一章:人と悪魔と精霊と
〜朝焼けの中の悪魔〜

 ざわざわざわざわ。
 翌朝、ルーヴァンスが国営塾に出勤すると、塾の周辺を人が埋め尽くしていた。老若男女問わず、不安げに塾の方向を見つめている。
 陽の光が町を照らす中、闇が人々の瞳に宿っている。
「……どうかしたのでしょうか?」
 呟いて、ルーヴァンスは人混みをかき分ける。
 数刻かけて厚い人垣を抜け、彼は警邏隊員がバリケードを張っている位置にまでたどり着く。そこで、見知った顔を見つけた。
 シルバーグレイの髪と口髭が特徴的な中年男性――国営塾の塾長だ。彼の隣には、ブルタス=ゴムズ警邏隊本部隊長も居る。
「塾長。それに、ゴムズさんも」
「グレイくんか。ああ、その人は入れていい」
 隊長の言葉を受けて、警邏隊員は押さえつけていたルーヴァンスの身体を離す。彼は敬礼をしてから別の野次馬を抑えにかかった。
 すっ。
 人垣の内側へ入ると、尋常ではない騒ぎであることが知れた。決して狭くはない国営塾の敷地を、野次馬が途切れなく囲んでいる。
「これはいったい……?」
「る、ルーヴァンス先生。あの、その、とんでもないことが……」
 蒼白になった国営塾の塾長を瞳に入れ、ルーヴァンスが首を傾げる。
 しかし、すぐに思い至る。
 今、リストールの町でこれほどに人が集まる事件は他にない。
 鉄の匂いが鼻腔をくすぐって逃げていく。
 だッ!
 ルーヴァンスが駆けだした。吐き気を催す臭いの元を探る。
(塾の裏か!)
 塾舎の側壁に沿って駆けて行くにつれ、どんどんと臭いが濃くなっていく。
「……ぐっ」
 裏手へ飛び込むと、まずは赤が目に入った。
 多量の紅き液体が地面を染めている。
 次に目に入ったのは頭部だ。
 血の気が完全に抜けた青白い顔は、恐怖と苦痛に歪んでいる。壮絶な最期を迎えたことは想像に難くない。
(……コレは、海洋学担当のエクマン先生か)
「……エクマン氏とは親交があったのかね? グレイくん」
 いつの間にやら隣に佇んでいたブルタスが尋ねた。
「……ただの同僚以上の付き合いはありませんでしたが」
「そうか。とはいえ、知り合いのこんな姿を直接目にするのは辛いよな。俺らは一連の事件で、不本意ながら見慣れちまったところがあって配慮が足らんかった。すまない」
 暗い顔の塾講師を目にし、ブルタスが一人で納得した。申し訳なさそうに頭を下げる。
 しかし、ルーヴァンスは彼に連れられてここに来たわけではない。自分の意思で、自分の足で、絶望を目にしたのだ。わざわざ謝罪されるのはおかしい。
 塾講師は警邏隊の隊長の謝罪を手で制して、考え込む。
(いざ遺体を直接目にするとわかるが、やはり、今回の件に悪魔が関わっているのは確かなようだな……)
 この場に漂うのは、尋常ならざる濃い闇の気配であった。どのように残虐な殺人鬼であったとしても、人に出せる闇の深さを超えている。
 人が滅びを、或いは救いを望んだ結果、魔が別の世より這い出して来たに違いない。
(……この気配……)
「グレイくん?」
 無残な遺体を凝視しているルーヴァンスの様子を、ブルタスが訝った。
 銀髪の青年の金の瞳は、同僚の死を悼んでいるようにも、残虐な遺体を忌避しているようにも、そして、ブルタスには窺い知れない何かを嘲っているようにも見えた。
「光と共に…… それは、願望でしょう?」
「何を言っているんだ?」
 不得要領なルーヴァンスの言葉に、ブルタスが眉をひそめた。
 その時――
 ヴン。
 闇が空間に浮かび上がった。
 濃い黒がどんどんと広がっていく。直ぐに人を飲み込まんばかりの大きさに成る。
「これは……何だ?」
「――ッ!」
 とつじょ出現した黒き空間を――闇を、ブルタスはぼうっと見つめていた。
 そのような彼に、ルーヴァンスが急ぎ体当たりをした。
 二人は共に、地面に転がった。
「ぐ、グレイくん。何を……」
 どんッ!
 ブルタスの文句を遮って、炸裂音が響いた。人の子が佇んでいた大地に、巨大な穴が穿たれた。
 そして、闇よりも深い闇が生じる。
『……ふん。紛らわしいな。何やら術士の気配を感じ、何か用向きかと来てみれば、全く別の術士か』
 暗い闇の奥から、漆黒の身体が出でた。人によく似た姿をしているが、その身の丈は人の二倍以上である。眼球と口内が血のように赤々としている。
「あ、悪魔か!? ちぃ! 第三小隊、構え!」
 顕れた闇の者に気圧されることなく、ブルタスがルーヴァンスをつれて後退し、叫んだ。
 警邏隊員たちは伝播していた動揺を抑えて、命に従う。背中に備えていた弓矢を構える。
「てえッ!」
 びゅびゅびゅ!
 一斉に放たれた矢が悪魔に迫る。
 しかし、黒き者は平然と佇んでいた。
 ぱァんっ!
 鋭い物音に伴って、矢が反射する。
「ぐっ!」
「あぁ!」
 方々から悲鳴が漏れた。
 警邏隊員たちが矢を身に受けてうずくまる。頭蓋や胸に一撃を受けて絶命してしまった者もいる。
『ふん。まあいい。ついでだ。遊ばせてもらおう』
 ひゅん!
 空気を切り裂くように、悪魔が凄まじい速度で飛んだ。
「ぎゃああああぁあ!」
「がッ! た、たいちょ……」
 ざしゅッ! ざしゅッ!
 集っていた警邏隊員たちから悲鳴が轟いた。
 闇は、彼らの間を自由に飛び回り、気まぐれに、長く鋭い爪で切り裂いていく。かの一撃は、浅くない傷を人の肉体に刻む。
 人々は緩慢と死出の旅路へ向かう。
「第一小隊前に! 第二小隊は負傷者を救助しろ!」
 隊長から新たな命が下された。
 しかし、場が混乱しているせいで、有効な行動を取れる者が少ない。
「しっかりしろ! ここでそいつを撃退すれば全てが終わるんだぞ!」
 人が混乱の中で希望を叫ぶ。
 しかし――
『……ふんッ』
 悪魔は人の微かな希みを嘲笑った。