迷子の迷子の

 神聖オラシオン教団総本山より、星と信仰の白街へと歩を進める少女がいる。オラシオンの司祭を務めるエレナ・リヒターだ。彼女は主であるアナスタシア・ライアンが自宅に行き着くのを見送った後、帰路についたのだった。
 そうして、あと少しで自宅というところで――
「エレナ!」
「? あら、ジャックさん…… どうしました、こんな時間に」
 突如かかった声に視線を送ると、エレナの視界に入ってきたのは、戦士ギルド、テアトル・ヴァンクールに籍を置くジャック・ラッセルであった。何やら激しく息切れしており、お疲れのご様子だ。
「というか、少し声を抑えた方がいいと思いますよ。人によってはお休みになっていてもおかしくない時間なことですし……」
「んなこといいからさ! とにかく――」
 がしっ!
「っ!」
「ちょっと一緒に来てくれ!」
 そう言って、エレナの手を握り駆け出すジャック。
 これから向かう場所がどこなのか…… その答えがどうであれ、今現在エレナの心中が穏やかでないことは、彼女の赤みを帯びた表情から明らかというものだ。

「なあ、どう思う?」
 目的地に着いたジャックは、開口一番そう言った。
 そんな彼に対してエレナは、よくわからないという風に呆けていた。しかし、周りを眺めて取り敢えず応える。
「どこをどう見ても、ゴミ捨て場にしか見えませんが……?」
 そんな、情景を的確に表現したエレナの言葉に、ジャックは数度首を振るい、
「違う、違う。そうじゃなくて、こいつだ」
 そう言ってジャックが指差したのは、人の大きさの五分の一程度の大きさの毛むくじゃらの生き物。
「それは猫ですね。ネコ科食肉目の動物で、穀物を食さず肉食性であるため、益獣であると古代ではみなされていたと――」
「ちっがーうっ! そういう豆知識を聞きたいんじゃなくてだな! これはルルの猫か?」
 エレナはジャックの突然の言葉に目を丸くした。
 ルルというのはおそらく、彼女の同僚であるルル・リッチーのことだろう。そして、そのルルが猫を飼っているというのも聞いたことはあった。しかし、だからといってこんな夜中にその識別を頼まれるというのは妙な状況だった。
「そんなの知りませんよ。私、ルルの猫を見たことありませんし」
「げっ! そうなの? はぁ〜、参ったなぁ…… ルルのやつ俺に任せてとっとと帰っちまって、新しく見つけてもあいつの猫かどうかわかんねぇんだよ」
 げんなりした様子でぼやくジャック。どうやら、ルルに頼まれて迷子の猫探しをしているようである。
 エレナはそんな彼を見つめ、そして未だ繋がれている手に視線を移して目つきを鋭くする。まあ、頬が染まっているという事実から考えるに、その目つきの変化は照れ隠しなのだろう。
「る、ルルに猫の特徴とか訊かなかったんですか? 例えば、この猫で言うなら虎縞が目立つ、なんていう感じの」
「一応訊いたんだけどよ。『兎に角、一番可愛い子を連れてくればうちの子です!』しか言わねんだよ…… そんなんでわかるかっての」
「へ、へぇ……」
 眉を歪めて、唇を尖らせて言ったジャックに、適当な返答のエレナ。どうにも繋がれている手が気になるようだ。
 そんなエレナの様子に気づいたジャックが、怪訝そうに訊く。
「? 何か変だなぁ。どうかしたのか、エレナ」
「え、いえ。別に」
 声をかけられると、エレナは接触している部分から瞳をそらし、なんでもないというように軽く返事をした。しかし、ジャックの緩い脳みそも、さすがに彼女の瞳が向けられていた箇所に気づき、
「ああ…… へへへ」
 と照れくさそうに笑った。
 そこまでならば青春の一ページと銘打ってもよい光景だったのだが……
「な、何ですか。へらへらして気味の悪い」
 まず、その一言でジャックのこめかみには青筋が浮かぶ。
「は、早くその手を離してもらえませんか? はっきり言って迷惑なんですよね。そ、そりゃあ、どうしてもというのなら――」
 ぺし。
 エレナの言葉が終わるのを待たず接触部分が絶たれる。ジャックがエレナの手を投げるように、エレナに向けてはなったのだ。
 そんなジャックの行動に、今度はエレナのこめかみに青筋が浮かぶ。
「……随分な扱いですね」
「……そっちこそ気味が悪いとは言ってくれるな。そもそも迷惑ならもっと早く言えよ。そうすりゃ繋ぎたくもない手を握ったりなんて絶対ぇしないし」
 増え続ける青筋。
「繋ぎたくない手で悪かったですね! そんななら、正直なところ口も利きたくないのでしょうし、一生私の前に現れないで下さい!」
「ああ! 望むところだぜ! 清々すらぁ!」
「こっちだって清々します! では! 一生さようなら!!」
「けっ!」
「ふんっ!」
 以上。ある日の深夜、ラジアータ城下町のとあるゴミ捨て場での一騒動であった。何かと有名になっているジャックのみ、後でテアトルに文句が寄せられたのは余談以外の何物でもない余談である。

 ジャックと共に駆けた道をずんずんと乱暴な歩みで戻るのはエレナ。女性が深夜一人で歩くのは危険だという意見は、今日この時に限って言えば適用されないだろう。十中八九、今の彼女ならあらゆる危険を吹き飛ばす。それくらい今のエレナは、鋭い視線と乱暴な態度が近寄りがたさを強調していたのだ。
 そして、実際に何事もなく彼女が住む部屋の前にたどり着く。
 キィ……
 扉の鍵を開けたエレナは、そこはさすがに乱暴な態度を改め、静かに戸を引いた。既に休んでいるであろう双子の妹、アディーナを気遣った結果だろう。
 かちゃ。
 部屋の中に体を滑り込ませ、きっちりと施錠を完了したエレナは、アディーナを起こさないように食卓まで移動し、そこに腰掛けてから考えを巡らす。
 ――何なのよ! ジャックさんは! そりゃあ、私だって言い過ぎたかもしれないけど、それにしたって『繋ぎたくもない手』とかひどすぎるじゃない! 本心じゃないにしたってあんなこと……
 そこまで考えてから、吊り上げていた眉を下げる。
 ――本心じゃないわよね…… そんな、手を繋ぎたくないほど嫌われているなんてこと……
 その後、意気消沈して鬱々と考え込むエレナ。
 かたっ。
 そこで物音が彼女の後ろで鳴った。視線を巡らしたところ、その音の主はアディーナであった。
「あれ? 姉さん。今日は帰ってくるの早かったのね」
「え?」
 若干嬉しそうに紡がれた妹の言葉に、エレナは疑問符を携えて訊き返す。
 それに対するアディーナも、今度は訝しげに先を続けた。
「? だって、いつもならナルシェのお見舞いに行った後は、私が家を出るまで戻ってこないじゃない?」
「え!」
 妹の言葉に慌てて時計を見ると、刻まれている時は確かに、いつもならばモーフ医院に入院している弟のナルシェを見舞っている刻限であった。ジャックに付き合って外にいた時間に加え、帰ってきてから思案していた時間も合わさって、このような時刻を迎えることとなってしまったようである。
 勿論、今からナルシェのお見舞いに向かうとすると、徹夜明けで明日――というより今日――の仕事に就くことになってしまう。
 しかし、見舞いに向かわずに仮眠を取ってしまえば、ナルシェにいらぬ心配をさせてしまうことになる。そのような事態を避けたい一心でエレナは、今日の仕事に支障がでないことを祈りながら、ナルシェの見舞いに向かう準備を始めた。

「――ナ…… エレナ」
「はっ、はひっ! 御用ですか、アナスタシア様!」
 突然名前を呼ばれたエレナは、瞬時に目覚め少々間の抜けた返答をした。
「もう気が済んだから教団に戻るんだよ。まったく…… どうしたんだい? ぼーっとして」
「す、すみません……」
 アナスタシアが、日課であるアクセサリー屋『サンパティ』での物色をしている最中、特にすることもなく待っているという、とてつもなく暇な状況に立たされた寝不足少女は、器用にも立ったまま寝るという芸当をこなしていたのだ。
 そして、アナスタシアに声をかけられた後でさえも、焦点の定まらない瞳で頼りなさげにふらふらと入り口へ向かう。
 その奇異な様子を見たアナスタシアはさすがに気づく。
「ひょっとして寝不足かい?」
「い、いえ! そんなことは――」
 否定したエレナであったが、寝ぼけ眼でアナスタシアではなく壁に向かって放ったその言葉に、どれくらいの信憑性を期待できるだろうか。
「ふぅ。そんなんじゃ仕事にならないし、今日は帰りなさい」
 アナスタシアは信憑性皆無と判断したようである。呆れ顔でそう言った。
 それにはエレナが焦る。
「そんな! アナスタシア様にお仕えするのが私の喜び! それなのに――」
「今日一日休むくらいで何を大げさな…… 寝不足は美容の大敵なんだから、大人しく帰っときなさい。それからあたしはこっちだよ」
 店主のジャスミンに向けて一生懸命主張しているエレナに、アナスタシアは顔の呆れ色を強くして声をかけた。ちなみに、間違えられたジャスミンは少々不機嫌そうだ。
「今日は特に大事な用もないしね。特別に帰ってもいいよ」
「しかし――」
「わかりました。お気遣い感謝します、アナスタシア様。さ、姉さん、帰りましょ」
 なおも食い下がろうとしたエレナであったが、横からアディーナが割り込んでそう言った。そして――
「ちょっ、アディーナ。ま――」
 エレナを引き連れてさっさと二人で『サンパティ』を出て行ってしまった。
 一人残されたアナスタシアは、開け放たれたままの扉を見つめて呟いた。
「アディーナにまで帰れと言った覚えはないんだけどねぇ……」
 そう言いながら、それでもさほど気にした風でもなくさらに続ける。
「まあ…… エレナが帰った後でアディーナが役に立つとは思えないからいいけどね」
 言って、漸く一人で『サンパティ』を出るアナスタシア。
 普段エレナだけを深夜まで残して、アディーナを早々に帰らせている理由が明らかになった瞬間だった。

「とにかく。そんな状態で仕事なんてできないでしょ? 早く帰って寝た方がいいわ。普段から睡眠時間少ないんだから、今日はゆっくり休んで――」
「不本意だけど…… アナスタシア様のお気遣いを無碍にするのもなんだから大人しく帰ることにするわ。それはいいとしても、アディーナ。なんで貴女まで一緒に来るのよ?」
 エレナにぴったりと寄り添って歩いていたアディーナは、そこで赤く染まった頬に手を当て、
「せっかくだから添い寝してあげようかと……」
「遠慮するわ。ふざけてないで、早くアナスタシア様の元に戻るのよ?」
 アディーナの一世一代の告白(?)を無表情でスルーしたエレナ。厳しい口調で妹を諭す。しかし、その視線がアディーナから一寸ほどずれているのが奇妙以外の何ものでもなかった。
「はいはい。わかりましたよぉ。……まったく、姉さんったらつれないんだから――あら? ジャックさんだわ」
 ぴく。
 視界に入ってきた、小動物と追いかけっこをしている少年の名を何気なく口にしたアディーナ。エレナはその名に対して小さく反応を示す。
「あの人はいつも無駄に元気ねぇ」
 呆れ顔で言ったアディーナがエレナに瞳を向けると、そこには涙目でよく分からない方向を見つめるエレナの姿が。
「――っ!! ちょ、姉さん。どうし―― まさか!」
 姉の変容振りに激しくきょどっていたアディーナであったが、先程ある者の名を出した途端のことであったため、怒りの矛先が早々に決定した。そのある者というのは勿論――
「ちぇすとおおぉぉおぉお!!」
「どわああぁあ!」
 走っている最中にとび蹴りを食らったジャックは、走っていた勢いに蹴りの衝撃が加わって派手に飛んだ。
「何すんだ! アディーナ!!」
「あんたこそ! 姉さんに何したのよ!!」
 当然の文句を叫んだジャックと、少々早とちりの文句を叫んだアディーナ。
 アディーナの叫びを聞いたジャックは、不機嫌なままながらもエレナに瞳を向け――
「はあ? 何言って――って、うわっ! ど、どうしたんだ?」
 先程瞳にためられていた水分は、今は彼女の赤く染まった頬を伝っていた。そして――
「ぐすっ。ひっく、ひっく」
「ななななななんっ―― お、おい、どうしたんだ、エレナのやつ」
「そ、そんなのこっちが聞きたいわよ! 寝不足で少しテンションが変なんだとは思うけど…… それにしたって――あんた、ホントになんかしたんじゃ」
 珍しく、二人で仲良く慌てているジャックとアディーナ。しかし、直ぐにアディーナが敵対心をあらわにする。寧ろいつも通りの反応であるためか、ジャックはそんなアディーナの様子は気にせずに少し考え込み――
「あっ! あれか? 昨日のことか? あれは、なんだ。俺も言い過ぎたっていうか。別に全然気にしてないし、エレナさえよければ仲直りを是非させてくださいというか――」
「本当ですか……?」
 頬を拭いながら、ジャックの言葉に笑顔で訊き返すエレナ。泣き止みそうな雰囲気に、ジャックはほっと一息つく。
「ああ。その……悪かったな」
「いえ。私も少し失礼なことを言いましたし……」
 すっかり仲直りムードとなった二人。そして、それを面白く思わない者が約一名。
「はい! 話はこれで済んだのよね? さ、姉さん、帰りましょ〜。姉妹仲良く一緒に寝ましょうね?」
 ジャックとエレナの間に割り込んで言ったアディーナ。
「え? ジャックさんの猫探しを手伝おうかと思ったんだけど……」
 言われたエレナは、眠い目をこすりながら無茶なことを言った。
 当然アディーナが反対する。そこに今回のみの理由と、常日頃から持ち合わせている理由が内在しているのはどうでもいいことといえばどうでもいいことだ。
「駄・目! ちゃんと寝ないと! 何なら、ジャックさんの方は私が手伝うから」
「なんだ。エレナ寝てないのか? どうりで妙な…… ま、そういうことなら別に手伝わなくていいぜ」
 アディーナの後にジャックが笑顔で続いた。当然、エレナを気遣った言葉であったのだが――
「……そうですか。私よりアディーナの方がいいんですね」
 突然目つきを鋭くして言ったエレナ。
「……は? 何言って――」
 当然、わけが分からずに訊き返すジャック。しかし、その声を遮って――
「もうジャックさんなんて知りません! アディーナとよろしくやってればいいんです! ――っ、二人の馬鹿ーーーっ!」
 再度妙なことを口走り、そのまま家に向かって走っていくエレナ。
 そして残された二人の反応は二者二様。
 ジャックは――人間寝不足だとあそこまで変になるんだなぁと感心している様子。
 アディーナは――最愛の姉に馬鹿と言われてしばし放心し、その放心から抜け出ると鬱々と路地の隅で『のの字』を書き始めた。
 そして、そんなアディーナを、ジャックが気遣い慰めるという珍しくも奇異な光景が繰り広げられたりもした。その様子は、数時間睡眠をとってまともに考えを巡らすことができるようになったエレナが謝りにくるまで続き、それが因となって、しばらくラジアータにはジャックとアディーナのお付き合い説なるものが流れることになったのだが…… それはまた別のお話である。