように努める。例え、彼女が『攫われた』ままだったとしても、やはりブロアスやミリアがかりだされれば連れ返されるのは時間の問題だったことだろう。ゆえに、一番の問題は彼らが『捜索』を始めることなのだ。
これはさっさと外海に出ないと…… などと、ローラが考えていると、
「あぁ、それからぁ、船で他の国に行かれてもぉ、わたしとアスちゃんなら余裕で連れ帰っちゃうんでぇ、気をつけてくださいねぇ?」
…………………………
ブロアスやミリアを目の当たりにしたローラは、まさかそんなわけないだろう、という強がりを考えることもできずに、沈黙した。
「あらぁ、アジャちゃん。大変そうねぇ。手伝うわぁ」
「ありがとう。姉さん」
明くる日の朝、ドムドーラまで運ぶように頼まれていた温泉水――飲むのが流行っているらしい――を入れた樽を街の外の森まで運んでいたアジャス達に、ミリアが声をかけた。手伝うのは当然樽の運搬……
「予想通りとはいえ、すごいわね。ミリアさん」
温泉水がたっぷり詰まった樽を二十ほど積んで運んでいるミリアを目の当たりにし、ローラは驚いたような呆れたような表情で言った。彼女も相当な力持ちを自負しているが、それを上回るミリアの力。
「ロトの血は本当にすごいわねぇ」
「あらぁ、その顔でそんなこと言うのはぁ、ちょっとおかしいと思うわぁ」
『?』
老人とミリアのやり取りを聞いた他二名は、いつかと同じように疑問符を浮かべた。先の時にはブロアス相手で訊く気にもなれなかったアジャスだが、今回は相手がミリアだからか訊いた。
「何がおかしいの? 姉さん」
「それはぁ…… やっぱりぃ、やめとくわぁ」
一度は答えようとしたミリアだったが、含み笑いをして急遽取りやめる。
「へ? 何でさ。教えてよ」
アジャスはなおも訊く。しかし、
「だってぇ、謎は自分で解いた方がぁ、面白いでしょぉ?」
「……そ、そだね」
返ってきたよく分からない答えに、アジャスは戸惑いつつも納得することにした。ブロアスほどではないが、ミリアもアジャスいじりに精を出すのが常だ。これもその一環。ならば、さらに質問を続けるのは無駄だと判断したのだろう。
「じゃ、俺らはそろそろ……」
と、別れを告げるアジャス。
「あ、うん〜。わたしもラダトーム帰るねぇ。お仕事ぉ、今日からあるからぁ。アルロちゃんもぉ、竜族の人もぉ、じゃあねぇ」
ひゅっ!
ミリアは少し名残惜しそうながらもルーラでさっさと飛び立った。
「てか、お爺さんの正体は当然の如くばれてるのね」
「まあ、姉さんが相手だしな」
呆然とミリアを見送っているローラの隣で、アジャスが苦笑して言った。ローラはその様子をジト目で見て、
「アジャスってちょっとシスコンだよね?」
「何でだよっ!!」
全力での抗議がさらにシスコンっぽさを増した、と評判のアジャス十九歳だった。