一章:人と悪魔と精霊と
〜イルハード正教会〜

 警邏隊本部はリストールの北方に位置している。一方、アントニウス邸は南西に存在する。そのため、アントニウス邸に向かうにはまず中央道路を南へ向かうことになる。
 中央道を下っていくと、まず目に入るのは町の名物たる大聖堂である。色鮮やかな大理石の壁や半円状の屋根が黄金の陽に照らされている。本来であれば厳かな印象を与えるのだろうが、事件のことがあるためか、どこか不気味に映る。
 それでも、圧倒的な重厚さや荘重さは衰えない。
「んー。こんな立派な聖堂がある町で悪魔事件なんて、皮肉だよなー」
 ぼんやりとして歩みを進めながら、ヘリオスが言った。
「こら、ヘリィ。皮肉のひと言で済まさないでよ。貴方もアントニウス家の長男なんだから、発言には気をつけて」
 不用意な発言をする弟に、こちらはキビキビと忙しげに歩みつつ、姉が鋭い視線を送る。
 しかし――
「へいへーい」
 当の弟は返事からして適当だった。反省しているようには、全く見えない。
 セレネが頭を抱えて嘆息する。
「まったくもう……」
「ところでさ、ルーせんせえ。悪魔と人間が協力してるんだとして、その人間って突き止めらんないの? 古代悪魔学で」
 その質問に、ルーヴァンスではなくセレネが眉をひそめた。彼女はふたたび息を吐く。
「あのねぇ…… そんな風に、何でもできる魔法みたいに言わないの。古代悪魔学はあくまで学問なんだから、ぱっと事件を解決できるような力があるわけないでしょ?」
「むっ。わかんないだろ? セレネはルーせんせえにちょっと習っただけなんだし。専門家のルーせんせえなら――」
「いえ。残念ながら、セレネくんの言うとおりですよ。学問はあくまで学問。学術的側面からアドバイスすることはできても、抜本的に解決することは難しいでしょう」
 学問で事件が解決するならば、警邏隊など必要ない。学者が町を護ればよい。しかし、現実はそうでない。
 ヘリオスも本気で言っていたわけではないようで、すんなり納得する。
「ふーん。残念。やっぱさあ、事件のせいで町の空気重いでしょ? うちも例外じゃなくて、父さん、オレらが出かけるの嫌がるんだよね。今日は事件の進捗を聞きに行くって言って無理矢理出てきたけどさ」
 伸びをしながらダラダラと歩み、少年が肩を竦めた。
 彼の隣でルーヴァンスが視線を落とす。
「ふぅ…… どこの家もそうなのでしょうね。僕も、女児の姿を町で見かける機会が減って、非常に心が痛いですよ」
 変態が真剣に嘆いた。
 口にした人物が人物ならば、町の境遇を真面目に憂えているように受け取れただろうが、ルーヴァンスの言葉であった時点で、変態的な意味合いが込められていたとしか考えられないのがとても残念だ。
「ルーせんせえはブレないね……」
 師の性癖に苦笑してから、ヘリオスが肩を竦める。
「まあ、そんなだからさ。塾に行くとか、そういうのでもないと外だしてもらえないし、ちょっと窮屈っていうかねー」
「あら、ボクは塾に行ければそれで満足よ。ヴァン先生にお会い出来るもの」
 胸を張ってセレネが言った。心からの気持ちのようである。正気の沙汰ではない。
「勉強熱心ですね、セレネくん。講師として嬉しいですよ」
「い、いえ…… えへへ」
 少女が頬を染めて照れた。
 少年がため息をつく。
(あんだけ露骨な発言したら気付きそうなもんだけど…… 相手にされていないのか、はたまた、ルーせんせえが驚異的に鈍いのか…… どっちにしても我が姉ながら気の毒な……)
 相手にされたらされたで問題だが、ルーヴァンスの特性上、その可能性は低いだろう。
 彼は九歳から十三歳の女児に執着する。
 十四歳のセレネはせいぜい『可愛い生徒』どまりなのだ。
 しかし、それでもめげないのが恋する乙女である。
「あ、あの、ヴァン先生。よろしければこれからお家に伺ってもよろしいでしょうか? より親密にご指導いただきたいのですけれど…… きゃっ」
 ブルタスがいたなら、ルーヴァンスは緊急逮捕されていたかもしれない。
 しかし、不幸なことに警邏隊長殿はここにいない。
「セレネくん」
「ヴァン先生……」
 熱っぽい視線が絡み合った――気がした。
 勿論、気のせいだった。
「もう遅いから駄目です。明日なら海洋学の授業で塾に来るでしょう。そのあとに僕のデスクまで質問にきなさい。いいですね?」
 とても親切な対応ではあるが、恋する乙女にとってみればそっけない態度ととれなくもない。
 セレネががっくりと肩を落とす。
(塾だと二人きりになれないじゃないですか…… ヴァン先生のばか)
 どんよりと頭上に雲を漂わせた少女が、ふと視線を進行方向に向ける。
 悪魔事件を契機として人通りの少ない中央道ではあるが、行き交う人々もちらほらといる。
 セレネはそのうちの一名に見覚えがあった。
 小走りで近づき、ぺこりと礼をしてから微笑む。
「こんばんは。パドル神父さま」
「おや、セレネ様。ヘリオス様。それに、グレイさん。こんばんは」
 セレネの呼びかけを受けて、男性が挨拶を口にした。
 彼の名はパドル=マイクロトフ。大聖堂で神職についている。年の頃は二十代半ば。黒一色の地味な祭司服とは対照的に、くるくるとクセのある赤毛と綺麗な碧い瞳が派手に目を惹く。その顔には陽の具合から陰影が刻まれており、近づかないと表情が判然としない。
 陽は水平線の向こうに沈みはじめており、まさに逢魔時という頃合いだった。
「こんばんは。パドルさん。何をなさっているのですか?」
 ルーヴァンスが尋ねると、パドルは悲しそうに瞳を伏せた。
「辛い事件が続いておりますので、こうして家路を急ぐ方々を見守っているのです。微弱ながらも目を光らせることで、魔の気を遠ざけられるかもしれません」
 彼はそのように口にして、両の手を組んだ。瞑目し、イルハード神への祈りを捧げた。
 パドルが神職を勤める大聖堂はイルハード正教会に属するゆえ、当然ながらイルハード神を信奉している。そして、彼ら正教会は、魔の存在を徹底的に否定するスタンスをとる。
 今回の悪魔事件についても、当然ながら無関心ではいられないだろう。
 ルーヴァンスは、彼のそのような信仰を――神への祈りを嗤う。
「ふふ。なるほど。魔は人の中にあります。監視の目を光らせることは抑止力となるでしょう」
 塾講師の言葉に神父は静かに微笑む。
「いいえ。魔は魔であり、人の中になどありません。悪の全ては魔界より出でるもの。人はイルハード神と――光と共にあるのですよ、グレイさん」
 頑とした言葉に、ルーヴァンスが肩をすくめる。
「それはそれは。おめでたい御方ですね」
 彼の瞳や口元、その総てに嘲りが広がっていた。
 塾講師と神父が見つめ合う。双方の顔に浮かぶのは、笑みだ。
「ぱ、パドル神父さま。少々よろしいですか?」
 静かに視線をぶつけ合うルーヴァンスとパドルの間に、セレネが割って入った。
 パドルは笑みを崩さずに視線を遷移させた。信仰の賜物か、そうそう激情に支配されることはないらしい。
「何でございましょう、セレネ様」
「正教会では今回の事件について何か掴んでいないのでしょうか?」
 リストール猟奇悪魔事件が事実、悪魔の力に寄るものならば、それは信仰の敵である。
 イルハード神を奉じる者たちこそが、いち早く悪魔の奸計を見破っている可能性はありそうだ。
 しかし、パドルは首をゆっくりと横に振った。
「いいえ。残念ながら何も分かっておりません。我々にはそのような力はありませんから」
 イルハード神を奉じる者たちとはいっても、彼らに奇跡を起こす力はない。イルハード正教会に属する神聖騎士団であっても、神の力で奇跡を起こすわけではない。日々の鍛練で勝ち得た剣の業で魔物や異教徒、敵国の者を相手取るのだ。
 神のもたらす光は人に届かない。信仰は心に豊かさを与えてくれるものであり、実益を与えるようなものではないのだ。
「……期待するだけ無駄でしょう。神になど、ね」
 口の中で呟いて、ルーヴァンスがふっと笑みを零す。
 そうしてから、彼は一転して柔らかな笑みを浮かべる。視線の向かう先は、彼の可愛い生徒たちである。
「さあ。セレネくん。ヘリオスくん。じきに日が暮れます。立ち話はこのくらいにしましょう」
 ルーヴァンスが宣言して先を行く。ヘリオスもまた、軽く礼をしてから師に続く。
 セレネのみが、パドルの前でオロオロとしている。ルーヴァンスの背中とパドルの静かな笑みを交互に瞳に映し、悲しそうに息を吐く。
 そして、彼女は一転して微笑みを浮かべる。
「……それではこれで失礼いたします、パドル神父さま。御機嫌よう」
 ぺこり。
 丁寧に深々と礼をした。
 パドルもまたにっこりと笑み、最敬礼をする。
「ええ、御機嫌よう。イルハード神の加護が貴女たちと共にありますように」
 無力な神父の祝福の言葉が、闇の濃くなった宵の町に空しく響いた。
 じきに夜がやって来る。加護の光は届かない。

「ルーせんせえって、神父さまと仲悪いよね」
 大聖堂から遠く離れ、アントニウス邸が近づいてきた頃、ヘリオスがつい先ほど見たままを口にした。
 苦笑して、ルーヴァンスが肩をすくめる。
「仲が悪い、というほどのことはありませんよ。まあ、積極的に仲良くしたいわけでもありませんが……」
「そーゆーのを『仲悪い』って言うんだと思うけど…… まあ、悪魔学講師と神父さまの組み合わせじゃ、仕方ないのかな?」
 確かに、良好な関係を築きづらい二者であろう。
 弟の言葉に、姉が焦ったように言葉を紡ぐ。
「で、でも、ヴァン先生は古代悪魔学を教えているだけで、悪魔崇拝者(サタニスト)ではないのですし、必ずしもイルハード正教会と対立するわけではありませんよね?」
 そういうセレネは――アントニウス家の子女は、イルハード正教会の信徒である。かの変態塾講師がイルハード正教会を認めないというならば、彼女としては恋心と信心という、人生において大切な二つの想いを天秤にかけねばならない。
 しかし、そうはならなかった。彼の者は信仰の全てを否定するわけではなかった。
「ええ、それは勿論。人にとって信仰は重要ですから」
 にっこりと微笑んで、ルーヴァンスが先を続ける。
「ただ単に、パドルさん個人が嫌いなだけですよ。どうにも気に入りません」
 いっそ清々しい程の、はっきりとした拒絶だ。
「すっごい笑顔で言うことかな…… まあ、オレは何となく分かるけど。最近のパドル神父さま、ちょっとヤな感じがするんだよね。胡散臭いっていうかさ。この前までそんなことなかったんだけど」
 アントニウス家の第二子がしみじみと言った。正直と言えば聞こえがいいが、ただの考えなしの発言だろう。
 セレネが眉をひそめる。
「……ヘリィ。発言に気をつけてって、さっきも言ったよね?」
 ギロリと姉に睨まれて、ヘリオスが肩をすくめた。
 彼は、ごめんごめん、と軽く謝ってから、ふわあっと大きくあくびをする。
「あーあ、つかれた。町の中もピリピリしてて気疲れするや。はやく解決して欲しいよ」
 哀しげに紅い瞳を伏せた。
 セレネもまた、金の髪を指先でくるりくるりといじりつつ、ため息をつく。
「その意見にはボクも同意するわ。町民の皆さんには笑顔で過ごして貰いたいもの」
 鮮やかなルピーの瞳に陰が差した。彼女は、隠れるように家の中へと向かう町民を見つめる。
 皆が皆、どこか怯えるように夜を避けている。
 同じように、活気のない町民を目にして、金の瞳がやはり陰る。
「そうですね。やはり平和が一番です」
 小さく息をつくルーヴァンス。彼はそうしてから、更に言葉を続ける。表情は真剣そのものだ。
「毎日が不安と絶望に染まっているなど、冗談ではありません」
「ヴァン先生……」
 セレネが手を組んで祈るようにしている。まるで、ルーヴァンスが暗雲を晴らしてくれる救世主であるかのように、期待を込めて見つめている。
 しかし当然、その期待は裏切られる。
「女児が何の心配もなく道を駆け回れるような平和が、何の憂いもなく幼女を愛でられる平穏な時が、早く戻ってきてくれるとよいのですが……」
 拳に力を込めて、変態がしみじみと呟いた。
 平穏な時が戻るということは、彼が性癖を満足させやすくなるということだ。それは、親御さんにとって紛うことなき脅威であろう。
「いや。その平和が訪れたら、別な意味で心配だよ」
 常識的な意見が、アントニウス家長男の口からこぼれた。
 ある意味で論じるならば、リストールの町は常に不安と共に在ると言っていい。