第四話:極寒の某所にて

 某所――遥か天空より、自然が生み出した美しき結晶が降り来る地でのこと。
 その地に存在する、かつて精霊と呼ばれた者たちが権威の象徴のためだけに作り上げた巨大な建造物。その一室で、燭台に炎を灯し、その心もとない明かりに頼って読書をしている男性がいる。然程目立たないが茶髪の中に地味に存在する白髪と、目元口元に刻まれた小皺から、彼の年齢が、一般に言う中年のくくりの後半に差し掛かっているだろうことが予測された。しかし、本の頁を繰る速さは、彼の視力、思考力が共に衰えていないことをもまた物語っていた。
 ぱたっ。
 そのような年齢不詳の男性は、あることに気づいて本を静かに閉じた。そして、しばし待つ。
 ばあんっ!
 部屋の扉が勢いよく開け放たれる。そして――
「ベリアルさあぁあぁぁあんんん!!」
 黒髪赤眼の女性が、瞳に涙を溜め、個人名を叫びながら部屋に乱入してきた。
 状況から考えて、その個人名は読書をしていた男性のものと窺える。
「漸く帰ったか…… それで? ムーンブルクに目的の文献はあったかね?」
「怖かったですうぅぅうぅ!」
「……は?」
 質問に答えずに泣きついてきた女性に、ベリアルは目を丸くして間の抜けた声を上げた。

 まずは女性を落ち着かせようと思い、ベリアルが紅茶を用意したのは数刻前。しかし、女性はなぜかそれには手をつけずにむせび泣く。
 そして、根気よくその言い分を聞くうちに、ベリアルは彼女が紅茶に手をつけない理由を知った。
「ふむ…… ムーンブルク国のアイリ王女がとんでもない性格をしているという噂を耳にしたことはあったが、本当だったのだな」
「ししししし知ってたんなら、なんで教えてくれなかったんですかっ!? アイリ様、本当に怖かったんですよっ! わたし殺されるかと思ったんですからっ!!」
 ベリアルが以前聞いた話では、かの王女は笑顔でねちねちと人を追い詰めていき、気に入っている相手なら適度なところでそれを止め、気に入らない相手ならそれを自我崩壊寸前まで止めない、とのことだった。自我崩壊寸前というのは言いすぎにしても、女性の話を聞いた限りでは確かに、人を追い詰めることが好きな人間ではあるようだ。
「ただの噂であると思っていたのでな。すまん」
 とても彼に非があるとは思えないが、ベリアルは素直に頭を下げた。
 その様子を見た女性は寸の間言葉につまり――
「――う。そ、その…… 別にベリアルさんが謝るようなことじゃないですけど」
 そう呟いてそっぽを向いた。
 ベリアルはそんな女性を苦笑しつつ見詰め、話題を元々彼が訊いていたものに変えようと口を開く。
「それで? 君の求めるものは、あの地にあったのかね?」
 訊かれた女性は瞳を輝かせ――
「はい! 五日間粘った甲斐がありました! 今日やっと見つけて―― あ、でも…… アイリ様から逃げ出すのに必死で――」
「借りるのも、写すのも忘れたのだね?」
 先程の話の中での彼女の怯え振りから、そのような結果は充分に予想できたのか、ベリアルは女性の言葉を遮り、言った。
 女性は小さくなって頷く。
「後で取りに行ってきます……」
 意気消沈して俯いた女性の様子に、ベリアルは小さく嘆息する。そして、注意しておくべきことを思い出して語りかける。それは女性自身、自覚していることではあるが……
「言っておくが、いつものようにキレるんじゃないぞ。国を相手にそんなことをすれば、何かと面倒なことになるからな。本を取ってくるにしても、正規の手続きをとるか、それが適わぬのならばれないように――」
 ぴくっ。
 ベリアルの言葉を聞いた女性は、頬に一筋の汗を伝わせて肩を震わせた。さらに、視線は不自然なほどに泳いでいる。
 その様子を見たベリアルは、目つきを鋭くし、言葉を途中で切って思案する。そして、しばらくすると再び口を開いた。
「アイリ王女に……何かしたのではないだろうな?」
「――っ! そ、それは…… その……」
 女性はしばらく口ごもっていたが、ベリアルの無言の圧力に耐えられなくなり、ムーンブルクでしてしまったことを口にした。それを聞いたベリアルは――
「馬鹿もーーーーーんっっ!! そのキレっぽい性格をどうにかしろと、常日頃から言ってあるだろうっ!」
「で、でも、アイリ様がひどいことを――」
「そうだとしても、魔法で犬にするなどもっての外だっっ!! これから二週間外出禁止っっ!!」
 言い訳した女性を一刀両断し、ベリアルがきっぱりと言い切った。女性は遊びを禁じられた子供のように情けない顔になり、叫ぶ。
「えーーーーーーっっ!! それじゃ本は――」
「本は逃げたりはせんっ! とにかく、二週間大人しく反省してろっ!」
 険しい表情で怒鳴られると、女性は言い返すこともせずに大人しくなった。そして、ふらりと立ち上がり、
「……失礼します」
 と言ってから、部屋を後にした。
 はああぁあぁ。
 それを見送ったベリアルは深くため息を吐き、しばしの思案の末、独り呟いた。
「あの子ではアイリ王女を元に戻せぬだろうし…… あれ以来会っていないが、彼女を探し出して助力を願うか」

「……何よ、ベリアルさんったら。仕方ないじゃない。カッときちゃったんだし。アイリ様がひどいこと言ったんだし」
 自室に戻ってぶつぶつと文句を紡ぎ続ける女性。三十代という年齢の割に、キレっぽかったり、部屋でいじけたりと随分幼いようだ。
「でも、サマルトリアはいいところだったな。サーニアル様もお優しかったし」
 と、今度は嬉しそうに微笑んで呟く。その様子もまた、幼いといえば幼い。
 こんこん。
「……はあぁい」
 その時、女性が背を向けている側にある扉が二度叩かれる。女性はいじけたままの口調で返事をした。
 かちゃ。
 そうして入ってきたのは――
「姉者。久しぶりだ。先程ベリアルから戻ってきたと聞いて飛んできた」
 扉の陰から現れたのは、猿のようでいて明らかに違う異形の者。その背にはコウモリのような羽まで生えており、文字通り『飛んできた』のではないか、という突飛な考えも強ち冗談にならないだろうことが伺える。
 それにしても、明らかに魔物のような外見の者が、どう見ても人間である女性を『姉者』と呼ぶのはどういうことなのか?
「なぁんだ、バズズか。ベリアルさんが謝りに来たのかと思った」
「ベリアルが姉者に謝るなどあり得んだろう? 概要を聞いたが、今回も姉者の暴走が因のようではないか」
「う、うるさいな。だって、アイリ様が……」
 異形の者――バズズにまで敵に回られた女性は、一層ふてくされて口を尖らせた。
 その様子に、バズズは軽く息を吐いて、皺だらけの顔面に更に皺を刻む。苦笑した、といったような表情の変化なのだと予想される。
「ま、そこはベリアルが散々言ったようだし、俺は何も言わんとしよう」
「どうも。それより、バズズ。前から思ってたんだけど、養い親を呼び捨てにするのはどうかと思うわよ」
 女性はバズズの気遣いに軽く礼を言ってから、注意を促す。
 彼女の言葉から類推するに、ベリアルが女性とバズズを拾い育てたというところか? それならば、人間と猿もどきの姉弟というのも頷ける。
「ベリアルがこれでいいと言っているし、いいではないか。それよりも下の大広間に来てくれるか? アトラスではここまで上がって来れん」
 女性の注意は軽く流して、バズズは床を鋭い爪の生えた親指で指した。
 話に出たアトラスが何者であり、なぜ上の階に来ることができないのか。新たな疑問が浮かび上がるが――
「あ、そうか。わかった。行くわ」
 女性は難なく納得し、バズズと共に部屋を出た。
 そして階下の大広間に至り、そこには――
「姉さん! 久しぶり!」
 どがどがどが!!
 一歩進むごとに激しい足音を響かせながら、身の丈二百寸はありそうな一つ目の巨人が女性に駆け寄る。
「アトラス。ただいま」
「お帰り! 五日も会えなくて寂しかったよ」
 アトラスは一つ目を細め、口の端を上げて喜ぶ。立派な――というか立派過ぎる――体躯に似合わず、どこか子供っぽく甘えん坊な気質である。
「たった五日で大げさね。そろそろ姉離れなさいな」
「そういう姉者も養い親離れができていないではないか」
 お姉さんぶって言葉を紡いだ女性に、バズズが意地の悪い笑みを浮かべてそう声をかけた。
 それを受け、女性は寸の間絶句し――
「――っ! そ、そんなことないわよ。わたしは立派に自立してるわ!」
 と、自己主張。
 しかし、先程のベリアルとのやり取りを見る限り、とても自立できているとは思えない。
 さらに女性が続ける。
「それに、ベリアルさんはその内、養い親ではなくて夫になるんだもの。妻が夫離れをする必要はないわ。というか、いつまでも夫婦仲良い方がいいに決まっているから、寧ろ夫離れしないことこそ正しいとも言えるわ!」
 胸に手を当て、瞳を閉じて満足そうに言った女性。
 それに、バズズとアトラスは嘆息し、
「何度も言ってるが、そりゃ無茶だ、姉者」
「義父さんは明らかに姉さんのことそういう目で見てないよ。それに――」
 ここまでで、既に女性は不機嫌さが際立った表情になっている。
 しかし、弟二人はさらに続ける。
「ベリアルはそろそろ一万歳を迎える、長寿過ぎる長寿」
「歳の差がありすぎだよ」
 驚くべきバズズの言葉。なんと、ベリアルが一万歳などという非常識な年齢だと言うのだ。しかし、それに対してはアトラスも女性も普通に反応を示している。
「愛があれば歳の差なんて! って言うでしょ!」
「そもそも、姉者はともかく、向こうに愛がないからな……」
「それに、姉さんって歳の割には若く見えるけど、それにも限界があるっていうか…… 後二十年もすれば――」
「姉者はしわくちゃの婆さんになるが、ベリアルはおそらく今と大して変わらない外見。さすがにどうかと――」
「そうだよねぇ」
 姉の夢のある発言に続く、弟二人の現実感たっぷりのもっともな意見。
 それに対し姉は――
「……………馬鹿ああぁあぁぁああぁあ!」
 かざした手から風の刃を生み出しつつ、キレた。

 がさごそ。
 ムーンブルク城の書庫で、こそこそと本を物色している者がいた。その者は数刻の後に目的のものを見つけ出し、座り込んで一息つく。そして独り呟いた。
「よかった…… 見つかった。これで」
 そう言って微笑むのは、十と五日ほど前にこの場所を訪れていた女性。
 女性は視線を巡らし、その時に座っていた卓を瞳に写す。
 そして想起される当時の情景。王女の言葉。
 ――そのようなものに頼るくらいでしたら、自分で努力した方が建設的だと思いますが……
 むか。
 ――何故私が貴女の苦しみなどというドロドロしたものを理解しなければいけないのか…… 理解に苦しみますね
 むかむか。
 思い出すたびに、彼女の心に渦巻きだす不の感情。
 女性は、このままではまたベリアルに怒られることになると、首を二、三度振って気を取り直す。しかし、アイリの言葉の再生は止まらなかった。
 ――馬鹿じゃないの?
 むかむかむか。
 ――わん?(馬鹿じゃね?)
 むかむかむかむかっっ!!
 結局増え続けた不の感情の発生を示す擬音。もはやその感情を制御することは、女性には無理だった。
 そして――
「ワンちゃんはどこですかーーーーーっっっ!!!」
 キレた。


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