第八話:風雪の地の姉弟

 全てを拒む雪原の大地は、相も変わらず上空から氷の結晶を降下させていた。横殴りに吹く風が結晶と共に建造物の壁を打つ。その建造物の内にいる者は、風の横暴により生み出される轟音を耳に入れ、窓から外の様子を伺った。
 窓辺に寄ったかの者は、外の様子に顔をしかめる。それも当然だろう。現在の天候を鑑みれば、少しだけ外に出て気分転換をするなどということすらできはしない。
 と、その者は、そこで室内に視線を戻す。そして、なぜか再び顔をしかめた。
 その視線の先にいるのは、毛布にくるまり震えている女性。
 さて、その女性だが、毛布にくるまっているのは寒さのためというわけではない。そして、震えているのも寒さを因としてはいない。
「姉者…… ベリアルに会う前からそのように怯えていても仕方あるまい」
 女性に呆れた瞳を向けつつ、窓辺に佇んでいる者が言葉を紡ぐ。その者は、白い毛皮を携えた猿のような生き物。名をバズズといった。
「だ、だってバズズ…… 絶対また怒られるよ…… ベリアルさんが帰ってきた瞬間に怒られる……」
 声をかけられた女性は、顔だけを毛布から出してバズズに返す。その瞳には落ち着きというものが欠如しており、忙しく視線を巡らしていた。
 そんな女性の様子にやはり、バズズは呆れた表情で嘆息する。
「まあ、ムーンブルク城で例の如くキレて、城を半壊させてきたのだ。叱責を受けない道理はないであろうが……」
「こ、今度は外出禁止くらいじゃ済まないかも…… もしかして……り、離縁なんてこ、ことに……」
 そこで顔を真っ青に染め、女性は瞳に涙を溜めて唇を震わせる。今にもひきつけを起こし兼ねない様子であった。
 バズズはさすがに慌て、フォローを試みる。
「ま、待て、姉者。早計に過ぎるぞ。ベリアルが帰らぬうちから、そこまで最悪な事態を想定して自虐行為に走らずとも…… そもそも、当然ベリアルも怒りはするだろうが、離縁までしはしないだろう。姉者の暴走など今更もいいところ。今回のことで離縁するくらいならば、とうの昔にされていておかしくないのが道理というもの」
 バズズがそのように早口で言葉を紡ぐと、女性は口を尖らせて不安そうにしてはいるものの、その表情には一抹の希望がかいま見えるようになった。そして、期待を込め、改めてバズズの意見を訊こうと口を開く。
「本当にそう思う?」
「ああ。だからそろそろ機嫌を直せ、姉者。そのように毛布にくるまって引き篭っていては、階下に降りられぬし、アトラスが寂しがる」
 そう声をかけられると女性は若干落ち着いたようで、怯えたような目つきに終止符を打つ。そして、体の震えも弱まった。
 しかし、それでもベリアルという者の叱責が避けられないだろうことは確かであるため、未だ毛布の装備は解かれない。体の震えが完全に消えなかったのも、それが因だろう。
 とはいえ、それでも引き篭っていた部屋から這い出し、階下に降りる気力くらいは取り戻した。バズズと共に廊下へ出て、階段へと向かう。
「姉さん!」
 どがどがどがどがっ!
 女性が階段を降りきると、小山のような巨人が駆け寄ってくる。彼が足を踏み出すたびに、その階全体が大きく揺れる。
「アトラス…… ご免ね、心配かけて」
「ううん」
 女性は巨人の、アトラスの腕にそっと触れ、微笑して声をかけた。それに対しアトラスは、隻眼を細めて嬉しそうに返した。
 バズズはそんな彼女達を見つめ、その共通点を改めて認識して苦笑する。即ち、誰かに対する依存の度合が高い点を。女性は義理の父親であるベリアルへの依存。一方、アトラスは姉である女性への依存。
 もっとも、そのことにより誰に迷惑をかけるでもなし。バズズはそのように考えて、特別その点には言及しない。そして、話題をとある方向へ向ける。
「ところで姉者。例の書物は、今度こそ持ってきたのか?」
 質問をぶつけられた女性は、巨人に向けていた瞳を白猿に向け、
「ええ。ばっちり。この通りよ」
 と言い、懐から一冊の書物を取り出した。その書物は背表紙が擦り切れ、見たところ相当古いもののようだった。
「ざっと中を見て目的の記述の触りだけを見ただけだから、まだ、具体的に何をすればいいかまでは判ってないけど、これから熟読してーー」
「それで…… 戻れるかな?」
 女性の言葉に、アトラスの期待に満ちた呟きが続く。その顔にはーー隻眼で口元に牙の生えた表情には、柔らかな笑みが浮かぶ。
 女性がそんな彼を見返して、希望に満ちた返答を口にしようとした、その時ーー
「過剰に期待はしないことだな」
 バズズの横槍が入った。彼の表情を見る限り、意地悪や皮肉を口にしているわけではなく、アトラスのことを慮っているらしい。
 それを知っているからだろう。彼を見る女性の目つきは優しいものだ。しかし、その口からは反論が飛び出る。
「慎重を期すのは悪いことじゃないけど、少しくらい期待はしたいでしょう? 悪いことばかり考えていたら、疲れちゃうわよ?」
 もっともな意見だった。しかし……
「それを姉者が言うか……」
 先ほどまで部屋で悪い未来ばかりを予想して震えていた者に言われるとは、バズズも驚きを禁じ得なかった。彼の呟きには、思わずアトラスもうんうんと頷く。
 女性は彼らの様子に頬を膨らませるが、向こうの理屈が勝っていると判断せざるを得なかったため、反論はしない。
「と、とにかく」
 代わりにそのように切り出し、そして、そのまま手の中の本に視線を落とし、ページをぱらぱらと捲った。目的のページを開いて、バズズやアトラスに視線を送り、彼らの瞳が自分の手の中に注がれたのを確認してから、とある文章に指を沿わせる。
「ここよ。少し古い文字だから読み辛いけど、私が判る部分で大事な単語を拾うと、『邪神』、『魔力』、『願いの実現』ってところ。少し不確かではあるけど、邪神の魔力を利用することで願いが実現する、という感じのことがここには書いてある。邪とはいえ神と評される存在だもの。きっと……」
 そう言った女性の瞳には期待の光が見えた。それは程度の差こそあれ、バズズ、アトラスにも共通する。そして、とりわけその光が強いアトラスが、興奮した様子で口を開いた。
「僕、元に戻れたら兄さんに会いたい! 今のままじゃ恐がらせるし、そもそも僕だって信じて貰えないだろうけど、元に戻ったらきっとーー」
「リト兄様か…… 心配をかけたであろうな…… あのように急に姿を消して」
 アトラスの言葉を受けて、バズズは過去を想起しつつ遠い目で呟く。
 そして、女性も同じように記憶を遡る。
「そうね…… あの人は、私よりも心が傷つき易かった。そして、私よりも心の負担に押し潰され易かった」
 本を閉じて、彼女は視線を窓の外へ向ける。心は懐かしさと辛さに満ちている。
 視線の先にあるこの地の空は、絶えることなく白で埋めつくされていた。そして、六角の結晶の強襲が窓を打ち付ける。
 女性同様窓の外に視線を移し、やはり郷愁に浸ったバズズとアトラス。軽くため息を吐いて瞳を細める……が、
「姉者は押し潰されることはまずなくとも、その前にキレるのが問題だな。いっそ、リト兄様のガラスの心を見習った方がいいやも知れんぞ」
 一転して声を明るくし、悪戯っぽく笑い、バズズが言った。
 そして、それにアトラスが悪ノリする。
「そうだね。姉さんのキレっぽいところは、さすがの僕も問題だと思うなぁ。無事元に戻れたとして、お嫁さんに貰ってくれる人がいるかどうか」
「な…… な……」
 突然の話題の変化に、女性は目をぱちくりさせて言葉に詰まる。
「おっと、姉者。お得意の、ベリアルと一緒になるというのはなしだぞ。その願いは、我らが元に戻るよりも難しいだろうからな」
 バズズが先回りして、聞き飽きた言葉の表出を避ける。
 そして、
「大丈夫だよ、姉さん。キレっぽいところを直せば、義父さんは無理でも、誰かいい人が見つかるから」
 と、アトラスが少しずれたフォローを入れる。
 あんまりな弟たちの言葉に、キレっぽいと定評のある女性は当然……
「うるさい、うるさぁーい! 好き勝手言うなあぁあーーーっ!」
 キレた。
 しかし、その表情はどこか楽しそうで、そして、どこか悲しそうだった。

 それから数週間ほどして、久方ぶりにベリアルがその地の土を踏んだ。彼がそれまでどこで何をしていたのか、語られることはなかった。しかし、彼の耳にはしっかりと、女性の為した所業の噂が入っていたという。怒鳴り声が響いた。
 そして、この度女性に与えられた罰は、二週間に及ぶ食事当番、一ヶ月の外出禁止、反省するまでの本の没収などなど。
 彼女が本の解読を完了し、願いを叶えるのはいつの日か…… 少なくともその実現は、今回のことにより、確実に数日は遅れることとなるだろう。


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